ディケンズ・フェロウシップ日 本支部

電子アーカイヴ



John Jasper の犯罪心理

松 岡 光 治


I

1855年頃、ディケンズの結婚生活は、人生の他の様々な面と同様、彼には実に煩わしいものになっていた。しかし、創作的な観点から捉えると、妻キャサリンとの生活に関する不満は、彼の中期以降の作品に多大の影響を及ぼしたように思える。彼が Wilkie Collins 作 The Frozen Deep の素人演劇を公演するため旅行に出た1857年7月に、若い女優 Ellen Teman に出会ったのは、このような精神的葛藤の最中であった。だが、この素人演劇は彼に悲惨な家庭生活からの避難所を提供しただけでなく、悪漢 Richard Wardour を自ら演じることで、燻り続けた激しいエネルギーを解放させ、カタルシスを与えた点からも特記に値する。やがて、彼の演劇活動は、別居と不倫に付随する金銭的圧迫のため、公開朗読という新たな職業的活動に取って代るが、両者が結婚生活で抑圧された激情を有機的に発散させ、彼の自己破壊を妨げた点で、軌を一にしているのを見逃すことはできない。翌年5月に別居が決まると、彼はターナンとの交際を隠蔽せんがために家を与えて秘密裡に逢瀬を楽しんだ訳だが、結局はこれも演劇や朗読のように家庭生活で抑圧した激情を解放する手段だったのである。このようなディケンズの二重生活は、道徳的・倫理的にはどうであれ、晩年の作品において Our Mutual Friend (1864-65) の学校教師 Bradley Headstone と The Mystery of Edwin Drood (1970) の聖歌隊長 John Jasper という邪悪な秘密の生活を営む人物の創造を可能ならしめる、その最大の原因となったように思える。つまり、ディケンズの激しい情熱は雌伏して、再び虚構の世界で芸術的な昇華の機会を得ることになったのである。

最後の未完小説『エドウィン・ドルードの謎』(以下『謎』)で、ディケンズの二重生活が、彼の殺人に関する強迫観念を具現した犯罪者たちの長い系譜の中でも、最も複雑な犯罪心理を有するジャスパーを創造するのに大きく寄与したことは否定し得ないが、果して作者と登場人物を同一視できるかという疑問は、常に読者に付きまとうであろう。E・ウィルソンはディケンズ批評史上、画期的な貢献をした論文 "The Two Scrooges" の中で作者の人格の二重性を指摘し、当然のごとく『謎』論でもジャスパーを作者と同一視して、彼の二重人格を理路整然と分析した。彼の所説に従えば、ディケンズは『謎』で "the deep entanglement and conflict of the bad and the good in one man" を探求したのであり、ジャスパーは作者同様に "a man who is both innocent and wicked" となる。1 これに対してP・コリンズはジャスパーと作者の相違点を列挙しながら、"Where, one wonders, does Mr. Wilson detect 'the good' in John Jasper?" と反論し、彼を "a wicked man who murders for lust" と断定した。2 この二人に代表されるように、ジャスパーに関する論文の多くは、彼の二重人格に関するものと、彼の犯罪や悪に関するものとに分かれている。本稿では、双方の説が生じた原因を究明し、それを基礎に据えてジャスパーの犯罪心理を分析しながら、最後に殺人の真の動機を考えてみたい。3


II

最初にジャスパーの二重性を諭ずる際に避けては通れない一節を分析してみる。

As, in some cases of drunkenness, and in others of animal magnetism, there are two states of consciousness which never clash, but each of which pursues its separate course as though it were continuous instead of broken (thus, if I hide my watch when I am drunk, I must be drunk again before I can remember where), so Miss Twinkleton has two distinct and separate phases of being.
ディケンズはW・コリンズの『月長石』(The Moonstone, 1868) で言及された「ある卸問屋のアイルランド生れの荷物運搬人」(II, ii, 1O) の話を利用して、ここで「酩酊」なる媒体によって構築される意識と無意識の世界、すなわち互いに接触を持たぬ「二つの意識の状態」の存在を説いている。これは阿片吸飲によって「酩酊」と同じ状態になり、無意識の幻想の世界を見せるジャスパーの「二つの意識の状態」に読者の注意を喚起するための例示である。更に、作者は手の込んだ直喩でこれを女子寄宿学校校長の Twinkleton の「二つの存在の全く異なる面」に連接させようとする。彼女の二重性は昼の教育者の状態では全く関知せぬ愛や恋について、夜になると女生徒たちに生き生きと語り始めるという、そういった彼女の意識の世界での二重生活を示すもので、そこには酒や阿片や催眠術など、彼女を無意識の状態にさせる媒体は何ら作用していない。彼女の二重生活は、法律事務所と自宅の生活に一線を画す Great Expectations (1860-61) の Wemmick を想起させるが、彼らの二重生活は、いわば天秤上の二つの皿のように、どちらにも傾かずにバランスを保っている点に特性がある。この均衡状態は彼女の真の自己と偽の自己が双方の存在を自己欺瞞によって完全に無視できることによる結果、つまり "a happy compromise between her two states of existence" (XXII) の産物なのである。換言すれば、彼女は二重生活を画然と分けることができるがゆえに、双方を衝突させずに平然と生活できる訳である。

ディケンズが想定した直喩は二つの概念を一見矛盾させるように思えるが、トゥインクルトンの二重生活は意識と無意識の世界のように自我意識の連続が極めて稀薄だという意味で、両者の矛盾を止揚する表現として成功している。ウィルソンはこの一節に着眼して、ジャスパーは阿片耽溺による無意識状態で殺人を犯したのであり、ゆえに意識の世界での彼は善なる聖職者だと主張する。だが、殺人の下準備に彼が敢行する "an unaccountable sort of expedition" (XII) は明らかに現実での悪の行為であるし、彼にとって大聖堂の聖歌隊長とは外界への適応に必要な外面的・社会的な人格であり、このペルソナは "False pretence" (XXIII) に彩られた偽善の仮面にすぎないのだ。従って、ジャスパーの「二つの意識の状態」から "the dualism of good and evil" という二重人格を演繹するのは、余りに短絡的すぎて首肯しかねる。ウィルソンの誤謬はジャスパーの意識の世界にもトゥインクルトンのように二重生活があるのを見落したことに起因しており、これがP・コリンズとの見解の分岐点になっている。


III

ジャスパーの外面では、聖歌隊長として世間体を保持する偽の自己が、他人から期待される役割を真の自己の代理人として演じている。一方、彼の真の自己は "a hidden skeleton in every house" (II) という悪一色に染まった原始的かつ動物的な衝動として、内面に辛うじて抑圧され、絶えず一触即発の危機に瀕している。"A man leading a monotonous life . . . dwells upon an idea until it loses its proportions." (XIV) という彼の言葉を先程の天秤のたとえに当てはめれば、真の自己側の皿が重すぎて、二重生活なる天秤の「釣合い」は今にも崩れんばかりだと言えるであろう。

ジャスパーの内面と外面の乖離は "the contrast between the violence of his look and delivery, and the composure of his assumed attitude" (XIX) に端的に現れているが、4 彼の二重生活において真の自己が偽の自己を憎んでいることは、甥のエドウィン・ドルードに対する "You were going to say . . . what a quiet life mine is . . . I hate it." (II) という自分の "inner self" (II) を披瀝した言葉からも、論を俟たない。では、彼の「内的自己」である真の自己とはどのようなものなのか。この解明の鍵は彼が甥殺しの容疑をかけるNevil Landless の性格に隠されている。ランドレス兄妹はセイロン出身で "beautiful barbaric captives brought from some wild tropical dominion" (VI) のような印象を与える野性的人間である。特にネヴィルは "a dangerously passionate fellow, of an uncontrollable and furious temper" (X) という噂が流布するように内面に激情を秘めた男だ。だが、この噂を広めたのは実はジャスパーなのである。彼は日記の中に "The demoniacal passion of this Neville Landless, his strength in his fury, and his savage rage for the destruction of its object, appal me." (X) と書いているが、これは彼白身が自分の真の自己をネヴィルの性格から抽出した、いわゆる自己分析に他ならない。これを裏づけする傍証として、彼がネヴィルの側に立ち、恵まれた境遇に無関心なエドウィンを一緒に攻撃している場面を挙げることができる。

'See how little he heeds it all! . . . It is hardly worth his while to pluck the golden fruit that hangs ripe on the tree for him. And yet consider the contrast, Mr. Neville. You and I have no prospect of stirring work and interest, or of change and excitement, or of domestic ease and love. You and I have no prospect . . . but the tedious unchanging round of this dull place.' (VIII)
「君と僕」という言葉に裏書きされたジャスパーのネヴィルに対する同一視は、結局は彼と甥の間に存在する「対照的な相違」による嫉妬と憎しみの結実であり、彼の意識のベクトルは明らかにネヴィルからエドウィンの方向を指している。しかし、読者はここで彼の偽の自己の生活と甥の生活の間に存在する共通項を捉え損うべきではない。何となれば、エドウィン自身も "a betrothal by deceased parents" (IX) に支配された生活に、叔父が聖職者の生活を疎ましく思うように、嫌気が差している (II) のだから。要するに、これは作者がジャスパーの真の自己をネヴィルに、偽の自己をエドウィンに投影した象徴的場面なのである。以上の分析から明瞭なように、飼い慣らされた人間に対して野性的人間の激情を煽り立てて爆発させようとする彼の行為は、二重生活という意識の世界から偽の自己としての甥を抹殺し、真の自己を完全なる支配者にしようとする彼の隠然たる願望の外在化/形象化としての意味を持っている。

このように、ジャスパーの二重生活はトゥインクルトンの場合と二つの点で異なっている。第一に、彼女の二重性が偽善と無垢であるのに対し、彼のは偽善と悪の二重性である点。5 第二に、彼女の二つの自己が調和しているのに対し、彼のは常に衝突し、彼を自己破壊に導く危険性を孕む点である。6 彼はエドウィンとネヴィルを喧嘩させようとしたが、両者が衝突する寸前に左右の手で割って入り、衝突を阻止する (VIII)。しかし、この場面に内在する意味の暗示性と象徴性を読み取るならば、彼の介在は二つの自己の衝突による自己破壊を阻止した行為だと見なすことができる。それゆえ、彼が阿片吸飲によって幻想の世界へ逃避するのは、真の自己をそこへ移すことで現実の世界での偽の自己との衝突を遮断するための、いわば二重性超克の方途なのである。


IV

ディケンズが『謎』で利用した「酩酊」と「動物磁気(催眠術)」は、ジャスパーの「二つの意識の状態」の存在を説くもので、断じて等閑視すべき問題ではない。確かに、ジャスパーは阿片耽溺によって自己催眠にかかった "a second, drug-induced personality" を読者に呈示する。7 言い換えるならば、彼は現実の世界で偽善によって抑圧した悪を自由に解放せんがために、阿片吸飲によって意識的に幻想の世界へ入ろうとするのである。

ジャスパーの悪の本源は既述したように甥に対する嫉妬から生れた憎しみである。現実の世界での彼の意識的活動は、すべてこの憎しみに起因した甥殺しという劇の準備行動であり、幻想の世界で幾度となく行なう旅は、この殺人劇の予行演習なのだ。ディケンズは昔インド北部で旅人を絞殺した絞殺強盗団 (Thugs) というトピックを利用し、この旅のイメージによって劇の演習を読者に活写して見せる (XXIII)。こうしてジャスパーは甥を "a large black scarf" (XIV) で絞殺することになる訳だが、彼が淫楽殺人者であることは、中国人 (I) や Deputy (XII, XVIII) の首を絞める場面を援用すれば、瞭然として明らかである。彼が特に絞殺を好むのは、絞殺時に相手が苦しむのを見て感じる加虐性の快楽が主たる原因だと考えて差し支えあるまい。

このように、ジャスパーが現実から幻想の世界へ逃避する理由は、「病的な精神状態に現実の相当な苦痛が伴う」(II) ような二つの自己の衝突を避け、同時に邪悪な殺人願望を充足させるためである。しかしながら、次に引用する彼が阿片窟の女将に洩らす言葉に注意すれば、彼の幻想への逃避には別のもっと重要な誘因が作用しているのが窺い知れるであろう。

'Well; I have told you I did it here hundreds of thousands of times. What do I say? I did it millions and billions of times. I did it so often, and through such vast expanses of time, that when it was really done, it seemed not worth the doing, it was done so soon.'
要するに、幻想の世界で絞殺する際の加虐性の快楽は、彼にとって現実の場合とは比較にならぬ位に大きく、むしろ現実での絞殺の方が "unreal" (XXIII) に思えたのである。彼には "sordid realities" より "Paradises and Hells of visions" (XIX) の方が激しい興奮を惹き起こす訳である。この彼の逆説的な言葉は、自分の幻想の世界で想像力を支配して自由に飛翔できる自慰行為が、時として現実の性体験より激しい快楽を惹起するという現象を想起すれば、一層の説得性と信憑性を獲得するであろう。8 実際、作者が Durdles の夢で示唆したように (XII)、夢はその人にとっては現実であり、目覚めている生活の経験のように現実に他ならないのである。

V

ジャスパーの殺人に関しては、邪恋、利欲、激情、阿片による病的体験、絞殺強盗団の迷信的儀式など、諸々の動機が考えられるが、既に指摘した者もいるように、9 エドウィンの許嫁 Rosa Bud を獲得するのに彼が邪魔だという安易な通説がある。しかし、この通説は彼らの婚約解消の話を聞いた時のジャスパーの失神 (XV) をうまく説明できない。なぜなら、婚約解消は彼女の獲得をより簡単にする嬉しい知らせなのだから。これはローザ自身が思いついた動機であるが、作者は「犯罪者の知性」を彼女の理解を超えた "a horrible wonder apart" (XX) と定義することで、彼女の獲得が主たる動機であることを事実上否定している。つまり、殺人の真の動機は別の所にあることになる。

ジャスパーの殺人の真の動機は、ローザに対して抱く性的倒錯に解明の糸口がある。彼女は "an amiable, giddy, wilful, winning little creature" (IX) であるがために、彼には "rare charmer" や "sweet witch" (XIX) と映る。従って、The Old Curiosity Shop (1840-41) における Little Nell に対する Quilp のごとく、彼は眼前で怯えながら彼を忌避する少女に加虐的な異常性欲を刺激される。"I would pursue you to the death." (XIX) という脅迫の言葉は、原始の狩猟時代のように加虐的な興奮を追跡によって高めたいという邪悪な欲望の発露である。しかし、この欲望は現実の世界のことであり、幻想の世界では逆の傾向を呈示していることを見逃してはならない。

'How beautiful you are! You are more beautiful in anger than in repose. I don't ask you for your love; give me yourself and your hatred; . . . Reckon up nothing at this moment, angel, but the sacrifices that I lay at those dear feet, which I could fall down among the vilest ashes and kiss, and put upon my head as a poor savage might. There is my fidelity to my dear boy after death. Tread upon it!'
彼が「犠牲的行為」によって表明する愛は明らかにマゾヒズムである。彼にとって愛とは被虐的な依存の合理化にすぎない。彼は「腕に〔彼女の〕面影を抱いて」(XIX) 幻想の世界に突入し、絞殺強盗団が死と破壊の女神 Kali を崇拝するように、ローザなる神に隷属することで、激しい興奮を伴う被虐性の快楽を享受している。すなわち、彼女自身の愛は不要であり、被虐的な依存を可能にさせる彼女との共棲関係だけが必要なのである。

ここで殺人の真の動機を探るために、もう一度ジャスパーの対象をローザからエドウィンに戻してみよう。ジャスパーは、Luke Fildes 作の表紙絵で見せる羨望の表情から判断するに、恵まれた甥に対して確かに嫉妬している。弟アベルの供物が神に納められ、自分の供物は顧みられなかったことに嫉妬し、弟を殺すカインの場合のように、彼の嫉妬は神としてのローザを含めた三人の間の関係に根差すものである。10 大聖堂の首席司祭はジャスパーの甥に対する熱愛に懸念を抱くが、 "a look of hungry, exacting, watchful, and yet devoted affection" (II) という彼の眼差しに示された両価感情は、我々の心の奥底に潜む愛憎の混在という矛盾した傾向を暗示するのではなく、むしろ彼の愛の偽善性を明示している。つまり、彼の甥に対する感情は嫉妬による憎しみであり、彼が表明する愛は憎しみの裏返しにすぎないのだ。しかし、彼は憎しみのためにその対象から離れるのではなく、まるで「動物磁気」で引き寄せられ、自ら堅固な三角関係の維持に努めようとしているかのように見える。

このようなジャスパーが求める三角関係の原型は、前作『互いの友』のヘッドストーンが、愛する女性 Lizzie と彼が嫉妬と憎しみを抱く有産階級の怠惰な弁護士 Eugene Wrayburn との間に形成する三角関係に見出すことができる。

The state of the man was murderous, and he knew it. More; he irritated it, with a kind of perverse pleasure akin to that which a sick man sometimes has in irritating a wound upon his body. . . . All his pains were taken, to the end that he might incense himself with the sight of the detested figure in her company and favour, in her place of concealment. (III, xi)
ジャスパーの性格はこのような三角関係の中で精神的苦痛を努めて求めようとする性格の同一延長線上に位置づけることができよう。例えば、ロンドンの阿片窟の女将がジャスパーを追跡して来た (XIV) ことから、彼がエドウィンとローザの散歩を密かに追跡した (XIII) あと、即座にロンドンへ阿片吸飲に行ったことを読者は理解できる。つまり、彼は現実の世界で彼らの逢瀬 -- 実際には婚約破棄のための散歩であるが -- を目撃することで、内面に抑圧して蓄積した激情を更に刺激しながら「ある種の倒錯した快楽」を味わい、同時に甥に対する加虐的な殺人の衝動を爆発寸前まで高めてから、阿片吸飲による幻想の世界で一気に爆発させオルガスムに達しているのである。このように考えてくると、ローザの獲得は殺人の主たる動機というよりは、むしろ三角関係での被虐的な快楽を補強せんがための副次的効用を持つ、形骸的な動機であるように思えてならない。

VI

以上の記述から推察できるように、表層的にはジャスパーは甥の許嫁に対する邪恋から殺人を犯したように見えるし、彼自身もまた現実の世界ではそう思って行動している訳だが、心の深層では彼が幻想の世界で甥を絞殺する時に感じる加虐的な快楽、そして現実の世界での三角関係で味わう被虐的な快楽という、いわば殺人に付随する精神的興奮が、彼に意識されずに真の動機として強く作用しているのである。このように、ディケンズは『謎』で聖職者ジャスパーの裏面に伏在する隠微な犯罪と悪の世界を描き、その根源は内面的・形而上学的であって、外面的・社会的な次元では捕捉できないことを示そうとしたのである。


  1. Edmund Wilson, "The Two Scrooges." The Woound and the Bow (Methuen, 1961) 99, 102.
  2. Philip Collins, Dicknes and Crime (Macmillan, 1962) 305, 313.
  3. 以下、引用と言及は The Clarendon Dickens 版の The Mystery of Edwin Drood (London: Oxford University Press, 1972) に依拠し、当該箇所は括弧に入れて章数だけを示す。
  4. Fred Kaplan が Dickens and Mesmerism (Princeton University Press, 1975) 131 で示した "His eyes clearly are the passage-ways to his soul." という見解は正鵠を射ている.眼差しのイメージについては P. G. Hornback, The Hero of My Life (Ohio University Press, 1981) 119-56 に詳しい。
  5. この点で彼は Raskolnikov (Wilson, 99) より Svidrigaylov に、『月長石』のBlake よりディケンズの二重生活を揶揄した人物と思える Ablewhite (II, vi, 3) に近い。
  6. 阿片耽溺時の衝突の危険性は、「夜明け(夜と昼の接点)」(I, XXIII) や「燈台(海と陸の接点)」(XII, XIV, XXIII) のイメージで暗示されている。後者に関してはC. Mitchel, "The Mystery of Edwin Drood: the ineterior and exterior of self." ELH 33 (1966) 243 を参照。
  7. G. Watkins, Dickens in Search of Himself (Macmillan, 1987) 140. P・コリンズはこの人格を "an 'in vino veritas' vulnerability" (Collins, 303) と擁護している。
  8. Geoffrey Thurley, The Dickens Myth (Routledge & Kegan Paul, 1976) 333.
  9. T. S. Blakeney, "Problems of Edwin Drood." The Dickensian 51 (1955) 184.
  10. 彼にとっては甥から許嫁を奪い取ることに意義があるのであって、婚約破棄は三角関係を崩壊させて彼の殺人を無意味にする。ゆえに,失神の理由は "the utter needlessness of the murder" (John Forster, The Life of Charles Dickens [Everyman, 1969] II, 366) ではなく、"the uselessness of the crime" (Blakeney, 184) だと言えるだろう。

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