ディケンズ・フェロウシップ会報 創刊号(1978年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. I

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部


ディケンズ・フェローシップ日本支部の歩み

1970年12月23日 (火) 発会式 於東京神田神保町学士会館
1971年3月29日 第1回例会 於早稲田大学内大隅会館 British Council       
Television OfficerのMr. Gillateによるディケンズの作品朗読, ヴィクトリア朝時
代のイギリス風の食事を楽しむ会
1971年5月22日 於奈良県天理図書館 ディケンズ・コレクション見学
1971年6月12日 例会 於成城大学 安藤一郎氏「ディケンズ文学の面白さ」,  
鈴木幸夫氏「推理小説作家から見たディケンズ」の二講演
1971年10月9日 例会 於成城大学 映画 "Great Expectations" 鑑賞
1971年12月17日 於シェル石油極東代表重役 Mr. N. L. Frakes宅クリスマスに
ちなんだディケンズの作品の朗読会 朗読者, 市川文彦, 小池滋, 諏訪間優子各氏
1972年2月7日 於大隅会館 生誕記念晩餐会, 映画"A Tale of Two Cities" 鑑賞
1972年6月10日 於京都ブリティッシュ・カウンシル 松村昌家氏司会による
山本忠雄氏「二十世紀のディケンズ」の講演
1972年10月7日 総会 於成城大学 Mr. C. L. Colegroveの講演, および間二
郎氏「イギリスのディケンズ・フェローシップを訪ねて」の二講演
1972年10月20日 於東京私学会館 島塚光氏指揮東京プロ・ムジカ・アンサ
ンブル演奏による,ディケンズの頃の音楽と鑑賞の会
1973年2月7日 於Mrs. Rubinfien 宅 生誕記念パーティー
1973年6月9日 於広島大学 田辺昌美, 津村憲文, 能美龍雄各氏を中心とし
た, Martin Chuzzlewitの朗読と研究
1973年10月13日 総会 於成城大学 小池滋氏「ミコーバーの現代的意味」, 
宮崎孝一氏「リトル・ドリットについて」の二講演
1974年6月8日 於京都外国語大学 東田千秋氏「オリヴァー・トウィストに
ついて」, 間二郎氏「シドニー・カートンをめぐって」, 須賀有加子氏「ディケンズ
とコンラッド」の三講演と, 京都外国語大学のディケンズ関係図書の展示会
1974年10月26日 総会 於成城大学 中西敏一氏「ディケンズを訪ねて」の
講演
1975年6月14日 春季大会 於広島大学 櫻庭信之氏「ディケンズの絵画的表
現」の講演, および, 田辺昌美(司会), 西条隆雄(朗読), 久田晴則, 植田研介, 
松村昌家, 小池滋各氏による,『ボズのスケッチ』をめぐる研究発表ならびにディス
カッション
1975年10月17日 総会 於成城大学 Prof. Arthur A. Adrianの講演 "Dickens 
as a Father"
1976年5月15日 春季大会 於神戸女学院大学 映画 "The Changing World of 
Charles Dickens" の鑑賞, 桝井迪夫氏司会, 小池滋, 松村昌家各氏による「ディケ
ンズと視覚芸術」についてのシンポジウム, 田辺昌美氏司会による米田一彦
氏の講演 「ディケンズとサッカレー」
1976年10月29日 総会 植木研介氏「ケムブリッジとディケンズ研究」, Mr. R. 
A. Duke「ディケンズ随想」の二講演, ならびに市川又彦氏による『ディヴィド・
コパーフィールド』翻訳についての思い出話
1977年6月4日 春季大会 於京都ブリティッシュ・カウンシル 映画 "Oliver  
Twist" 鑑賞 松村昌家氏司会, 久田晴則, 米田一彦, 竹内 章, 小池滋各氏による
座談会「『オリヴァー・トウィスト』の問題点」
1977年10月22日 総会 間二郎氏および中西敏一氏「フォースターの『ディ
ケンズ伝』をめぐって」, 伊藤廣里氏の「ディケンズの旅」の講演
1978年6月10日 大会 於広島大学 田辺昌美氏司会による, 中村愛人氏「『マ
ーティン・チャズルウィット 』考」, 久田晴則氏「『オリヴァー・トウイスト』
の構成」の講演


ディケンズ回顧

									
			山 本 忠 雄
 ロンドンのディケンズ・ハウスを訪れてからもう一○年以上になる。定年の
直前、わずか三ヵ月の滞在であったため、はじめから慾張ったことを望むのは
無理だったが、滅多に恵まれない機会なので、ロチェスターをはじめ、ディケ
ンズゆかりの土地をさぐれるだけさぐって歩いた。ディケンズ・ハウスでは、
まだ健在だったジョン・グリーヴズさんや「ディケンジアン」誌の編集を司っ
ていたレズリ・C・ステイプルズ氏に、野暮な質問を反復したが、両氏とも快く
これに応じ、特にグリーヴズさんは、ピクウィク氏のような温顔で、何呉れと
なく相手になって呉れた。難解なディケンズの疑問を、だしぬけに異国の未知
な学徒から並べられて、さだめし迷惑なことであっただろうと察する。ディケ
ンズ・ハウス(今では正式にミュジアムという名が付く)には現在、松村昌家
君が研究員として招かれている。
 ディケンズ・ハウスと並んで、私がしばしば訪れたのは、大英博物館の読書
室で、ここはディケンズも作家になるはじめに、勉強した縁りがあり、英国文
化の粋に接することができる。ここでも、ディケンズの作品から疑問な箇所を
選んで、力の限り調べたが、結果は予期に反いて捗々しくなかった。本当にデ
ィケンズを究める場所は、何処か他処にあり、その方法もこのままでは限界が
あることを知った。若くて条件のよい時に、もっと多方面の実証的な研究を精
力的に進めなければ、どんな計画も成就できない時代に達している。
 近頃のディケンズ研究は目ざましく、第四巻を完成したばかりの「書簡集」
(ピルグリム版)をはじめ、新しい文献が急速度で加わる上、アメリカやョー
ロッパで発達した新しい言語学や文体論の圧力は抵抗できないし、心理的・社
会的な諸科学の新たな成果も無視することは許されないので、その方面の知識
を蓄えるのに遂われ、予定した企画の完成は、焦ってみても思うようには運ば
ない。一例を示すと、ディケンズの社会的背景や伝記的な事実のほか、この小
説家の天分と称してよい視覚と想像力の特異性を究めるのも一仕事で、そこか
らどんなイメージや象徴や神話が生まれているか、これらがどんなイディオム
を形成し、これを中核にどんな変体語が現れているか、それによって作品の言
語的な構造がどんな方法で決定されているか、というような問題をさぐらなけ
ればならないし、そのためもっと広く複雑な視点から、データを集め直さねば
ならぬと反省している。これだけでも日暮れて道遠しと云う他はない。
 ディケンズの処女作「ボズの写生集」を昨年来、再三読み直しているのもそ
のためで、こんどは時折、予定の計画など暫く忘れて、ボズの観察と想像と描
写に魅せられ、作品を読むだけに没頭したが、日常的な人々と日常的な生活と
場面を実写した記録から、バルザック的な物語の創作されていく方法が、ディ
ケンズ小説の原点として注目すべきことを改めて知った。その中で感銘の深か
ったのは、ドストエフスキーさながらの「黒いヴェール」や「のんだくれの死」
の如き悲劇的な物語であった。この後に暗い社会や不幸な家庭と因果応報的な
解決を内容にした「オリヴァー・トゥイスト」や「クリスマス物語」の如き小
説と寓話が現れるのは、ディケンズにとって必然的な過程であった。
 ディケンズはむごい現実に直面しつつ、これを除く積極的な意欲と方法に乏
しく、専らそこからの救いを福音的な使命とし、弱い者や貧しい者を助ける人
道的な作家として敬愛されたが、逆に、人間の悪と罪に患かれる悪魔性と、こ
れに反応する感受性を、過度に具えていた。その点で、意識的には神に近く、
本能的には鬼に近かった。この矛盾した二面性は、正常な人間性に遠く、狂気
に近いものであったが、それが彼の天分であったことは、エドマンド・ウィル
スンの有名な「二人のスクルーヂ」という論文が解明している。かようなディ
ケンズ的本質は、「ボズの写生集」を開いても、「オリヴァ−・トゥイスト」
や「クリスマス物語」を読んでも、常に内在している。それは作品の読み方に
も反応し、我々はメロドラマ的な内容とミュージカルの如き感覚的な刺戟を楽
しむと共に、サディズムとマゾヒズムの如き変態心理的な魔力を免れることは
できぬ。 ただそれらが娯楽的な大衆読物や好奇的な精神病理学の記録(ケー
ス・ヒストリー)に終っていないのは、人間の悲痛な本性と運命という永遠の
問題(私はワーズワスの詩とハーディの小説を連想する)が、詩的な直観と心
理的な洞察と社会的な批評と劇的な手法によって、鮮かに純文学として描かれ
ているからだ。
   私がディケンズを回顧するのは、昔の高校時代、はじめて「オリヴァー・ト
ゥイスト」を読んで以来、大学の卒業論文にディケンズを選んで、途中で挫折
してから、英語史や英文学の作品を遍歴して、十八世紀の散文と小説からディ
ケンズに辿りつくまで、長い展望を背景にしているが、今後それがどれだけつ
づくか、私にもわからない。


ディケンズ・フェローシ
ップ束京支部創立のころ
									
		成城大学 宮 崎 孝 一
(一)
 昭和四十五年(一九七○年)はチャールズ・ディケンズ没後百年記念の年に
当たっていた。勤めている大学と、私学研修福祉会から半分ずつ費用の援助を
得て、その年の夏から一年間イギリスに留学することになったのは、年来ディ
ケンズに興味を持ってきた私としては幸運なことであった。
 ロンドンに着いた二、三日後にディケンズ・ハウスを見に行った。ディケン
ズ博物館というべき所である。ここはディケンズが小説家として世に出た初め
の頃すなわち、二十五歳から二十七歳まで住んでいた家であり、彼の愛した義
妹メアリー・ホガースが急死したのも此所であった。窓にはジェラニウムの鉢
が並べられ、美しい花をつけていた。ジェラニウムはディケンズが殊に愛した
花であることを、私は何かの本で読んで知っていた。ベルを鳴らすと若い女性
が出て来て、地下から一階、二階、三階と案内してくれた。地下はディケンズ
ー家が食堂として使っていた所で片隅に暖炉があった。一階の奥はディケン
ズ・フェローシップの事務室になっており、二、三階にはディケンズにゆかり
のある品物が陳列されていた。少年時代のディケンズが働いていた靴墨工場の
靴墨のびん、ディケンズ愛用の机や椅子、晩年朗読旅行の時携行したという小
型の皮カバン、生涯のいろいろな時期の写真などがあった。壁面にぎっしり並
べられた本箱には英・米はじめ世界各国で出版されたディケンズ関係の書物が
収められていた。日本の本も数冊あったが、そのうちの一冊は逆さに立てられ
ていた。日本の文字の読めない人が整理するのだから、やむを得ないことと思
われた。
 一階に戻って、事務室に行き、ピラーズさんという中年の女性に会った。こ
の人がディケンズ・フェローシップの事務の元締めなのであった。ディケンズ・
フェローシップはディケンズ愛好者の集まりで、ディケンズ・ハウスに本部が
置かれ、支部はイギリスの各地にあるほか、世界の多くの国の都市にある。私
が日本を発つ二、三力月前から早稲田大学の内山正平氏の発議によって、日本
にも支部を作ろうという話が始まっており、私はその具体的な手続きなどにつ
いて本部で尋ねることを委嘱されていたのである。ピラーズさんは、ものすご
く早口で、しかも、話しながら忙しくあちこちと動き回る人であった。この女
史から数日後の夕方、ここでフェローシップの総会があるから、それに出席し
て我々の計画について話すようにと言われた。
 総会の日の定刻にディケンズ・ハウスに行った。フェローシップの会長は、
ジョン・グリーヴズ氏という七十歳を越した方で、元来実業家だったが、合は
引退してロンドン郊外で閑雅な生活を楽しんでおられるのだということだった。
体つきも顔立ちも、ディケンズの処女作の主人公ピックウィック氏を恩わせる
ものがあり、事実ミスター・ピックウィックと呼ばれていた。地下室の会場に
は五十人ほどの役員が集まっていて、私の拙いスピーチに耳を傾けてくれた。
日本人はディケンズを英語で読むのか、それとも翻訳で読むのかとか、ディケ
ンズ読者は日本にどのくらいいるかなどの質問がなされた後、世界で一五七番
めの支部として東京支部(今は日本支部と改称)を作ることが承認され、全員
拍手して祝ってくれた。
(二)
 デイケンズが没したの一八七○年六月九日なので、没後百年の記念行事が一
九七○年の六月からロンドン始めイギリスの各地で行なわれたのであったが、
私が渡英したのは八月であったから大部分の行事は終わってしまっていた。た
だ、ヴィクトリア=アルバート博物館では十四室もの部屋を使ってディケンズ
を偲ぶ展示がまだ行なわれていた。ディケンズの原稿や手紙、彼の使った品物、
生涯の活動や当時の社会状勢を示す写真や絵画、家族や友人たちの肖像、作品
の挿絵の原画、などが所狭しと陳列され、連日多数の見学者を集めていた。十
歳くらいの男の子を連れた母親が「ディケンズの原稿の文字が細かいのは、彼
が貧乏で紙を節約しなくてはならなかったからですよ」とトンチンカンな説明
を息子に与えていた。この展覧会は何度か訪れたが、切符切りのおばさんがデ
ィケンズは日本でどのくらい知られているかと聞くので、次に行ったとき、雑
誌『英語研究』のディケンズ特輯号一冊を進呈した。
 大学は、ベドフォード・カレジに通っていた。英文科の主任教授として、デ
ィケンズ研究の大家キャサリン・ティロットソン女史がおられたからであった。
この先生は昔からの仕来り通り、今もちゃんとガウンをまとって講義をし、遅
刻して来た学生などには厳しく注意をされた。イギリスの学生は先生の講義中
も平気で煙草を吸うが、この先生の時間だけは粛然として、煙草どころではな
かった。しかし、厳しい外見の下にはやさしい思いやりのある方で、私が一人
ぼっちではさびしかろうと、男女一人ずつの学生を話し相手として紹介してく
ださった。私はこの学生たちと昼食を共にしたり、上演中の劇とか、地方の家
庭生活、学生たちの毎日の過ごし方などについて話を聞いたりした。三島由起
夫のハラキリはロンドンのテレピでも二日間にわたって報道されたが、この学
生たちにとって大きな謎であったらしく、次に会ったときいろいろ質問された
が、私とて自信のある答えはできなかった。ベドフォード・カレジは一八四九
年に創立され、長い間女子のためのものであったが、今は共学である。この大
学の建物のあるリージェント・パークは広く静かな公園で、流れる小川には白
鳥が浮かび、岸辺や小道の左右にはバラやユリその他色とりどりの花が咲いて
趣きを添えていた。
 この公園の近くにマダム・タッソーの蝋人形館があった。私のいた下宿にペ
ルシャ人の留学生がいて、「君はディケンズをやるのならあそこへ行ってディ
ケンズに会って来なければだめだ」としつこく言うので、ある日行ってみた。
なるはど文人のみならず、古今東西の名士たちの像がさまざまなポーズをして
並んでいた。わが吉田茂元首相も細縁の丸い眼鏡をかけ、羽織袴で屏風の前に
鎮座していた。
(三)
 ディケンズの晩年の住居ギャズヒルには二回行った。これは彼が少年時代以
来あこがれ、作家として成功してから手に入れた家である。最初のときは日本
から留学している西洋史の先生といっしよに行った。行ってみると邸は高い塀
に囲まれ、門に鍵がかかっていてはいれない。そこで道路を越えた向う側にあ
る庭園の方へ行った。はいろうとすると庭木の手入れをしていた男が大きな声
で何か叫んだが何を言っているのかわからなかった。構わずはいって、庭の端
にある地下道にもぐった。(ディケンズは庭園と邸宅の間を往復するのに車馬
の通る道路を横断しなくてもよいように、地下道を造っていたのである。)地
下道を抜けると、思い通り家の前の庭に出た。ただし、家の扉は閉まっていた
から家の周りを歩いてみるだけしか仕方なかった。家のうしろ半分は学校にな
っていて少女たちの勉強の最中であった。
 ギャズヒルからニマイルほどの所にあるロチェスターにも行ってみた。町の
外れの丘の上にある古城は、ものさびた廃墟であるが、幼時、付近のチャタム
に住んでいたディケンズにはなじみ深い場所だったはずである。庭の一隅に花
壇が作られていて、C・Dという文字が花で描かれていた。これも没後百年ゆえ
のことだったろう。
 この町には古い大聖堂があり、ディケンズはギャズヒルからの散歩の途次こ
こに立ちよるのを常とし、死後はここに埋葬されることを願っていたが、結局
は国民多数の願いによってウェストミンスター寺院に葬られることになったの
であった。
 もとギャズヒルにあったスイス式のシャレー(山小屋風の家)も今はロチェ
スターの市立博物館の向い側に移されている。これはディケンズが世話をして
やったフランスの俳優シャルル・フュシュテールが、ばらばらに解体して五十
八箇の箱につめて送って来たのを組み立てたもので、晩年のディケンズは専ら
ここの二階で原稿を執筆したのであった。
 このシャレーに近いクーリングの墓地にも行ってみた。そこには『大いなる
遺産』の冒頭で述べられている、五個の菱形の墓石のモデルになったという墓
石が並んでいた。墓石は十三個あって二列に横たわっていた。コンポートとい
う人が次々になくした子供たちのために作ったものだという。
 ギャズヒルを二回めに訪れたのは、ブリティシュ・カウンシル主催のイギリ
ス文人ゆかりの地を訪ねるバス旅行に加わったときであった。バスには中年の
男性のガイドが添乗していていろいろと説明した。『ボズのスケッチ』のボズ
という名は聖書に出るモーゼズをもじった名前だと言っていたので後で休憩の
とき、「ディケンズが可愛がっていた弟をゴールドスミス作の『ウェークフィ
ールドの牧師」の登場人物モーゼズにちなんで呼んでいた名前を子供流に発音
したものだと本で読んだことがあるが・・・」と言うと、「そうかね、後で調
べてみよう」と、けろっとしたものであった。
 前に来たときは夏だったので邸は、きらきらと明るく輝いていたが、今度は
晩秋なので、邸も庭もどんよりと、くすんで見えた。この時は家の中にも入れ
てもらい、ディケンズが使ったときのままに保存されている書斎や客間を見た。
書棚にはディケンズが戯れにつけた風変わりな題名の本(これは本の形をして
いるだけで、中味は何も書いてない)もたくさん並んでいた。また、壁面には
絵の額がぎっしりと掛けられていたが特に目を引くものはなかった。ディケン
ズは絵に対する趣味は低俗だったと何かの本に書いてあったのを私は想い出し
た。
 内山氏からの手紙が届き、ディケンズ・フェローシップ東京支部の発会式が
学士会館で盛大に行なわれたと告げられたのは、その後間もなくのことだった。


 ディケンズと私
									
		早稲田大学 内 山 正 平
 私は第一早稲田高等学院(旧制・現在はありません)三年生の時、谷崎精二
先生から英文学史の講義を受けましたが、使用したテキストがA Primer of 
English Literature by Arthur Compton-Ricketで、この中で初めてディケンズの名を
耳にしました。そして、リケットのHe is the great story-teller of the common lives of 
common people,という一文が頭にこびりつき、それまでディケンズ作品の原文は
勿論、翻訳本にも触れたことのない私でしたが、ディケンズこそ私が研究すべ
き作家だ、と無謀にも恩い込みました。白分こそ庶民中の庶民なのだから彼の
作品がよく分る筈だ、などと考えたわけです。しかし、私は自分が極めて幼椎、
素朴に過ぎる人間であることを直ぐに思い知らされました。三年后の学部卒論
の対象にも、と思い早速図書館で『オリバー・トウィスト』の第一頁を見て、
英語力貧弱な学生の手に負える作品ではないと知ったのです。
 いろいろの事情から私は晩学で、昭和十四年、三十才で漸く早大英文科を卒
業、旧制の中学校教師として世の中へ出ましたが、昭和廿五年、母校に戻るま
での十一年間は時勢の影響もあり、英文学は私にとって無縁に近いものになっ
ていました。母校の教員になってからは、勢い英文学と再縁せざるを得なくな
りましたが、すぐにディケンズ研究にかゝったわけではありません。他に夢中
になるものがあった故でもありますが、相変らずディケンズの文章が私には難
解だったからです。
 それから十年余過ぎ、昭和三十九年、私は早大から短期在外研究員として半
年イギリスで勉強して来なさい、との命令を受ける幸運に恵まれました。私は
これを機会に、何が何んでもディケンズ研究にとりかゝろうと決心しました。
私は、風変りな人間と云われても仕方がありません。私はディケンズ研究者で
あったからイギリスヘディケンズ研究に行ったのではありません。彼の作品を
殆んど読んでいない身でありながら、その研究の糸日をつかもうとして行った
のでした。しかし、その為に私のとった方法は誤ってはいなかった、と自負し
ています。六ケ月問の大部分を、私はロンドンのディケンズ・ハウスに出入し
てそこのスタフの話を聞くこと、そこで紹介状をもらい、英国内のフェロウシ
ップの各支部を訪ね廻ること、そしてディケンズ作品に縁ある場処を案内して
もらうこと、等に費しました。写真もたくさん撮って来ました。この経験と土
産物は、今日彼の作品を読む際に大へん役立っています。
 今までにディケンズ・ハウスを頼って行った人は私と同じ経験を持ったでし
ょうと思いますし、これから行く人は持つに違いありませんが、フェロウシッ
プの関係者は外来の、特に日本からの研究者には極めて親切です。その間に私
は英国民の中のディケンズフアンの数は私の予想を遥かに上まわっているのに
気付きました。当然ですが、フェロウシップ本部の活曜も盛んです。私は滞英
中、同本部主催の行事の全部に出席しましたが、その折々接触した幹部諸氏か
ら、多年イギリス文学に親しむ日本にフェロウシップの支部が無いのを惜しみ、
不思議に思う旨を聞かされました。この辺の消息を伝える小文を私はロンドン
から研究社に送り、当時の「英語青年」に載せてもらいましたので、御記憶の
方もありましよう。
 昭和四五年(一九七○年)、ディケンズの百年忌を期して、幸にも「日本支
部」が誕生しました。その節の主唱者の一人が私だったのですが、私には別に
個人的な秘かな願望もありました。それは、当時すでに六十一才であった私に
は、自分だけでディケンズの全作品は読み通す力はないのだから、多くの研究
者に触れて、一日でも早く彼についての理解が深まるようにしよう、というこ
とでした。この願望も着々と果されていくのを有難く思っています。会合のあ
る度に会員の誰かが私にディケンズについての新らしい知識を授けてくれるか
らです。
 ディケンズの全作品が翻訳される日も近づいています。やがて世界的のディ
ケンズ研究家が我々の支部から出現するでしょう。「日本支部」設立当初から
熱心に参画して下さった、故安藤一郎氏は「ディケンズ程つかまえにくい作家
はない」と度々云っていました。いろいろなことが云える作家だからでしょう。
従って偉大な世界的ディケンズ学者と云われる人が日本から出るまでには、も
少しの年月が必要かも知れません。しかし私の周りの多くの方が私にその可能
性を信じさせてくれます。私はただ、そういう人の出現のため聊かなりともお
役に立つよう、こつこつ彼の作品を読み、気付いたことを書き残したい、と念
ずるのみです。
 前に記しましたように、私は早くからディケンズ研究を志ざしました。途中、
忌わしい戦争に遭い、十年余の空白時代があったとは云え、自身の意力と英語
力不足のため、彼の全作品を読破できずに今日に及んでいます。彼の全部を理
解する為には永い年月がかかります。春秋に富む時代に始め、たゆまぬ努力を
続けないと、私のように、読むにつれてディケンズが好きにはなっても、ディ
ケンズ研究家です、と胸を張って云えない人間になってしまいます。若き会員
諸君!!  私を"他山の石"の一つにして、同僚や後輩への戒めにして下さいます
ならば幸です。
                                        

ディケンズ・フェローシップ会報創刊に当たっ て
 				       中 西 敏 一		(東洋
英和女学院短大)
 会員の村石利夫氏のご尽力と、内山正平先生始め多くの方々のせび会報をと
いうご熱意のおかげで、フェローシップ会報第一号を発行することができるこ
ととなりました。また、「会の歩み」につきましては、山本忠雄先生、間二郎
氏、その他の方々のご協力をえましたことをお知らせしておきます。申し訳あ
りませんのは、松村昌家氏の「イギリス短信」を、紙面の都合上載せられなく
なってしまったことです。お詫びを申し上げ、次回に回させていただくことに
したいと思います。
 


読書旅行
                      広島大学  田 辺 昌 美
 夏休暇というのはとりわけ古い知人に逢ってはまた別れねばならぬ時期であ
る。逢うことは楽しいことにちがいないが、また一年、元気でがんばれよ、と
肩でも叩きたくなる、人なつかしく悲しい別れの時でもある。そのようにして
集った者が全国にまたバラバラ離散していくのが夏の読書旅行である。
 今年も例年のように七月二十六日から三泊四日の読書旅行に出かけた。
 研究室での読書会をやめて、難波君の伯母さんの田舎家に泊めてもらって読
書会をしたのが昭和四十二年だったから、いわゆる読書旅行なるものをすでに
十二回繰返えしたことになる。十三回になるはずだが四十四年は大学紛争のた
め計画できなかったのでそういう計算になる。二回目は植木君の父上のお世話
で蒲刈島の高校に泊めてもらって颱風に襲われ、散々な目にあったが、以後一
昨年までは大島(山口県)の金尾君の家に泊めてもらった。中日一日を費して
騒ぐ船釣りは何よりの魅力だったが、暑さと炊事の煩瑣と疲労が大変なので昨
年からは会場を県北の国定公園にある「県民の森」に移した。
 ここには広大なキャムプ場と同時に百人余りの宿泊のできる立派な施設があ
り、三泊四日で一万円たらずの経費ですむのだからわれわれにはうってつけで
ある。それに海抜千米近い高原だから涼しいうえに風がきれいである。何より
もうれしいのは生きた水がいくらでも飲めることだ。山本君のようにコーラな
どやたら飲む文明人も目についたが深山から流れてくる水ほどうまくて清冽な
ものはない。夜空の星の美しさも格別である。
 今年は『無商旅人』のうちから六篇を割当てて読んでもらった。参会者二十
八名、当番は長崎の相沢、島根の銭本、愛媛の植木、広島の能美、近藤、吉井、
要田などの諸氏だった。年々みんなの読みが深くなっていくのが手にとるよう
に伺えるのが何よりもうれしくてたのもしいが、一年に一度土俵に立ってみん
なからズバリ切りこんでもらえることはお互い何よりの修練でもある。湯浅、
難波、藤本君などがリードしてくれるようになって内容も一層充実してきた。
 欠席料という罰則も確立されている。さいわい鉄村、直野、中村その他可な
りの常連がいてくれてビール代金を貢いでくれるので夕食の酒にも事欠くこと
がない。七時起床、午前午後広くて涼しい会議室での読書会、夜、宴席の繰返
えしである。
 太古とはいえぬまでもぶなの原始林を背景に蝉時雨のなかでディケンズの霊
がたえず見守ってくれている思いの四日間であった。ディケンズがまるで手を
とるようにやさしくみんなを無商旅人にしてくれるのである。
 そのようにして今年の読書旅行も終った。
 ディケンズをなつかしみ、互いの友情をいとおしみながら、ふたたびチリヂ
リにみんなが俗塵のなかに離散していくのである。楽しい旅といえばなるはど
楽しいにはちがいないが、悲しさがさらに強く残るというのも旅の風情なのだ
ろう。(八月十日)


 ディケンズ文学の旅
									
	実践女子大学 伊 藤 廣 里
 はじめに
 (イ)ディケンズ文学、背景の土地のスケールが、雄大であるということを
痛感した。
 (ロ)ディケンズ死後、百年以上経過したとはいえ、ディケンズが、イギリ
ス国民の中に生きつづけていることを、如実に知ることが出来た。
 一、ロンドン
 ディケンズ・ハウスー--ドルーリー・レイン--ファーガスン・ハウス--セブン・
ダイアルズ--ミコバー・コート--ディケンズ・エステイト--カウンティー・テラ
ス
 ディケンズ・ハウスの訪問客は、年問、三万人以上といわれる。これは、デ
ィケンズ研究熱が旺盛になっている証左であろう。ドルーリー・レインは、デ
ィケンズのロンドンの中心地であった。そのころの不潔な面影は、霧散し、近
代的な清潔な道路に変貌している。ファーガスン・ハウスは、その昔のデヴォ
ンシャー・テラス一番地のところにある。このハウスの壁には、ディケンズの
肖像と、彼がこの地で書いたところの作品中から、数人の登場人物が壁画とな
って残っている。セブン・ダイアルズは、昔のままに残っている七叉路。ミコ
バー・コートは、現在、赤レンガの四階の団地が立ち並ぷ。ディケンズ・エス
テイトにも、沢山の団地がつらなっている。各棟には、ディケンズの作品中に
登場する人物からとった名前が、夫々つけられている。カウンティー・テラス
には、ディヴィッド・コパフィールド・ガーデンという、可愛い海神像の立っ
ている公園がある。
 二、郊外
 ヘンドン--ハムステッド--スパニヤーズ・ロード--ケンウッド--ハイゲイト・セ
メトリー--チグウェル
 ロンドン郊外におけるディケンズの土地は、そのスケールが、大きいという
ことを痛感する。ディケンズが愛したイン、すなわち、ジャック・ストローズ・
キャスルや、スパニャーズ・イン等を私は訪れた。インの中では、チグウェル
のキングズ・ヘッド・インなど、古色蒼然としたまことに味のあるインだ。
 三、田舎
 グレイヴズエンド--チョーク--ショーン--レザー・ボトル--コバム・ホール--ク
ーリング--ロチェスター--チャタム
 グレイヴズエンドは、テムズ川の河口にある町。この河口は、海か、湖とい
った感じがする。ディケンズ文学の風土は、スケールが実に雄大だなとひしひ
しと感ずる。チョ−クの村とショーンの村では、夫々、教会を巡礼。ディケン
ズは、後者を格別愛していた。それは、古くて野趣のある素朴な教会である。
レザー・ボトルは、昔の面影をとどめているイン。コバム・ホールは、エリザ
ベス女王時代の荘重な館、現在は女学校になっている。クーリングの教会では、
ピップ兄弟のオリジナルの墓を確かめた。村の古老から、テムズ河畔にある石
油コンビナートは、当地のフェローシップの反対で、これ以上の増設は出来な
いことを知る。ロチェスターでは、レストレイション・ハウスへ行ったこと、
フォート・ピットヘ登ったことが、特に印象に残る。
 四、学者
 マージョリー・ピラーズ女史と、マイケル・スレイター博士にあう。両先生
とも、イギリスにおいて、ディケンズが永遠の命を持っているのは、家庭にお
いて、両親が、ディケンズの作品を読むよう子供にしむけることが、大きな原
因であるといわれる。ピラーズ女史より、イギリスにおいては、ディケンズの
全作品中、『ピクウィック』が一番読まれていることを知る。スレイター博士
は、シンボリズム等の新しい研究に批判的であり、ディケンズが、詩人であっ
たこと、またコミィックものに力を入れて書いたことを、ディケンズィアンは、
忘れてはいけないと思いますと云われる。なお、博士より、ロンドンのフェロ
ーシップは、積極的に活動する強い協会であることを知る。
 五、家庭
 私の下宿は中流階級に属していたが、センティニィアル版のディケンズ全集
があった。下宿の主人より、クリスマス・シーズンになると、イギリスでは、
テレビもラジオも、ディケンズものの番組一色になることを知る。
 おわりに
 ロンドン市内においては、ディケンズのゆかりの土地も、大分変貌している
ことを発見した。しかし、郊外や、田舎においては、彼の土地も建物も、昔の
ままに保存されているものも多かった。これらの土地を巡礼して感ずることは、
ディケンズ文学の風土は、そのスケールが、実に雄大であるということであっ
た。家庭でも、学校でも、イギリス人は子供のころからディケンズに親しんで
いる。彼は今後共、イギリス人の心の中に、生きつづけてゆくであろう。



 表裏なす世界『オリヴァ・トゥイスト』の構成について
 		                   愛知教育大学 久 
田 晴 則
 小論の目的は、主人公オリヴァの向上を目指した動きとの一関連において、
彼の体験する三つの世界の緊密な相関関係を実証的に考察することにある。
 救貧院の世界はオリヴァの立場を明確にする上で極めて重要な働きをする。
彼は父親と母親の素姓が皆目不明のまま救貧院で生れる。彼には自分の過去と
の脈絡がない。十全なる「家庭(ホーム)」とも全く無縁である。つまり自己
の身元とその根拠となる共同体(「家庭」)とから完全に断ち切られた存在と
して登場する。この孤絶性の強調は「家庭のない」少年をして「家庭」を求め
て前進せしめる強い推進力となる。
 その力によって押し出されて入ったロンドンで彼は結局ブラウンロー氏やロ
ーズら善人たちの社会(「家庭」)へ入るが、問題は彼らと共に現われるフェ
イギンー味の掏摸の社会との関係であろう。結論的には、両者の社会は緊密な
表裏関係を成しているのではないかということである。
 その問題を次の諸点から考察する。(一)偶然(特にオリヴァーと善人たち
との遺遇)の問題--少年にとって幸運な遇然はそうとは知らすにフェイギンやサ
イクスら闇の住人たち(掏摸や夜盗)の「手(ハンド)」によって達成された
ものだということ。そのことは、オリヴァを媒体として明暗二つの世界を一挙
に密着させる訳だから、作品の構造に決定的な働きをする。(二)フェイギン
らの潜む廃屋の様子--それはかっては「立派な人々(ベター・ピープル)」が住
んでいた屋敷の廃屋である。つまり、闇の往人たちは明るい社会の人々の脱け
殻、いわば、影ないし負の世界に住んでいることになる。(三)この廃屋で営
まれる「小さな共同体(リトゥル・コミュニティ)」の実態--一見温々とした連
帯性に富んでいるように見えるが、現実は裏切りの危険の上に築かれた社会で
あって、ナンバー・ワンの哲学--実はスパイ行為と他人の犠牲とに基いた実践哲
学--によって冷酷に支配されている。それは十全なる「家庭」をもじった世界で
ある。以上の三点は明暗二つの世界の不離性をはっきり実証するものだろう。
 更に、ナンシーとローズの二人の人物の存在はニつの世界の結びつきを一層
確たるものにする。かつては共に天涯の孤児であった二人は全くの偶然によっ
て今では品位を落した娼婦と細っそりとした金持の美少女とになっているが、
二人が対面するあの有名な場面は二人に互いの反対自我を認知させることにな
る。互いに存在し合うことによって二人は十分納得いく人物たりうると同時に、
ローズの世界はナンシーの世界の存在によって裏打ちされて重厚な世界たりえ
てもいる。彼女らの関係はオリヴァとノア・クレイポールとの関係についても
言いうるだろう。
 闇の世界は内方且つ下方の運動を特徴とする迷路(道徳的な堕落の深み)か
ら成る。その深み中ヘオリヴァのアイデンティティを徹底的に湮滅しようとす
るフェイギンやマンクスらの行為は逆に少年を明るみへ出そうとする反作用を
常に生み出す。明暗は拮抗し合う。オリヴァはこの力関係の中で振幅運動を続
ける。そして最終的にオリヴァが生き残る訳だが彼と共にフェイギンもナンバ
ー・ワンの哲学を躯使して生き延びる。二人は互いに強い親族関係を示しなが
らオリヴァはフェイギンの身代り的な犠牲において一人生き残る。つまりオリ
ヴァはナンバー・ワンの哲学をフェイギンに対して無自覚のうちに実践するこ
とによって希求していた「家庭」の中へ入り込み、自分の素姓を明されること
になる。
 主人公=孤児という設定はこの作品の構成要素をすべて整理して一つの有機
体たらしめることに成功している。


 『マーティン・チヤズルウィット』考
									
	岐阜大学 中 村 愛 人
 『マーティン・チャズルウィット』は、ディケンズの作家経歴の上で、前期
の最後に位置ずけられる。また、『ピクウィック・ぺ−パーズ』を、いわゆる
ピカレスク形式の小説として第一期のものとするなら、次の、かなり本格的な
悪党と共に人生、社会の暗黒面が早々と登場する、「構成」された小説『オリ
ヴァー・トウィスト』に始まる第二期の締め括りの作品と呼ぶことも出来よう。
更にそれは、第三期即ち中期への橋渡しの作品てあり、過渡的な特徴をそなえ
ていることが、当然予想される。
 作家ディケンズには、当初から殊に特徴的な異彩を放つ人物の創造があった
が、この作品では、『オリヴァー・トゥイスト』のそれと本質的にそれ程異な
った人物構成とは言えないながら、その悪の造型において、個人悪を描いては
前期の頂点に達している。同時にこの広がりを持つ作品の舞台で、多彩な人物
達によって、彼らが織り成す情況によって表現される主題が、それまでには見
られなかった何らかの形で作品全体を貫いたものになっている点、更に或る程
度「社会」というものが、作品の視野にはいっていることも注目すべき中期へ
の橋渡しをする要素と言えよう。
 このような作品の中心的主題としては、作中の言葉を使うと、Universal self
の問題にしぼれるようである。それは、作品ではselfishな人物達の絡み合いを
通して展開されることになる。selfishな人物達と言ったが、いわばこの悪党達も、
その特質において二つのグループに分けることが出来る。まず、マーティン・
チャズルウィットという同名の祖父と孫を中心に、余りにも自己中心的な思考
と行動に偏り、他者の存在とその価値に盲目となり、彼らの真の姿が理解でき
ないselfishな人物達のグループ、今一方は、自己中心的であるだけでなく、私
利私欲のためには他を害し、落し入れることさえはばからない強欲な悪党達。
彼らが、相手を充分理解してから利用し食い物にするのも、前のグループと著
しく異なる点と言えよう。このグループには、老マーティンの弟アントニーと
ジョーナスの父子、ペックスニッフ、モンタギュー・ティッグ、ギャンプ夫人
等を数えることができる。
 主題であるself, selfishnessの様相は、前者の祖父と孫の組み合わせと、後者で
はアントニーとジョーナス父子の組み合わせの対照において、特徴的に浮彫に
されているが、両者の関り合いとそれぞれの運命の明暗は、マーティンの精神
的覚醒を軸として、作品の訴えを力強く構成する。作品は、各人が、selfishness
を脱して、他者と自己の正しい位置関係を見極め、各々の真の姿とその価値に
目を開くようにと語っている。
 いわば、悪に免疫を持っているかのような少年オリヴァーに、悪党共を絡ま
せたこの時期の出発点の作品に対し、更に異彩を放っ悪党に加えて、主人公マ
ーティンを精神的に成長させたことは、重要である。作品の主題を徹底して
selfishで変化しようともしない悪党達とその生きざまによってと同時に、selfish
な存在からその非を悟るまでの成長を遂げる人物に反映された形で提示、展開
させるという重要な機能は、作者の新しい創作の芽であり、以後の作品群に少
なからぬ貢献をすることになるものと言えよう。


日本におけるディケンズ関係の研究書,翻訳書, なら
びにフェローシップ会員による研究書,翻訳書等(1974
 年4月より1978年3月まで)
宮崎孝一『ディケンズ論考』 1974年 三省堂
横川信義『ジャーナリズム英語』 1974年 大修館
鈴木幸夫訳編『推理小説の美学』 1974年 研究社
アーノルド・ケトル著小池滋他訳『イギリス小説序説』 1974年 研究社
ウォールター・バジョット著小池滋他訳『世界批評大系第一巻』 1974年 筑
摩書房
北川悌二訳『骨董屋』 1974年 三笠書房
北川悌二訳『ピクウィック・クラブ』 1974年 三笠書房
北川悌二訳『マーティン・チャズルウィット』 1974年 三笠書房
岡本成蹊『イギリス近代小説の形成』 1975年 桐原書店
小池滋訳『バーナビー・ラッジ』 1975年 集英社
中西敏一『チャールズ・ディケンズの英国』 1976年 開文社出版
鈴本幸夫訳編『推理小説の詩学』 1976年 研究社
ヴァージニア・ウルフ作川本静子訳『波』 1976年 みすず書房
鈴木一郎,安富良之他1名訳『古代ローマ喜劇全集第二巻』 1976年 東京大
学出版会
G・リヒトハイム著小牧治,川澄英男他3名訳『マルクスからヘーゲルヘ』 1976
年 未 来社
宮崎孝一『ディケンズ<後期の小説>』 1977年 英潮社
櫻庭信之.井上宗和共編『イギリスの歴史と文学』 1977年 大修館
櫻庭信之校注『夏目瀬石の文学評論』  1977年 講談社
『イギリス小説とその周辺--米田一彦教授退官記念--』 1977年 英宝社
田辺昌美『チャールズ・ディケンズとクリスマス』  l977年 あぽろん社
小池滋訳『エドウィン・ドルードの謎,ほか六篇』 1977年 講談社
ファクシミリ版Oliver Twist,Christmas Carol   解説湯本満寿美, 小池滋 1977
年 雄松堂
ジョージ・サンプソン著 平井正穂監修 小池滋他訳『ケンプリッジ版イギリス
文学史』第 三分冊 1977年 研究社
ヴァイスシュタイン著松村昌家訳『比較文学と文学理論』 1977年 ミネルバ
書房
鈴木一郎,安富良之他1名訳『古代ローマ喜劇全集第三巻』 1977年 東京大
学出版会
小池滋『ロンドン--ほんの百年前の物語』 1978年 中央公論杜
櫻庭信之,清水克祐共編『イギリス文学グラフィティー--文学風土と小説の流
れ』1978 年 愛育社

 (会員は1977年の名簿によりました。また,研究紀要等に掲載のものは省略
させていただきました。手もとのデータだけによりましたので記載漏れがある
と思いますがご寛怒下さいますように〕

会員名簿


ディケンズ・フェロウシップ日本支部

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