ディケンズ・フェロウシップ会報 第十一号(1988年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. XI

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部


ディケンズ・フェロウシップ日本支部
87年10月ー88年9月

1987年11月7日(土)午後2:00より
 総会 於成城大学5号館会議室
 (1)総会 2:00より
     挨拶 宮崎孝一氏
     司会 内山正平氏
 (2)研究発表 2:30より
     司会 間二郎氏
     発表者および論題
    (イ) 松村豊子氏「逆転した男女の力関係ーOur Mutual Friendを中心
に」
    (ロ) 野畑多恵子氏「ピクウィック氏の眼鏡」
 (3)映画A Christmas Carol(映写担当 青木健氏)

1988年6月11日(土)午後2:00より
 春期大会 於南山大学L棟(ヒルシュマィアー記念館)9階会議室
 (1)開会挨拶 2:00より
     挨拶 米田一彦氏
 (2)研究発表 2:15より
     司会 荻野昌利氏
     発表者および論題
     (イ) 楚輪松人氏「サム・ウェラーの面白さ」
     (ロ) 太田良子氏「ディケンズとヘンリー・ジェィムズー出版事
情をめぐっ
         て」
 (3)シンポジウム
     テーマ「『荒涼館』をめぐって」
     司会 小池滋氏
     講師 内田正子氏「『荒涼館』ができるまで」
        要田圭治氏「『距離』の誘惑ーBleak Houseのピクチュアレス
クとグ
        ロテスク」
        西條隆雄氏「ディケンズと過去」

表紙の絵 Bleak House

Coaching AgeとDickens
湯木満寿美

 Hugh Bodeyは1770一1835をCoaching Ageとしているが、この時代は
mail-coach、stage-coachの全盛時代で、富貴族は自家用馬車を、大衆は駅馬車を
利用した。しかしはじめのうちは道路が悪く、ガタガタ動揺し、決して乗心地
のよい旅ではなかった。やがて二人の有名な道路技師Thomas Telford(1757
ー1834)とJohn Macadam(1756ー1836)が顕われ、ここに路面の
改善を見ることになった。前身stone-masonのTelfordが石を用いた凸状道路は有
名で、新道路は920マイルに及んだという。友人のRobert Southyは彼を
'Colossus of roads"とたたえた。
 Macadamは才人ではなかったが、道路工事では、Telford以上に業績を残した。
安価で、その方法は砕石とタールを交ぜ、交通が繁くなればなるほど路面が固
まるというものであった。今も彼の名はmacadamination,termacの道路用語に生
きている。かくして改良されたcoachのLondonからの所要時間は、次のように
短縮された。
                    1750               1830
Edinburgh    10days              2days
Dover            1day               10hours
Bath              2days             12hours
 さてこのcoaching ageに、Dickensは青年reporterとして、また后年は名士とし
て旅行を楽しんだ。彼の小説では、旅行はJames Carker, Jonas Chuzzlewit, Bradley 
Headstone, Stephen Blackpoolなどに見られるように、クライマックスの場面を提
供している。Railway Age(1835ー)に入ってからも、Martin Chuzzlewit, The Old 
Curiosity ShopなどDickensの小説のなかを走るのは駅馬車である。旅がplot機構
の大半を占めるPickwick Papersでは、coaching inn, coachman, vehicles(=gig, chaise, 
cab, fly)などが実感溢れるばかり活々と、巧みに描写されている。小池滋氏は「英
国鉄道物語」のなかで、「ピックウィッククラブはまさに作者の少年時代の田
園生活へのノスタルジアの現われ」と言っておられるが、Dckensはいつまでも
駅馬車時代の人であるとも言えるだろう。

アランとディケンズ
崎村耕ニ

 友人とのつきあいを深めていくことは、私たちだれもが日常、知らず識らず
行なっていることであろうが、そのようなあり方は、本とのつきあいにも見ら
れるように思われる。アラン(1868ー1951)En Lisart Dickensの抄訳を
こころみて、そんなことを考えた。彼は、『我が思索のあと』で、「(少年時
代)、余暇はディケンズとユーゴーと音楽で一杯になっていた」と言っており、
他の書き物にもディケンズに少なからず言及している。ディケンズ論を上梓し
たのが70才を過ぎてからだということを考え合わせれば、ほとんど一生にわ
たるつきあいである。フランスを代表するこの哲学者はなによりもディケンズ
の愛読者であった。私がこんな単純なことに驚いたのは、慣れないフランス語
に四苦八苦することで、アランの批評文の手ごたえを、思いがけない形で感じ
取ったからてあろう。言いかえれば、批評するということは、つきつめて考え
れば、作品に対する自分の愛情をみつめ、磨き上げることではないか、という
ことに思い至ったのである。そのことが複雑な分析的研究とどのようにかかわ
るのか、私には確かなことは言えない。ともかく、アランの一見、無秩序な論
及をたどりながら、私は、いわゆる研究書にはなかなか見られない力強い思想
のひらめきを感じた。それは彼の筆の動きにじかに感じられる。彼はまずこう
してロを開く、「私は、気に入った小説は何十回も読み返してきた。何度読み
返してみても、次に何が起こるか予測がついて楽しみが損なわれるということ
はない、それどころか、再読三読のなかに特別な喜びを見出すのである。」た
ちまちアランはディケンズの小説を(について、ではない)語り始める。全身
の体重を作品にグッと傾けるようにして論じていく態度は、なによりもこの哲
学者の力強い文体に表われている。話はあちらへそれ、こちらに飛ぶ。そして
突然、彼独特の思想のひらめきを、火花のように飛ばすのである。それは随所
に見られる。例えば−「情念について考察してみれば、ゴクーゴクーという音
をたててデイヴィッドの服を奪い、金を払おうともしないあの古着屋のことも
理解される。ここでは守銭奴というものが、狂いのない筆致で描かれている。
この守銭奴は、がらがら声は出しても、金は出さない。したがって大切なのは、
けちな人間に用心することではなく、彼等から逃げ出すことが必要なのであ
る」云々。これはまさに哲学者の作品論である。アランにおいては、読書する
ことが、日常の知恵を磨くことと響き合っている。そういう意味では、チェス
タートンと同様に、批評精神が知恵と愛情にささえられて、詩情をともなった
独自の評論文学をなしているように思われる。(『ディケンズを読みつつ』の
拙訳の一部は、NULL20号に掲載。)

『背教者ユリアヌス』を読んで
字佐見太市

 辻邦生の長編小説『背教者ユリアヌス』(昭和47年、中央公論社)の終わ
り近くに次のような表現がある。
	彼〔ユリアヌス〕は特に風景とか、一人物の外形とかに注意をひかれる
のではな	
	く、それらを形づくっている個々の事物の気分が気に入っていたのであ
る。
	(632頁)
 この件を読んだ時、私は、辻邦生が評論『小説への序章』(昭和43年、河
出書房新社)の中で、事物を写実的には描かない作家ディケンズについて論述
していることを思い出した。まるで、その評論の中の「ディケンズの小説的世
界の特異な視覚」の説明箇所を読んでいるかのような錯覚におそわれたのであ
る。それゆえに私には、ここの引用の「彼」の所に「ディケンズ」を置き換え
ても可能なように思われた。実は、『背教者ユリアヌス』の別の箇所でもこれ
と同じ思いがしてならなかった。
	ながい、重苦しい沈黙がつづいた。夜の闇が、まるで実体を備えた物質
か何かのよ	
	うに感じられた。ユリアヌスはその闇の向うをじっと見つめた。(傍点
筆者、
	700頁)
 「夜の闇」についての詳細な描写は全くないが、ここも又、『小説への序章』
の中で辻邦生が「ディケンズ特有の一種の暖昧化」(220頁)と述べている
一節を想起させる。
 いずれにしても、『小説への序章』の中のディケンズ論は、客観的・分析的
認識法とは全く違うところの、情動的・直覚的な対象把握の仕方の見事さを、
ディケンズ作品の中に認めたものである。
 ディケンズと辻邦生が岡じ資質の作家であるとは思わないが、『背教者ユリ
アヌス』のような、人間もようを描く大河小説を目指した辻邦生にとっては、
ディケンズの影響は無視しえぬものがあったのではないだろうか。なぜなら大
河小説の真髄である、時間的・空間的な広がりを持った人間もようを描き切る
ことこそ、ディケンズの本領であったからである。

1987年総会における研究発表の司会者として
間二郎

 今回は若いお2人のフェミニン・ディケンジアンが発表して下さった。取り
あげられたのはThe Pickwick PapersとOur Mutual Friend。野畑さんは、犀利な目
で読んだピクウィック氏の「見る/見られる」立場の止揚を新鮮な言葉で語り、
松村さんは後期に出てくるところの、フィジカルな「力」を示す女性の意味と
いう、ユニークな視点を被露して下さった。次に映画を控えていたせいもあっ
て、お2人の論者が十分に論議されるところまでもっていけなかったことを司
会者としてつくづく申しわけなく思うと共に(と、声低く呟きながら)次に述
べられているお2人の論旨がひとつのステップとなって、今後のディケンズの
読み方に十分生かされることをひたすら希う次第。

『我らの互いの友』
−逆転した男女の力関係について
松村豊子

 この作品の第4巻6章で、リジー・へクサムは誰の助けもかりず、深手をお
ったユージン・レイバーンをテムズ河から引きあげ、宿のベッドまで運んでい
る。法律の上でも杜会的にも強い男性が弱い女性を守り導くのが当然と思われ
ていた当時の男女の関係から考えると、女性に対し保守的な見方をしたディケ
ンズが、クライマックスでヒロインにヒーローを抱きかかえさせるというのは、
一見とてつもなく奇異に思われる。この逆転の構図は一体何を意味するのか。
 リジーはディケンズのヒロインの中では一番の力もちであると同時に、最も
身分が低い。テムズ河の死体漁りを生業とする父親の娘で、母親代わりとして
ボートこぎから炊事、洗潅はおろか、弟の学費まで工面している。しかし、デ
ィケンズは彼女を環境に左右される生身の女性というより、環境の影響をほと
んど受けない家庭の天使として描いている。特に、ユージン救出の場面では、
女神の化身となっている。リジーとは逆に、ユージンはパブリックスクール出
身の法廷弁護士だが、何事にも道徳的価値を見い出せない遊び人である。恋敵
のヘッドストーンに襲われた時、彼は金銭的にも破産していた。リジーに劇的
に救出された後、2人は結婚するが、不具となった彼はほぼ全面的に彼女に頼
ることになる。彼が父親から受けとる年給の正確な額について言及はないが、
紳士暮らしができる最低限の150ポンドと思われるので、リジーは紳士の奥
様になったとは言え、相変らず夜中にひっそり小銭を勘定する貧乏暮らしをし
なければならないのだ。
 ここで興味深いことは、ディケンズがリジーの怪力を家庭の天使の徳の象徴
として美化する一方、もはや男性に安心して依存できなくなった女性のしたた
かな生活力として暗示せざるをえないことである。力の逆転の構図は、リジー
とユージンの場合、彼女が女神であるため漠然としているが、ジェ二−・レン
とラムル夫人の場含ははっきりしている。
 ジェニーは父親がアルコール中毒にかかり、廃人同様であるため、彼の母親
となり、人形作りで生計を支えている。だが、彼女は優しく寛容な母親でなく、
息子となった父親を罵倒し、時には彼を毒殺したい衝動にかられている。また、
ラムル夫人は夫が彼女の持参金まで便い果して破産した時、破産の黒幕につい
てトウェムロー氏に語るが、トウェムロー氏はおしだしの立派な彼女の気迫と
論理に圧倒され、彼の方が女性になったような錯覚に陥っている。ラムル夫人
に言わせれば、夫が破産しようと、どうなろうと、妻が夫に従うのは献身とい
うきれい事でなく、法律的に何の権利もない妻は死ぬまで夫と別れることがで
きないからに他ならない。頼るべき男性が弱体化すると、男女の本来の立場は
逆転し、女性は強くならざるをえないのである。
 1851年のロンドン市政調査によると、同市内に住む15才から20才ま
での女性の総数はおよそ2万5000人で、そのうち4000人は女中奉公に
でて給金をえていたというから、他の職業についていた女性の数もあわせると、
その数字はかなり大きかったと思われる。その後、この数字はふえ続き、フェ
ミニズム運動がさかんになるが、この時代思潮を反映してか、60年代の小説
のヒロインは従来の家庭の天使の枠におさまらないものが多い。死体漁りの娘
から貴婦人になるリジーもその1人であろう。ただ、ディケンズの場合、これ
は彼がフェミニズムの思潮に積極的に同調したというより、彼が歴然たる紳士
に無関心になった時、ヒロインも必然的に資質を変えざるをえなかったためで、
その結果、男女の力関係の逆転という構図が生じたと思われる。

ピクウィック氏の眼鏡
野畑多恵子

 序
 『ピクウィック』における主人公のピクウィック氏の役割は、作品の冒頭に
述べられているようにレポーターであった。従って、「見ること」こそ、raison d'etre
であり、この作品は、実際、ピクウィック氏の「視覚を巡る冒険」を描いたも
のであると考えられるのではあるまいか。言うまでもなく、視覚は、人間が外
界を認識する手段である。そして芸術活動とは即ち、「人間と外界のかかわり
あい」であるならば、「何をどのように見るか」に始まり、結局は「何をどの
ように書くか」を問題にすることになるこの作品は、作家としてのキャリアを
歩み始めたばかりのディケンズにとって、書かれるべくして書かれた作品と言
えるだろう。

I 眼鏡をかけた科学者
 ヒリス・ミラーの言うように、ピクウィック氏は最初科学者の目をもって世
界を眺める。この場合の問題点は、科学者の視線というものが、世に喧伝され
ているように客観的なものであろうかという点である。ディケンズは、ピクウ
ィック氏による考古学上の発見と、39章の科学好きの紳士による光学上の発見
の2つのエピソードを通じて、科学的なものの見かたが、実は先入観に大きく
左右されており、決して現実を客観的に、見えるがままにとらえる視線ではな
いことを述べようとしている。

II こっけいな見世物(spectacle)
 ピクウィック氏は、科学者であると共に、太陽になぞらえられていることか
ら、神のごとき存在とも考えられる。そこでディケンズは、この絶対者である
「見る人」ピクウィックを、見られる立場に立たせる。しかし見世物となった
ピクウィックを笑っている内に、「見られること」は他人に支配され、所有さ
れ、隷属させられることだ、という視線の権力構造が次第に明らかになってい
く。

III 「見ること」/「見られること」の拒否
 『ピクウィック』には、ピクウィック氏の肖像画に関する話題が二度出てく
る。肖像画は、「見る/見られる」という関係の中から生まれ、この関係の中に
存続してゆくものである。第一の絵は、権力者ピクウィックを描いたものであ
る。第二の「絵」、入獄の際の肖像画においては、ピクウィックは権力の犠牲
者となって、「見ること」の暴力にさらされる。彼の、科学者=神の視線はフ
リート監獄の中では全く用をなさない。ピクウィックはついに"I have seen 
enough."と言って、「見る/見られる」の双方を拒否する。

IV 絵画を見る眼
 牢獄で科学者の視線を捨てたピクウィックは、ダリッジの田園の遠近法的空
間に隠棲し、遠近法的ものの見かたを用いて自己とそれを取り巻く環境の再構
築を計る。遠近法的視線こそ、科学とヒューマニズムの結合の所産である。読
者が最後に出会うピクウィック氏が、ダリッジの美術館で絵画を眺めているの
も、真に彼にふさわしい行為と言わねばなるまい。

V 都市を見る眼 結び
 ピクウィック氏の問題は解決したが、ディケンズ自身の「何をどのように見
るか」という問題は今ここに始まる。ピクウィック氏が直視しえなかったもの、
即ち、「都市」を、彼はどのように「見て」、どのように「書いて」いけばよ
いのか。遠近法的見かたがもとより成り立たない都市を、権力者の眼でもなく、
科学者の眼でもなく、いかにとらえていくかそれこそディケンズ自身が自らに
課した問題であった。

1988年春季大会における研究発表の司会者として
荻野昌利

 今回は楚輪松人氏と太田良子氏がそれぞれ「サム・ウェラーの面白さ」と「デ
ィケンズとヘンリー・ジェイムズー出版事情をめぐって」と題する研究発表を
行った。楚輪氏のサム・ウェラーの存在を新しい角度から解釈しようとするい
わば正統派の試みと、太田氏のジェイムズとディケンズを出版事情の比較から
考察し背景から迫ろうとする斬新な発想は、いずれも大変面白く、刺激的で、
ディケンズ研究の多様性を改めて教えてくれるものであった。海抜百メートル
の会議室から眼下に広がる名古屋の遠景を楽しみつつ研究発表は50人を上回
る参加者をみて盛況のうちに終った。今回の研究発表で強いて不満があるとす
ればそれは司会者に人を得なかった点かもしれない。

サム・ウェラーの面白さ
楚輪松人

 『ピクウィック・ペーパーズ』の主入公サミュエル・ピクウィック氏が「彼
は仲々、独創的な男、私がちょっと鼻を高くしている人物なのです。」と紹介
した生気溌刺たる従者サム・ウェラーは、小説構成上、表向きは二次的な存在
ではあるものの、この小説を統合する想像力であり、作品を実質的に支配し、
またその本質を成している笑いも彼をめぐって提示されている。サムこそ作者
ディケンズが自己を最も投影した分身であるとするならば、サムの面白さを通
して、サムの仮面の背後に潜む作者の文学的気質の面白さが理解できるであろ
う。
 作品中のサムの役割は、笑いによる主人ピクウィックのイニシエーションの
ガイド役、つまり、「ピカレスク教育」係であるが、彼の面白さの源泉でもあ
り、「ヴェラリズム」と呼ばれる無尽蔵な奇妙な比愉には三つの特徴が考えら
れる。(1)ノンセンスであること。(2)死に関連した題材が多いこと。そ
して(3)詩的だということである。
 (1)サムの比愉の第一の特徴は、何と言っても、ノンセンスな馬鹿らしさ、
つまり、接続詞、"as"の前後半の内容の齟齬・コントラストの醸し出すおかしさ
である。イギリス人のウィットがコントラストの妙味にあり、ディケンズもそ
れを好み、またサムのどんな話題であれ滑稽味をまぶして笑いを造り出す剽軽
好みは、作者ディケンズの文学的気質の現われの1つである。
 (2)サムの笑いの中に、不気味なおかしさ、グロテスクな要素が多いこと
もディケンズらしさをよく現わしている。その源泉を、少年時代の悪夢のよう
な衝撃に、あるいは、不透明な幼年時代に、または、ヴィクトリア朝ロンドン
という特定の時代と社会の制約の中に、更には、如何にもディケンズ的な、常
識を離れた子供の感覚の中に、見い出すことも可能かもしれないが、ディケン
ズのユニークさは、それらを越えた、小説家としての、恐怖創造に関する悪魔
的な得位さ、内省的な想像力の所産と見ることもできるであろう。 (3)詩
は特異性によってではなく、美しい過剰によって驚かすべきものであり、詩入
の仕事が普通の情緒を用いながらも、現実の情緒には決っして存在しない感情
を表現することであるとすれば、サムの比愉の殆どは、詩的と呼んでも言いほ
ど、陳腐な言い草に予想もつかない新鮮な感情を与えている。そして言葉のコ
メディアンであるサムは、ディケンズの「道化の詩」とでも言うべきものの輝
やかしい例の1人となっている。
 偉大な詩人ディケンズの自由奔放なウィットやヒューモアを十分に発揮・体
現する人物はサムであり、それゆえに、「サム・ウェラーのいないピクウィッ
クは何であろう!」と喝破したツヴァイクの指摘も、まさにその通りだと、肯
首できるような気がするのである。

ディケンズとヘンリー・ジェイムズ
−出版事情をめぐって−
太田良子

 ヘンリー・ジェイムズが弱冠22才でアメリカの雑誌『ネイションズ』に書
いたのが、ディケンズの『我らの共通の友』(1865)の書評でした。実力、
名声ともに第一人者であるディケンズを相手にジェイムズは、この作品は登場
人物のすべてが生きた人間とは思われないほどに無理に作られており、「見て
もいない、知ってもいない、感じてもいない、ただ書いただけの小説」と酷評
いたしました。これは、ディケンズから31年あとに生まれた作家志望の青年
ジェイムズの独立宣言でありましょうが、その宣言の裏には、彼はもはやディ
ケンズのような小説を書くことはできない時代に生まれているという事実があ
ったのではないでしょうか。この2人の作家は、一方は万人に愛読されている
が、他方はごく限られた愛好家にのみ読まれていると言っていいと思いますが、
この極端な相違は、作家の資質の違いという本質論のほかに、時代と共に変化
してきた小説の出版事情に焦点を当てることによっていく分かは整理されると
考えました。
 イギリスのみならずフランスでもロシアでも小説は19世紀を通じてまず雑
誌に連載され、それから単行本になりました。その形式はイギリスでは"three-
decker"で、価格は31シリング6ペンス。数万人の購読者を持つ各種の図書館
がかならずこの高価な本を購入します。それからその「3巻本」の廉価本また
は1冊本が出て、つぎに6シリング本、さらに3シリングの「イエローバック」
が出たわけです。19世紀のイギリスの経済市場で最も安定した商品が本であ
ったという理由が分かります。ジェイムズが"the blast novel in three volumes"と言
って羨望するのも当然でした。アメリカでは連載されたあとに出るのは1冊本
で、しかも値段は1ドル50から2ドル(6シリングに相当)という実態だっ
たからです。また原稿料の仕組みも19世紀の半ばまでは、契約書もないまま
の一種の紳士協定が主流でした。しかし次第に印税契約と著作権法の確立が急
務となり、さらに世紀が変わるころになると、小説そのものが心理描写や時間
の転倒などの手法を取り入れ、連載形式に合わなくなると同時に、小説の人気
も下降します。小説の出版も、海外の著作権や価格の設定、広告宣伝の費用や
映像権問題などが複雑化するにつれ、エージェントが契約を代行するようにな
ります。ジェイムズの作家生活はまさにこの変化をそのまま映した鏡のような
ものでした。しかし彼の生活はむしろその他の作家たちを代表していたわけで、
雑誌の経営から人気連載小説の執筆までを一手にやり、今なお全集が何種類も
出版され続けるディケンズという作家こそが、きわめて例外的な、そして文豪
という名にふさわしい最後の作家というべきではないでしょうか。今日欧米で
は小説は連載ではなく書き下ろしで書かれますが、ディケンズがいま生きてい
たら、やはり自分の雑誌に連載してから単行本にするのかもしれません。

シンポジウム
「『荒涼館』をめぐって」
司会者から
小池滋

 もっとも楽観的な予想をすら上回る成功で終ったことについて、参加の3氏
に感謝することだけが、司会者としての義務である。事前に一切の打ち合わせ
の類は行っていなかったが、3氏それぞれ極めて個性的な、全く異ったアプロ
ーチから作品に迫って下さつた。この作品の大きさと深さが、これで浮彫にさ
れたわけである。
 3氏に共通した姿勢といえば、それは奇をてらい人目を驚かそうとする新し
さを斥け、ごくありふれた道をたどりながら、既にその道を歩んだ先達たちが
とり上げなかった(または見逃した)面を目ざとく発見し、それを着実に追究
するという、正攻法の姿勢であり、それが成功のもととなった。

『荒涼館』ができるまで
内田正子

 『荒涼館』の執筆開始(1851年11月)に先立つ構想の展開は、大まか
にいって2つの時期−社会批判の諸テーマが結集する第一期(1850年11
月〜51年2月)及ぴ、人物・筋・語りの手法が設定され物語が動き出す第二
期(1850年7月〜8月)にわけることができる。今回はその第一期、中で
も重要な依拠資料と考えられるパンフレットひとつに的をしぼって論じた。
 大法官府改革協会書記ウィリアム・カーペンターが1850年9月に行なっ
た講演(同月出版)は、『ハウスホールド・ワーズ』に掲載された「大法官府
の殉教者」(1850年12月7日号)の主たる資科であることが確実視され
るが、この講演と『荒涼館』の類似点を、1、小説の筋の全体的展開に関わる
もの。2、司法制度上の細かい欠陥に関わるもの。3、言葉の一致。4、その
他の些細な点に関する一致。という4つの側面から検討するならば、これがま
た、『荒涼館』の大法官府に関する部分の主要な情報源でもあったことが明ら
かになる。
 カーペンター(及び「殉教者」)に描かれた大法官府囚人のひとりが、『ピ
ックウィック・ペーパーズ』の靴直しのモデルと同一人物だったという事情も
あって、カーペンターに触発され自ら「12月の幻想」(『ハウスホールド・
ワーズ』1850年12月14日号)を書いた当時のディケンズは、大法官府
囚人に少なからぬ関心を抱いていたと考えられる。それが『荒涼館』に登場し
なかったのは、「殉教者」は事実を歪曲しているとのサグデンの指摘(185
1年1月7日の『タイムズ』ヘの投書)をディケンズが正当と認めたからであ
る。しかし、このとき大法官府囚人という好素材をやむなく放棄したことが、
実は債務者監獄の見直しをうながし、後に『リトル・ドリット』においてひと
つの制度悪として取りあげるための道を開いたのだった。
 なおカーペンターは、裁判所の制度、訴訟手続、重要な引用文等につき、事
務弁護士ウィリアム・チャリナーが1849年に出版したパンフレットに大き
く依存しているが、このことはグリドリーの訴訟経過の取材源以上の文献的意
義をチャリナー・パンフレットに与える。なぜならディケンズは、1852年
3月(『荒涼館』第一分冊刊行後)にチャリナーを入手する前に、カーペンタ
ーを通じてその内容をかなりの程度知っていたとみられるからである。さらに、
チャリナーを実際に読んだ上で、すでに執筆済であった『荒涼館』の大法官府
批判のテクニカルな部分に修整を加える時間的余裕もまた十分にあったはずな
のである。

「距離」の誘惑『荒涼館』のピクチュアレスクとグロテスク
要田圭治

 創作ノートに明らかなように、ディケンズは『荒涼館』において、絵画描写
に対する意識化の度合を強めている。これは、作中でピクチュアレスク美学が
鋭く批判されていることと無関係ではあるまい。「距離の美学」とも言い換え
うるこの美学は、現実の否定的側面をもの軟かく包み込んで隠蔽するためのメ
カニズムとみなされているが、エスタのアイデンティティーの問題も、この美
学が抱える問題性とからめる形で呈示されている。
 エスタの目から遠ざけられた出生の秘密は、たえず彼女の無意識にはたらき
かけて、鏡の中の、別の自分との「対話」にいざなっている。鏡のむこう側に
は、彼女が既に、密かに関係を結んでいるに違いない無名性の世界が不気味に
みえ隠れしているのだ。エスタのまなざしの変化には、その意味である象徴的
な意味合いがこめられているといえよう。最初エスタの目にピクチュアレスク
な優美さをたたえていると見えていたチェスニィ・ウォールドは、彼女がデド
ロック夫人と自分の関係を知るに及んで、抗しがたい力で彼女を引き寄せ混乱
におとしいれる。空間的距離の変化で比喩的に呈示された心理的距離の消滅こ
そ、ピクチュアレスク美学の要諦たる距離設定の無効を鋭くついているのでは
あるまいか。それは日常性の世界と隠蔽されたはずの世界の通底性を明るみに
出しているのだから。
 『荒涼館』のグロテスクは、この2つの通底した世界の関係性を意味してい
る。作中の形容詞"grotesque"はもっぱら外形としてのグロテスク性をさしている
が、我々の関心は、抑圧されながらも日常性の世界にゆさぶりをかける力とし
てのグロテスクなものにある。そして、この意味でのグロテスク性を最も強く
はらんでいるのは、ノーボディ像ではあるまいか。ホードン大尉は、本名を名
のることで不可避的に担う社会性を回避するかのように、「ネモ」(=「ノー
ボディ」)の名を選んでいる。社会のスケイプゴートとしての彼は、まさにそ
の存在のアンビヴァレンス故に、デドロック家が代表する、公認された世界の
内部にくい込んで、その秩序をおびやかしている。読者の目にさえ隠蔽された
ネモの人物像は、それ故、彼を作品の陰の主人公と呼んでもさしつかえないほ
どの現実味を帯びているのだ。
 ノンセンス文学の題材としてのノーボディ像、あるいは、ホガース、クルク
シャンクにも受けつがれた図像としてのノーボディ像(胴体(body)がなく頭
と手だけの人物)は、手なずけられ、生気を欠いた「美」と「芸術」を根底か
らゆるがす力をはらんでいる。誰にもそれができなくとも(Nobody can do that)、
ノーボディにはそれが可能なのだから。

『荒涼館』ーディケンズと過去
西條隆雄

 『キャロル』以来、ディケンズは作品中さまざまな形で過去ととり組んでい
る。『荒涼館』ては、仮面と素顔の劇的な落差、つまり隠蔽したはずのいまわ
しい過去が、地位・身分共に安定した現在の生活をおびやかすという、緊張あ
ふれる作品構成をとっている。ここでは、その劇的構成を支える3つの対立要
因を考えてみたい。
 まず第一は2つの屋敷である。ロンドンの屋敷とは異なり、チェスニー・ウ
ォルドの屋敷にはたえず幽霊がうごめいている。この2つの屋敷は、美しくか
つ矯慢なデドロック夫人の心的状態をあらわしているともいえるであろう。彼
女の心の奥底にうごめく幽霊がやがて大きな影となって彼女に迫る、いや実際
に眼前にあらわれるのである。
 第二に、弁護士タルキングホーンと夫人の対立があげられよう。執拗に、確
実に獲物を追いつめる寡黙の権化と、倦怠の仮面をかぶる矯慢の女王の対決は、
作品の白眉といってよいであろう。彼の厳密な探索により、夫人の過去が一つ
一つ暴かれてゆく。スリルとサスペンスに富む、すばらしいドラマの展開であ
る。
 第三に、2つの異なる語りによる、劇的対立がある。先にのべたタルキング
ホーンが夫人の動かぬ証拠を1つ握るたびに、チェスニー・ウォルドの屋敷の
テラスには、規則的に幽霊の足音が響く。7章、16章、28章、41章、5
8章と、音響効果を伴って劇のクライマックスがみごとに醸成され、そして終
結を迎える。これはすべて全知者の現在形による語りの部分である。
 これとは逆に、エスタが一人称過去形で語る部分が作品の半分を形成してい
るが、私はこの2つの語りを、1枚の紙の表と裏に書かれたものとして考えて
みたいと思う。すると、無関係にみえる2つの語りはおどろくほど密接な関係
をもって描かれていることがわかるのである。例えば、第一分冊の表側でデド
ロック夫入が法律文書をみて失神した時、裏側ではエスタがすでに20才に達
していて、荒涼館へ旅立つ直前であること、そして第二分冊が始まると共に、
彼女は母の恋人であり自分の父にあたる人の住んでいるところを訪ねているの
である。
 こういう次第で、29章(表)でガッピーが夫人の過去の一部始終を語れば、
夫人は一瞬失神し、やがて仮面がわれ素顔をさらす。これに呼応して31章
(裏)ではエスタが盲目になる。盲目になった次の章、表の語りは夜ではじま
る。表と裏は絶妙に相呼応する。 エスタは盲目につゞく大病をへて、「親の
罪が子に報いる」との因果応報の旧約世界から、「生まれゆえに罰せられるこ
とのない」新約世界に変貌をとげている。この変貌に多少無理があるとするな
らば、これは『リトル・ドリット』の中で一層詳しく研究されている。ともか
く、エスタの前にひざまづく母親は、まるでマグダラのマリアであり、彼女は
以後偽りの世界をなげすて、雪・みぞれの洗礼をうけ、ジェニーのボロととり
かえて、愛人の墓へとひた走る。虚飾をすて浄化の道をひた走り、本源的な生
に立ち戻っているのである。そして、表の語りが劇を、裏の語りが愛と救いを
語っていることもまた、理解できるであろう。
 (発表後の質疑応答において、夫人を失神させた文書にはきっと符牒が書き
こまれていたのだろう、と小池先生から教わった。また、ホードン大尉はアイ
ルランド沖で「死亡」したのち代書人になるのは、社交界の星と連絡をとる唯
一確実な道が、彼女の関係する訴訟事件にあると考えたからだろうと、松村先
生より教わったことを感謝をもって記したい)

テムズ川とその付近の風景2つ
中西敏一
 
 松村豊子さんが「互いの友」について書いていらっしやるので、テムズ川と
その付近の風景の挿絵を、2つ載せることにする。
 (I)はロンドン下町のライムハウス教会とライムハウス・カット。ディケンズ
の名付け親クリストファ・ハファムはこの教会近くに住んでいて、少年の頃デ
ィケンズは、潮の引いたこのあたりのテムズ川で、金目の物を漁っている、貧
しい家の子供や年寄りなどの姿を見た。ジョリー・シックス・フェローシップ・
ポーターズのオリジナルと目されている居酒屋グレイプスは、この教会近くの
テムズ川のほとりにある。ハーモンが服を交換する目的で、白分と非常に容貌
の似た船員と会うのは、この教会近くの家。また彼は、この教会の鉄の門の前
に立ち、高い塔を見上げ、白い墓石を見回し、夜の9時を告げる鐘の音を数え
たあと、回想にふけるのである。
 この教会からテムズ川のほとりにあるグレイプスの間は、今はフラッツが立
ち並んでいて、昔とはかなり趣を異にしている。グレイプスの北あたりのロー
ブメイカーズ・フィールズからテムズ川にかけてが、ライダーフッドが住んで
いるライムハウス・ホウルである。ライムハウス・カットはグレイプス西のナ
ロー・ストリートと交わってテムズ川に注いでいる。人家は立ち並んでいるが、
人通りのない、というか、人に会うとどきっとするような侘びしいところであ
る。その西はラトクリフ・クロズで、「東部の小さな星」に記されているよう
に、一青年医師が妻と共に、貧民の子供や女性のための診療所を開いたところ
である。
 テムズ川の上流にあるヘンリー・オン・テムズは、リジーが瀕死の重傷を負
ったレイバーンを救う場所と推定されている。そこのマーシュ・ロックは、細
長い木造の橋を、川の中へと渡ったところにあるが(付記しておくと、リジー
が働くペイパー・ミルは、ヘンリーから半マイルはど上流のマーシュ・ミルと
推測されている)、その水門も、ライダーフッドが水門番をしている、プラッ
シュウォ−ター・ウイア・ミル・ロックのオリジナルと推定されているハーリ
ーのロックも、適当な挿絵が手許になくここに載せることができないのは残念
である。ディケンズ文学とは関係ない模様であるが、オックスフォ−ドよりさ
らに奥の、テムズ川のもっとも上流の水門、レッチレードのセント・ジョーン
ズロックを載せておく(挿絵(II))。ここから下流に向かって40幾つもの水
門があり、キングストンを越えるとテディントン、そしてリッチモンドのロッ
クである。(なお挿絵(I)はGeoffrey FletcherのPocket Guide to Dickens' London
から、(II)はDavid SharpのThe Thames Walkからである)

日本におけるディケンズ関係ならびにフェロウシップ会員の著訳書等

増渕正史著 『フォースターの小説研究−「緑の谺」』 1986年 八潮出
版社
那須正彦著 『現代日本の金融構造』 1987年 東洋経済新報社
荻野日昌利著 『暗黒への旅立ち−西洋近代自我とその図像1750ー192
0』 19 87年 名古屋大学出版会
太田良子 「ガヴァネスのいる家−ヘンリー・ジェイムズの『家族』」(江口
裕子先生退 任記念論文集『アメリカ文学における家族』) 1987年 山
口書店
栂正行他著・栂正行解説 『進化思想とトポグラフィー』 1987年 平凡
社
臼田昭訳 『サミュエル・ピープスの日記』(第1巻1660年) 1987
年 国文社臼田昭訳 『サミュエル・ピープスの日記』(第2巻1661年) 1
988年 国文社臼田昭著 『ロンドン塔の宝さがし』 1988年 しんし
ん堂
ヴァージニア・ウルフ作川本静子訳 『自分だけの部屋』 1988年 みす
ず書房
松村昌家編 『ヴィクトリア朝小説のヒロインたち−愛と自我』(松村昌家「ヴ
ィクトリ ア朝の女性像−絵画における表現と関連して」、西條隆雄「愛とつ
まずき−ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』」ほか) 1988年
創元社
村石利夫著 『漠字に必ず強くなる本』 1988年 三笠書房
村石利夫著 『人は勝つために何をすべきか』 1988年 三笠書房
村石利夫著 『難読難解日本語実用辞典』 1988年 第一法規出版
クランメル房子 「『序曲』の社会的背景ーとくに、'Vaudrdcour and Julia'の物
語を中心に」(岡三郎編『ワーズワス『序曲』論集』) 1988年 国文社
小池滋責任編集 「ギッシング選集」
 太田良子訳 『余計者の女たち』
 小池滋訳 『埋火・イオニア海のほとり』
 小池滋・金山亮大訳 『ディケンズ論』
 他に『三文文士』『流諦の地に生まょれて』 1988年 秀文インターナ
ショナル
川本静子・北條文緒編 「ヒロインの時代」
 ジョン・ゴールズワージー作臼田昭訳 『財産家−フォーサイト家の物語』 
1988
 年 国書刊行会
ジョナサン・レイバン著青木健・斉藤九一訳 『現代小説の方法ー実践的批評
論』 19 88年 彩流社

入江興太郎氏
創立以来の会員で早稲田大学文学部英文科ご出身、高松市にご在住であった、
元香川県立保育専門学院院長入江興太郎氏は、1987年8月27日ご逝去な
さいました。

岡本成蹊氏
法政大学名誉教授、埼玉医科大学名誉教授、文学博士岡本成蹊氏は、1988
年4月28日、呼吸不全のためご逝去なさいました。なお氏は1976年に勲
三等瑞宝章をお受けになっております。

佐久間信氏
成城大学教授佐久間信氏は1988年5月29日脳内出血のためご逝去なさい
ました。氏は18世紀英文学、特にローレンス・スターンにご造詣の深い方て
ありました。
 3人もの方がこの一年間にお亡くなりになりましたのは、まことに残念なこ
とでございます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

1987年11月総会でのプログラム変更について
1987年11月7日の総会での行事の1つとして、映画(1)Dickens and Great 
Expectations(2)The Changing World of Charles Dickens(3)Dickens walked Here.
を予定していましたが、イギリスからこちらにフィルムが送られる途中、空港
での事故で届かなくなり、急きょA Christmas Carolに変更しましたので、その旨
ここで記しておきます。

編集後記
今回の号は昨年11月、本年6月の研究発表、シンポジウムの要旨が多く、寄
稿論文が少ないのはいさゝか残念というところです。ページ数の都合もあり、
どしどし載せるというわけにはいきませんが、これまで投稿なさっていない
方々の原稿を、特に歓迎いたします。なお締切は毎年8月10日、原稿はタテ
書きです。この2点と枚数の制限は、忘れずに守ってください。なお「告知板」
でもおわかりのように、従来フェローシップと記していたのは、フェロウシッ
プと改めることになりました。ご承知おき下さい。(中西)

会員名簿


ディケンズ・フェロウシップ日本支部

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