ディケンズ・フェロウシップ会報 第十号(1987年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. X

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部


ディケンズ・フェローシップ日本支部
1986年10月ー87年9月

1986年10月25日(土)午後2:00より
 総会 於成城大学
  総会 2:00より
  講演 2:30より
   講師 Professor Philip Collins
   演題 "Dickens and David, and Pip(Autobiographical Elements in David 
                   Copperfield and Great Expectations)" 及びReading

1987年6月6日(土)午後2:00より
 春期大会 於同志社大学寧静館
  研究発表 14:15ー15:15
   司会者 西條隆雄氏
   発表者及び論題
    (1)船橋麻由美氏
       「Bleak Houseにおける"語り"のパタン」
    (2)松村昌家氏
       「"びっこの悪魔"のトポスーA Christmas Carol構想の一背景」

シンポジウム 15:30ー17:30
 テーマ 「Dombey and Sonの世界」
   司会 小松原茂雄氏
   講師 (1)山本史郎氏
      (2)植木研介氏
      (3)青木健氏

表紙の絵 'The Dombey Family'

フェローシップ創立とその後  
宮崎孝一

 早稲田大学教授内山正平氏に招かれて、小池滋氏と私とが大隈会館に伺った
のは昭和44年晩秋のことだったと思う。内山氏はイギリス留学からお帰りに
なって間もない頃で、氏は滞英中ロンドンのディケンズ・フェローシップ本部
の人達と親しくなり、日本にもフェローシップの支部を作ろうという考えを持
つようになっておられたのであった。内山氏の提案を聞いて小池氏も私も立ち
どころに賛成し、具体的方策を練ることになった。その後何度か会合を重ね、
会をどういう性格のものにするか、会員をどうやって募るか等々について考え
を出し合ったのであった。
 翌45年春、私は勤め先から派遺されてイギリス留学に出かけたので、ロン
ドンに到着早々ディケンズ・ハウスを訪れて、事務主任のピラーズさんに会い、
日本支部設立の希望を述べた。そして、その数日後に行われた本部の総会で、
私に対して幾つかの質問がなされた後、会長のジョン・グリーヴズ氏によって
我々の支部創立が承認された。世界で157番目の支部ということであった。
この年(1970年)はディケンズ没後100年に当っていて、ロンドンを始
めイギリス各地で記念のための種々の催しが行われていたが、我々の支部がこ
の年に設立される回り合わせになったのは、偶然ながら幸先のよいことと思わ
れた。東京ではその後、内山氏と小池氏を中心として、多くの人々の理解と熱
意に満ちた協力によって準備が進められ、やがて秋には学士会館で発会式が挙
げられたのであった。 フェローシップ日本支部はその後順調な発展を重ねて
今日に至った。会員数を無闇に増やすことは、我々は初めから望まなかったが、
常時100名以上の、真にディケンズを愛好する人々がこの会を守り立ててく
ださっている。教職にある人々と学生とが会員の主流を成しているが、その他
にも、会社役員、著述家、ジャーナリスト、家庭主婦等、様々な方面の人達も
加わっている。将来、日本においてディケンズが現在よりも、もっと広範囲の
人々に理解されるようになれぱ、諸外国の支部に見られるように、更に多岐の
分野から会員が入ってくるようになるのではあるまいか。
 フェローシップの活動の中心をなすものは、春秋2回の大会ないし総会であ
る。その席では、会員の(特には会員以外の)研究発表やシンポジウムが毎回
行われてきたが、これがわが国のディケンズ理解に貢献した所は少なくなかっ
たと思う。また、年によっては英国から、マイケル・スレーター、フィリップ・
コリンズ、バーバラ・ハーディー等、一流のディケンズ学者を招いて講演を聞
くことができたのは幸せであった。それは、我々にとって有益であったと同時
に、彼らに、日本におけるディケンズ研究の現状を知ってもらう上でも意味が
あったと思う。
 秋の総会は東京で、春の大会は関西その他の地方でというのが、いつか仕来
りになった。各地で大会が行われる度に、その地方の会員が献身的な努力によ
って会の活気を盛り上げて下さっている。
 研究発表以外の会の活動の1つに輪読会がある。これは東京地区でも、関西
方面でも長年にわたって行われてきた。東京地区に例を取ると、最初『ボズの
スケッチ集』を、次いで『ピクウィック・ペーパーズ』を読み上げ、今度は『ニ
コラス・ニクルビー』を読むことになっている。1人で読む時は、何の気なし
に読み飛ばすような箇所も、何人かで検討すると意外に問題を含んでいること
に気づくこともあるし、その他、多くの点で、「3人寄れば文珠の知恵」とか
で、得る所の多いのを感じる。
 フェローシップの活動として、初期の頃は勉強を離れた種種の催しも行われ
た。ディケンズの時代の料理を、当時の服装をした人達にサービスしてもらっ
て試食する会とか、ィギリス人の古書蒐集家を訪ねる会とか、ディケンズを翻
訳した方々に御自身の訳の一部を読んでいただく会とか、いろいろな企画が実
施された。それが、ここ暫くは種々の理由によって余り行われなくなった。そ
れが寂しいという意見を会員の方々から聞くこともある。私も、できれば、も
っとそういう催しが欲しいと思うが、それには会員の銘々がよい知恵を持ち寄
って下さることが必要であろう。
 いずれにせよ、創設以来この集いによって、全国のディケンズを愛する人達
が交流を深め、互いに関心のある所を語り合うことができたのは、この会がも
たらした大きなメリットであろう。フェローシップ日本支部が設立されて今年
で18年になる。「鬼も18」の花盛りの年頃を迎え、会員の皆さんと共に、
この会の隆盛を祝い、今後の一層の発展を祈りたい。

ディケンズの多芸な演出
山本忠推

 先年、大谷女子大でフェロウシップの例会が開かれた時、ディケンズの実証
的な研究で有名なフィリップ・コリンズ教授の来訪を受けたが、その折に贈っ
てもらったのが、今手許にあるディケンズの「公開朗読集」で、教授が綿密に
校訂し詳細な序文と解説を附けたWorld's Classicsの一冊である。文章の達者な
ディケンズにとって、作品の朗読は欠かせない能弁な演出法であった。
 サンタ・クロースみたいに陽気なディケンズを誰よりも愛読したのは、メロ
ドラマの好きな大衆であった。作家になる前に役者に関心の強かったディケン
ズは、少年の頃から芝居じみた余興に夢中であった。同じ娯楽に目のない大衆
を、ディケンズは意のままに操る術を心得ていたが、芝居の得意な者が、芝居
の好きな見物に踊らされている形であった。   ディケンズの物語を読む楽しみ
の主なものは、話の筋のほかに、場面と人物の魅惑的な存在である。その中で
誇張されたおかしさやグロテスクな効果を咎めるどころか、むしろ直観的な真
実の発見や創造として評価するのは、新しい尖鋭な洞察である。平凡なことを
平凡に記述していてはディケンズのユニークな芸術にならない。平凡なものの
怪奇さとロマンティシズムにおどろくのがディケンズの詩的な魅力と称しても
過言ではない。
 ディケンズはこれを舞台だけでなく、書かれた頁の中でも演じて見せた。デ
ィケンズの特有な魔力はこういう芸術的な矛盾性に存する。それは実在そのも
のの謎であって、近代的な理性に否定されることは言うまでもないが、ジョー
ジ・エリオットやへンリー・ジェイムズの如き知的に洗棟されたシリアスな作
家を読むつもりでいると、見当の狂うことが多いのは当然だ。
 想像力に富む詩人と狂人を比べたのはシェイクスピアだが役者もまたその点
では幼児に類する。ディケンズも幼い頃から天成の役者であって、長じてから
も、雀百まで踊りを忘れなかった。素人劇に主役を演ずるだけではない。著名
な知友を集めた朗読会でも、自作を巧みに演出して見せた。こういう天才的な
芸当が、客寄せを狙った余興ではなく、小説そのものの文脈や場面に躍動して
いることは、良かれ悪しかれ、ディケンズの作品を読む者の忘れ得ない印象で
ある。そのきびきびしたリズムは、朗読に際して、テクストそのものを微妙に
改変したほどだ。
 これを鮮かに伝えるのが、このたび刊行された「公開朗読集」で、各地の舞
台でディケンズの独演した台本を内容にしている。この特異な自作の演出は、
晩年の暗い小説とは創作の次元を異にし、本来の作者の自然な好ましい姿を演
出して、作者をも聴衆をも文句なく熱狂させた。その挙句、舞台の鬼に取り悪
かれた老作家の凄い独演は、精力的な通俗作家の命を絶つ主な一因となった。

老人にもディケンズ
内山正平

 本誌も第10号になります由、御同慶にたえません。10年と云えば一昔の
単位になる、相当の年月であり、その間の各号が夫々に異った興味を與えるよ
う編集されており、御担当の諸賢の御努力に感謝していました。
 本誌は歳を重ねる毎によくなってきたわけですが、老人はいけません。私の
この10年間の気力、体力の衰えにはたゞ自ら嘆くのみです。
 70才を過ぎ、残された日時を数えるようになりました時、私は、以后は楽
しい、と思うことだけを追って行こう、と心にきめましたが、忽ち私に悩みが
生じました。ディケンズをどうしようか、でした。ディケンズとつきあうのは
勿論楽しみでしたが、辞書に頼らずには読めず、大きな苦しみがいつも附きま
とっていたからです。
 暫く悩んでいましたが、解決策を考え出しました。学究者としてディケンズ
作品に対するのではなく、大衆の1人として彼を崇めることにしよう、でした。
それからは、ひたすらディケンズを楽しんでいます。
 少々高級ではありますが、ピカレスク調ゆたかな彼の物語を、逆らわずにそ
のまゝ筋を追います。生来、目出度し目出度しで終るものが先ず好きです。絵
解き物語と知りつゝ、彼の筆の魔術に浸って満足する日もあります。ユーモア
を超えてダジャレになっている部分も拍手喝采して受け入れます。
 おセンチな私は、涙を流させてくれる作品を好んで読みます。ですから、彼
の全作品の中で私はクリスマス・ストーリーズに含まれている20の短篇が最
も好きです。(この1巻は私の唯一の翻訳書にしたい、と念じています。)
 こう考えますと、今の私はディケンズの在世中、彼が作品を発表する度に熱
狂して迎え、ベストセラー物にした大衆と全く同列に置かれる彼のフアンであ
るかも知れません。

『エドウィン・ドルード』のミュージカル化
小池滋

 既にご存知の方も多いかと恩うが、1985年の夏、ニューョークのセント
ラル・パーク内の野外劇場で、『エドウィン・ドルード』をミュージカルにし
たものが上演され、大評判を呼んだ。もともとここは夏体みの行事にシェイク
スピア劇の無料公演などをやっていたところなのだから、シェィクスピアと並
ぶディケンズの上演をやるのは、むしろ当然かもしれないが、変っているのは
未完のミステリーをネタに選んだことであり、もっと変っているのは、その結
末のつけ方であった。
 これまで、謎の解決についてさまざまな人が、さまざまな説を提示している
ことは周知の通りだが、この度の上演では、さらにまたひとつ新しい結末を考
案するのではなく、まさに前代未聞の革命的アィデアを披露した。つまり、犯
人をいく人か、謎の解決をいくつか用意しておいて、その日その日の観客の投
票によって結末を決めようというのである。だから、日によって結末が違うの
だ。一度見たから、またレコードやテープで聞いたからといって、それで安心
してはいられない。他にも異ったヴァージョンがいくつかあるし、それがいつ
の晩に披露されるのか、出演者自身にすらわかっていないのだから。
 前衛芸術でよく即興性とか、オープン・エンディングとか言われるが、ミュ
ージカル『エドウィン・ドルード』はまさにそれを究極にまで押し進めたとい
ってよい。ジョン・ファウルズの『フランス軍中尉の女』も真蒼というものだ。
 この新機軸の生みの親はルパート・ホームズ、演出はウィルフォード・リー
チ、音楽監督はマイケル・スタロビンとエドワード・ストローズ。面白いのは
配役リストのトップに「ユア・チェアマン」というのがあり、これが観客と舞
台の仲介をつとめる。エドウィン・ドルード役を女優がつとめるところも面白
い。
 この無料夏期公演がバカ当りしたために、本格的な劇場での上演が実現して、
これまた大当りとなった。ニューョークでご覧になった方もいるのではないか
と思う。私も見たいのだが、ここ数年外国へ行けそうにないので、日本へ来て
くれないかと願っている次第である。
 ミュージカル『オリヴァー!』、ロイヤル・シェイクスピア劇団の『ニコラ
ス・ニクルビー」など、このところディケンズが板に乗って大当りするケース
が続々と出ている。芝居好きのディケンズは地下で涙を流して喜んているので
はあるまいか。

ディケンズのセンチメンタリズム
鈴木健三

 ぽくが育ったころは人道主義者ディケンズというのがディケンズのイメージ
で、それに、今詳しく調べている暇がないけれど、ドストエフスキーの作品に
よくディケンズのことが出てきて、それもやはり人道主義者ディケンズという
イメージだったような気がする。ところが、そんなディケンズ像に拘泥するの
は若い頃は流石に気恥かしく余り他人さまにいえなかったし、(だから?ぼく
の友人て大ディケンジァンのK氏なども、そういったディケンズに正面切って
ふれられたことがないような気がするが、こう思うのはこちらの無知蒙昧のせ
いかも知れない……)例えばデイヴィッド・カッパーフィールドのイメジャリ
ーのすごさ、人間の名前のつけ方のたのしさ、冒頭の主人公の生れ方のおかし
さを語ることの方がずっとスマートのような気がしていた。(因みにこの生れ
方やスターンのシャンディの生れ方やゲーテの自伝におけるゲーテ大先生の生
れ方などを比較すると「生れ方について」という『ビギニング』という本とか
『センス・オブ・エンディング』という本みたいなものができそうな気もする
が、これは私のような無学な者には到底無理である。)
 しかし、今差し当っては、ディケンズの人道主義がどんなものか、そのセン
チメンタリズムがどういうものなのか、これが例えば日本の苦労人たちのすさ
まじいエゴイズムを含めた計算されたセンチメンタリズムとどう違うのか、違
わないのかといったことをきちんと調べる余裕はないし、これがオーウェルの
とりあげる〈手段と目的〉論的な世界でのディケンズ、社会がよくならなけれ
ば人間はよくならないけれど、人間がよくならなければ社会はよくならないと
主張するディケンズ像とどう結ぴつくかもまだよくわからないのだけれど、し
かしディケンズのセンチメンタリズムといわれるもの、いわゆる19世紀的<
偽善的>人道主義が、現在の自分たちの生き方とそう無関係なのかどうかは少
し考えてもいいような気がする。そして私のようなだらしのない人間は世界状
勢がきびしくなればなる程、教師などとは無縁なそういった現実に生きている
実践家たちを尊敬しながら、自分の生き方はほんとうはとても19世紀的な<
偽善的>人道主義から離れられないこと、自分はとても戦国の雄ではなく、ヴ
ィクトリアニズムの波をかぶったままの人間のことがよくわかってしまうので、
尚さらこの点について考えてみたくなる。なにしろこの年齢になると苦労人の
代議士さんとか狸校長さんと同じようにこういった<欺瞞的>な価値がとても
大切に思えて、この点からディケンズをもう一度読み直して、その人道主養や
センチメンタリズムの関聯や構造を調べて再評価したいと思っているが、生来
怠惰の人間だから、これがいつになったらやれるのか今のところ見当もつかな
い。

He doesn' t work here
北條文緒

 半年はど前の『タイム』誌に、アメリカの店員のサーヴィスの悪さについて
の特集記事があって、それについている漫画がどれもおかしかった。本屋で「デ
ィケンズはどこでしようか?」(Where can I find Dickens?)と聞いているお客に、
本屋の店員が「ここにはいませんよ」(He doesn't work here.)と答えているのが
そのなかにあった。
 この場合、やはりディケンズがぴったりである。本屋の店員をしても場違い
ではない階級の人であったし、語呂もいい。Where can I find Bulwer-Lyton?などと
聞かれれば、いくら無知な店員でも考えるのではないだろうか。ついでに言う
と、その記事とは無関係だが、"Do you know Keats?" "No.  What are they?"という
ジョークは、ディケンズに転用できそうではあるものの、やはりキーツがさま
になる。
 「ここにはいませんよ」という答えは、聞きようによっては「よそに行きま
したよ」という風にも取れる。出発した地点からはるかに遠くまで行った作家
には、この移転のイメージも似つかわしい。最近ディケンズには背を向けて、
むしろ彼などは女性の大敵と思う立場から、世紀末のいわゆるニュ−・ウーマ
ン・フィクションなどを辿っているのだが、一見ラディカルな外見を持つ世紀
末の小説を一皮むくと、どこかで見たような場面、どこかで聞いたような話が
現れてきて、そのプロトタィプが非常にしばしばディケンズの小説のなかにあ
ることに気づいて驚く。「あなたたち、まだここにいるの?」という感じなの
である。
 だからディケンズは偉大だ、と言えばそれまでだが、シャッポを脱ぐばかり
が能ではないという気もする。彼のように才能に物を言わせて、その時代を広
く鋭くエネルギッシュに表現した作家がいる一方で、ささやかに、もたもたと
しか表現できなかった作家たちもいる。ささやかで、もたもたとした研究者に
はその方が格好の対象なのかもしれないと思うし、もしかすると大作家ディケ
ンズが見落した落ち穂を集めることもできようか、というものである。

ディヴィッドとユライア
藤田昭夫

 ディケンズは悩み抜いた挙句、やっと主人公の名前をデイヴィッド・コパフ
ィールドと定めて、ユライア・ヒープと対置させた途端に、その意想外の重い
意味に気付いたに違いない。何といってもこれはダビデとウリヤに直結する名
前だからである。私はこの十年余りこの事が気にかかっていたのだが、最近作
品を読み返しているうちに、多少の思い付きを得たので、以下少しそれについ
て述べてみたい。
 結論的にいえぱ、私にはダビデとウリヤの故事を踏まえて、ディケンズがデ
イヴィッドとユライアを設定したようには思えないという事である。つまり、
冒頭でも触れたように、主人公の名前を苦労してディヴィッドと定着させた事
から生した偶然の展開だと思われるのである。だが、たとえそうであったとし
ても、ユライア・ヒープという名前を変更する気持は毛頭無かったに相違ない。
理由は簡単、この名前は不思議な程、この爬虫類を思わせる執拗で冷酷な人物
にマッチしているからである。
 とはいっても、放置するにしては事が重大すぎた。素朴な武人ウリヤが似て
も似つかない悪役に仕立てられている上に、ダビデ即デイヴィッドという名前
には何といっても、ウリヤを策を弄して敵の手で殺害させた悪虐非道のイメー
ジが、抜き難く付きまとって離れないからである。特にディケンズは「私の最
愛の息子」と呼んで終生強い情愛を寄せたおのが分身デイヴィッドに、このよ
うな暗く罪深いイメージがユライアなる名称と並置しただけで付きまとって離
れないのには、強い衝撃を受けた事であろう。と同時に、デイヴィッドをかく
の如き汚名から切り離して守り抜くために、全力を挙げようと決心した事と思
われる。そうでないと導きの天使アグネスまでもがその煽りを受けて、バテシ
バと結びつけられるという、何としても避けたい事態を惹起してしまうからで
ある。
 そこでディケンズの講じた方策は、ユライアに母親、デイヴィッドに大伯母
というそれぞれの個性、役割を強力に補強する保護者を配置し、それに加えて、
デイヴィッドを先ずトロトウッドと改名し(第14章)、その直後にユライア
を登場させる(第15章)、という事であった。これによってきわどくダビデ
とウリヤとにつながる回路を断ち切った後、アグネスを積極的に活用して、デ
イヴィッドを徹底してトロトウッドと呼ばせる場面を積み重ねる事を通して、
その仕上げを図るという手の込んだ戦法をとったのである。パテシバと関係付
けられやすい危険をそうする事で防止しただけではなく、善導者たる彼女の活
躍で、デイヴィッドならぬトロトウッドを汚れなき名前としてクローズアップ
させ印象付ける、という一石二鳥の効果を狙った巧妙かつ周到な作戦に、ディ
ケンズは打って出たように思われてならないのである。
 以上述べてきた事がいささかでも正鵠を得ている事があれば、望外の仕合わ
せというものである。

窓に縁どられた空と海
亀井規子

 「9月の明るい朝、本や新聞にかこまれて海岸に突き出た崖の上の窓辺に坐っ
ていると、空と海が額に入った美しい絵のようにみえる。美しい絵とはいえ、
すばらしい動きがある、船の帆や蒸気船の航跡を照らす光のすぱらしい変化、
沖合はるかにはまぶしい銀のきらめき……」これは「ロンドンを離れて」('Out 
of Town', 1855)の書き出しの文である。ディケンズのように精力的に、という
か落ち着きなくというか方々歩き廻った人の足跡をたどるのは大変なことだが、
こういう名文にふれると、やはり自分の目でもその風景を見てきたいという気
持になってしまう。この作品ではパヴィリオンストンという名があたえられて
いるが、実はドーヴァーの西にあるフォークストンのことである。
 ディケンズは、フランスヘの行き帰りに立ち寄る他に、この町のアルビオン・
ヴィラズ3番地で、1855年夏から秋にかけて滞在し、「ロンドンを離れて」
と『リトル・ドリット』の初めの部分を書いている。ロンドンはチャリング・
クロスから1時間半でフォークストン・セントラルに看く。チェリトン通りを
港の方へ向って南東に進み、チェリトン・ガーデンズ、ブーヴェリ・ウェスト
を通って、リーズ通りに交差するところ、東側にアルピオン・ヴィラズがある。
リーズ通りは海面より60メートルほど上を海岸沿いに走っている遊歩道で、こ
の東端にアルビオン・ヴィラズがあるのだ。海が一望の下に見える。海に面し
た書斉というと、ブロードステァズのブリーク・ハウスを思いだすが、そうい
うディケンズ好みというものがあるように思える。アルビオン・ヴィラズの東
側に、セント・メアリ・アンド・セント・エンスウィス教会がある。13世紀か
ら15世紀の建物というが、あたりの明るさに陰影をつけるかのように、ひっそ
りと静まりかえっている。 フォークストンで忘れられないのは、ここでひら
かれた公開朗読会のことである。1855年9月16日のフォースタ−宛の手
紙で、10月5日に朗読会をすると伝えている。ディケンズはそれまでに数回
朗読会をひらいている。1853年12月はバーミンガムで、翌年12月には
ブラッドフォードとレディングでひらいている。だがそれらはクリスマスのつ
どいのアトラクションの要素が強かったように思える。純粋な意味での朗読会
はフォークストンがはじめてといってもよいのではないだろうか。この町で一
番大勢の人が入れるところというので、大工の仕事場が会場になり、ストール
席5シリングであったが、ディケンズの要望で労働者のために3ぺンスの席が
しつらえられたという。ディケンズはごく普通の聴衆が笑ったり泣いたりする
直接的な反応にふれる喜びを味わいたかったのである。収益はそれまでの朗読
会同様、公共の資金にくみ入れられたが、この頃から次第に自分の収入のため
の朗読会を考えるようになってきた。実際に、職業としての朗読会をひらくの
は3年後であるが、これは心身共にディケンズを消耗させてゆくことになる。
 私はリーズ通りにおいてあるベンチに腰を下ろし、きらめく空と海を見つめ
た。窓枠はなくとも美しい絵のようであった。背後にひかえているアルビオン・
プィラズ3番地の明るい窓と、隣接している薄暗い教会を意識しつつ、熱狂す
る聴衆とそれにこたえるディケンズに思いをはせた。

『ピクウィック・ペイパーズ』の注釈
中西敏一

 東京地区で行なっている読書会のメンバーの中から、『ピクウィック読本』
なるものを作ろうという声が上がり、8篇の解説的論文と、作品全体の注を収
めようということに話がまとまった。この会報が発行されるときにはその本は
できあがっていることと思うが、亀井規子氏、青木健氏、そして私と、3人の
編者が注を全面的に見直したとき、初めてわかったこと、間違って解釈してい
たのに気がついたこと、忘れていたのを楽しく思い出したこと、あるいは、さ
し絵に助けられたこと等々が幾つもあった。ここでそれらの2、3について記
してみることにする。
 33章の禁酒同盟支部の集まりで、禁酒を誓った人々の事例報告書が読み上げ
られるが、第1の事例の入物名はH. Walker、第2の事例の人物名はBetsy Martin, 
widow, one child, one eyeである。第2の名前は"All my eye and Betty(スペリング
は違っている)Martin"すなわち"Nonsense"をもじったのではないかと思う。話は
脱線するがAgatha Christieの"Strange Jest"という短篇に、金持ちの老入が死ぬ前
に右の目を軽ぐ叩いてウィンクをし、かつBetty Martinという署名の手紙を遺品
として残しているという話が描かれ、それが謎解きのヒントとなっている。話
が横道にそれたが、第一の事例の人物H. WalkerもBetsy Martinと同類だという
ことには、初校が終わった段階まで気がつかなかった。実はWalker(=Hook(e)y 
Walker −でたらめを言うインチキ男の意味)は、27章の'Mr Weller occasionally 
interrupted by half-surprised references to a gentleman of the name of Walker'(ただしこ
こでのWalkerはStiggins)の中ですでに出ていたし、後の45章にも'Saint Simon 
Without, and Saint Walker Within'とあるのにである。なお27章の文について、英
国人による注の1つに、'This is a "delicate" suggestion to Mr. Stiggins that it is time he 
"walked" away.'という見当違いと思えるものがある。39章の'moistening his 
clay. . .With a glass of claret'でも、同じ人がclay=clay-pipeと注をつけていて、我々
はそれに惑わされたのであった。もちろんここのclayは'human body'で、創世紀
2節7章の'And the Lord God formed man of the dust of the ground'からの戯言であ
る。
 22章のPeter Magnus(P.M.)の言葉、'I sometimes sign myself "Afternoon."'の
Afternoonが'After Thomas Noon Talfourd'(1833年に上級法廷弁護士の人名録
が作られたときTalfourdの名は最後であったので、以後その名簿に加わった上級
法廷弁護士はAfternoon)であることは思い出して楽しい。またT.J. Bradleyとい
う人の、さし絵が入ったり、多くは肉筆のままを印刷したノートによると、フ
リート監獄の'the Fair'(=Bartholomew Fair)(41章)の部屋代は、'master's side'の
半額、つまり週1シリング3ペンスということである。他にそのように説明さ
れたものは私には見当らなく、貴重な資料だと思う。
 さし絵というものは非常に役に立つ。Bradleyのノートにある上の絵は、17
92年にChappeという人が発明した、'Telegraphe'である。31章、'Mr Perker. . . 
Shrugged his shoulders'の2行ほど下に'this telegraphic answer'とあるが(ペンギン
版p. 513。オックスフォード版p. 427)、BradleyはPerkerのanswerを、絵の
形のように'shrug'と説明している。さし絵があって初めて理解できる箇所の1つ
と言えよう。

ディケンズ・クイズ
白田昭

 下の図版の中に、ディケンズの小説の16人の女主人公の名が隠されているそ
うです。左からでも、右からでも、上からでも、下からでも、はたまた斜めに
でも、ともかく一直線に並んでいて、同じ文字を何度か使う場合もあるという
ことです。一度おためし下さい。さらに興味のおもちの方のために原典を紹介
しておきます。
Maggie Lane; The Charles Dickens Quiz and Puzzle Book, Abs on Books, Bristol, 1986, 
£2.50

JDNIRGDARGASIUOL
MAAMADELINEBRAYN
ANMGEAUSLANJBBOA
HrYENNSENGDEESNE
SLDAUESTDELLRNSW
IUOFAMSUILKEAMLO 
VCRYTHBWACMDAROL
AIRUGAHWIMAHFIVN
HEIGSEINUCAENERE
AMTOALESLRKTIONP
LARSFTRAGPUFBLIS
LNSEAERYHEDBIYRA
EERKHEROBEHALERR
TTQTMAXEHEIZZILO
STSEMNEDRAVYLLOD
EEYEBMODECNEROLF
春期大会
西條隆雄

 6月6日、大会当日はすさまじく署い日であった。心も足も、会場とは別の
方向へむかおうとするのを、おさえかねた方もあったのではないかと思わせる
ほどの暑さであった。幸い、会場には冷房が入り、しかも比叡山、相国寺の景
観をみわたす好位置にあって、これが大会の印象を何より好ましいものにした
ようである。更に会場には、本学の蔵する雑誌の中から、ディケンズの死亡記
事をのせたものを中心とじて、『アセニアム』『イラストレイティド・ロンド
ン・ニューズ』など約10点ばかりを展示し、みていただいた。
 私が司会することになった研究発表は、発表者2人の研究方法が対照的であ
ったがゆえに、ことさら興味が深かった。船橋氏は、完成した文学作品を対象
として、そのテーマと構造を追求するのに対し、松村氏は、作品の背景にある、
当時の文学的トポスとでもいおうか、民間に流布する同じ素材の文芸作品を渉
猟し、そうしたものとディケンズの作品との間にどれほどの開きがあるかを説
いた。緻密な作品研究が私達には不可欠の課題であることはいうまでもない。
しかしここでは、松村氏がディケンズ研究の広範な可能性の一端を、強烈に示
唆されたことを一言特記したい。
 冷房の効能が疑わしくなったのではないかと思わせるはどの、熱気あふれる
シンポジウムが終ったのは、6時もだいぶまわった頃であった。懇親会は、京
料理の「畑かく」で会席膳を組んだ。会員同志、互いにお酒をくみ交わしなが
ら、まさに「フェローシップ」の名にふさわしい親睦をふかめることができた
ことは、何よりであった。大学長の要職にあって、どうしても都合のつかなか
った宮崎支部長をはじめ、山本忠雄、内山、近藤、川本、野中の諸先生方は、
大会に参加できないことを残念に思っている由、ご連絡いただいた。また、湯
木満寿美氏からは、『ディケンズのシンボル』(訳書)をご寄贈いただき、6
0名の参加者の手に渡ったことを、感謝をこめてここに記したい。

"The lame demon"のトポスー『クリスマス・キャロル』構想の一背景
松村昌家

 「ドンビー父子』第47章に"Oh for a good spirit who would take the house-tops 
off, with a more potent and benignant hand than the lame demon in the tale. . . "という
インヴォケイションが出てくる。ここに言われている「物語の中のびっこの悪
魔」とは、ディケンズとなじみの深いフランスの作家ル・サージュの"Le diable 
boiteux" にほかならない。この悪魔の本当の名はアスモデ。
 アスモデは、彼を救い出してくれたドン・クレオファスをつれて自在に宙を
飛び、マドリードの町じゅうの家いえの屋根を取り払って、中のさまざまな出
来事や人びとの秘密を、眼下に繰りひろげて見せるのてある。これで右の『ド
ンビー父子』の文意は明らかになるわけだが、これに続く文によれぱ、ディケ
ンズはアスモデのような力強い手を借りて、「無視、無関心が原因となって〔イ
ギリスの社会に〕生じた暗い影を一夜だけでも」人びとの目に触れさせたいと
願っている。そうなれば「何と明るく幸せな」朝を迎えることができることで
あろうか、と彼は述べているのである。クリスマスの朝、「でっかい上等の七
面鳥」を買いに、通りがかりの少年を走らすスクルージの爽快な気分は、まさ
にディケンズのこの念願を代表する。その前夜にスクルージを導いて、さまざ
まな「暗い影」を彼の眼前に呈示してみせた過去、現在、未来のクリスマスの
幽霊は、いうまてもなくアスモデの代役を果たしたのである。
 ディケンズとル・サージュとの関係といえば、まずは『ジル・ブラース』が
思い浮かぶのだが、『骨董屋」(第33章)『アメリカ覚書き』(第6章)、
『ハウスホールド・ワーズ』(第164号)等におけるアスモデへの言及を見
逃すわけにはいかない。そしてその背景として、19世紀における都市生活が
新奇な現象として関心を呼び、都市杜会の裏面に関する興味が深まるにつれて、
アスモデ・ブームが起こったことを想起しておかなけれぱならない。都市社会
の謎が深まれぱ深まるはど、上空から都市を府敵し、できれば家いえの屋根を
取り払って、内部の実相を見たいという好奇心が高まり、アスモデの魔力が喚
起されるようになったのである。そしてそれは"The lame demon" のトポスとして
の流行を呼んだ。ディケンズはこのトポスを彼の想像力と道徳的感情の中に完
全に融かし込んで、天衣無縫のファンタジーの世界を創り出したのである。

Bleak Houseにおける"語り"のパターン
船橋麻由美

 『荒涼館」のエスタ・サマソンの物語を彼女の生い立ちの記として捉えると、
彼女の語りは成功物語のパタンを成していることがわかる。孤児として厳しく
育てられた淋しい幼年時代、ガヴァネスとなるべく教育を受けていた少女時代
を経て荒涼館へ赴く。ジャーンディス氏の被後見人エイダ・クレアの話し合い
手になるよう招かれたのだ。そしてエスタは、荒涼館の家政一切をとりしきる
ようになる。その後病気で顔が変わり果てるという苦難を経験するが、ついに
は愛するアラン・ウッドコートと結婚し幸福な家庭生活を築きあげるのである。
恵まれた環境で育ったとはいえないエスタが、欠けるところのない幸福を手に
入れたのである。男女の違いはあれ、デイヴィッド・コパーフィールドの成功
物語と同様のパタンといえるのだ。
 『荒涼館』には、成功者と呼ぶことのできる男性は不在である。リチャード・
カーストンは、デイヴィッドのように、成功物語にふさわしい境遇だったが、
身を立てるどころか皮肉なことにジャーンディス対ジャーンディス訴訟に夢中
になり、若くして世を去る。彼には、成功者となる際に不可欠な要素である「勤
勉」や「倹約」あるいは「忍耐」が欠けていたのだ。一方、エスタには従来は
男性に備わっているはずのこれらの特性を見出すことができるのである。彼女
は控えめではあるが、気丈な行動力を持っている。常に受身一方であったわけ
ではないのだ。男性ほど奔放であるわけにはいかないが、限られた空間で彼女
は努力によって、当時女性として最高の幸福である満ち足りた結婚生活を送る
ことができたのだ。このようにエスタは、成功物語の女性版の典型ともいえる
物語を構成しているのである。
 しかしこの女性による成功物語は、偶然生み出されたものである。大法官裁
判所を巡る世界を舞台にしているからこそ、この男女の立場の逆転劇は起こっ
たのだ。霧と泥に象徴させる法の世界は、ひと度足を踏み入れると抜け出すこ
とができない。もがけばもがくほど、破滅へ進んでいくのである。そこでは通
常の主人公たちのがむしゃらな生き方は通用しないのだ。女性てあるエスタの
ように流れに任せるような生き方しかできないのである。
 エスタは『荒涼館』の語り手として物語の展開にひと役かっているだけでは
ない。彼女の生き方そのものが、作品の描き出す世界で成功し幸福であるため
にはどうすれば良いのかを具体的に表わしているのである。

春期大会におけるシンポジウム司会者の弁
小松原 茂雄
 
 今回は「『ドンビー・アンド・サン』の世界」というテーマで、山本史郎、
植木研介、青木健の3氏に講師を御願いした。それぞれの角度から、大変熱の
こもった御発表をしていただき、この小説の汲めども尽きぬ面白さを充分に味
わうことができた。御三方の御発表の内容については、各氏より寄せられた次
の要約をご覧いただきたい。

ドンビー氏とカトル船長ー『ドンビー父子商会』における2つの世界
山本史郎

 『ドンビー父子商会』の最後の章で、ドンビー氏とカトル船長が同じテーブ
ルについてワインを酌み交わすという場面がある。この光景が説得性に欠ける
と云う評価が、何人かの人によってなされているが、こうした印象が何に由来
するかという疑問が、私の発表の出発点である。そもそも、この作品の世界は
大雑把に言って2つの価値体系が対称比較されている世界であるといえる。ド
ンビー氏が代表するのは我々が日ごろ慣れ親しんでいるいわゆる「現実」世界
に近く(その先駆けであり)、計算計量が重視される世界である。それとは対
照的に、ソロモン・ギルズ、カトル船長らが表しているのは人間的感情が重ん
じられる世界である。小説の「アクション」を素直に追っていくかぎり、ドン
ビー氏とカトル船長の友情は2つの対立する世界観の融合和解を象徴すること
になり、ここに違和感を感じるのは筋違いに見える。しかし2人の代表的な人
物の描かれ方を検討してみると、話がそれ程簡単ではなくなる。
 ドンビー氏という人物の造形を特微づけているのは、その微妙な心理描写で
ある。そしてこれは後の心理的リアリズム小説に通じていくものであると云え
る。此れに対して、カトル船長のほうは一言でいってお伽噺的なイメージで造
形されていることが明らかである。両者は謂わば、所属すべき物語が異なって
いるのである。このように考えると冒頭の疑問が氷解するのであるが、ここま
でくると1つのパラドックスが生じているのに気づく。
 ドンビー氏は最後になって自分の非を悟り改心するのであるが、この「変化」
はドンビー氏という人物の現実性を高めている。19世紀以来の「リアリズム
小説」的感性で育てられた我々読者は、様々な経験を経て自分を変えることの
出来る人物こそ小説の主人公にふさわしいと感じるよう条件付けられているの
てある。このことを踏まえて逆の角度からドンビー氏の「変化」を眺めると、
この主人公は改心することにより小説をよりリアルなものにし、そうすること
によって、お伽噺からの距離をより大きくしていると云えることになる。ここ
にパラドックスが成立しているという訳だ。何故なら、ドンビー氏の変化は2
つの世界を「和解融合」しながら且つ同時に引き裂いているのであるから。
 以上のような考察を経ることにより、『ドンビー父子商会』の世界には、よ
く言われる「ブライド」対「ハート」の対照とは別に、「変化」と「非変化」
の対立関係が存在することが見えてくるのである。そしてこれらがドンビー氏
的世界とカトル船長的世界のそれぞれライトモチーフである、「鉄道」と「海」
の象徴的意味によっていかに裏付けられているかということを、私は自分の発
表の最後に論じた。

"When found, make a note of."
植木研介
 
 カトル船長の言語行動における特徴は、一つは海事用語の使用であり今一つ
は引用癖である。航海用語の便用は、彼の経歴を物語ると同時に作品に充満す
る海のイメージと重なりあっている。この点からも彼の存在が作品の主題とか
かわる側面が窺われるのであるが、従来滑稽な人物の側面からのみ考察されて
きた彼の引用癖も実は重要な意義を帯びているのだ。
 分析の詳細は別稿に譲るが、彼の引用を一つ一つ検討し、その原典を辿って
みるなら、彼はまともに原典を引用することはほとんど無く、また彼が口にす
る原典なるものも、正確なものは2つだけである。しかし、注目すべきは、彼
は状況に対して適切な発言をしている点であって、誤った引用でありながら極
めて創造的な誤り方をしていると言ってよい。彼の口にする原典が誤りだと認
識し始めた読者は、引用された原典名の権威に依りかかるのではなく、発言の
内容そのものに注目しなければならないのである。結論的に言えば、彼の誤引
用は、自由と創造性を育む力としての想像力から生れるのであって、生徒の想
像力を抑圧し人間を硬直化させる強制装置の役割を担うブリンバー博士の学校
の教育と対せき点にある。さらに彼が引用の原典とした源を探っていくなら、
カトル船長の身近に存在した、海の歌・聖書・諺等にその源があり、内容的に
は人生の危険・冒険・勇気と倫理的・道徳的人生訓から主として成り立ってい
る。ここにも、ブリンバー博士の部屋にある視力の無いホーマーとミネルヴァ
の胸像に象徴される、生命力を失ったギリシャ・ラテンの古典を中心とする教
育に対して身近な現実教育の主張が、ディケンズのこの原典の選択の中に表れ
ていると言えよう。そうしたカトル船長の教育の真髄を伝える言葉が"When 
found, make a note of."の逆説的名言なのである。「逆説的」と言うのはメモを取
る必要があるのは彼自身なのだから。
 一方彼の実践する教育は、S・スマイルズが『自助』の中で主張しているもの
と軌を一にしている。しかし、カトル船長はその徳目の理想的体現者ではあり
得ない。ミコーバーは最初からスマイルズの徳目を超越・無視した所で生きて
いるが、カトル船長は、その徳目を実践しつつも、それのパロディー化とさえ
受けとられかねない生き方をしているのである。奇妙であるが卓越した生命力
を持った人物となりえていると言ってよい。以上のごとく見てゆくならカトル
船長の魅力と、作品の主題と深く拘わる主張が、彼の言語活動、特にその引用
癖からも知られるのである。
〔論考の詳細は、資料篇を「広島大学文学部紀要」(第47巻)に、考察を「英
語英文学研究」(第32巻・広島大学英文学会)に所載の予定。〕

『ドンビー・アンド・サン』の世界時間モチーフを中心に
青木健

 この作品は、ディケンズがプロ意識を持って念入りな構想のもとに書きあげ
た最初の小説と言われるだけに、主題―モチーフーイメージそれぞれの関係は、
それ以前の作品に比べて一段と密接なつながりと統一をもっている。
 とくに鉄道や川・海のイメージを導入して、「進歩の観念」と「永遠の観念」
を対比させることで、人間の営為の卑小さを浮き彫りにしている。その意味で、
この作品全体にくり返し現われるシンボルやイメージを統一し、それらを有機
的に結びつけているのは時聞モチーフと考えられる。ドンビーの「エゴイズム」
の世界も一貫して時間観念との関係の中でとらえることができるし、対立する
世界ーフローレンスやキャプテン・カトルたちの世界もまた時間モチーフに彩
られている。
 「破壊と死」の強烈なィメージを帯びた鉄道、自然な時の流れに逆らうブリ
ンバー博士のアカデミーはいずれも極端に直線的な時間の流れによって暗示さ
れる機械的な非人間性を表わすとともに、プロットや人物描写でもドンビーの
世界と有機的に関連している。このドンビーの世界の影響を強く受ける様々な
人物たちの生き方も、時間と深いかかわりを見せている。時の流れに不自然な
抵抗を見せるスキュートン夫人、オブセッションとなった過去から解放されな
いイーディスやブラウン親子など、多くの人物たちはいわば時間との間に自然
な調和を保てなくなっている。
 一方、川・海のイメージは「永遠に向かう時の流れ」、「死と再生」、「子
宮回帰」などの原型ィメージをもち、ポールと喪き母、さらに彼らとフローレ
ンスを超時的世界の中で結びつける。彼らがくり返す抱擁は、一体性と統合性
を表わす原型イメージとしての球体の形をとり、永遠の合一と統合を暗示して
いる。とくに最終章で描かれる浜辺のシーンでは、過去・現在・未来のレプリ
カが一堂に会し、永遠にくり返される海の干満のイメージと重なり合って、過
去・現在・未来の調和と融合が美しく達成される。
 このように、この作品では時間モチーフを中心に、関連する様々なイメージ・
シンボル・メタファーが主題を浮き彫りにして、人間のエゴイズムの卑小さを
強調するとともに、人間愛が自然の永遠のサイクルに秘められた謎に満ちたリ
ズムを分かち合うための手段であることを明らかにしようとする。ディケンズ
は、きわめて杜会性の濃い題材ーコマーシャリズムや教育問題ーを扱いながら、
時間という抽象的な観念を導入することによって、精妙な比較対照の中で物語
世界を豊かに、そして芸術性の香り高いものにしたと言える。

フィリップ・コリンズ  ディケンズとディヴィッドとピップ
『デイブィッド・コパフィールド』と『大いなる遣産』における自伝的要索
野畑多恵子・記

 数年前出版された日英両国の学者によるDickens, Our Mutual Friendという論文
集に、私は"Dickens, the Man Behind the Books"という論文を寄稿し、ディケンズ
その人(即ち彼の生い立ち、経歴、性格等々)と彼の作品とが深い関係を持つ
ことを指摘した。しかし彼が最初に自伝的な要素を大きく小説に取り入れた作
品『デイヴィッド・コパフィールド』を書いたのは、小説家としてのキャリア
のちょうど真ん中にさしかかった時だった。本日は、この作品、及び10年後
に書かれ、同じく自伝的要素を持つと考えられるもう1つの作品『大いなる遺
産』とに、彼の生涯に関する事実や彼が書いた自伝の断章を交えて、検討して
みることにする。
 『デイヴィッド・コパフィールド』は一人称を用いて書かれ、また主人公と
作者の経歴に似た点があることや、この作品に抱く特別の思いを作者が所々で
吐露していることなどから、主人公と作者を同一視する見方が早くからあった。
さらに作者の死後フォースターの『ディケンズ伝』が出版されて以来広く知ら
れているように、この作品の11章、マードストン・グリンビー商会における
挿話は、先年書いた自伝断章から、靴墨工場で働らかされた頃の回想の部分を
忠実に写しかえたものだった。だが、自伝的な事実と虚構の部分を違和感ない
ように小説に織り込むのは、小説家にとってなかなか困難なことである。しか
しディケンズは『コパフィールド』の11章で「虚実を見事に織り交ぜた」と
自負していた。彼は、自分の両親の姿を、デイヴィッドの肉親ではなくミコー
ヴァー夫妻に投影したり、デイヴィッドを孤児とし一層の波乱に満ちた少年期
を送らせることで、物語に膨らみを持たせたりしている。また例の11章の挿
話では、作者自身がデイヴィッドと自分を間違いなく同一視しているものの、
ディケンズの性格のうち、世故に長けた積極的で活動的な側面はステアフォー
スに付与され、主人公デイヴィッドは、物語の都合上、作者に比べればずっと
単純で未熟で人の良い人物にされているし、作者のような積極的な社会関心を
持ってもいない。だが、ドーラとデイヴィッドの恋は、作者自ら告白したよう
に、マライア・ビードネルとの恋に基づいたものだし、反対にドーラの家政能
カヘの不満は、ディケンズの妻キャサリンヘの不満を反映させたものかも知れ
ない。
 一方やはり一人称を用いて書かれた『大いなる遺産』について、ディケンズ
は、主人公ピップと作者の同一視を促すような言葉は述べていないし、ピップ
と彼の実際の人生とも距離がある。それでもなおピップの故郷は、デイヴィッ
ド同様、作者の思い出の地チャタム付近に設定され、思いがけないところでウ
ォレンの靴墨工場が顔を出したりする。私は、この作品はある点では『コパフ
ィールド』よりも深く率直な自己探究がなされているものと考える。ディケン
ズは作家として成長し、技法の点でも洗棟されたぱかりでなく、人生において
幾つかの深刻な体験を経たことで、『コパフィールド』の時よりも厳しい自己
批判を行えるようになった。例えぱ、ハンフリー・ハウスが『大いなる遺産』
のテーマであると述ベた「俗物根性」の問題に関して言えば、紳士階級に安住
しているデイヴィッドが、主人顔をしてペゴティー氏とハムを迎える挿話と、
成り上がり紳士のピップがぎこちなくジョーの訪問を受ける場面とを比較して
みると、両作品の違いが、良く理解できるだろう。
 トマス・ハーディの言を待つまでもなく、当時「出世」は重要な関心事であ
った。ディケンズは早くも『コパフィールド』でこの問題を取り上げたが、そ
の時出世願望は、主人公ではなくエムリーに転移されていた。しかし、『大い
なる遺産』はこれに正面から取り組んだだけでなく、この時事的なテーマを、
魔女や「眼りの森の美女」など、古来からの昔話や伝説のモチーフと見事に結
び付けている。さらに「美女」即ちエステラヘのピップの愛は、2年来ディケ
ンズがエレン・ターナンヘの苦悩に満ちた愛を経験をしてきたことで、これま
での作品に彼が描いてきた月並みな恋愛を凌駕する印象的なものとなっている。
 ピップの子供時代を描いた部分で、ディケンズは『コパフィールド』の子供
時代に匹敵する成功を収めているが、後半部の主人公に限って言えば、『大い
なる遺産』のほうが優れている。その理由の1つは、前者の場合は、自分の分
身でもある主人公に対して、ともすれば厳しさが欠けがちであることと、もう
1つには、後者が比較的短い作品であるので、『コパフィールド』の、例えば
ミコーヴァーに関する挿話のように、主入公から注意をそらすようなわき筋が
存在しないためである。
 他に『大いなる遺産』に影響を与えたと思われるディケンズの人生の出来事
は、彼が先頃からチャタム近くのギャッズ・ヒルの屋敷に住むようになったこ
とである。子供の頃を過ごした土地に戻ったことで、彼は、自分の子供時代と
それが今の自分にとって持つ意味とを考えたに違いない。これを裏書きするか
のように、彼は「子供の頃の思い出」と題する短い随想を雑誌に連載し始める。
そこには、「自分の意志に反して、無理矢理心の暗い片すみにもどっていかさ
れる」(「乳母の物語」)男、悲しみを経験して「一層悪くも賢くも」(「ダ
ルバラ・タウン」)なった男が登場するが、それは、『大いなる遺産』を書き
始めようとしているディケンズ自身の姿に他ならない。

米田一彦氏に勲三等旭日中綬章
 ディケンズ・フェローシップ日本支部副支部長てあり、神戸大学、奈良女子
大学、大阪大学、武庫川女子大学等、数々の大学で我が国の英文学研究の発展
に尽くしてこられました米田一彦氏は、昭和61年秋の叙勲で勲三等旭日中綬
章をお受けになりました。フェローシップとしましてまことに喜ばしいことで
あります。謹んでお祝いを申し上げます。

日本におけるディケンズ関係ならびにフェローシップ会員の著訳書等

小池滋他編 『青木堆造著作集」1986年 南雲堂
小池滋他編 青木堆造先生追悼論集『イギリス/小説/批評』1986年 南雲
堂
櫻庭信之著 『絵画と文学 ホガース論考』〔増補版〕1986年 研究社
吉田孝夫著 『ディケンズの楽しみ』1986年 晃学出版
ジョン・ケリー著湯木満寿美訳 『ディケンズのシンポル』(John Carey, The  
Violent Effigyより)1987年 鳥羽プレス
J・P・ブラウン著松村昌家訳 『十九世紀イギリスの小説と社会事情』(Julia  
Prewitt Brown, A Reader's Guide to the Nineteenth-Century English Novel)
 1987年 英宝社
ジョン・フォースター著宮崎孝一監訳 間二郎・中西敏一共訳 『定本チャー
ルズ・ディ ケンズの生涯』[下巻] 1987年 英宝社
セドリック・ディケンズ著石田敏行・石田洋子訳/料理監修木沢武男 『ディケ
ンズと 
 ディナーをーディケンズの小説の中の食べ物散歩(Cedric Dickens, Dining with  
 Dickens, being a ramble through Dickensian foods)1987年 モーリス・カ 
 ンパニー発行 発売元 星雲社
小池滋著 『島国の世紀ーヴィクトリア朝英国と日本』1987年 文藝春秋
中西敏一・亀井規子・青木健編 『ピクウィック読本』(執筆・注釈 宮崎孝
一・小池
 滋・青木健・間二郎・安富良之・亀井規子・中西敏一・野畑多恵子・横川信
義・太田良
 子・大京子・金山亮太・清田純子)1987年 東京図書
村石利夫著 『日本戦国史漢和辞典』1987年 村田書店
小池滋 「つかめない足どり」(井上ひさし編『『ブラウン神父』ブック』1
986年 
 春秋社)
小池滋 「クリスマス・キャロルを読む」(作者・文献紹介を含む)(『名作
54・読
 む・見る・聴く』1987年 朝日新間出版部)
小池滋 「ブラウン神父」(小林司・東山あかね編『探究シャーロック・ポー
ムズ』19
 87年 東京図書)
小池滋監訳 『シャーロック・ホームズ全集』全21巻1982ー3年 東京図
書
松村豊子 「海への祈り アントニー・パージェス『見込みない種子』」(津
田塾大学
 「文学研究」同人『現代イギリス小説と女性』1985 荒竹出版)
クランメル房子 「語り継がれた聖母像 ドラブルの『針の穴』考」(神山妙
子教授退官
 記念論集『シャロンの華』1986年 笠間書院)

東京地区読書会でNicholas Nickleby

 東京地区では昭和49年夏からディケンズの作品の読書会を行なってきてい
ます。49年夏から53年11月までがSketches by Boz、53年12月から62
年7月までがThe Pickwick Papersと、いづれも長い年月をかけて読んできました
が、9月からはNicholas Nicklebyと取り組んでいます。なおDavid Edgarによっ
て脚色されたNicholas Nicklebyがロイヤル・シェイクスピア・カンパニーによっ
て、1980年6月6日、ロンドンのAldwych Theatreで初演されましたことは
どなたも御存知のことと思います。第1部(ポーツマスでの公演まで)は4時
間と休憩時間15分、第2部は4時間15分と12分の休憩が2回という長さ
でした。大好評で、1981年の秋にはニューョークでの公演となりました。
David Edgarの脚本は、Dramatists Play Service, INC., 440Park Avenue South, New 
York, N.Y.10016から出ています。ついでながらここで、ディケンズとフィズが
泊り、作品の中でニューマン・ノッグズが"If you should go near Barnard Castle, 
there is good ale at the King's Head."(7章)と記しているKing'S Headが今もなお
営業を続けているBarnard Castleを紹介しておきます。ロンドンのKing's Cross
からInter-City125でDarlingtonで降り、進行左側の改札を出て5、6分(?)歩
き、ロータリーを右に折れて少し進むとバスの発着所で、そこからBarnard Castle
は1時間足らず。Tees川に沿った古くからのマーケット・タウンで、古城やTees
川の流れ、Market Cross, Bowes Museumなどが我々の目を引きます。ハイキング
姿の軽装ででかけ、BBに泊るのがよいでしょう。(T‐N)

鈴木幸夫氏
ディケンズ・フェローシップ日本支部理事、早稲田大学名誉教授、跡見学園短
期大学学長鈴木幸夫氏は、昭和61年12月24日急性心不全のためお亡くな
りになりました。享年74歳。先生はフェローシップ日本支部のため多大の御
尽力を下さり、昭和51年6月の例会では「推理小説作家から見たディケンズ」、
57年の総会では「ディケンズの挿絵師たち」の、有益な御講演をいただきま
した。英米文学、また推理小説関係の多数の著書、翻訳書、編書のありますこ
とは、改めて述べるまでもありません。なお「痴人の宴」(昭和26年5月『宝
石』)その他の推理小説でのペンネーム千代有三は、Chaucerからと伺っており
ます。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

編集後記
月日の経つのは早いもので、会報も第10号となりました。本号は記念特別号
と銘打って32ページと、今年に限っての増ぺージと致しました。それでも見
送らせていただいた原稿もありますし、入れたいさし絵などで割愛したものも
あります。それらにつきましてはまたの機会にと考えております。(中西)

会員名簿


ディケンズ・フェロウシップ日本支部

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