ディケンズ・フェロウシップ会報 第十五号(1992年)
The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. XV
ディケンズ・フェロウシップ日本支部
1991年10月-92年9月
総会
1991年10月12日(土)午後2時〜5時
於慶應義塾大学 423番教室
プログラム
1.総会(午後2時〜)
2.研究発表(午後2時30分〜)
司会:西條隆雄氏
発表者:榎本洋氏
題目:「Hard Timesにおける『事実』と『空想』―二項対立の形成と解
体」
3.講演(午後3時30分〜)
司会:北條文緒氏
講師:ロンドン大学名誉教授 Barbara Hardy
演題:"Charles Dickens Imagining Imagination"
春季大会
1992年6月6日(土)午後2時より
於同志社大学寧静館会議室
プログラム
1.開会の挨拶(14:00〜14:20)
支部長 小池滋氏
2.研究発表(14:20〜15:20)
司会 原英一氏
発表者(1)玉井史絵氏
「Little Dorritにおける虚構の構造」
(2)栂正行氏
「Great ExpectationsのWemmickについて」
3.シンポジウム(15:30〜17:30)
テーマ「ディケンズと演劇」
司会・講師 西條隆雄氏
講師 楚輪松人氏
松村昌家氏
「モンタージスの犬」など
西條隆生
「クリスマスツリー」(1850)は、ディケンズが幼少年時代に読みかつ打ち
果した様々な文芸土壌を語ってくれる。そこには、童話、アラビアンナイト、
チャプブック、パントマイム、人形劇、メロドラマ、そして怪奇談が多彩に顔
を揃えている。日頃さして注目を浴びないこれらの文芸が、ディケンズの作品
中においてしばしば言及されていることは、私達の気付くところである。
ところで、パントマイムとかメロドラマについては、脚本や舞台を見ない限
りよくわからないのが実情であろう。ここでは、言及された「粉屋と手下たち」
「モンタージスの大」「エリザベス、あるいはシベリアの流罪人」を少しばか
り解説し、出典をあげてみたいと思う。これらは当時流行した芝居であり、デ
ィケンズ自身ウェリントンハウス・アカデミーに在学中に人形芝居で上演した
ものであった。生き生きとした喜びが伝わってくるのは、そのせいであろうか。
「粉屋と手下たち」何も知らぬ小作人Kelmerは、正直者の粉屋を装う盗賊の
首領Gundolfに娘を嫁がせようとする。しかし娘には恋人がいて父の要求を承知
しない。盗賊は閥にまぎれて娘をさらい隠れ家に連れて行くが、変装して賊の
一味に紛れ込んだ恋人のLothairが危機一髪彼女を助けだし、逃走におよんで火
薬庫に仕掛けた導火線に点火する。盗賊一味は風車小屋もろともこっぱ微塵に
吹き飛ぶ。Isaac Pocock, "The Miller and His Men" in Michael Booth ed, Hiss the Villain
(London, 1964)/English Plays of the 19th Century, 1 (Oxford, 1969).
「モンタージスの大」指令官の寵愛を受けたAubriは、宿の女将が止めるのも
聞かず、密命を受けて夜間に隣国の城主に会いに旅立つ。ところがボンディー
の森で、彼の昇進を妬む同僚に闇討ちされる。愛犬のDragonは殺害者Macaire
と激しく格闘したのち逃げ帰り、宿の女将をたたき起こして主人の埋められた
場所に案内する。一方、宿で働く亜者の若者が容疑者にまつりあげられるが、
犬を縛るために使ったMacaireの飾り帯が森で見つかり、これが決め手となって
死刑の一歩手前で容疑者の命は助かる。Macaireは犯行を認め、ピストルで自殺
する。
別版によれば、Macaireは補吏の手から逃走し渓谷に逃げるが、宿の下男と
Dragonに追いつめられて、ついに岩の頂から滝壺めがけて身を投じる。逃がさ
しとDragonはなおも水中にこれを追い、格闘のうち犯人を捕える。百姓達が「当
然の報い」を喝采する中に幕が降りる。William Barrymore, "The Dog of Montargis,"
in British Drama Illustrated, 5/ The Forest of Bonday; or, the Dog of Montargis, (New
York, 1816).
ディケンズは百姓男が"sassigassity"(「殺聡悟」)なる言葉を語ったと書いて
いるか、いくつかの脚本を照合しても見つからない。芝居終了後の口上であっ
たのかも知れない。物語は一三七一年の実話にもとづいたもの。
「エリザベス、あるいはシベリアの流罪者」 Ulrick公は政敵により地位、財
産および自由を奪われ、12年の長きにわたりシベリアに流罪の身となっている。
父の嘆きの中で育った娘Alexinaは、女帝への助命嘆願を胸に、老僕と共に長途
の旅にでる。追手に阻まれ、大自然の危険に身をさらしながらも、別人に身を
やつした青年に助けられて彼女はモスクワにたどり着き、即位したばかりの女
帝Elizabvethに父の無罪を訴え、父を救出する。Frederick Reynolds, "The Exile" in
Cumberland's British Theatre, 29.
実話にもとずいて作品化されたもので、脚本ではAlexinaとなっているが、も
との小冊子(M. Cottin, "Elizabeth; or, THe Exiles of Siberia")においては娘の名は
Elizabethである。彼女が旅にでるのは17才、父はSpringerを名乗るが実名は
Stanislaus Potowsky, また皇帝はAlexanderである。
ディケンズと教育
藤村公輝
フィリップ・コリンズ教授の『ディケンズと教育』の翻訳を進めながら、折
にふれて感じていたのは、教育の本質というものが、時代を超え洋の東西を問
わず同じものであるという感慨であった。つまり、教育とは一言でいえば、人
間性を引き出すことであるといえよう。
ところが、これは言葉で言うほど簡単なことではない。人間が人間になるた
めに学習しなければならないことは、誰しも認めるところである。しかし、大
人が子供に何を伝え、子供は何を学習すべきかとなると意見の一致は難しい。
結局教育の問題というのは、具体化する段階で十人十色になり、時代や、国家、
民族によって、その教育内容は千差万別になる。
ヴィクトリア朝時代の英国において、どのような教育が行われていたのか、
その一端は、ディケンズの作品からおおよそ見当はつけることが出来る。英国
においてもディケンズの死去の年、一八七〇年以降、国家による教育制度が徐々
に整備されていくのだが、それまでは当然ながら、私塾の類いが乱立しており、
良くも悪くも独自の教育が行われていた。『ニコラス・ニクルビー』に出てく
るドゥザボーイズ校のような学校が現実にあっただろうし、『辛い世』に描か
れているような事実重視の詰め込み教育が行われていたのも疑う余地はない。
現代日本の教育現場の一部と非常によく似ている。
ディケンズの教育問題に対する関心は、コリンズ教授も指摘されているよう
に、無知ゆえに犯罪に走ったり、貧乏のために教育を受けられず悲惨な生涯を
去らざるを得なかった人々がいることを知り、それに対する彼なりの怒りと正
義感に発している。例によって、ディケンズはひとたび興味を持つとその対象
にのめり込んでしまい、ただでは済まなくなるのである。今も言ったように、
ディケンズの頭の中では貧乏、無知、犯罪が結びついて、その是正策として教
育の必要性を説くという側面が強く出てくるのだが、同時に当時の教育現場(私
塾の類い)の実感が、教育どころの話ではなく、搾取と虐待の状況を呈してい
たことを見逃がさす、告発する形にもなっている。
しかし、ディケンズは学習することの大切さを強調しながらも、また教育を
受けることで、一番大切な本来の人間性を失っていく哀しい人間(例えば、師
範学校教育の弊害)の姿も見落としてはおらず、その様子は『互いの友』の中
に描き出されている。
ディケンズの持つ現代性などと強いて言わずとも、彼のこのような批判は、
そのまま現代日本の教育の現状にあてはまるものが多い。教育を受けること(学
歴)が立身出世の手段であることは昔も今も変わりはない。公教育制度が整備
されている現代日本では、義務教育の就学率が九〇パーセントを超えているが、
就学率の高さと教育内容の善し悪しとは全く別問題であろうし、ディケンズが
口を極めて非難している事実一点張りの詰め込み教育は、今大手を振って日本
の教育現場を闊歩している。一方でディケンズは「想像力」の涵養を力説して
いるが、今の日本では建て前として賛同されてはいても、本音のところでそれ
は無視されており、「想像力」よりも「暗記力」と言うことになっている。
ディケンズの教育に関する意見や提言の多くは、そのまま現在のわれわれが
抱えている教育の問題と直結していることを痛感しながら、この『ディケンズ
と教育』の訳出作業を進めた。訳書出版後もその意識は、私の中で継続してい
る。
それ故、事のついでというか、成り行き上、今のところ、ディケンズと教育
の問題にのめり込んでしまい、私事にわたることで恐縮だが、蛇足を付け加え
るならば、既にJ・L・ヒューズの『教育者ディケンズ』を一応訳了して、本務
校の紀要「教育科学研究」にその抄訳を連載中である。また、ジョン・マニン
グの『ディケンズの教育観』も訳出中で、いずれ近いうちに上梓したいと思っ
ている。
P・コリンズ『ディケンズと教育』山口書店、一九九〇年
『変身』の視点
間二郎
『変身』といえば、まずはカフカの世界が思い浮かび、『ディケンズと変身』
などと言えば、奇をてらう、あるいは「鬼面」なんとやらのお叱りを受けるん
じゃないかと恐れおののき、しきりに気がひけるのだが、近頃二三の友人と「変
身」の話しをしながら、そういう視点から「ディケンズの世界」の解釈を語っ
てみたい気持ちを強く覚えたことだった。そんな気持ちになったのも、考えて
みると、すいぶん前にでたD.V.Ghentの"The Dickens World: A View from Todger's"
や比較的最近のものではP. McCarthyの"Designs in Disorder: The Language of Death
in Our Mutual Friend"(Dickens Studies Annual, Vol.17)なんかの論旨が、共感でき
るものとして頭のなかにあったからだったらしい。その両者の論点を与えられ
たスペースで語るのは無理なはなし、ただ私の興味を引いた点だけをおおまか
に言っておこう。つまり、この二人は、日常的には対照的なものとして〈固定〉
視されているところの、『存在』『状態』『領域』など――例えば(動)物と
人間、生物と無生物、内面と外面、愛と憎しみ、清らかさとおぞましさ、ある
いは死と生、神秘や幻想と現実、善と悪、はては人間Aと人間B、等――の間
の明白な境界を取り払い、あるいはその境界を朧化するディケンズの表現技法
に着目し、それを必然なものにしている認識様式に迫ろうとしている、という
ことだ。McCarthyの、「すべての存在が、生命力溢れる我意の促すままに各々
の存在を主張して他の一切の犠牲を顧みないところの、根本的に無秩序な世
界」というディケンズの世界の特質要約は、彼の基本的な視点を端的に示して
いる。これも、よく言われる"animate-inanimate"論議の系列に属するものであるこ
とは言うまでもない。しかしこのあたりには、あの変幻自在のプロテウスに象
徴されるような、いわゆる"METAMORPHOSIS"の系譜に重ね、じっくり見直す
ことによって明らかになるような、『ディケンズの世界』の問題が潜んでいる
ように思われる。それも、『変身』の現象的系譜だけでなく、その『意義』と
もいうべき発想の基盤についても考えなければ、と思う。
H.SkulskyのMETAMORPHOSIS, The Mind in Exile(Harvard, 1881)には、ホー
マーに始まってV・ウルフまで十の変身主題が扱われている。イギリスのもので
は、ウルフの他にダン、スペンサー、キーツが取り上げられているが、ディケ
ンズの世界も似たような視点から論じてみるのも面白いのではないかと思う。
なお、『変身のロマン』(渋沢龍彦)、ちくま文学の森4、5、6、7(D・の「信
号手」を含む)、『影の現象学』(河合隼雄)、『見えるものと見えないもの』
(メルロ・ポンティ、邦訳)、『カフカの解読』(池田・他)その他が私の脳
味噌の中に「変身的に」混在していることもご参考まで。
一九九一年度総会における講演について
司会 北條文緒
一九九一年秋の総会は、慶応義塾大学の招きで来日中のバーバラ・ハーディ
氏による講演が唯一にして最高のイヴェントであった。連日のセミナーや講演
の疲れも見せず、ディケンズの作中人物たちの想像力の働きをめぐって、引用
をふんだんに交えての生き生きした講演に聴衆は魅了された。この講演の内容
も収録したImagining Imaginationという本の出版はもう少し先の話である由、ハ
ーディ氏が司会者の予告を気にしておられたので一言お断わりをしておく。
想像力を想像するディケンズ(Dickens Imagining Imagination)
バーバラ・ハーディー教授講演要旨
(文責・斉藤九一)
作家は、その作品の中で、想像力(創造力)の働きそのものを、暗示的にあ
るいは明示的に、描写したり分析したりしてみせることがある。私は、このよ
うな、作家自身による想像力の働きの描写・分析という現象に、持続的な関心
を寄せてきた。これは先年出版したTellers and Listeners(Athlone)の主題であっ
たし、また現在執筆中のシェイクスピアに関する本の主題にもなるはずであり、
今回のディケンズ講演も同じ関心を反映しているものである。
The Old Curiosity Shopにおいてディケンズは、curiosityという言葉を創作的想
像力を暗示する言葉として使っている。この物語の語り手(最初はハンフリー
親方で、やがて無名の語り手に修正されるが)にとって、「骨董屋」は想像力
の生息する場所であって、そこにある品物は想像力によって変貌させられるべ
き材料のように見える。グロテクスな品物はグロテクスな仲間に変化し、少女
ネルと彼女を取り巻く骨董品との視覚的な対比がインスピレーションとなって、
彼女の清純さが脅かされる物語を生み出すのである。
David Copperfieldの主人公は幼い頃十八世紀の小説やアラビア夜話を愛読し、
それが彼の創造性の基盤となる。その創造性は、幼年時代においては物語の登
場人物との一体化に見られ、また、孤独な旅の途上や、学校の寄宿舎の闇の中
の語りの場面においては、かつて読んだ物語の修正を伴う語り直しとして現わ
れて、やがて本格的な小説家の技巧へと発展していくのである。
複数の人間の会話が想像力を活気づける場合もある。この創造的共同作業と
でもいうべきものの一つの例がDombey and Sonにある。ウォルターと叔父のソ
ル・ギルズは、マデイラワインを飲みながら、お互いに相手を煽りたてるよう
にして、その古いマデイラワインが船に積まれて経てきた数多くの海の冒険の
物語を想起・追体験・再創造し、興奮が高まるにつれて、ほとんど一つの文を
二人で分けて語るまでに至る。この想像力の二重唱は空想の限界を越えて、現
実のウォルターの野心を燃え立たせもする。
この例ほど二人の比重が平均化してはいないが、同じような二重唱はLittle
Dorritにも見られる。リトル・ドリットが王女の物語を語り、聞き手のマギーが、
反論・提案・憶測の形で、物語の様々な側
面に形を与えたり強調したりする。ここでディケンズは、物語を語る行為が、
どのようにして、現実を偽装・修正し、秘密を告白しつつ同時に隠蔽すること
ができるかを見事に示している。このような対話的創作行為のもう一つの例は、
少女フロレンス・ドンビーを慰め、彼女に母の死を納得させるために、ポール
の乳母のポリー(別名リチャーズ)が語る死の物語である。
この構造をもっと複雑にしたものが、Our Mutual Friendのジェニー・レンとラ
イアの共同作業に見られる。そこでは、ジェこ−はライアを現実原理として利
用しつつ、自分は苛酷な現実を変貌させるのである。ジェニーが、人形の衣装
の着想・訂正・修正・製作の過程で「現実の」モデルを必要とするのもまた暗
示的である。
それに対して、孤独で病的な想像力の働きもある。Great Expectationsの少年ピ
ップの想像力が、周囲の風景や動物を溶解させたり、逆に、活気づけたりする
のは、強烈な感情の圧迫を示すものだろう。またEdwin Droodは想像力の働きそ
のものの映像で始まる。すなわち、ジャスパーの拡散した意識の収斂・自問自
答・幻想と現実・自己修正と自己生成などの描写である。阿片窟で幻想にふけ
る人の「寝椅子」も、重要な想像力の源の一つなのである。
語り直される物語・阿片が生み出す夢・空想による願望充足・罪悪感を伴う
変身と強迫観念・偽装された告白等々――これらは、ディケンズの作品におい
て、作家の創造的精神と登場人物の心理の描写および分析を特徴づけており、
また、小説の外部の人生と精神の創造的な活動を反映し、またそれに反省を加
えるものであろう。
一九九一年総会における研究発表
司会者の弁
西條隆雄
若手の研修者に積極的に発表していただこうと、この4月より名古屋の大学
に奉職されたばかりの榎本洋氏に研究発表をお願いした。氏は『辛い世』につ
いて、事実と空想の「二項対立」に疑問をはさむ形で論述し、多くの興味ある
質問を呼び、いい討論の場を提供してくださった。発表内容はその後、「Hard
Times論―二項対立の形式と解体」と題して『中部英文学』11号(1992)に掲載
されているので、詳細についてはこの論文を読まれたい。
『つらい時』における「事実」と「空想」――二項対立の形成と解体
榎本洋
架空の産業都市を舞台にした『つらい時』は、一貫して産業社会が個人にも
たらす歪みを想像力の貧困という観点から指摘する。風刺の対象となるのは
Gradgrind, Bounderby等が支配する「事実」一辺倒の無機的な世界である。それ
に対してSissyのいるSlearlyのサーカスが対置される。実際、テキストを貫く「事
実」と「虚構」(「空想」)の二項対立は多くの批評家により指摘されている。
しかし、このテーマ的二項対立もプロットを中心に検討すると必ずしも機能
してないように思われる。このテキストは、Gradgrind, Bounderby, Sissy, Slearly
を中心とする4つのプロットから成っている。
この中で一番大切なのはGradgrindを巡るプロットで、「事実」と「空想」の
テーマ的対立もこれに手際良く集約されている。このテーマはLouisa, Tomの二
人の教育の失敗を通して、読者の前に提示される。GradgrindのプロットはLouisa
が受動的な存在となって、Tom, Bounderby, Harthouseの力関係の影響を受けつつ
再び父親に押し戻される形をとるので、一つの円環形をなしていると言えよう。
ここでは「事実」と「空想」の対立が子供達の教育の失敗を通して描かれてい
る。そして、その対立はGradgrindの「改心」というロマンス仕掛けのプロット
を通して行なわれる。
それでは、この「事実」と「空想」の対立は、他のプロットではどの様に反
映されているのだろうか。BounderbyのプロットがGradgrindのそれとテーマ的
に関るのは、Mrs. SparsitによるBounderbyの「正体暴露」である。大切なのは、
彼の転落が事実万能主義を意図したように思われようとも、それがLouisa, Tom
のように、「事実」による「空想」の抑圧による誤った教育によるものかは断
定し難い点である。なぜならGradgrindのプロット同様そこにテーマ的関連を少
しでも見い出そうとするならBounderbyがなぜ「世間で一番いい両親」に愛され、
教育されたにも拘らず、自分の半生を偽ったか説明できない。では逆に、甘や
かされたが故にあの様に怪物めいた人間になってしまったと考えるのはどうだ
ろうか。しかしそうなると作者の理想とする教育自体が曖昧になってしまうた
め、テーマの提示そのものが無意味になってしまう。同じ事は、Sissy, Blackpool
のプロットにも言える。Sissyも当初から固定された人物として呈示されている
ため、その本質も如何なる教育とも関係なく、そこに二項対立のテーマを読み
取るのは無理と言える。更に大切な事は、一見「空想」を代表するサーカスが
必ずしも積極的な価値をもっているわけではないことである。団長のSlearlyは
Sissyの父親の消息を隠してしまい、彼女には本当の事は知らされない。ここで
は「空想」が「事実」をおおい隠してしまう。
このテーマの虚構性は、それと最も縁遠いBlackpoolの世界にもあてはまる。
Blackpoolの場合、その対立をプロットに内包する他のプロットに組み込まれる
事で、その虚構性を明らかにしている。Tomの犯罪発党、Bounderbyの「正体暴
露」を側面から示しているのである。F. R. Leavisが考えている以上に「正体暴
露」(特にBounderbyの場合)の意味は大きいと言える。
以上このテキストが単に「空想」の勝利を主張した事でないのは明らかであ
る。寧ろ「事実」を否定した時はどうなるか、また「想像力」を軽視するとど
うなるかを示す事で定形化した二項対立を解消したと言える。作者が二項対立
を打ち立てる事で目論んだ社会批評は、特にBounderbyの「正体暴露」の手法を
通してテキスト自体に裏切られてしまったと考えられないだろうか。
*なお詳細については「中部英文学」(一九九二・三月発行)を参照のこと。
「読書会から」
『ニコラス・ニックルビー』二六章の冒頭近くに、'His hopeful friend and
pupil ...'なる文章がある。〈ペンギン版四〇八頁)。ここで使われる'hopeful'の
意味が曖昧なので、ロンドン本部のA・S・ワッツ氏にお尋ねしたところ、氏が
編集されている'Mr. Dick's Kite'誌上で意見を募って下さった。それについて、最
新号(一九九二年七月)で、ディケンズ・ハウス館長D・パーカー氏の次のよう
な意見が掲載されたので転載させていただく。(K・A)
HOPEFUL
Dr David Parker, Curator of the Dickens House Museum, writes: "Browsing through the
November KITE, I came across the correspondence on Dickens's use of the word
"hopeful" in a passage in 'Nicholas Nickleby' . Irene Howlett is demonstrably correct.
We are talking about the dictionary meaning - and not even an O.E.D. meaning either. I
found it in my Concise Oxford. One meaning of 'hopeful' is 'promising': inspiring hope
rather than feeling it. In the 'Nickleby' use, of course, ironies ricochet in the background.
Lord Frederick is scarcely promising in any respect. We may be tempted to suppose he'll
turn out a well-trained scoundrel , but even that's doubtful. Of course, he is 'hopeful' for
Sir Mulberry, because he promises to be a useful source of readies. A final irony,
naturally, is that any hope or promise he has is to be nipped in the bud."
一九九二年春季大会の研究発表について
司会・原英一
同志社大学で行われた今年の大会での研究発表は、玉井史絵氏と栂正行氏と
いう、新進気鋭のディケンズ研究者お二人によるものであった。玉井氏、栂氏
ともに、取り上げた作品を丁寧に、また深く読みこんだことが、随所に窺える
発表をなされた。詳しい内容については要旨を参照いただきたいが、若手研究
者らしい斬新な解釈が試みられ、フロアからの的を射だご意見、ご質問もいた
だけた。司会者としては、これらの作品についてあらためて貴重な勉強の機会
を得たことを感謝したい。いつものことであるかもしれないが、時間の制約上、
議論が尽せなかった感があったことだけが心残りである。発表されたお二人に
は、この日の質疑応答を踏まえて、読みごたえのある論文をまとめあげられる
よう期待している。
『リトル・ドリット』における虚構の構造
玉井史絵
拙論では『リトル・ドリット』のヒロイン、エイミーの「成長」の過程を虚
構から現実への動きの中でとらえてみた。
モンロー・エンゲルの指摘する「現実と幻想の曖昧な区別」というのは『リ
トル・ドリット』の主要なテーマであり、それは牢獄のイメジャリーと密接に
関わり合っている。牢獄は人間を閉じ込める壁としてその機能と同時に、外界
の現実から囚人の内面の幻想世界を守る砦としての機能を併せ持っている。牢
獄とは、囚人達が外界のstareから隔絶され、自らの幻想や妄想のおもむくまま
に虚構を作り上げる世界なのである。そして『リトル・ドリット』におけるほ
とんどすべての登場人物は、このような虚構の牢獄に生きる囚人である。囚人
達は牢獄からの解放を願う。彼らは意識的、あるいは無意識的に、虚構の世界
から現実の世界への道を模索するのである。エイミーもまた例外ではない。
エイミーの性格分析に関しては、これまで、彼女の善性が強調されてきたが、
彼女自身の内面には様々な矛盾や迷い、葛藤が潜んでいることも見逃してはな
らない。
そしてそのような一面は、彼女が虚構からの解放を模索する過程に、最も端
的にあらわれている。「マーシャルシーの子供」として生れた彼女は、牢獄と
いう虚構が支配する世界の精神的な悪影響に常に曝されている。その中で彼女
は、様々な試練を経て、虚構に生きる虚しさを知り、現実に根ざした生き方を
選択していくのである。
第一部、エイミーはマーシャルシー監獄の中で、最初は「共同の産物」であ
る虚構を家族と共に共有している。彼女は「マーシャルシーの父」としての父
親の虚像を「無邪気な誇り」をもって信じている。しかし、やがて、彼女はア
ーサーとの出会いや夜のロンドンの街の彷徨といった経験を通じて、外界の現
実に対する認識に目覚めていく。ジョンからの求婚の拒絶は、現実から隔絶さ
れた空間の中で生きることに対する、彼女の最初の拒否の意志の表れである。
第二部、ドリット一家は莫大な遺産を相続し、マーシャルシー監獄から釈放さ
れて上流階級の一員となる。だが、外界の現実を排除し、虚構の世界を生み出
す精神構造において、二つの社会は何ら変わりはない。エイミーは既にそのこ
とを見抜く洞察力を身につけるまでに成長したため、もはや家族と共に虚構を
共有することはできない。彼女は徐々に家族からの疎外感を深めていく。
父の死後、彼女は上流階級の虚飾を捨て去り、アーサーと共に牢獄を出て
「騒々しい街中」という現実世界に降りていく。そしてこの結末は、虚しく虚
構の中だけに生きた人々とは違った、現実に根ざした新しい人生の始まりを読
者に予感させるものとなっている。
『大いなる遺産』のウェミックについて
栂正行
『大いなる遺産』には、ディケンズの他の作品と同様に、興味深い人物が多
数登場するので、家と職場の往復に終始するだけの平凡な生活をおくるかに見
えるウェミックは、読者にとって、おもしろいけれども行きずりの人物にすぎ
ないということで終わりかねない。
この人物については、その行為と名前がなかなか結びつけられないというこ
と、事務所は事務所、私生活は私生活という厳格な哲学を持っていること、個
性的な城を所有するコレクターであることなどを確認しておけば、あとはその
登場のたびに、私たちはただ楽しめばよいということになるのかもしれない。
ところがこの作品の主人公であるピップと比較してみると、彼は決して脇役に
とどまることのない重要な人物となる。それはウェミックの「いま−ここ」に
あるもののみを思う生き方が、ピップの「いま−ここ」にあるものを思わず、
「いま−ここ」にあらざるものを思う生き方を際立たせるからである。つまり
「心ここにのみあり」という人物ウェミックがピップの「心ここにあらず」と
いう状態の輪郭を明らかにする。例えば、二人の書く手紙にこの違いがあらわ
れる。ピップの最初の手紙は、目の前にいるジョーに宛てたものだが、ピップ
の心は目の前のジョーになく手紙のなかのジョーにある(第七章)。ここから
ピップは「いま−ここ」にあらざるものを思い、また「いま‐ここ」にあらざ
るものを思いつつ書くという生活に入る。一方、ウェミックの書く手紙は、計
画の実行を促す手紙(第五十二章)に明らかなように、すべて現実に密着した
手紙で、余計な内容を含まない。しかも手紙は匿名で、その処分については「燃
やせ」と指示がついている。このように際立った対立を示す両者の手紙ではあ
るが、手紙を書くという行為の意味を、さらに広げて、ものを書くという行為
の意味、ひいては、小説を書くという行為の意味にまで重ね合わせてみると、
二人の手
紙の書き手は補完関係にあるということになる。「いま‐ここ」にあらざるも
のを思い、すべてを書きつくそうとするピップ的な行動が、物語を前に推し進
める。二つ世界を区別し、匿名性を維持しようとするウェミック的衝動が、作
者の世界と作品の世界の相互浸透をかろうじて防ぐ。そのように考えると、二
つの世界を往復するウェミックのなかに、さまざまな種類の二つの世界あるい
は複数の世界を生きる私たちが読み込める問題は少なくなく、ウェミックもピ
ップに劣らず重要な人物ということになる。
発表後、はたしてオーリックに第五十二章の手紙が書けたのか、ウェミック
も私生活ではいろいろなことを書き連ねていたのではないか、手紙を書くこと
と小説を結びつけることに無理はないか等の複数の貴重なご意見をいただいた。
発表者にとって一番気がかりな問題、つまりこの作品でピップとウェミックと
ではどちらが幸福であったのかという一見素朴かつ簡単そうで、実は奥の深い
問題と併せて、それらについて今後考察を深めたい。
一九九二年春季大会シンポジウム
「ディケンズと演劇」
司会・講師西條隆雄
ディケンズは民法博士会館につとめていた頃、「少なくとも3年間ごくわず
かの例外をのぞいて、毎晩ある劇場に通い」、帰ってから役者のたち振る舞い
を4〜6時間まねし続けたという。自ら6つの脚本を書いているし、小説には当
時のおびただしい芝居が言及されている。オーディションをうけて俳優の道を
歩む一歩手前で断念はしたものの、生涯彼自身が役者となって20に余る芝居を
公演している。しかもマクレディーが舌を巻くほどの名演技であった。彼の創
った人物と演劇の関係は一目瞭然で、作品自体も出版されるや否やきそって脚
本化された。加えて、晩年の公開朗読の旅もある。
こんなことを考えると、ディケンズは小説家のみならず、演劇家でもあった
と言わなければなるまい。扱うべき事柄が多すぎるこのシンポジウムでは、テ
ーマが拡散しすぎないようできるだけ焦点を絞り、当時の演劇がディケンズの
著作にどのような形で入りこんでいるかだけを読みとることにした。対象も後
期の『共通の友』『大いなる遺産』『リトル・ドリット』の三作に限った。
『共通の友』と『せむし男』
『共通の友』においては塵芥処理人であるボフィン氏が大きな役割をはたし
ている。塵芥処理人は"The Literary Dustman"という当時流行したバラッドによっ
て読者に違和感なく受け入れられた事は、以前どこかで述べた。
この塵芥処理人は、遺産相続人であるハーモンが亡くなったことを知ると、
自分のものとなる塵芥の山を換金しようとせず、だれか孤児を引き取って育て
るお金に使おうと考える。また、死んだジョン・ハーモンの許嫁であったベラ
を哀れに思い、自分の屋敷に引き取り養女として育てるのである。貧しい出自
の彼女は、いつしか傲慢な女性に変貌してゆき、屋敷の秘書の求愛を「秘書風
情」のそれとして一蹴するのである。
そんな頃、かつては純朴で思いやりのあったはずのボフィン氏は金の亡者と
なり、すさまじいまでの金銭への執着をベラに見せつける。養父のあまりの変
貌にいたたまれなくなったベラは屋敷を飛び出し、彼女を愛するロークスミス
の前に跪いて、自分の過ちをわびる。
ところで、こんなプロットはどこか読者がよく知っている文芸になかったで
あろうか、というのが私の出発点である。そこで当時の芝居をさがしてみると、
エインズワースの作品を脚色したTaylorのThe Miser and His Daughter(1835)に
は守銭奴と娘、そして幼少時にかわした結婚約束の文書が相続条件となってい
るし、Sheridan-KnowlesのThe Secretary(1843)には、死んだはずの相続人が秘
書となって財産を相続した人の屋敷で働くという筋書がある。ところが、同じ
KnowlesのThe Hunchback(1832)は、Our Mutual Friendに酷似している。養父は
いずれも、醜いせむしと塵芥処理人、養女は清楚な己を一時失って傲慢となり、
許婚者との間が不仲となる。その許婚者は秘書を務めている。養父はそれぞれ
トリックをうまく演じて、娘を本心に立ち戻らせるのである。
ディケンズは金銭と愛、死と生のテーマを描くにあたり、上掲の芝居を巧み
に取り入れ、ヴィクトリア朝の風景の中においてアレンジしたのであろう。突
然の遺産継承、出世、境遇の変化が人間の心理にいかなる作用を及ぼすか、そ
の過程を丹念に追い、一方では守銭奴の鬼気せまる姿を描き、他方では金銭崇
拝社会の様々な歪みを塵芥の山や汚いテムズ河に象徴させながら、すばらしい
社会模様を描いているのである。
『ロンドン商人』と『大いなる遺産』――ステレオタイプからアーキタイプヘ
――
楚輪松人
アディソンによれば、文学には「遍歴」のパターンと「演劇」のパターンが
存在する(Spectator,No.219)。敷衍すれば、前者では、主人公の人生描写に於
いて、一連の、連続して起こるアクションと孤独な主人公に重点が置かれ、目
的論が強調される。後者では、この世はすべての人に役割が与えられた劇場、
演劇的空間となる。また役割を演じる主人公の他者との相互作用に重点が置か
れ、一見したところ物語の事件は、恣意的で、不可解で、予想しがたいものと
見えることがその特徴となる。この「演劇」の隠喩は、社会に於ける個の存在
を表現する場合、次第にその社会認識・人間認識を深めたディケンズにとって
は、「遍歴」のパターンよりも相応しいパターンであったかもしれない。
『大いなる遺産』執筆の霊感源の一つがジョージ・リロの『ロンドンの商人』
である。美しい娼婦に無分別に夢中にのぼせた結果、破滅への道を歩み、その
裏切りと犯罪の生涯を改心して告白する徒弟の芝居、この勧善懲悪な道徳、安
価な涙をそそるお涙項式式の物語である芝居の何処にディケンズは魅かれたの
か?
小説の作品世界は、空間的あるいは階級的にもかけ離れた人物たちの繋がり
によって成立している。また空間的のみならず時間的にも個人の人生における
過去が現在に呼び込まれ、一人物における時間の繋がりも強調される。このよ
うに原作が転位された小説の主人公は、隠された過去の秘密に拘束されている
人物で、その罪意識と金銭による精神的堕落が作品の主要なテーマとなる。同
時にまた、同時代の人々が共有していたジェンティリティヘの憧憬への念を作
家は問い直す。結局、主人公の憧れは、自ら構築した虚構の世界に過ぎないこ
とが判明するわけである。
演劇とは、ある種の「憑依」であり、演技の本質が、現実にはどこにも存在
しないものを自分に取り憑かせること、言わば「ものぐるい」であり、そして
劇というものの本質が、見えざるもの開示、その現実への侵入・占有にあると
すれば、「紳士」という概念の「亡霊」に取り憑かれた主人公ピップは、それ
に「ものぐるい」し、また逃れようとして逃れない罪意識、断ち切れない過去
の絆を絶えず意識している、哀れな「劇的」存在と言えるかもしれない。
物語は、結局、主人公ピップが「おじ殺し」の役割を贖い、文字通りに「ロ
ンドンの商人」となって、彼自身が小さなピップのおじとなって終わるのであ
るが、原作のおじ殺しの徒弟、中産階級の一市民であったアンチ・ヒーローの
物語が、ディケンズの想像力により、フィリップ・ピリップという十九世紀の
中産階級そのものを具現する人物の道徳的麻痺・誤謬に変貌し、大衆の悲劇と
いうパターンは、時代の社会の価値そのものをも糾弾した作品と変貌している
のである。
『リトル・ドリット』における「カーリタース・ローマーナ」
松村昌家
『リトル・ドリット』第一部第十九章は、「マーシャルシー監獄の父」ウィ
リアム・ドリットの尊大さと卑しさのパラドックスが、最もよくあらわれてい
る章として注目に値する。彼が娘エイミーの前で、まるで手に負えないわがま
まな子どもぶりをさらけ出す場面に、"There was a classical daughter once "perhaps"
who ministered to her father in his prison as her mother had ministered to her" という一
文があり、"a classical daugther"がArthur Murphyの悲劇The Grecian Daughterのヒ
ロイン、エウフラシアを指すものであることは、各種の注でも指摘されている
とおりである。
エウフラシアとは、シシリー王エヴァンダーの娘。監獄につながれた父親の
身の上を気づかう彼女は、必死の努力の末、面会の許しを得る。そして獄内に
入った彼女は、わが乳房を吸わせて、父親の飢渇を癒す。つまり、父と娘の関
係が、母親と子どもの関係に転じる。しかもその逆転のありさまが、愛情物語
の神髄として、大変感動的に語られているのである。先の引用と、それに続く
部分が、『ギリシャの娘』に展開される、父娘の逆転のシーンに、必要な変化
を加えて書かれたものであることは、明らかである。しかし、もう一つ気にな
るところがある。"A classical daughter"のすぐ前に書かれている"A serious picture
they had in their obscure gallery…"という部分である。これはおそらくただの比喩
として受け取られてきたのかもしれないが、実は監獄で餓死に頻した父親(キ
モン)に、自分の乳房を吸わせて栄養を与える娘(ペロ)を描いた「深刻な絵
画」が実際にある。私はルーベンスによって描かれたその絵と、アムステルダ
ム美術館でめぐり合った。これには「カーリタース・ローマーナ(ローマの慈
愛)」という表題がついているが、「カーリタース・ローマーナ」は、十六世
紀から十八世紀に至るまで、一つのトポスとして、いろいろな芸術家に引きつ
がれた。マーフィの『ギリシャの娘』も、この流れと無関係ではないはず。し
たがって、問題の"A classical daughter"は、エウフラシアより先に、ペロでなけれ
ばならないのである。
ディケンズは、自伝的要素の最も濃厚なマーシャルシーという「ドメスティ
ック・プリズン」をテーマにした作品を書くときに、父と娘が主役の「カーリ
タース・ローマーナ」のテーマを持ち込むことによって、彼にとってあまりに
も切実な父と息子の関係を回避した。自伝的見地から見れば明らかにすり換え
に違いはないのだが、そこに虚構の面白さがあるのである。
日本におけるディケンズ関係ならびにフェロウシップ会員の著訳書等
太田良子訳 『アルタ・ブルックナー――孤独のプリズム』一九九一年勁草書
房
太田良子訳 『アルジェラ・カーター――ファンタジーの森』一九九二年勁草
書房
小池滋監修 『世界の歴史と文化――イギリス』一九九二年新潮社
小池滋・金山亮太訳 『G・K・チェスタトン著作集A――チャールズ・ディケ
ンズ』一九九二年 春秋社
松村昌家他訳 『大英帝国の三文作家たち』一九九二年 研究社
川澄英男訳 『エスケープ』一九九二年 彩流社
増渕正史訳 『小説の勃興』(下巻)宮城教育大学増渕正史研究室 一九九二
年
増渕正史訳 『次の世他』宮城教育大学増渕正史研究室 一九九二年
増渕正史訳 『芸術と疎外』一九九二年 法政大学出版局
高見幸郎他訳 『妻を帽子とまちがえた男』一九九二年 晶文社
桜庭信之監修(大庭勝・青木健・川澄英男他著) 『キープ』一九九二年 研
究社
青木健他訳 『へミングウェイの方法』一九九一年 彩流社
宇佐見太市他著 『イギリス文学評論四』一九九二年 創元社
村石利夫者 『日本語おもしろ辞典』一九九一年 日東書院
村石利夫著 『上に立つ者の人心掌握術』一九九一年 PHP
村石利夫者 『日本・世界ことわざおもしろ辞典』一九九二年 日東書院
村石利夫著 『日本語まるごと雑学辞典』一九九二年 日本文芸社
村石利夫著『カタカナ用語二三〇〇』一九九二年 三笠書房
編集後紀
今年度は総会が従来より一〇日ほど早まった関係で、六号も早めに出ることに
なり、新しいスタイルを考える暇もなかった。会員の数も増えた(一五〇名)
ことでもあり、会員諸氏の御知恵を拝借して内容の充実を計りたいと願ってい
る。(青木)
ディケンズ・フェロウシップ日本支部
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