ディケンズ・フェロウシップ会報 第十七号(1994年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. XVII

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部

ディケンズ・フェロウシップ日本支部
1993年10月一1994年9月

総会
1993年10月9日(土)14:00−17:00
東京女子大学現代文化学部にて


プログラム
l.総会(14:00一14:30)
2.講演(14:30−15:45)
司会:西條隆雄氏
講師:田中孝信氏(大阪市立大学)
演題: Dombey and Sonにおける帝国、境界、家庭
3.朗読(16:00〜1了:00)
司会:太田良子氏講師:Robert Golding氏(ベルリン自由大学)
演題:“Bardell vs Pickwick”“Mr Bumble and Mrs Corney”

春季大会
1994年6月11日(土)13:20へ17:30
大坂市立大学にて

プログラム
1.研究発表(13:30−14:20)
司会:田中孝信氏
講師:川澄英男氏(成震大学)
演題:アメリカ再訪一一ディケンズの賭
2.講演(14:30−15:45)
司会:佐々木徹氏
講師:Edward Costigan氏(大坂大学)
演題:Retrospect and Expectation:The Life of David Copperfield
3.シンポジウム(16:00−17:30)
司会:松村昌家氏
講師:松村昌家氏(甲南大学)
   谷田博幸氏(滋賀大学)
   小池滋氏(東京女子大学)
演題:ディケンズと挿絵画家を語る

河原重清先生のこと

伊藤廣里

 平成六年六月一二日午前、私は大阪の名刹、浄土宗臨南寺に永眠される、故
大坂教育大学教授、河原重清先生の墓前に、奥様のご先導により始めて立つこ
とが出来た。
 その日は、奇しくも先生の命日であった。臨南寺の境内に入る前後から、あ
いにく雨が降り出してきた。
 奥様は持参した花束から、赤のカーネーション、紫と黄の小菊、紫のスター
チスの花々を取り出して、墓前に手向けられた。次いで私が線香を供えた。私
がお墓に額づくとき、雨がいっとき、ひどくなってきたので、奥様は傘を、私
の上にかざして下さった。
 線香の煙りは雨空にもくもくと立ち昇っていった。しかし消えることはなか
った。境内の前刀定されたマサキの繁みの上に、雨が降りそそいでいた。また、
大空に聲えるケヤキの大樹の梢の葉が、雨にそぼぬれていた。

 昭和五十四年五月九日、ロンドン大学、バークベック・コレッジのマイケル・
スレイター先生が、東京、神田のプリティッシュ・カウンシルで、来日、初の
講演をされた。演題は、『ディケンズと女性』であった。
 講演終了後、早稲田大学の内山正平先生が、参加者の私どもに、神保町のさ
るこじんまりとした浦酒なレストランで、ビールをご馳走して下さった。その
席で、私は始めて河原先生と話を交わしたかと思う。
 やがて、私は帰宅するため、河原先生は東京の宿に戻るため、地下鉄の神保
町の駅にむかって、神田の路地裏を歩き出した。
 その日の前夜は、東京はひどい初夏の豪雨であった。その日は、打って変わ
って晴天とはなっていたが、その裏通りにはまだ水溜りが残っていたと思う。
 当時、河原先生は、「ディケンズとワーズワス」との関係を、懸命に研究し
ておられたと思う。右に関する研究者の有無を私に尋ねておられた。――河原
先生って、大変な篤学の士でいらっしやるな、という印象を私は強くうけた。
 その翌日、成城大学で、スレイター先生は、『ディケンズと、コメディ』の
題で講演をされた。河原先生は会場の前方に坐って真剣に聴いておられた。
 講演終了後、河原先生は、コミック・ライテングにおいて、シェクスピアを
除いてディケンズのライバルは、だれですかとスレイター先生に質問される。
 スレイター先生は、それはチョーサーですと言われる。なお、スレイター先
生は、ディケンズ、シェイクスピアとチョーサーは、セイムレベルですと答え
られる。
 河原先生はその答えに、満足せず、第四番目の作家はどなたですかと、執拗
にくいさがられる――。
 スレイター先生は、余裕を持って微笑しながら、「ウェル――アイ・ドント・
ノー」と一言、答えられた。会場に爆笑が湧いた。

 河原先生が、『英語研究』ディケンズ没後百年記念号中、「随筆・ディケン
ズとの出会い」の欄の中で、大変滋味豊かな好エッセーを寄せておられること
を、私はふと追憶した。また河原先生が、激石門下の森田草平による幻の名訳
注本、『クリスマス・キャロル』(大正十五年、尚文堂)を愛蔵しておられる
ことも、等しく右のエッセーの中で、私は知ることが出来た。
 私と河原先生との交際は、まだ始まった段階にすぎない。しかるに、私は、
あつかましくも、右の森田草平の訳注本を貸して下さらないかという趣旨のお
手紙を先生に差し出した。見よ、森田草平本を入れた小包便が、拙宅に折りか
えし届いたのである。なお、私がまだご存知ないと思いますがと添え書きされ
て、桝井迫夫先生の『クリスマス・キャロル』の注物(昭和二十五年、創元社)
をも送って下さったのである。
 私が深い感動を覚えたことは、いうまでもなかろう。私は昭和六十一年の早
春、学書房から『クリスマス・キャロル』の注物を上梓することが出来た。そ
の大恩人の一人こそ、河原重清先生であられたのである。

 墓参の途次、奥様から河原先生は、お庭に離れを設けて、ゼミの学生を、よ
くそこに招いてご指導をされたことを承った。
 先生は机上に沢山のディケンズの参考書を置き、よい論文を作成することを
楽しみにしておられたよしである。
 しかしながら、先生は力のある方だけに、大学の先生所属の教室の充実を計
るため、その中心的教授にならざるを得なかったのである。教務関係の激務が
原因で、昭和五十七年四月十二日、急性白血病で、突然、不帰の客となってし
まわれた。鳴呼、享年、五十四歳−−。
 私は固辞したのではあるが、奥様は、墓参のお礼にと、スレイ夕ー先生二講
演のテープをはじめ、ロンドンの地図二葉と、わがディケンズの切手等を下さ
った。
 臨南寺最寄りの電車の駅頭まで、奥様は私を見送って下さった。お別れのと
き、先生は奥様のためにも、お体を大切にして下さいと親身になって言って下
さった。
 私は新幹線の大阪駅に通ずる電車に乗った。いつしか、雨はすっかり上って
いた。青空を背景として、ポッカリと浮かんだ自雲が、車窓を流れていった−
−。合掌
(平成六年八月七日記)



一九九三年度総会

講演

『ドンビー父子』における帝国、境界、家庭

田中孝信

 『ドンピー父子』では、他のヴィクトリア朝「主流」小説同様海外が主舞台
になることはなくとも、至る所に帝国内の植民地や非白人への言及が見られる。
特に、ディケンズ作品には珍しく、一人の人物として「原住民」が、主人バグ
ストック少佐との主従関係の中で描き出されている。それによって作者は、一
義的には、「高貴な野蛮人」(『家庭の言葉』)等での主張に沿って、異人種
の野蛮でグロテスクな様を侮蔑の念を込めて滑稽に表現しているのだが、この
一見絶対的と思える人種的「強者」と「弱者」の関係が実際は流動性を潜め持
つことを、「原住民」の二面性、即ち、表面的な従順さと境界侵犯による報復
の可能性によって示唆している。ただディケンズの場合、この二面性は喜劇と
アイロニーによって処理されるに止まり現実の脅威とはならず、むしろ「触媒」
として機能し、社会的「弱者」の立場に置かれたヴィクトリア朝女性の家父長
制への従属と反抗をより強く読者に印象づけるのである。
 人種とジェンダーの問題の結び付きを反映して、イーディスに代表される虐
げられし女性たちは、披支配民族同様、帝国内の経済的価値を持った「商品」、
「奴隷」としての観点から描き出される。ディケンズは、イーディスのドンビ
ーやカーカーに対する反抗や攻撃を通して、女性を「商晶」としか見ない男性
中心社会を批判しているのである。
 また、フローレンスは、父親ドンビーが「商品」として冷静に見つめること
ができないが故に、彼を中心とした宇宙を破壊する潜勢力を持った敵対者とし
て存在することになる。両者の闘争は、彼女が体現する感情への彼の抵抗とい
った側面を強く帯び、「強者」と「弱者」の立場は逆転の様相すら示すのであ
る。
 さらに、「原住民」によって示された二面性は、ジェンダーの間題ばかりで
なく、例えば、表面上あくまで忠実な僕であるカーカーと主人ドンピーとの間
に見られる階級の問題に対しても「触媒」として機能する。人種、性、階級は
「強者」対「弱者」の関係の中で密接に係わっているわけである。
 このように性的「他者」や階級的「他者」からの中心世界への攻撃は、家父
長制中産階級社会の絶対性を震憾させる。しかしながら、ディケンズの異人種
に関する理解の範囲では白人と非白人の優劣は不変であり、境界侵犯に繋がる
行為が許されなかったように、性的及び階級的「他者」は最終的には排除され
るか取り込まれる。
 最終的に、ヴィクトリア朝中産階級男性であるディケンズが志向したのは、
あらゆる類いの「他者」を排除し、家父長制中産階級家庭を核とした狭い閉塞
空間の再構築なのである。それは、フローレンスの持つ女性性の働きによって
以前よりは和らいだとはいえ、性的にも階級的にも従来どおりの一元化された
支配--従属構造であることに違いはない。今や外界が内部世界を飲み込む恐れは
なくなり、逆に汚がら、ディケンズの異人種に関する理解の範囲では自人と非
白人の優劣は不変であり、境界侵犯に繋がる行為が許されなかったように、性
的及び階級的1「他者」は最終的には排除されるか取り込まれる。最終的に、ヴ
ィクトリア朝中産階級男性であるディケンズが志向したのは、あらゆる類いの
「他者」を排除し、家父長制中産階級家庭を核とした狭い閉塞空間の再構築な
のである。それは、フローレンスの持つ女性性の働きによって以前よりは和ら
いだとはいえ、性的にも階級的にも従来どおりの一元化された支配1従属構造
であることに違いはない。今や外界が内部世界を飲み込む恐れはなくなり、逆
に汚積禁忌が働く内部が外界を飲み込むのである。これまで帝国的規模で広が
りを見せていた空間は一挙に収縮する。それでいて彼自身そうした構造の形骸
化に気づいており、作晶の結末部では特に生命力溢れる女性の存在を通してそ
れを暗示している。ハッピー・エンディングを迎える快適空間が早↑むこのよ,
っな脆さは、彼の正しさを実証するかのように、時と共に現実味を帯びてくる。
性的「他者」や階級的「他者」はもちろん、彼が生前夢想だにしなかった、帝
国を構成する人種的「他者」からの脅威にも中心世界は晒され、逆植民地化現
象となって容易にその侵犯を許すことになる。内部と外部を隔てていた境界は
暖味にな汚穢禁忌が働く内部が外界を飲み込むのである。これまで帝国的規模
で広がりを見せていた空間は一挙に収縮する。
 それでいて彼自身そうした構造の形骸化に気づいており、作品の結末部では
特に生命力溢れる女性の存在を通してそれを暗示している。ハッピー・エンデ
ィングを迎える快適空間が孕むこのような脆さは、彼の正しさを実証するかの
ように、時と共に現実味を帯びてくる。性的「他者」や階級的「他者」はもち
ろん、彼が生前夢想だにしなかった、帝国を構成する人種的「他者」からの脅
威にも中心世界は晒され、逆植民地化現象となって容易にその侵犯を許すこと
になる。内部と外部を隔てていた境界は暖味になり、内部の同一性は崩れ始め
る。そして、父権的な象徴的権威を堅持しようとする中産階級の最後の砦とも
言うべき家庭空間すらも安全ではなくなる。家父長制の形骸化と共にそれを根
幹とした帝国も家庭も崩壊の危険を孕むことになり、人々は新たな秩序の構築
を迫られるのである。


朗読

昨年に続いて今年もロバート・ゴールディング氏によるディケンズの作品朗読
が行なわれた。同氏についての紹介は『会報』第十六号に譲る。今年は長いも
のを二つ読んでいただいた。

"Bardell vs Pickwick" from Chap.34 of The Pickwick Papers.
"Mr Bumble and Mrs Corney" from Chap. 23 of Oliver Twist.


一九九四年春季大会

研究発表

田中孝信

 梅雨入りしたとは思えぬ晴天に恵まれ、プログラムが魅力的だったこともあ
り、百名近い参加者で春季大会は大いに盛り上がった。
 まず最初に川澄英男氏が、第一回訪問に比べて作品と直接結び付かず金銭面
だけが強調されてきたせいか従来余り取り上げられることのなかったアメリカ
再訪について、長年にわたるアメリカでの実地の資料収集をもとに、我々が市
販の書物からだけでは知り得ないような興味深い情報を豊富に提供された。今
回はワシントンD・Cでの公開朗読に限って話されたのだが、単にディケンズに
対するアメリカ側の反応だけでなく、それを通して南北戦争直後のアメリカの
社会的及ぴ文化的状況をも垣間見ることができた。フロアの関心も高く、発表
後は時間を気にする司会者をやきもきさせるほどに活発な質疑応答が和やかな
雰囲気の中でなされた。


ワシントンD・CのC・D

川澄英男

 一万九千ポンドー--ディケンズがアメリカの公開朗読で得た利益である。生涯
の朗読による収益は総額で四万三千ポンドであるから、そのうちの半分近くを
六力月たらずの七十六回の朗読で得たことになる。危倶していたアメリカ再訪
は大成功であった。
 アメリカ滞在中ディケンズのそばを離れなかったドルビーによれば、ディケ
ンズは「食欲はなく、風邪をひいていて、三、四時問しか眠れない」ようであ
ったし、ディケンズ自身もまたそう手紙に書いている。にもかかわらず一八六
八年二月四日のワシントン・イプニング・スター紙の記者の目には「四十代そ
こそこの者であってもディケンズほど血色のよい元気な者はこの国にはいな
い」と映ったくらいである。
 『デイヴィド・コッパーフィールド』の朗読の最後の場面、全会場を巻き込
むような壮絶な嵐を再現したディケンズは続いてステアフォースの死を語るが、
「死体でも上がったのかね」というデイヴィドの間いに漁師がただ静かに頭を
垂れる、というドラマチックな演出を試みている。その瞬間の静寂をニューョ
ーク・タイムズの記者は "almost painful" と評し、そのできばえを称えている。
 デルモニコでの送別会には主催者のグリーリーに支えられて歩くのがやっと
という程にまで健康を害していたディケンズが、何者かに取り悪かれたように
超人的な力で週四回にもおよぶ朗読をほぼ毎週続けたことは、いくら天性にか
なったこととはいえ、いかにアメリカでの朗読が魅力的なものであったかを物
語っている。それだけにディケンズにとっても全身全霊を打ち込んだ朗読の旅
となった。
 一八六七年十一月十九日ポストンに降り立ってから十二月二日の「キャロ
ル」を皮切に四月二十日のさよなら「公演」まで、ポストン、ニューヨークを
中心にフィラデルフィア、ボルチモア、ワシントンD・Cそしてシラキュース、
ロチェスター、バッファローさらにニューイングランド地方へと十六におよぶ
諸都市で、八時から一時間半ないし二時間の朗読を月、火、木、金の各曜日精
力的にこなし、一晩に二千ドルから三千ドルの報酬を手に入れている。これは
当時一回二百ドルという破格の講演料で「レクチャー」を続けたサッカレーと
比べてみてもいかに例外的であったかがわかる。自国のアメリ力人に至っては
著名なエマソン、フレデリック・ダグラス、アンナ・ディキンソンでさえも百
五十ドルがほぼ限界であった。上質の子牛の皮の婦人用ブーツがニドルで買え
た時代である。ディケンズの入場料もニドル、一般の劇やコンサートの入場料
は二十五セントかせいぜい五十セントー−当然のことながらディケンズの「演
技」はますます冴えわたった。
 行く先々の有力紙がディケンズを報道し、朗読に関するコメントを掲載した。
そうしたいわば客観的な資料と、ディケンズ自身の残した手紙やドルビーの綴
った「私の知るチャールズ・ディケンズ」などを比較しながら詳細にディケン
ズのアメリカにおける公開朗読を追っていくと、その二つの資料のちょうど中
間に興味深い実像がゆっくりと姿を現わしてくる。ディケンズが「大成功だっ
た」というとき、それはどの程度の成功だったのか、果たして真に成功といえ
る朗読だったのか。「毎日大統領が見に来た」と誇らしげにドルピーは記して
いるが、実は大統領には他のレセプションもあって決して毎日来られたわけで
はなかった。犬が会場に入ってくるハプニングが二度もあったが、ディケンズ
はそのことについて手紙の中で再三触れているのにもかかわらず、新聞には一
行も報じられていない。首都ワシントンの}流のキャロル・ホールに野良犬が
ウロウロ入ってくるとは、国家の恥、野蛮な国−−。でももしかしたらディケ
ンズが本当に言いたかったのはそんなことだったのかもしれない。
 では朗読者としてのディケンズはどう評価されたのか。当時人気のあったマ
ードックやベイリー、ドクター・ヴァレンタインなどと比べてどこがどう違う
のか、朗読者としてのディケンズの真髄はいかなるところにあるのか。発声、
顔の表情、目の動き、動作にどんな特徴があるのか。それぞれの都市で記者た
ちがディケンズの公開朗読についての率直な意見と感想を載せている。ディケ
ンズ、ドルビーというこちら側からだけではわからなかった事実が明らかにな
ってくる。さらに、ワシントンD・CでのC・Dの像は、バッファローでのC・
Dの像ともまた違っている。諸都市でのC・Dの実像をそれぞれ比較・考察して
いくと、もっと精度の高いディケンズ像が現われてくる。そうしたことがディ
ケンズの文学を理解する上で、あるいは役に立つのかもしれない。


講演

コスティカン先生について

司会 佐々木徹

 『マーディン・チャズルウイット』第一章のディケンズならぱ、エドワード・
コスティガンこそは『ペンデニス』でおなじみのキャプテン・コスティガンを
その先祖にお持ちでありまして、などと言うところでしょうが、先生は実はコ
ーンウォール出身で、オックスフォード大学を卒業された後、カナダのトロン
ト大学を経て十数年前に(調べれば分かるのですが、ご本人がいやがっておら
れますのでぼかしておきます)大坂大学に移って来られました。
 先生の博士論文のテーマは『ディケンズと劇場』でした。その研究の一端は
我々は先生が一九七六年に発表された極めて興味深い論文に垣間見ることがで
きます。( "Drama and Everyday Life in Sketches by Boz", The Review of English 
Studies 27, 402-21 )
 今回の講演においては、テクストに密着して話を進める、というのがコステ
ィガン先生のアプローチでしたから、引用を多数取り込めないレジュメでは先
生の級密な立論を十分に伝えきれないのが残念です。先生がいずれどこかにき
ちんとまとめて発表してくださることを切に願うものです。なお、この要約で
はあえて「です、ます」調を採用しました。コスティガン先生の真華な発表態
度にはなんとなくそれが似つかわしいように思えたからです。
(当日の発表は時間等の都合により予告されたものとは異なり、『大いなる遺
産』には触れられませんでした。そこで以下の要約には講演とは別のタイトル
を特につけていただきました。)



『デイヴィッド・コパフィールド』
--回想と前進と--

エドワード・コスティガン

 『デイヴィッド・コパフィールド』はディケンズの初期の小説と同様に、多
数の人物の登場する広い世界を持っていますが、複雑なプロットの展開に加え
て、ここには計算の行き届いた主題の発展が見られます。
 これはディケンズにとっては最初の一人称小説で、彼自身の実生活における
経験に基づくエピソードを幾つか含んでいます。しかしここには例えば『ジェ
イン・エア』に見られるような作者と語り手の一体感はありません。読者はデ
イヴィッドの背後に距離を置いて彼を眺めるディケンズを意識します。例えば、
第一章で胞衣を競り落とした夫人が「さまよわない」のと、語り手が「さまよ
わない」のが重ねられているあたりの調子は机に向かうコパフィールド氏より
は、むしろ作者ディケンズを読者に思い起こさせます。(このような作者の存
在感は小説が進むにつれて段々薄れていくようです。)
 自伝形式の語りは「過去の時点における経験の直接性」と「現在の時点にお
ける(後知恵のついた)回想」の力学によって成り立ちますが、ディケンズは
これを単純化せずに、語り手にとって徐々に昔の諸々の経験の相互の関連性が
明らかになって行く過程を巧みに描いています。
 また、「回想」と題された幾つかの章において、人生は「流れ行く川」や「旅
行く道」などの比楡を用いて表現されていますが、ここでもディケンズは、「幽
霊で混雑した街道」(語り手は一歩退いてこの幽霊たちを眺めますが、その中
には過去の自分の姿もあります。)といった具合に、これらの古びた比楡に新
しい力を付与しています。この「道」は現在と過去の両方にまたがっています。
第三十一章でエミリーの家出について語ろうとするデイヴィッドは次のように
言います。「ここでわたしはこわくなる。雲があの遠い町の上に垂れ下がって
いるが、そこへわたしは戻って行ったのだった。わたしはそこへ近寄りたくな
い。このままその道を行って出会わなけれぱならないことを考えるとわたしは
耐えられないのだ。」
 記憶というものを考えますと、そこには大切な経験を大事に保存したいとい
う心理的要請があります。しかしその一方で、例えば後になってその経験に関
する事情がより良くわかってきて記憶になんらかの修正を施さなければならな
い、という要請も出てくるでしょう。過去の記憶を大事にすることは一種の忠
誠心であり、人間のアイデンティティの一貫性には欠くべからざるものです。
しかし記憶の修正も不可避のものです。このジレンマをディケンズは、記憶の
中の「静的なイメージ」をしばしばプロットのうえで重要な「変化」を示唆す
る時点で強調することによって巧妙に劇化しています。(海に突き出した本の
上でバランスをとるエミリー、眠っているスティアフォース、マードストーン
についてデイヴィッドに尋ねる母親、等々。)
 重要な経験が、人生という「道」を前進する過程の中で静止した「イメージ」
として定着すること、それが記憶です。その意味において、去り行くバーキス
の荷馬車の中から見えた母親がデイヴィッドの記憶に残る場面は、この「前進
運動」と「静止」の関係を読者に想起させます。また、スティアフォースがデ
イヴィッドの記憶の中でしばしば横たわって(静止して)いる姿としてイメー
ジされているのも、彼の名前そのもの(「静止」とは対極にある「前進運動」)
を考え合わせると、極めて興味深いことです。
 記憶によって支えられたり、あるいはまた裏切られたりする登場人物たちを、
ディケンズはさまざまな対比・対応関係を用いて提示して見せます。ディック
氏は過去の記憶に捕らえられたきりですし、スティアフォース夫人も同じ結果
に至ります。ウィックフィールドも過去の記憶に自己を埋没させて破滅寸前ま
で行きます。反対に、この小説の中で最も記憶に捕らわれない人物がスティア
フォースであることは注目に値します。第二十八章でパーキス(スディアフォ
ースは彼の名前も忘れています)が死んだことに触れて彼はこう言うのです。
「お日さまは毎日沈むし、刻々と人は死んでいく。(中略)それでも、すべて
の障害物を乗り越えて前進あるのみさ。そして競争に勝つんだよ。」これに対
してディヴィッドは聞き返します。「でも勝つって、何の競争に。」この二人
のやりとりは非常に興味深い箇所です。名前のとおり、「記憶」の意味を無視
してひたすら人生という「道」を前進するスティアブォースを前に、ディヴイ
ッドは自分と彼のヒーローとの乖離を意識させられます。また、一種寓意的に
言うならば、ここにはこの小説に働く二重の力も、つまり、スティアフォース
が体現するプロツトを前進させる力と、そしてデイヴィッドが体現する経験に
一貫したテーマを与えようとする力(記億あるいは回想の力)との拮抗も読み
取れるような気がします。
(文責 佐々木徹)



シンポジウム

「ディケンズと挿絵画家を語る」

司会者として

松村昌家

 『ピクウィック・ペイパーズ』の挿絵画家としてディケンズとコンビを組ん
でまもなく自殺を遂げたロバート・シーマーから、最後の未完作晶『エドウィ
ン・ドルードの謎』の挿絵画家として登場したルーク・ファイルズに至るまで、
ディケンズと挿絵画家に関しては、とかく話題が豊富である。そしてまた、デ
ィケンズと挿絵画家との関係は、彼の作品を読み取ることにおいてのみならず、
彼の気質を探る上においても、重要な問題をはらんでいる。
 こういった点を念頭において、今回のシンポジウムでは、松村、谷田、小池
の三人の講師により、ジョン・リーチ、「フィズ」、ルーク・ファイルズの三
人の挿絵画家に関して、新しい光を当てることを試みた。予想以上の好評を得
たことを、司会者として喜びたい。


ディケンズとジョン・リーチ

松村昌家

 ジョン・リーチがディケンズ・サークルの一員になったのは、一八四三年彼
が『クリスマス・キャロル』の挿絵画家として登用されてからのことであるが、
以後両者の間には、芸術的にも人間的にも、実に面自い関係が展開するように
なる。
 ロバート・シーマーに対する態度で証明されたように、挿絵画家に対してデ
ィケンズは、冷酷とも思える程の厳しさをもっていた。『オリヴァー・トウイ
スト』三巻初版本の最後の挿絵 "The Fireside Scene" をめぐって示された、彼の
G‐クルクシャンクに対する態度にも、それが遺憾なく発揮されている。若い作
家の断固たる指示に従って、横綱格を自負していたはずのクルクシャンクは、
一旦印刷に付せられ挿絵画を、遂に差し換えざるを得なくなつたのである。
 これに比べると、リーチに対するディケンズの態度には、格段の違いがある。
 一八四六年、『人生の戦い』の挿絵をかく段になつて、リーチは、ディケン
ズが最も懸念していた大きな間違いをおかしてしまった。作品第二部の終わり
の部分に添えられた "Return of the Night" (オクスフォード版作品集、二八五ぺ
−ジ左側下段)である。
 ディケンズは「初めてこれを見たとき、言い表せないくらいの驚得と苦痛と
を感じた」と、一八四六年十二月十二日(?)付でフォスターに宛てた手紙の
中で述べている。つまり『人生の戦い』の執筆当時スイスに在ったディケンズ
からの指示が伝わっていたにもかかわらず、リーチは第三部におけるメアリア
ン失踪の種明かしの部分を読まずして、このマイケル・ウォーデンとの「駈け
落ち」の図を描いてしまったのである。かつてのシーマー、あるいは前述のよ
うなクルクシャンクに対するディケンズの態度から判断すれば、当然一悶着も
二悶着も起こったはずである。だが、先に引用したフォスター宛ての手紙のあ
との部分に引き続き述べられているように、彼は実に寛大であり、かつ温情的
である。
 さらに注意すべきは、これ程の重大な過失にもかかわらず、ディケンズはリ
ーチを、『クリスマス・プックス』最終編『つかれた男』の挿絵画家の一人と
して登用して、全十六葉のうち五葉の挿絵を担当させていることだ。そしてそ
の後両者間の友情はますます深まって行くことになる。
 私はこの有情の背景の重要な部分として、『パンチ』画家としてのジョン・
リーチの『パンチ』誌上におけるディケンズ(文学)へのホメジを重視したい。
すなわち、リーチは一八四四年七月二十七日号の『パンチ』に『マーティン・
チャズルウィット』の一場面をもじって、「セアリ・ギャンプとベッチー・プ
リッグ」という題の政治風刺画をかいた。一八四八年十一月十九日付のリーチ
宛の手紙にあるように、ディケンズは、これが大いに気に入っていたようだ。
リーチは、このほかにも例えば、『オリヴァー・トウイスト』、『つかれた男』
等の名場面を借りた風刺画をかいて、『パンチ』のぺ−ジを飾っている。
 だが最も注目したいのは、リーチが『鐘の音』におけるサー・ジョゼフ・ポ
ウリーの日癖の「わしは貧乏人の味方じゃ」を踏まえて、一八四五年二月二十
二日の『パンチ』に、「貧乏人の味方」という痛烈な風刺画をかいていること
だ(図1)。この場面の「貧乏人の味方」とは、すなわち死神なのである。
 それから十年後リーチは、この絵をもう一ひねりして、「『二月将軍』反逆
者に転ず」という『パンチ』絵に仕立てた(図2)。クリミア戦争中の一八五五
年初に、ロシア皇帝ニコライー世は豪語した−−「ロシアには信頼できる二人
の将軍がいる−−一月将軍と二月将軍だ」と。ところが二月二日に当の皇帝が
死亡した。そしてその八日後にこの恐るべき風刺画があらわれた。
 ディケンズ自身は遂に『パンチ』に記事を書く機会をもたなかった。しかし
リーチを通じて彼の作晶の多くの場面が『パンチ』画化された。そして『鐘の
音』のひとこまが、リーチの数ある政治風刺画の中でも最も有名な作品と言わ
れる「『二月将軍』反逆者に転ず」と結びつくという、興味深い結果になった
のである。


“フィズ”の領分
--挿絵制作のプロセスをめぐって--

谷田博幸

 十名余りを数えるディケンズの挿絵画家の中でも、“フィズ”ことハブロ・
ナイト・ブラウン(一八一五〜一八八二)が質的にも量的にもとりわけ重要な
位置を占めていることは誰しも認めるところであろう。挿絵というものをつね
にその小説世界を十全に展開する上で不可欠の要素と考えていたディケンズに
とって、フィズという挿絵画家はそれこそかけ替えのない忠実な協力者であり
続けた。しかも、二人の二十年余りに亘る協力関係の中で手がけられた挿絵は、
十五の主要長編小説中十作に及び、総数七二四点を数える。これをフィズに次
ぐG・クルックシャンク(六四点)と較べるなら、フィズが「ディケンズの挿
絵画家」と称されることに疑問を挟む余地は全くないかに思われる。
 だが、それはあくまでもディケンズの側から見た一方的な推断にすぎない。
たしかにブィズは今日多くの人々にとって「ディケンズの挿絵画家」としての
み記憶されている。しかし、かれが生涯に亘って手がけた全挿絵中、ディケン
ズの挿絵はせいぜい二十七%を占めるにすぎないのである。つまり、ディケン
ズの挿絵においてフィズが圧倒的な位置を占めることは認められねばならない
としても、必ずしもフィズが「ディケンズの挿絵画家」であったとは言い得な
いということである。この事実をまず踏まえておかない限り、二人の協力関係
の実態、またフィズの挿絵制作のプロセスを正確に把握することは望めないだ
ろう。
 月刊分冊という出版スタイルは、小説家のみならず、挿絵画家に対しても実
に過酷な時間との闘いを強いるものであった。『二コラス・ニクルビィ』を分
冊刊行中の一八三九年五月、フィズは出版者E・チャップマン宛の書簡中に、典
型的な月刊制作スケジュールとして次のような日程表を挙げている。

一月一一日(金)  夕方一番目の主題を含む原稿の一部を受けとる。
一月一三日(日) ディケンズに下絵を送付。
一月一四日(月) 夕方ディケンズから二番目の主題とともに、一番目の下絵
返却。
一月一五日(火) ディケンズへ二番目の下絵送付。
一月一六日(水) ディケンズから二番目の下絵返却。
一月一三日(火) 一番目の挿絵用の版完成。
一月二六日(土) 二番目の挿絵用の版完成。

 少々補って説明するなら、月の最初の十日問は、ディケンズが月末に刊行さ
れる次号の構想を練り、執筆するための期間である。しかし、無論十日足らず
で原稿が仕上がる訳ではない。従って一一日フィズが受けとるのは、簡単な挿
絵のためのメモにすぎない。この時点からフィズの仕事が始まることになるが、
一六日までの一週間足らずの問に、ディケンズとの細かなやりとりを経て、ひ
とまず二点の下絵が仕上げられる。この間の具体的な委曲については、これま
でもJ・ハーヴェイ(一九七○)、M・スタイグ(一九七八)、J・R・コーエン
(一九八○)等の研究によって少しく明らかにされているから、ここではむし
ろ下絵が完成を見る一六日から彫版が完了する二六日までのフィズの仕事ぶり
を追ってみることにする。
 フィズの手がけた月刊分冊の挿絵は、すべてスティール・エッチング、つま
り腐蝕鋼版画である。従って、彫版に先立ってスティール板にはグラウンドと
呼ばれる防蝕膜が塗付されねばならない。フィズの場合、ワックスを塗ったプ
レートを蝋燭の炎で灸り、黒いススの膜を固着させてグラウンドとしているが、
この作業はすべてかれの生涯のパートナー、R・ヤングの仕事であった。こうし
て下準備の整えられたプレートは、特製の函に入れられてフィズのもとへ送ら
れる。しかし、ここですぐさま彫版の作業に取りかかれるわけではない。その
前にプレート上に下絵が転写されねばならないのである。フィズは片面に隈な
く紅殻チョークを塗った紙をプレートのグラウンドの面に重ね、その上にさら
に下絵を重ねて上からなぞり、下絵の線を転写している。つまり、紅殻チョー
クの紙をカーボン紙がわりに用いているのである。こうして転写された線描を
もとにようやくニ−ドルで彫版の作業に入ることになるが、そもそも下絵にし
ろ転写された下絵の線描にしろ、概してかなり大まかなものであるため、人物
の微妙な表情や精徴なディテールは、この段階で初めてニ−ドルの刻線で描写
されることになる。つまり、ここがフィズの腕の見せどころであり、正念場で
ある。
 一枚目のプレートの彫版を済ませるや、フィズは休む間もなく二枚目の挿絵
の彫版に取りかからねばならない。一方、彫版の済んだプレートは、腐蝕作業
のためパートナーのヤングのもとへ送られる。腐蝕には弱硝酸が用いられるが、
微妙な陰影やニュアンスを出すため、背景、前景、人物の頭部、衣装など、部
分で腐蝕の度合に変化をつけるという手のこんだ作業となる。腐蝕の調子を見
て、ときに再度フィズがニ−ドルをふるい、また腐蝕を重ねて、満足のゆくも
のとなった段階でようやくプレートが印刷所に回されることになる。そのデツ
ドラインが二六日である。
 この十日間の工程は、想像するだに慌しいが、ここで忘れてならないことは、
現実にフィズそしてヤングの仕事がこの二枚のプレートの制作だけでは済まな
かったということである。毎月二〜三万部という大量の部数を月末の刊行に問
に合うよう印刷する必要に迫られて、かれらは二枚のプレートの各々に一〜二
枚のデュープさえ作成せねばならなかったのである(初版でありながら、フィ
ズの挿絵に異版があるのはこのためである)。製本の手間をも考えれば、実際
二六日から月末まで印刷にはどれほどの日数も残されていなかった。しかも、
冒頭でも触れたように、フィズはディケンズ専従の挿絵画家であったわけでは
ないから、他に仕事が入っていた場合の忙しさはおよそ殺人的なものとなつた
ことが想像される。ディケンズが毎月三二頁分の原稿の執筆に骨身を削る一方
で、フィズが月二点の挿絵をのんびり楽しみながら制作したなどと呑気なこと
を考えるなら、それこそ大きなまちがいなのである。
 (今回のシンポジウムでは、他にも多くの魅力的な話題があるにもかかわら
ず、フィズの挿絵制作のプロセスについてのみ簡略にお話しさせて頂いた。そ
れは、“挿絵は版画なのだ”という事実をつねに忘れまいとする自戒をこめた
思いのしからしむるところであった。日頃、便利さからついペンギン版やオク
スフォード・イラストレイテッド・ディケンズ版を繙くことに馴れる内に、見
落とされていくのが、正しくその自明の事実なのである。)



ルーク・ファイルズ

小池滋

 ルーク・ファイルズ(一八四三−一九二七)は、ディケンズの小説の最後の、
そして一作だけの挿絵を担当した画家であるが、小説家との関係はかなり深く、
そして全面的に小説家から信頼を寄せられた珍らしい画家であった。
 ディケンズが『エドウィン・ドルードの謎』を書こうとした時、挿絵画家と
して白羽の矢を立てたのは、親友ウィルキー・コリンズの弟で、ディケンズの
娘ケイトと結婚していたチャールズ・コリンズだった。コリンズは挿絵と分冊
の表紙絵のスケッチを完成したが、その直後の一八六九年一一月に、かねてか
らの病気−−肺ガンといわれる−−が悪化して仕事ができなくなってしまった。
 コリンズの仕事に満足していたディケンズは途方に暮れた。急いで代役を探
さねばならない。その時、一二月四日に出た週刊絵入り雑誌『グラフィック』
の創刊号を頭上に振りかざして、画家ジョン・エヴェレット・ミレーが、ディ
ケンズの部屋に飛び込んで来た。「見つけたぞ!」
 ミレーが発見したのは、当時無名だったファイルズの絵「家なき空腹の人び
と」である。ディケンズは有名な画家ミレーの推薦ということで、この未知の
新人に挿絵を依頼したのだが、おそらく彼自身もファイルズのテーマに共感す
るところがあったと思う。ファイルズはディケンズの死後の一八七四年の王立
美術院展に、この絵と同じテーマを持つ油彩画「救貧院緊急宿泊所の入所希望
者たち」を出品して、大センセイションをまき起したのである。
 この絵と詳しい説明については、高橋裕子・高橋達史『ヴィクトリア万華鏡』
(新潮社、一九九三)第十章を見て頂けばよいので、ここで省略する。ディケ
ンズがいかにも好みそうな社会派的主題を、こまかい描写によって見る人に鮮
やかに訴えかけている。ファイルズのこの絵がいかに当時の人びとの記憶に深
く刻みつけられていたかは、二〇年後の一八九四年一月二七日号の『パンチ』
にそのパロディが出ていることによっても証明できる。(第一図参照)
 ディケンズとファイルズの共同作業は順調に進んだ。お互いの信頼と尊敬も
かなりのものだった。ディケンズの死後、ファイルズが「主なき椅子」という、
あの有名な絵を発表したのも、その一つのあらわれだろう。さらに、ずっと後
になって、ディケンズがいかにファイルズを信頼していたかを示す証拠が出さ
れた。
 一九〇五年一〇月二七日の『タイムズ』紙に、アンドルー・ラング著『ディ
ケンズの最後のプロットのパズル』の書評が載った。これは未完の小説の謎に
ついてのラングの解答を示したものだが、匿名の書評子は、ディケンズが生前、
フォースターや家族や挿絵画家に、謎について洩らしたヒントをラングは証拠
として採用しているが、そんなものは証拠の価値はない、ディケンズが意図的
に彼らを欺したかもしれないではないか、というようなことを書いた。
 これを読んだルーク・ファイルズは憤然として、直ちに『タイムズ』あてに
投書をした。その要旨は次のようなものである。
 ディケンズは家族や親友を欺すような人間ではない。その証拠を一つあげよ
う。ディケンズがある所で、ジョン・ジャスパーが二重に巻くくらい長いネッ
カチーフをしていた、と書いた原稿を見て、ファイルズは困ってしまった。実
はそれ以前にファイルズが、簡単なネクタイをしたジャスパーの絵を書いたこ
とがあったからだ。(第二図参照)
 ファイルズはディケンズにこのことを説明し、どうしてもジャスパーに長い
首巻きが必要なのですか、と尋ねると、ディケンズは絶対秘密を守ってくれと
前置きしてから、ジャスパーがその首巻きでエドウィンをしめ殺すことになる
のだ、と打ち明けた。ファイルズはこれまでこの秘密を誰にも洩らさなかった
が、ディケンズの人格と試実さが疑われるのを見ては、黙っていられないから、
ここに公表することにしたのだ、と書いている。
 ディケンズはフィズに対してすら、こんな創作の秘密を打ち明けたことはな
かった。作家の指示通りに絵を書けと一方的に命じただけだった。ファイルズ
の挿絵画家としてのディケンズとの交際は、ごく短い時間のものでしかなかっ
たが、二人の関係は他の挿絵画家との関係に劣らぬ、時にはそれ以上に、深い
密接な栢互信頼にみちていたものであった、と考えてよいだろう。


日本におけるディケンズ関係ならびにフェロウシップ会員の著訳書・論文

谷田博幸 『ロセッティ--ラファエル前派を超えて』 一九九三 平凡社
富山太佳夫 『シャーロック・ホームズの世紀末』 一九九三 青土社
鈴木幸子 『不安なヴィクトリアン』 一九九三 篠崎書林
伊藤廣里 『ディケンズ文学の旅』 一九九四 桐原書店
篠田昭夫 『チャールズ・ディケンズとクリスマス物の作品群』 一九九四 渓
水社
松村昌家 『パンチ素描集−−一九世紀のロンドン』 一九九四 岩波書店(岩
波文庫)
宮崎孝一 『本の里がえり』 一九九四 愛育社
松村昌家(編) 『ディケンズ小事典』 一九九四 研究社出版 (松村昌家、
西條隆雄、小池滋、山本史郎、間二郎、原英一、植木研介、新野緑が執筆)
北條文緒(訳)E・M‐フォースター『眺めのよい部屋』 一九九三 みすず書
房
川本静子(訳)E‐M‐フォースター『ロンゲストジャー二−』 一九九四 み
すず書房
小池滋(訳)E‐M‐ブォースター『ハワーズ・エンド』 一九九四 みすず書
房
川本静子、小池滋、北條文緒(訳)E・M・フォースター『民主主義に万歳二唱』
氈@一九九四 みすず書房
Terauchi, Takashi, Notes on Dickens, 1993.
Kotera, Risa, Another Side of Dickens: from Dombey and Son to Our Mutual Friend, 
Eishosha, 1994.
榎本洋 「Dombey and Son における構図の変容」 一九九三 『愛知県立大学
文学部論集』第四二号
榎本洋 「『ドンビー商会』における中心と周縁」 一九九四 『Mulberry』第
四三号
荒井良雄 「ディケンズ『公開朗読』研究」 一九九四 『駒沢大学文学部研
究概要』第五二号
斎藤九一「Our Mutual Friend における自己探究」 一九九四 『Otsuka Review』
第三〇号

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