ディケンズ・フェロウシップ会報 第十三号(1990年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. XIII

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部


ディケンズ・フェロウシップ日本支部
1989年10月-90年9月
1989年10月14日(土)午後2時より
総会 於成城大学5号館会議室
行事
1.総会
2.講演
	司会 間二郎氏
	講師 冨山太佳夫氏:ディケンズとジャマイカ問題
3.研究発表
	司会 青木健氏
	発表者 斎藤九一氏:エスターの物語における前景と後景
4.シンポジウム『ボズのスケッチ』をめぐって
	司会 中西敏一氏
	野畑多恵子氏:都市と生活
	松村昌家氏:「モンマス街」と「幽鬼の街」
	小池滋氏:映像の文法
1990年6月9日(土)午後2:00より
春季大会 於広島大学文学部会議室
1.開会挨拶 2:00~
	挨拶 宮崎孝一氏
2.研究発表 2:15~3:15
	司会 松村昌家氏
	発表者及び論題
	(イ)松岡光治氏「A Christmas Carolにおける『光』と『闇』の諸相」
	(ロ)三ッ星堅三氏「Hard Timesにおける社会諷刺」
3.シンポジウム 3:30~5:30
	テーマ 「A Tale of Two Citiesをめぐって」
	司会 小池滋氏
	講師 新野緑氏『動揺する物語世界』山本史郎氏『二都物語』――シド
ニーは英雄か?植木研介氏『二都物語』の掘り起こされた過去――
表紙の絵 'Public Dinners' Sketches by Boz


Dickensに協力したCruikshank
湯木満寿美
 George Cruikshankは、pictorial temperance lecture, The Bottleを始め、特異な
narrative caricatureを発表し、五二〇冊の書物のさし絵を描いた。Dickensの小説
では、Oliver TwistとSketches by Bozに協力している。前者の'Asking for More'は
彼が提案したと言われるタイトルとともに、有名になったことは周知の通りで
ある。タムシをわずらい、丸坊主にさせられた救貧院の孤児たちのまえで、小
さなボウルと大きなスプーンを差し出し、'Please sir, I want some more'と言って、
肥満した賄係を驚かしているアイロニイの場面であるが、この絵が、Punchに利
用されたことは、松村昌家教授が、『ディケンズの小説とその時代』の中で詳
しく考証しておられる。
 この誌面では前記二つの小説の中から、さし絵四つぱかり抜き出し、巨匠の
技巧を見ることにしたい。
 サイクスが群衆に追跡され、遂に逃げ場を失い、屋上から転落する場面は、
余りにも登場人物が多く、また事態の推移も急激で、この複雑な場面を一つの
さし絵にまとめることは、不可能だろうと、ディケンズがあきらめたものを、
クルックシャンクは独断で、自分の考案した雄渾な場面を、four-by-five inch 
etchingとしたのである。
 サイクスが屋上に出て、逃亡のため烟突に結びつけた縄の操作をあやまり、
自分の首を締めたまま落下、ハンギング寸前の凄槍な表情と、これを見上げる
窓という窓の人の顔を描き、ざわめく群衆、やがて起る悲劇を予知させている
のである。
 次のさし絵は、死刑囚監房で、絞首台に引き出される前のフェイギンが、爪
をかみながら怖えきって、うずくまっている場面であるが、この囚人の像は、
クルックシャンクが、自分の顔を鏡に写しながら、考案した像と言われている。
独房の鉄格子の窓も、沈うつな雰囲気をつくるに役だっている。
 次にSketches by Bozのさし絵に移る。クルックシャンクは大筋ではディケン
ズに従いながら、全くテキストに無いものを加えて、物語のムードを盛りあげ
ている。'The Street-Morning'もその一つである。未だ暗い通りで警官がポストに
寄りかかっている。漸く空が白みかかると、下手に見えてくるのは、珈琲(紅
茶)をサーブする、防寒用の木靴を穿いた炊事婦と、町で朝食をとる、ソーサ
ーを持った見ずぼらしい男、またその傍でズボンのポケットに手を入れている
Chimney Sweepである。やがて朝の陽ざしが教会や、建物の屋根を照らすと、The 
Rising Sunの看板が見えてくる。新間社か保険会社の看板であると思うが、一方、
夜明けを知らせるものにもなる。これがクルックシャンクの意図である。
 今一葉、大型のエッチングに入れた'Public Dinners'を見ることにしたい。さる
慈善団体の世話役が孤児を引率しているところであるが、先導しているのは、
Sketches by BozのPublishersのEdward ChapmanとWilliam Hallで、つヾく世話役
がDickensとあごひげの男のCruikshankとしたCaricatureである。

橋の上の往来
高井由利子
 一八二一年にロンドンに転居したDickensは、取り壊しの始まる直前の、Old 
London Bridgeにくり広げられる風物を目撃したことになる。London Bridgeの新
橋の建設が一八二四年より一八三一年にかけて行なわれ、旧橋の取り壊しは一
八三二年に、完了する。幼いDickensの辛い生活体験の重要なものは、この河ぞ
いの土地においてなされている。ひとりで下宿住まいの、九才の少年Dickensが、
朝夕の食事を、Marshalsea監獄内に住む家族と共に取り、仕事場である対岸の、
Hangerfordstairへと向う道程の中には、必ず橋が含まれる。「自伝の断片」に、
Marshalsea開門までの早朝のひとときを、London Bridgeでの散策に過ごしたと記
述があるが、この場所が、くつろぎのための空間であったことがうかがえる,
時にはOrflingを伴ってDavidが腰を掛けている石段は、一七六〇年ごろ橋の拡
張工事のために取り壊された、店舗や家屋の名残だそうだ。又、この同じ石段
は、Oliver Twistの中で、Nancyを尾行するNoahが橋の上の向う側の通りに立つ
Nancyより姿を隠すため、一種のscreenとして使われている。
 単に、川の両岸を結ぶ手段のみならず、橋は、多様な街の機能を、歴史的に
担っていたようだ。Dickensのロンドンにおいて、橋のたもとの地域は、市井の
人々の娯楽を供給していたことも知られている。Sketches by Bozは、Vauxhall 
Gardensの賑わいを如実に伝えている。歴史を遡れば、Southwarkの河岸には、
水夫のための安宿、娼館、質屋が栄えた事実がある。又、最近の発掘によって
白日の下に現れた、Shakespeareゆかりの、The Globe, The Roseという劇場も、河
のすぐ際に位置する。
 阿部謹也氏が、中世ライン河畔の諸都市において、「橋のたもとの市場」に
「喜捨を求める多くの貧民」が集まり、橋に付随した貧民を、都市の特徴的光
景として指摘しているのはとりわけ興味深い(『中世の星の下で』ちくま文庫)。
Oliver Twistは、橋のもつ意味を、多面的に伝えているように思う。Nancyが、
Brownlow氏との面会の場を、深夜のLondon Bridgeに指定したのは、いくつか
の根拠を持つと考えられる。一種のsecret agentとしての任務を帯びた密会が、
何故最も人の往来の多い橋の上で用意されたかといえば、逆説的に、人通りに
紛れて、人目につきにくい方策ともなったろうし、又、目についたとしても人
通りの中ならば往来すること自体、不自然には映らない可能性も、反面の真理
としてあり得ただろう。
 革命前夜のパリの風物を書き記したメルシェによれば、パリで「誰か探し求
めている人に会うためには、毎日一時間(ポン・ヌフ)をぶらぶらするだけで
十分なほどだ」と、尋ね人探しに格好の場として橋の往来を挙げている。又、
逆に、おたずね者には、通過の困難な、一種の関所であったことも、「密偵も
そこで張りこみをする」という記述に明らかだ(『十八世紀パリ生活誌』岩波
文庫)。
 NancyとBrownlow氏の橋の上での出会いにおいては、Nancyの情報提供、
Brownlow氏の情報の入手を目的としている。橋の上において、両者の間に、提
供と収集という一種の取り引きが成立している。
 阿部謹也氏は、中世ドイツにおいて、「橋が幸運をさずかる場所」として一
般に意識されたことを、民話を例に紹介している。「来れコブレンツの橋ヘ、
そこに汝の幸運の花開かん」との夢に聴いた声に促されて、橋に住む男の物語
は、日本民話の「みそ買い橋」(木下順二『日本民話選』岩波少年文庫)と酷
似している。Brownlow氏は言うなれば、Oliverの代理として彼の富の行方を求
めて、橋の上におもむき、一方Nancyは、この出会いにおいて、自分の不幸な
境遇の唯一の救済が、Brownlow氏の言う、"asylum"への逃避にあることを知る。
しかし、失った富の再獲得は、OliverすなわちBrownlow氏の側においてのみ成
就し、Nancyは彼岸の光や温もりや平和より目をそむけ、来た道を引き帰す。こ
の時彼女は、Roseの差し出した財布をも拒絶している。橋の往来にこめられた、
富や幸福獲得の、中世の夢物語りは、再び暗い淵へと姿を消すNancyの側で、
見事に打ち砕かれている。
 阿部謹也氏の掲げる、リルケの「カルゼル橋」の盲目の乞食の姿は、このよ
うな意味において、胸を衝く。

この男こそは混乱の道のあなたこなたに立つ不動の正義者かも知れぬ
表面ばかりの時代に
地下に通じる暗い入口がも知れぬ。

『いわひ歌』の謎
宇佐見太市
 筑摩書房の『明治文学全集七――明治翻訳文学集』(木村毅編、昭和四十七
年)の「明治翻訳文学年表」(田熊渭津子編)に拠れば、明治二十六年の若松
賤子の『いはひ歌』の原作は、ディケンズの『クリスマス・キャロル』である。
『いはひ歌』は、『女学雑誌』に九月から十二月にかけて八回に亘って連載さ
れたものだが(『女学雑誌』における実際の題名は『いはひ歌』ではなく、『い
わひ歌』である)、翌二十七年に単行本として警醒社書店から刊行された『祝
ひ歌』も、当然のことながら、同じくディケンズの『クリスマス・キャロル』
が原作である、とその年表には明記されている。
 もちろんその年表の「小引」には、「翻訳の範囲を翻案にまで拡大して収録
した」、とはっきりと書かれているので、この年表をあながち一方的に批判す
ることはできないが、ただ、いくら翻案をも含めるとは言え、若松賤子の『い
わひ歌』はディケンズの『クリスマス・キャロル』とはおよそ似ても似つかぬ
ものであることは、両作品を一読しさえすれば一目瞭然である。
 クリスマスに生まれた赤ん坊だからという理由で「カロル」と名付けられた
女の子が満五才頃から病気がちとなり、やがて十才かそこらで夭折してしまう
という話が、若松賤子の『いわひ歌』である。この薄命の少女カロルは、まる
で神のお使いのような存在、即ち、キリスト教的愛の体現者として描かれてお
り、彼女のおかげで家族の者たちは心に益を得ている。
 これは、キリスト教的愛の賛歌という点ではなるほど共通性が見られるもの
の、「改心」をテーマとしたスクルージの話とは根本的に異なるものである。
それにもかかわらず、筑摩書房の年表では『いわひ歌』の原作がディケンズの
『クリスマス・キャロル』となっている。
 しかし、『明治・大正・昭和翻訳文学目録』(国立国会図書館編、風間書房、
昭和四十七年再版)のディケンズの項目には若松賤子の『いわひ歌』の記述は
一切見られない。(もっとも、この目録のディケンズの項が完全に正しいもの
であるとは言えないかもしれない。なぜなら、例えばこの目録では、昭和二十
三年の共和出版社から出た猪俣礼二の『クリスマス物語』の原作が『クリスマ
ス・キャロル』となっているが、これは明らかに間違っているからである)。
 若松賤子はディケンズの『いわひ歌』を訳した、と明確に記している、若松
賤子に関する昭和五十五年の研究書も存在する(『とくと我を見たまえ――若
松賤子の生涯』山口玲子著、新潮社、一九六頁参照)。著者は、ディケンズの
『いわひ歌』、とはっきりと断定しているわけだが、実は私自身、恥ずかしな
がら、ディケンズの『いわひ歌』なるものの存在を未だ知らない。
 児童文学研究者の上笙一郎氏の御好意によって、上氏所蔵の『祝ひ歌』の実
物をじかに見せて頂けたということは身に余る光栄であったのだが、そのこと
によってわかったことは、その本の表紙には「若松賤子著」ではなく、「若松
賤子譯」と記されており、奥付も、「著書」ではなく「譯者」となっていると
いう点である。ところが、不思議なことに、原作名、原作者名は全く記されて
はいない。
 以上のことは、二年前、日本比較文学会西日本大会での研究発表の折、発表
の主旨とは離れた、あくまでも補足的な話として、発表の終了間際に一言簡単
に触れた内容である。その後、私はディケンズ以外に答えを求めたりもした。
例えば、子どもの死がテーマであるということ、死の床を描いたものであると
いう点などから、モルズワース夫人のA Christmas Child (一八八〇)が『いわひ
歌』の下敷になっているのではないかと密かに目を付け、その本を入手して通
読してみたが、どうもそうではなさそうであることがわかった。
 筑摩書房発行の年表から端を発したに過ぎないささやかな一つの謎ではある
が、この謎解きの過程から、私は若松賤子のことをこれまで以上に知ることが
できた。相変わらず謎は解けないままではあるが、むしろその副産物の方を私
は大切にしたいと思っている。比較文学的アプローチなるものに未だに疎い私
は、このように身近なところから入っていくしか仕方がない。
 たまたま出会った「ニコラス・ニックルビーの友はわが友」という短篇のお
かげで、レイ・ブラッドベリとディケンズとの接点を具体的に知ることもでき
た。これはすべて気ままな読書の賜である。これまで『小公子』の若松賤子像
しか知らなかった私であるが、これを機に、もう少し詳しく彼女を追ってみた
いと思っている。

十九世紀中期――「手」が意識された頃
寺内孝
 手工業時代の労働者は、手を使って労働に従事したことから、彼は単に「手」
('hand,' a person employed by another in manual work.  OED 初例1655)と呼ばれ
た。この用法はまもなく「職人、職工」('a workman or workwoman')等の意味
を派生し、それが、『困難な時世』(一八五四)の中で'I'm th' one single Hand in 
Bounderby's mill'(BK.II Ch.IV)の如く見出される。更にこの語は'factory-hand'
(OED 初例1858)を導き出している。要するに、この「手」とは、手によって
労働に従事することを意味するのであり、ヴィクトリア時代においても、その
ことが労働者としての指標となったのである。
 そうした労働者の手は労働で傷み、荒れているものであるが、労働に携わる
ことのない貴族の手は白くすべすべしていて当然であった。この「荒れた手」
と「白い手」が、いつ頃から階級的色彩を帯びて人々に識別されるようになっ
たのかは定かでないが、少なくとも十九世紀中期にはこうした識別は明確に成
されていたと言ってよい。例えば、エリオットは『アダム・ビード』(一八五
九)の中で、これら二種の手を次のように記している。
	a gentleman, with his fine manners and fine clothes, and his white hands . . . 
came about her. (CH.30)
	she [Lisbeth] stands knitting rapidly and unconsciously with her work-hardened 
hands. (CH.4)
更に彼女は同作品で、リズベスが紡績工ダイナの「荒れた手」に敏感に反応し
ている場景も書き残している(CH.10)。
 労働階級が、飢え、渇いた状況に置かれていた時、彼らは、手の荒れること
などに拘泥しておれなかったに違いないが、社会に多少のゆとりが生ずると、
それにこだわり出す。一八四八年に上梓された『メアリー・バートン』の中で、
メアリーが職を得るにあたり、「手も顔も汚すことのない」仕立屋の徒弟を選
んでいるのはその例である(CH.III)。
 一八六〇年から翌年にかけて週刊連載された『大いなる遺産』には、もはや
飢餓の描写はない。そこでは鍛冶屋の徒弟ピップが「白い手」('white hand' 
Ch.XXIX)のエステラに「荒れた手」('coarse hands' Ch.VIII)を冷笑されて恥
じ入り、やがて家庭にも家業にも含羞を抱くようになり、遂に大邸宅の美少女
エステラと紳士の身分を憧憬している。丁度、前述のメアリーが金に魅せられ
ている時、機械工の求婚を峻拒し、工場主のハンサムな息子に恋慕したように。
 メアリーとピップに共通していることは、労働で手を汚すことを嫌い、金銭
に魅惑され、外面的な華美に眩惑されている点である。こうした労働階級の、
いわば「白い手」願望の心理は、当時の拝金的風潮に負うところが大きい。こ
の風潮は、イギリス社会が産業革命と農業革命の荒波を被りつつ、急変を強い
られた過程で顕著になった現象である。社会の胎動が著しくなり始めた十八
世紀中葉より、飢餓の四十年代が通り過ぎる迄のほぼ百年間は、人工急増・失
業・食糧不足に由来する不安が横溢し、とりわけ十九世紀に入ってからは、支
配と被支配、有産と無産との争いが絶えることのない歳月であった。この不安
定な時期における、生きることの厳しさは、「生存競争」('struggle for existence' 
OED 初例1827)という語句の出現に象徴されている。生きることは「争い」で
あり、その争いは、「拝金主義」('mammonism OED 初例1843)という語の出
現に見られる如く、いわば金銭争奪戦の様相を呈したと言っても過言ではない。
拝金徒の拝金振りは、ディケンズの諸作品が伝えて余りある。サッカレーが「イ
ギリス全土はこの黄金盲信に悩まされいる」(The Book of Snobs)と慨嘆してい
るのも、こうした世相を踏まえてのことである。
 労働階級の「白い手」憧憬の背後には、このような拝金主義が横行していた
のであり、この時代にそれを憧憬することは、結局、ビップが紳士の身分を欲
して労働を捨てているように、労働蔑視・忌避につながる。金銭を愛し、労働
を厭うことは、キリスト教国イギリスにおいては、宗教心の喪失を意味してい
る。何故なら、そこでは「金銭を愛する生活をしてはいけない」(ヘブル、十
三-五)と説かれ、労働は「宗教」、「祈り」と見なされるからである。
 一八五一年の万国大博覧会はイギリスの黄金時代の幕開けとなった。黄金時
代とは物質的に潤った時代のことである。人々はますます多く、天の宝を、と
説かれる必要があった。物欲に冒されることのない、内面的に高貴なクリスチ
ャンの心が求められたのである。ジョーとビディはその体現者であった。言う
までもなく、彼らは労働に倦むことを知らない。ビディの手が「荒れ」、ジョ
ーの手が「黒ずんでい」たのはそのためである。

ディケンズとヘンデル
松岡光治
 音楽、殊にクラシックに関するディケンズの知識は、一般大衆の教養の域を
出るものではなかった。とはいえ、王立音楽院の寄宿生にもなった姉ファニー
と一緒によく二重唱を歌っていたディケンズの音楽好きは、多くの作品に点在
する流行歌・民謡・俗曲・バラッド・アリアなどに垣間見ることができる。作
者未詳をはじめ、ベイリー、バーンズ、ディブディン、ゲイなどの歌詞は複数
の作品に見られるが、日本でも昔から親しまれてきた「庭の干草」や「春の日
の花と輝く」で有名な、トマス・ムアの『アイリッシュ・メロディーズ』は取
り分け言及が多い。
 音楽を職業とする登場人物には劇場でクラリネットを吹くフレデリック・ド
リットと聖歌隊長で音楽教師のジャスパーがいるが、アマチュア音楽家として
ディケンズが創造した脇役も少なくない。例えば、村の教会でオルガンを弾く
トム・ピンチ、下手糞なフルート奏者のメル先生、オペラを途中まで作曲して
飽きてしまったスキンポールなどがいる。
 流行歌や民謡に比べると、クラシックへの言及は極めて少ないが、一七二七
年に英国に帰化したG. F. ヘンデルだけは別格である。クリスパークル家の戸
棚の上には「波打つかつらをかぶったヘンデルの肖像画」があるが、これは多
分トマス・ハドソンによる《メサイア》の楽譜を前にしたヘンデルの肖像画の
複製であろう。ハーバートはピップと仲がよく、彼が鍛冶屋なのでヘンデルと
いう仇名を付けるが、作品の主導的イメージの〈手〉に着意すれば、作者がメ
タセシス(handle→Handel)によって考案したこの名前には、ピップが「調子の
よい鍛冶屋」を嫌って有閑階級を好んだ結果みんなからマリオネットさながら
巧みに操られるというアイロニーが感じ取れる。この《クラヴサン組曲集》第
五番終楽章は特にディケンズのお気に入りだ。モーフィンは愛するハリエット
が帰ると悲しげにヴィオローネを奏でるが、「調子のよい鍛冶屋」を何度も弾
くうちに「彼の顔は本物の鍛冶屋の鉄床で打たれる金属のように輝き出す。」
大法院の犠牲者グリドレイは「頑強な意志と驚くべき精力の持ち主だが、頭の
方は調子の悪い鍛冶屋のような人物」だ。この曲の次にディケンズが好きなの
はオラトリオ《サウル》の有名な「死の行進」である。幼児ポールの洗礼を祝
ってチック氏が口ずさむ曲が何を暗示するのか、またラウンスウェル氏が口笛
を吹く曲が昔の部隊長ホードン大尉の死と直結していることは言を俟たない。
ポドスナップが夫人と腕を組んで食事に出かける、その自己満足的行為はまる
でパーンの笛で「見よ勝ち誇るポドスナップを」を演奏しているかのようだが、
無論これはスポーツ競技大会の表彰式のBGMに欠かせない、オラトリオ《ユダ
ス・マカベウス》中の合唱「見よ勇者は帰る」のパロディーである。
 流行歌や民謡といえば、サイラス・ウェッグとは違った意味で最も歌の知識
が広く、会話に引用を巧みに織り込むスウィヴェラーを擁した『骨董屋』が想
起されるが、クラシックについてはウィルキー・コリンズとの合作『通行止め』
を挙げねばなるまい。この小説の前半の主人公ウォルター・ワイルディングは、
ミーグルズ夫妻に引き取られたタティコーラム同様、ロンドンの捨て子養育院
出身のワイン業者である。この養育院は一七三九年トマス・コーラムが創立し
たもので、運営維持に貢献した著名人には画家ホガースと作曲家ヘンデルがい
る。ホガースは翌年《コーラム船長》の肖像画を寄贈し、そこでイギリス最初
の一般公開画廊の基礎を築いた。作品中、養育院の食堂に見られる「ホガース
の絵」は《ファラオの娘のもとに連れてこられたモーゼ》と《フィンチレーへ
の進軍》と思われるが、前者が実母と別れた孤児達を想定して製作されたこと
は想像に難くない。ヴィヴァルディがヴェネツィアのピエタ女子養育院のヴァ
イオリン教師として尽力したように、ヘンデルもまた一七五○年に捨て子養育
院にオルガンを寄贈し、基金募集のために一肌脱いで毎年《メサイア》の慈善
演奏をしていた。
 ところで、ワイルディングは養育院時代に「ヘンデル、モーツァルト、ハイ
ドン、ケント、パーセル、ドクター・アン、グリーン、メンデルスゾーン」と
いった作曲家の頌歌の合唱から成る歌集を暗記していた。養母なき後、彼は自
分の会社の雇人達との間にパターナリズムに根差した家族関係を確立すべく、
毎週日曜に近くの教会で身内だけの聖歌隊を結成、水曜には自宅で家族コンサ
ートを開催する。地下貯蔵室長という仕事柄、いつも毛穴からアルコールを摂
取して不機嫌なジョーイ・レイドルだけは打ち解けないが、「ヘンデルのある
アンセム」には好意を示す。歌の最後で何度も同じ文句を繰り返すあまり、「こ
の大作曲家先生も何処か外国の酒蔵に入っていたに違いねえ」と叫ぶレイドル
の言葉から判断して、このアンセムが最後を《メサイア》からの「ハレルヤ」
を原形のまま採って結んでいる《捨て子養育院アンセム――貧しき者をかえり
みる者は幸いである》であることは間違いない。ヘンデルには例の「司祭ザド
ク」で始まる《戴冠式アンセム》を含めて八つのアンセムがあるが、《養育院
アンセム》は『詩篇』四一、七二、一一二に依拠した四声合唱で、一七四九年
五月二七日に養育院で彼自身の指揮のもと、《王宮の花火の音楽》などと共に
初演されている。
 その他、『通行止め』にはムアが作詞した「杯を満たして」、オーベールの
歌劇《フラ・ディアボロ》(シンプロン峠で怨敵ヴェンデイルを狙うオーベン
ライザーはさしづめ山賊の首領ディアボロか?)の行進曲風の序曲、ロッシー
ニの歌劇《ウィリアム・テル》からの抜粋(恐らく有名な序曲)ヘの言及や、
ライン川とローヌ州の流れが奏でるリフレインを使ったオーベンライザーの殺
意の暗示などがあって、コリンズの影響なのか実に音楽的要素に富む作品とな
っている。

一九八九年総会における講演
冨山さんからの「贈りもの」
間二郎
 秋季大会の講演として、冨山太佳夫氏の「ディケンズとジャマイカ間題」を
聞くことができた。同氏の「ジャマイカからの贈りもの/植民地と英文字」(「英
語青年八月号から連載中)の骨子ないし基調を早目に教えていただいたかたち。
Dickens and Indian Mutiny (DKN, No.366、1972)を思わせるものがあったが、膨
大な資料を渉猟しつくしての(配布された資料はA三版べったりが二〇枚)、
犀利な分析は、はなはだ新鮮かつ'edifying'で、ありがたい「賜りもの」であった。

ディケンズとジャマイカ事件
冨山太佳夫
 一八六五年一〇月、ジャマイカで黒人の反乱が起った。事態を重視したジャ
マイカの植民地総督エドワード・エアはただちに戒厳令を発令して鎮圧にあた
ったが、そのさいに余りにも多くの処刑者と処罰者を出してしまった。この事
件はイギリスの国内にも大きな反響を呼びおこし、総督のとった姿勢の是非を
めぐって大論争となる。時代は第二次選挙法改正の直前であり、フェニアンの
反体制運動も激しくなっていて、この問題はそれらと連動するするものとして
位置づけられたのである。
 総督エアの行動を批判する側はジャマイカ委員会に結集した。その代表はJ・
S・ミルであり、他にもジョン・ブライト、ルイス・チャメロブゾウ、ダーウィ
ン、スペンサー等々がずらりと顔をならべていた。それに対して、総督の処置
は白人を守るためのやむを得ないものであったとしてそれを弁護する側にまわ
ったエア弁護委員会の代表はカーライルであり、他にラスキン、テニスン等も
加わった。このグループに加わったもうひとりの有名人がディケンズである。
 国会の調査団の調べが終ると、エアは解任されて本国に戻るが、そこにはジ
ャマイカ委員会による告発が待っていて、その後数年間は裁判が繰り返される
ことになる。
 『エドウィン・ドゥルードの謎』はこのような社会状況の中で執筆されたの
であり、ディケンズはジャマイカ委員会の活動への痛烈な批判をそこにこめて
いる。とくに第一七章にでてくる博愛主義者の団体等への揶揄では、使われて
いる単語のひとつひとつに彼らの活動への言及がこめられている。例えば、そ
こにみられるという語のかげにはJ・S・ミルがひそんでいると考えざる
を得ないのである。ディケンズのこのような批判の姿勢は、実はこの時期の『パ
ンチ』誌がとっていた批判の姿勢と重なっているのである。

一九八九年総会における研究発表
司会者から一言
青木健
 成城大学で開催された昨年度の総会では、斎藤九一氏に研究発表をお願いし
た。氏は、一年あまりロンドン大学バークベックカレッジで研鑽を積まれ帰国
したばかりであった。発表では、『荒涼館』を取りあげられ、エスターの語り
手としての“スタンス”に焦点をあてられ、ユニークな視点を披露された。氏
の論旨は、以下に掲げる通りだが、これがステップとなって、ディケンズにお
ける語り手の位置について、さらに論議が高まることを期待したい。

『荒涼館』におけるエスターの物語の前景と後景
斉藤九一
 『荒涼館』の半分を構成するエスターの物語は、控えめな態度と自己主張と
の間で揺れていると思われる。そのことを、エスターの、語り手としての特徴
と、作中人物としての性格という観点から考えてみた。
 『荒涼館』の第三章で、エスターは自分が書いている物語について次のよう
にのべている。「私自身についてこのようなことを書かなければならないのは
非常に奇妙に思われる。まるでこの物語が私自身の物語であるかのように。し
かし、私の小さな身体は、すぐに後景に退くだろう。」すなわち、「エスター
の物語」と名付けられた部分についてエスターは、自分は書き手ではあっても
主人公ではないと言っているのだが、しかし、実際は、まぎれもなくエスター
自身の物語になってしまうのである。言い換えれば、エスターは物語の後景に
身を潜めたいと願いながら、否応なしに前景に存在してしまう書き手なのであ
る。しかしそのために、無意識的に、他者を物語の前景から排除し、周辺に押
しやることがあったのではないだろうか。特に、エイダ・クレアとりチャート・
カーストンを。(エイダとリチャードがエスターの物語の前景から排除される
ことをめぐる、『荒涼館』第三十一章、第五十章および五十一章の分析は省略
する。詳しくは、『上越教育大学研究紀要』第九巻第二分冊所収の拙稿を参照。)
 エスターは、或る批評家達にとっては、苛立たしいほどの美徳の化身だが、
実際は、愛のない幼年期のために不安定な性格の人物である。しかし、勤勉で
親切であろうとする自己否定的な努力の故に、様々な人間関係において力を獲
得していく。したがって、エスターは、決して無力な人間ではないが、不安定
な性格でもあることを忘れてはならない。
 エスターは、語り手としての控えめな姿勢に反して、否応なく自己の物語の
前景に登場してしまうが、『荒涼館』の半分を占める全知の語り手の物語の方
には直接登場しない。したがって、主たる判断材料はエスター自身の言葉だけ
であるから、「エスターの物語」は意外に不安定な構造になっている。読者が
普通エスターの物語を信頼しているとすれば、それはエスターの性格を信頼し
ているからであろうが、しかし、そもそもエスターの性格はそれほど安定した
ものではなさそうである。それらのことが、上述のように、エスターの物語に
おいて、控えめな態度と自己主張との間の揺れとして現れていると思われる。

シンポジウム
「『ボズのスケッチ』をめぐって」
司会者の弁
中西敏一
 今回は『ボズのスケッチ』をとりあげたが、三人の講師の方はそれぞれ独自
のアプローチから、示唆に富んだ、清新な論を展開された。発表後、ギャラリ
ーと講師の方々との問で活発な質疑応答があり、参会者も積極的に議論に参加
され、シンポジウムは大変盛り上がった。以下三氏の要旨をお読みいただきた
い。

都市と生活
野畑多恵子
 『ボズのスケッチ集』は、大都市の市井の人々の日常生活を仕事、娯楽、交
通など様々な観点から描いたものである。中でも、生活が営まれる場としての
都市の「住まい」に大きな関心が払われているのは、人間を、外界やものとの
関連の中でとらえ描こうとしたディケンズならではのことである。
 ディケンズの「住まうこと」への関心は、都市生活者のほとんどが、生まれ
た土地を離れて流入してきた浮遊民であることに由来している。彼らは、生ま
れ育った土地から切り離されたかわりに、自らの運と能力次第で、どのような
場所にも、またどのような住宅にも住むことが可能であるという、住宅選択の
自由を与えられたのである。ディケンズ自身もそのような都市住民の一人であ
り、さればこそ彼は、住宅にたいして意識的にならざるをえなかったし、彼が
次々と住み替えていった住宅の歴史は、そのまま彼の作家としての世俗的成功
の証でもあった。
 『スケッチ集』におけるディケンズの「住まうこと」への関心は、多岐に渡
っている。スラム街の劣悪猥雑な住環境とそれがその住人に及ぼす弊害を描く
「セヴン・ダイヤルズ」、スラム化の過程を分析してみせる「店と店子」など
はよく知られているが、ディケンズの興味は、貧民窟にとどまらない。都市に
は、貧しい事務員の住む狭い下宿、富裕な実業家の住む高級住宅地があり、郊
外に目を転ずれば、豪華なものから慎ましやかなものまで、中産階級向けに開
発された様々なタイプの郊外住宅がある。人は、自分の経済力と社会的地位に
相応の、あるいは不相応の、さまざまの住宅を選びとる。ディケンズにとって、
まことに「家は住人を表す」ものであった。
 郊外の専用住宅は、中産階級にとって自らの資力を誇示するステイタス・シ
ンボルとなる(「ミンズ氏といとこ)一方、世俗から切り離された場所として、
ヴィクトリア時代の家庭礼賛の温床ともなった(「ロンドンの娯楽」)。「家
庭の天使」たる女性が司る、愛と平和、幸福と美徳を守る「城」としての家庭
――やがて、一世を風座することになるこの概念が、『スケッチ集』において
早くも顔を出しているのは興味深い。
 「もの」は「人」の現れであることを信条としたディケンズが、実体と見か
けの合致とかい離に深くかかわる家に興味を持つのは、ゆえなしとはしない。
読者は、『ドンベイ父子』『リトル・ドリット』『大いなる遺産』など後年の
作品のなかで、『スケッチ集』におけるディケンズの家への関心が、さらに発
展させられていくのを見ることができる。

「マンモス街の瞑想」と「幽鬼の街」
松村昌家
 『文芸』一九三七年八月号に発表された「幽鬼の街」は、伊藤整の出世作と
して評判が高い。伊藤整といえば、日本におけるジェイムズ・ジョイスの最初
の紹介者の一人であるということもあって、この作品と『ユリシーズ』との関
係については、いろいろな方面から注意が向けられている。だが、伊藤整はデ
ィケンズのよき理解者――特に『クリスマス・キャロル』の愛読者でもあった。
彼と外国文学との関係を考える場合に、この事実を無視するわけにはいかない。
現に、「幽鬼の街」に描かれた、大林滝次の亡霊が語り手「私」の体をつかん
で空中を飛ぶシーンは、まさに『クリスマス・キャロル』におけるスクルージ
のファンタスティックな経験とそっくりである。
 だが、それ以上に驚くべきことがある。小樽の水天宮山から降りた「私」が、
山田町に入りこんだあとに続く一連の出来事である。山田町は古着昼の並ぶ街
――「店の店頭には男たちや女たちや、子供、労働者、死人、さまざまの人間
の着古した……着物が、首吊りのようにゆらゆらと揺れて並んでいた」。そし
て、それらの古着が、語り手と関係のあった男や女になって、過去における彼
の人生のドラマの一こま一こまを演じるのである。
 といえば、すでにお分かりであろう。『ボズのスケッチ集』「情景編」第六
章に描かれた「マンモス街の瞑想」と、全く同趣の幻想が描写されているので
ある。
 「幽鬼の街」において、語り手が小樽の街々をさまようさまを、ダブリンを
さまようレオポルド・ブルームと重ね合わせることは、容易である。だが、街
の放浪者(フラヌール)という点では、ボズのほうがはるかに先輩であった。
しかも伊藤整が、近代日本の作家たちの中で、最も積極的にディケンズを評価
していたということを忘れてはなるまい。彼の中におけるジョイスが、ディケ
ンズと一脈通じていたとしても、不思議ではない。「幽鬼の街」における古着
街の幻想は、その事実を裏づけているといってよいのである。

映画的表現
小池滋
 一八七〇年に死んだディケンズだから、もちろん映画の発明など知るはずな
いが、驚くべきことに、彼の処女作であるスケッチ(一八三〇年代)の中にす
ら、そのまま映画のコンテになり得るようなパッセージがいくつもある。
 例えば「情景」の冒頭の二章、ロンドンの街頭の夜明けと朝、それから夜を
描いた部分は、すぐれたドキュメンタリー・フィルムにすることができよう。
とくに夜明けの家から道路に忍び足で下りて来る猫の扱い方などに注目してほ
しい。
 映像に訴えかける実験的手法は「モンマス街での瞑想」にも見られる。観察
者が肉体の目で見る描写をフィルムによる実写、彼の「心の眼」で見る想像の
部分をアニメに移し変えれば、映画『メアリー・ポピンズ』で試みられた革命
的手法を先取りすることになる。
 このように考えれば、モンタージュ理論の開発者として、映画史上に不朽の
名を残したアメリカの監督、D・W・グリフィスの言葉「ディケンズが小説でや
ったことを、私は映画でやっただけのことだ」――一見ひどく謙虚のように聞
えるが、実は途方もないほど自信満々――が、真実であったことが証明される
であろう。

春季大会研究発表の司会者として
松村昌家
 今年(一九九〇)の春季大会は、ちょうどディケンズの命日に当たる六月九
日、広島大学で開催された。降り続いていた雨もあがって、当日は快晴。冒頭
に一月十七日に逝去された故臼田昭理事をしのんで一分間の黙祷を捧げたあと、
宮崎孝一支部長のあいさつがあり、次いで松岡光治、三ッ星堅三両氏による研
究発表がなされた。以下の要旨からもうかがえるように、『クリスマス・キャ
ロル』と『ハード・タイムズ』について、それぞれ個性豊かな、興味津々たる
内容の発表であった。
 また、発表者たちが、時間を正確に守ってくれたおかげで、質疑応答を存分
に行うことができたのも印象深かった。

『クリスマス・キャロル』における「光」と「闇」の諸相
松岡光治

 ディケンズの全作品に通底する最も包括的なイメージは、キアロスクーロの
画家さながらに明暗対照法で描写される「光」と「闇」ではあるまいか。その
対立は善悪や生死など多くのダイコトミーの形をとり、人間の心の「闇」を照
らすべく「世の光」として自分を啓示したキリストの教えに従い、倫理的次元
で強調されている。
 しかし、ディケンズの作風について一般に言われるように、人生という時間
の流れを強く意識した主人公の精神的変遷を扱う中後期になると、善悪の曖昧
化に呼応して「光」と「闇」のイメーージもまた逆説的混在の様相を呈し始め
る。「光」と「闇」の混在とは、簡単には黒白を付けられないほどに複雑化し
た社会や、人間の錯綜した心理を清濁併せのむ形で巨視的に捉えたイメージで
あり、海・霧・牢獄・河といった有機的なイメージと軌を一にしている。前期
と中後期の橋渡しをする『クリスマス・キャロル』には、そういったディケン
ズの現実認識の深化を物語る作風の萌芽を幾つか見出すことができる。
 第一に、作品構成を特徴づけているのは、トーンが明から暗へ変化する過去・
現在・未来という幻想的な内枠と、クリスマス前夜の「闇」から翌朝の「光」
へ移行する現実的な外枠とが、走馬燈のごとく回転する二重構造である。この
ような時間的推移が空間表象された三人の精霊との旅において、スクルージは
内枠に描かれた絵をパントマイムの早変わりの場面のように「影」として見せ
られる。実際、過去の精霊のレーゾンデートルは頭頂から発する「光」でスク
ルージの過去の記憶を照射することにあるが、作者はその「光」によるフラッ
シュバックを使って過去の情景を「影」として映像化している。
 第二として、作品をリアリズムとファンタジーの融合として読めば、幽霊に
関する「光」と「影」の両面性が判然とする。つまり心理的リアリズムでは、
スクルージが言葉遊びでマーレイの亡霊を「影」として捉えたように、幽霊は
意識下に抑圧された生来的な善が可視的に外在化した分身と言えるが、お伽噺
的ファンタジーでは、ベツレヘムの星が暗示するように、スクルージを改心さ
せるべく「光」のイメージによって創作された神のみつかいとなるだろう。
 第三として、幸福な家庭を還元的に表すメトニミーとしての暖炉の火は、パ
ターナリズムにおいて太陽のような慈愛の「光」を見せねばならない家父長の
義務を示す。逆に、窓から洩れる暖炉の「光」は、現在の精霊が提示する鉱山・
燈台・海上といった「闇」の場面において、スクルージの道徳的堕落に対して
永遠なる死の「闇」を警告するメメント・モリとなっている。
 最後に、死を暗示する「影」、即ち死神である未来の精霊の特異性は、「光」
の代わりに放たれる「陰影」や周囲を取り巻く「暗闇」に内在する神秘性にあ
る。要するに、死を告知すると同時に永遠の断罪からスクルージを助けてくれ
た、彼の洗礼名エビニーザが意味する墓石の両価性に即して、未来の精霊もま
た死の「影」とは逆に、そのアンチテーゼである「闇」に現存する保護者なる
神のみつかいとして、彼を改心に導くという矛盾を止揚した存在となっている。
こうした微妙な意味合いは、「光」なる神の不在と臨在、つまり死と生という
人間の二種類の体験を象徴的に描出するために、ディケンズが試みた弁証法的
な意匠だと言えるだろう。

『辛い世の中』における社会風刺
三ッ星堅三

 実業家クラッドグラインドにとって、「真実」を教える狙いは、年端も行か
ぬ者達を学校という名の功利主義的牢獄に閉じ込め、人間的なもの一切の芽を
摘み取ることにある。子供達の情操や想像力の発達を抑え、所謂社会の役に立
つ、無批判で従順な人間を作ること、つまり、彼らを「従業員として勤勉で忠
実に働かせるように仕向ける」ことである。銀行員ビツァーはこのような薫陶
を受けただけあって、「理性」という名の私欲に走り、人情に絆されることが
ない。この若者によれば、人間の一生は売買の取引であり、出来るだけ安く買
い取って、出来るだけ高く売りつけることが人間の義務のすべてなのである。
 一八五〇年のマンチェスターがモデルのコークタウンは「黒い悪魔の工場」
町で、煤煙で太陽さえくすんで見える。ここの職工はあばら屋に住み、朝から
晩まで機械に縛られている。バウンダービーに訴えたい要求は数多いが、彼は
資本の論理を振り回す。ストライキにも経営哲学にも反対というブラックプー
ルは労資双方から爪弾きされて、窃盗の濡れ衣まで着せられる。また、アル中
の妻と別れたくても、離婚訴訟費用が調達出来ず、嫌疑を晴らせずに死に至る
のだから、この人物描写は読者に物足りない感じを与える。
 しかし、資本主義という妖怪に弄ばれ、至る所で鎖に繋がれた人生を送る職
工達は収奪の権力を恣にする者から頓着されることがない。これが『辛い世の
中』一編に描かれた冷厳な現実であり、その社会風刺は他の追随を許さない。
この小説は実業家の支配する「貪欲を合理化した社会」と、サーカス一座の「寛
容な感情の漲る世界」を対比させている。一方では、高い地位の人間が徳義を
重んじるどころか、打算と搾取に現を抜かす。言い換えれば、「恐ろしいのは
無秩序ではなく秩序の方であり、収奪と殺人を恣にしているのは罪人ではなく
大立者の方である」ということになる。他方、功利主義の風潮からは無用の長
物でしかない芸人が、閉塞の時代の世人の心を和ませ、人々に生きる勇気を与
えるのだが、工場という名の功利主義的牢獄にいる労働者は、このような娯楽
と自尊心を最も必要としているのに、芸人の「意気揚々とした活動ぶり」と無
縁の生活を強いられている。
 「大行は細瑾を顧みず」として、無筆の民が切り捨てられる辛い世の中を明
るくするためにディケンズが持ち出してくるのは、またしても心の優しさとい
った、俗受けするだけのものである。私利私欲の旋風が吹き荒れている時、大
本から社会的規制をしないで、愛や人情のごときものに訴えても心許ないこと
は明らかだが、作者はその限界も見通した上で、なおも人間が人間を労ること
の大切さを訴えないではおれなかったのであろう。

シンポジウム司会の弁
小池滋

 『二都物語』は、ディケンズの玄人筋(くろうと)の間では評判がよくない。
ユーモアが物足らない、ストーリーの設定が安易、歴史認識が甘い、などなど
がその理由である。それに反して、ディケンズの素人(しろうと)にとっては、
この作品がとっつきやすい入門となる。映画にするには、この作品が絶好であ
ることが、既に証明済みである。
 しかし、今回のシンポジウムでは、右に述べたような「常識」や先入見をす
べて棚上げにして、まったく白紙に立ち返ったつもりで、この作品に取り組み
たい。

『二都物語』――動揺する物語世界
新野緑

 『二都物語』は、背景となるフランス革命の歴史的位置づけ、登場人物の性
格づけの弱さから、失敗作と評価されている。たしかに、ルーシーをめぐって、
ダーニー、カートン、そしてマネットの三人を配したこの小説には、真の意味
で物語の中心となるヒーローが定まらない。もっとも、第一部が、医師マネッ
トの魂の「甦り」を示す物語であることから、作者の意図は彼を主人公とする
ことであるかに見える。そのことは、彼の描写に見られる「闇」から「光」へ
という特徴的なイメジャリーの転換や、迷宮神話を思わせる彼とルーツーの人
物造型からも明らかである。この「闇」から「光」に移るヒーロー、マネット
は、前作『リトル・ドリット』の主人公アーサーにもつながり、第一部をむし
ろディケンズにおける正統的な主人公を中心とする極めて安定した小説世界と
して読者に印象づける。しかし、第一部で確立されたビーロー、マネットのイ
メジは、小説の展開と共に徐々に揺らぎ始め、ついには、瓜二つのダーニーを
介してそのアンチ・テーゼとして小説に配されたカートンが、主人公の座を奪
う。すなわち、ディケンズは、アーサーにつながる典型的な主人公像が、『二
都物語』において、動揺し解体する様を語っているのである。しかも、このア
ンチ・ヒーロー、カートンが、次作『大いなる遺産』の主人公ピップにつなが
ってゆくことを思えば、こうした主人公像の動揺と転換が、単なる偶然ではな
く、作者の重要な意匠であることは明らかであろう。
 実際、一見秩序づけられて安定した世界が揺さぶられ、覆されるその構図は、
主人公像のみならず、小説の背景世界からも同様に読み取ることができる。小
説の冒頭に描かれる革命以前の「二都」、すなわちフランスとイギリスの社会
は、物理的、比喩的な「壁」が支配する静止した空間である。その「壁」の重
い存在が、すでに前作『リトル・ドリット』において書かれていることは興味
深い。すなわち、『二都物語』は、その主人公像に加えて、背景をなす小説世
界もまた前作から引き継いでいるのであって、その安定した世界が革命によっ
て揺さぶられ解体する様を語るこの小説は、ディケンズが自身の過去の小説世
界の動揺、解体を語る小説についての小説、一種のメタ・フィクションなので
ある。前作の「壁」から、流動する「水」へという小説の中心をなすイメジャ
リーの転換も、ディケンズの認識の変化を明らかに伝える。この物語内容の動
揺に加えて、さらに、「書く」ことと「語る」ことの分裂と解体をも示すこの
小説のエクリチュールの解読は、次作『大いなる遺産』の一人称の語りの成立
へと読解の世界を広げることになる。

『二都物語』――シドニーは英雄か?
山本史郎

 『二都物語』が書かれるに至った経緯は有名である。一八五七年ディケンズ
は友人や身内の者をかたらって、ウィルキー・コリンズの『凍れる海』という
劇の素人上演を行った。公演は純粋にプライヴェートな範囲にとどまらず、後
には女王臨席の御前公演にまで及んだというから、ディケンズがこの劇に注い
だ情熱をもって窺うことができよう。
 この劇の上演でディケンズが果たした役割は大きかった。まず、台本の段階
からコリンズの相談をうけ、積極的な助言を与えたという。劇自体ディケンズ
とコリンズの共作であるという言い方がされることもあるぐらいである。次に、
上演の際の演出はもっぱらディケンズが受持った。最後に、もっとも重要なこ
とであるが、リチャード・ウォーターという悲劇の主人公をディケンズ自身が
演じたのである。実にディケンズは三重の役割を果たしたことになる。ディケ
ンズはプレーヤー=マネージャー=ライターだったわけである。
 さて、ディケンズが執心したリチャード・ウォーターとはいかなる人物か。
簡単に言うと、ある女性を愛するがゆえに、その女性が愛する男の命を救い、
自分は命を捨てる、という英雄的犠牲精神の持主である。これがまさに『二都
物語』のシドニー・カートンの役回りと同じであることは、誰の目にも明らか
である。ディケンズは劇で演じたときの興奮とカタルシスを、もう一度、紙の
上で再現したかったのではなかろうか。
 しかしこの再現はうまく行っているであろうか。というのは、私の頭のなか
でシドニー・カートンの印象はうまく焦点を結ばないのである。焦点がぶれる
原因を考えれば、結局のところシドニーの死が英雄的犠牲が、はたまたひとり
よがりの犬死か、という相矛盾する印象に帰着する。「英雄」のほうはともか
くとして、「犬死」の印象はいかがと思われるかたがいるかも知れない。しか
しこれはよく考えてみると、ただの印象ということには留まらない。テクスト
というか、『二都物語』のプロットそのものがはらむ矛盾でもあるのだ。理屈
はこうである。
 �@シドニーはルーシーを愛するがゆえに、ルーシーの夫チャールズの身代わ
りとして死ぬ。従って「死ぬことによってシドニーは英雄になる」と言える。
�Aシドニーが気高く死ねば、常に対照されているチャールズは男が下がる。と
なると、そのような男を愛したルーシーの女も下がる。となると、下らない女
を死ぬほど愛したシドニーの死は何だったんだ?ということになる。このよう
な男が英雄であろうか?従って「死ぬことによってシドニーは英雄の資格を失
う」と言える。
 �@と�Aから結論として言えるのは、プロットの構造上、シドニーの死という
アクションは、彼を英雄にし、かつ同時に、彼を英雄でなくするという両義性
をもっている、ということである。

『二都物語』の掘り起こされた過去――Knitting, Writing, Burying, Diggingを巡っ
て――
植木研介

 この作品は「復活」の強い印象を読者の心に刻む。開巻早々の「甦れり」な
る暗号、ロリーの埋れた人間を掘りおこす幻夢、死体盗掘を副業とする「復活
屋」、就中巻末でリフレインされる「わたしはよみがえりであり、命である。
わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ十一・二五)との聖句。
これらが相まって作品をキリスト教道徳の力強い表出と見る読み方が成立する。
 この読みが誤りだとは思わない。が、一方でこの読みに亀裂をもたらすダイ
ナミックスが作品の内に潜んでいるのだ。しかも復活の心象に重要な役割を果
たす「掘る」行為そのもの、その行為と一体をなす「埋める」行為、まさにこ
こから裂け目が走り始める。そしてこれらの行為と、「編む」行為、作中にあ
っては「編む」行為の一般的営為たる「書く」こと、これらが密接な意味の網
の目を構成している。本論はこうした四つの営み(動詞)を中心とする作中の
イメジャリを細かく検討し、ここから生成するダイナミックスを記述する。
 マダム・ドファルジュは編み物を絶えずしているが、これは他人に判らぬよ
う工夫された暗号化された記録の編み日なのだ。そこに編みこまれた意味・過
去は、時至らば、復讐の運命の書となり顕在化する。暗号化の必要は他人に読
まれる危険を示す。ギャスパードの物語から判るように、この作品にあって書
くことは危険を伴ない、文書に記された呪咀は必ず書き手の身に降り懸かって
いる。(作中の書くことの意味はコリント後書三・六の蔵するパラドックスを
想起させるが別稿に譲る。)書く危険から遁れるため作中でいくつかの方法が
試みられる。一切ものを書かない。簡略化した合い言葉にする。暗号化して編
み物にする。書いた文書を埋めて隠す等である。特に牢内でマネットのとる、
手記を埋め隠す行為は、露見を恐れて発見を回避しつつ将来の発見を期待する
という矛盾を含む。
 ロリーやクランチャーなどによって反復される「掘り起こす」動作の対象は、
屍とも解し得るが、ロンドン塔のエピソードからあきらかになるのは、隠れた
文書、手記であり、その内容は呪咀の形をとった過去である。具体的にはマネ
ットの手記で、裁判の場でその記された意味は恣意的に簒奪されるのだ。この
作品の題名としてディケンズは腹案のいくつかを残している。そこには運命の
歯車や転変する運命を暗示するものが散見される。作家は掘り起された過去が
書き手の意図を無視し歪曲される形の、裏切りを働く過去に興味を持っていた
らしい。作品の終りのカートンの崇高な行為の持つ超越的意味の基盤は、過去
の意味を変えていくという、作品に潜むダイナミックスによって侵食されてい
るのである。

臼田昭さんの思い出
松村昌家

 一月十七日の朝、甲南大学の大榎茂行氏からの電話で臼田さんの訃報を知り、
その翌日の午前中に私は下鴨の臼田さん宅にうかがった。奥様が遺体の安置さ
れている部屋へ案内してくださったが、そこで久しぶりに見る臼田さんの表情
は、いつもと同じように物静かで、顔色にもあまり変化が感じられなかった。
が、もはや語りかけても応える声をもたない人になっていることは、確実であ
った。
 臼田さんと初めてお会いしたのは、いつの頃だったのだろうか。どうも記憶
が定かでない。しかし、私が一年間のイギリス滞在を終えて帰国した一九七九
年に、ご著書の『モールバラ公爵のこと』をお贈りいただいたときのことは、
今もって忘れ難い。以後臼田さんは、亡くなられる直前に刊行された『サミュ
エル・ピープスの日記』第五巻に至るまで、実に精力的に仕事を続けられ、数
多くの著書、翻訳書をお出しになった。その度に一本をご恵贈くださり、その
度毎に驥尾に付したいと思ったものである。
 そのような誼で、昨年五月青山学院大学で開催された日本英文学会でシンポ
ジウムの司会を引き受けたときに、臼田さんに無理をお願いして、それに加わ
っていただくことになった。そのための打合わせをしたのが、一九八八年の晩
夏のある夕のことであった。あいにく土砂降りの雨の中を、臼田さんは時間ど
おりに約束の場所へ来てくださった。その晩、杯を重ねながら時間のたつの忘
れて、おそくまで歓談に耽ったことは、今もってなつかしい。それが臼田さん
との飲みおさめになろうとは。
 年が改まってから、臼田さんのご容態がかんばしくないという噂をときどき
耳にするようになった。そんな中でも『ピープスの日記』の翻訳は、着々と進
められていたのであるから、そのヴァイタリティは驚異的というほかはない。
しかも、学会がま近かに迫ったある日、電話を通じて、日帰りを条件に医者か
ら許可をもらったから、シンポジウムには約束どおりに出る、という連絡があ
った。私はひたすら恐縮する一方で、それが健康回復の兆であれば、と望みを
託したものである。臼田さんは万事にわたって律義で、頼まれた原稿は必ず期
日に間に合わせる、と言っておられるのを問いたことがある。
 学会があった五月二十日、その日も雨であった。控室で会ったとき、まっ白
になった髪の毛が、コバルト治療のために目立つほどに抜けているのが、痛々
しかった。それでも臼田さんは、いつもと変わらないように力強い調子で発表
をなされ、持前のユーモアで何度も場内をわかせる場面があった。
 その後、私は何度もお見舞を思い立ちながら、遠慮し躊っているうちに、と
うとうお会いする機会を永遠に失ってしまった。あの堂々たる体躯と不屈の精
神力、そして誠実な人がらの前では、いかに質の悪い病魔といえども一歩を譲
るはずだと思っていたのに。

亀井規子氏追悼
野畑多恵子

 亀井先生に初めてお目にかかったのは、昭和四十二年、私が日本女子大学に
入学した時である。いわゆる教養課程の英語の授業であったように記憶してい
る。その頃の日本女子大学英文学科には、二年生になるとディケンズの『ピク
ウィック・ペイパーズ』を読ませるという伝統があったらしい。ペンギン版の
テキストをかかえてふうふう言っていた上級生から、あなたたちも来年は苦労
するというような話を聞いたように覚えているが、どういう理由でか、翌年の
テキストは、シェリーの『フランケンシュタイン』であった。
 先生は、始め比較文学を専攻され、明治時代の日本との関連において、ヴィ
クトリア時代の英文学に興味を持たれるようになったと伺ったことがあるが、
私がお会いしたころは、既にディケンズ研究に力を注がれていた。
 フェロウシップの東京支部読書会には、『ピクウィック・ペイパーズ』の頃
から参加され、昨年ご病気で中断されるまで、熱心な参加者のお一人であった。
大の読書家でいらした先生は、ゆっくりと時間をかけて綿密に読むこともお好
きであったので、月に一度の読書会をとても楽しみにしていらっしやった。こ
の読書会をもとにして生まれた『ピクウィック読本』『スケッチズ・バイ・ボ
ズ――ロンドンの情景』の二冊の本で執筆者、編者として活躍なさったのが、
最後の仕事となってしまった。
 私は、最初は学生として、やがて同じ大学に勤める同僚として、またフェロ
ウシップの会員として、先生にはさまざまなご指導を受けた。先生は、穏やか
で、謙虚な方でいらっしゃったから、忠告めいたことなどおっしゃらなかった。
しかし、現在よりまだ女に対する制約の多かった私の学生時代には、研究と教
育に携わる先輩の女性として、仕事と家庭を両立させていらした先生の生き方
は、良き公人であることが、良い私人であることと決して矛盾することではな
いことを無言のうちに示すことによって、後に続く女性たちの多くに勇気と希
望を与えてくださったと思う。御冥福を心からお祈り申し上げたい。

日本におけるディケンズ関係ならびにフェロウシップ会員の著訳等

小池滋監訳 リチャード・オールティック『ロンドンの見世物』 全三巻一九
八九年一二月――一九九〇年六月 図書刊行会
小池滋監訳 トマス・A・シーピオク、ウンベルト・エーコ共編『三人の記号』 
一九九〇年 東京図書
村石利夫他著 『カタカナおもしろ辞典』 一九九〇年 さ・え・ら書房
村石利夫著 『大村益次郎の知的統率力』 一九九〇年 徳間書店
桜庭信之監訳(青木健他訳)『図説イギリス文学史』 一九九〇年 大修館書
店
松村昌家他編『日本文学と外国文学――入門比較文学』 一九九〇年 英宝社
宮崎孝一監修(青木健他著)『現代カタカナ用語辞典』一九九〇年 日本文芸
社
小池滋著 『鉄道世界旅行』 一九九〇年 晶文社

臼田昭氏 ディケンズ・フェロウシップの理事として、会の発展のために御尽
力下さいました、甲南女子大学教授臼田昭氏は、一九九○年一月一七日御逝去
なさいました。『サミュエル・ピープスの日記』を始め、多数の著訳書を残さ
れ、学会に多大の貢献をなさいました。また、氏の御講演は、独特のユーモア
で常にギャラリーを沸かせました。
亀井規子氏 大会での研究発表やシンポジウムでの発表、また『ピクウィック
読本』および『ボズのスケッチ――ロンドンの情景』の監修で御活躍なさいま
した、日本女子大学教授亀井規子氏は、一九九〇年七月一七日御逝去なさいま
した。
 本会にとって、かけがえのないお二方をお送りしなければならないことは誠
に残念です。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

編集後記
今年度は二十八ページを予定していましたが、都合で三十一ページになりまし
た。来年度は二十八ページに、と考えています。御協力お願い致します。会員
の著訳書等は、自己申告していただければ大変助かります。この点も宣しくお
願いします。(中西)

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