ディケンズ・フェロウシップ会報 第二号(1979年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. II

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部


ディケンズ・フェローシップ日本支部
1978年10月--79年9月

1978年10月28日(土) 総会 於成城大学 滝裕子氏 "ディケンズ作品の女
性像 ",
    G. H. Dickens "ディケンズをめぐって "の二講演

1979年4月30日--5月12日
  4月30日(月) 於京都ブリティッシュ・カウンシル "Dickens and Shakespeare "
  5月1日(火) 於同志社大学  "The Englishness of Dickens "	於京都
外国語大  学 "On David Copperfield "
  5月2日(水) 於甲南女子大学  "Dickens and Women " 於神戸女学院大学
   "The Englishness of Dickens "
  5月7日(月) 於広島大学  "Dickens and Shakespeare " 
	Reading  "Mr. Pickwick & Mrs. Bardell "
  5月9日(水) 於東京ブリティッシュ・カウンシル  "Dickens and Women "
  5月10日(木)	於成城大学  "Dickens and Comedy "
  5月11日(金)	於早稲田大学  "Dickens and Shakespeare "
  5月12日(土)	於武庫川女子大学  "Inimitable Dickens "(with reading)
	
1979年5月12日(土) 春季大会 於武庫川女子大学 上記Dr. Michael Slater
の講演       およびreading


表紙の絵 A prospectus announcing Dickens's miscellany Master Humphrey's Clock


 これからどうする
					                米  
田  一  彦
 まだしばらくは生きていられるだろう。その間にどうするのか。病弱の旧制
高校生のころにもそう思った。そしてしばし生き延びる間、最も生き甲斐があ
るのは、文学作品の享受だと考えたのだが、今もその考えに変りはない。
 本間久雄『文学概論』にみちびかれて--この本を貸してくれた級友は、大会社
の重役になっていて、こんな事情はすっかり忘れてしまっているだろうが--ペー
ター『ルネッサンス』をこつこつ読むまでにはなっていた。その「結論」に、
よかれあしかれ、影響されたのであろう。
 美術を鑑賞する便宣が少なかった。そして文学といっても、詩を分ろうと人
並につとめはしたが、明治以降の日本の小説を少しは読みなれていたので、イ
ギリスの小説に赴くことになったのである。
 ところでぺ−ターであるが、周知のように、彼は平然として『エドモンド』
を、『神曲』『失楽園』『英訳聖書』と並べて、ともにすぐれた芸術作品だと
している--この小説を学校で読まされたために、小説がきらいになったと、畏友
金関寿夫はいっていたが、そんなこともあろう。とにかくペータ−は案外一九
世紀小説を重視しているので、そういう小説を味読して、「鈍重でまた軽薄な
アクセントのない日常生活」の中で、「生き生きした瞬間」をつかむこともで
きるわけである。
 ぺ−ターが一九世紀小説を重視したことに注意をうながすゼフリー・ティロ
トソン『批評と一九世紀』には、「遅読」--こんな熟語がもしありとしても、遅
鈍を思わせるのでよろしくない、つまり--「スロー・リーディング」の勧めがあ
った筈である。ゆっくり、じっくり、それでないと困るのだ。今更せかされる
のはいやだ、何を焦ることがあろう。しかし「スロー・リーディング」は、対
象作品を精妙につかむためのものではある。ゆっくりだけで鈍感であってはだ
め。
 今年はどういうわけか伝記をひきつづいて読む羽目になった。ファーバンク
『E・M・フォースター伝』、マッケンジ夫妻『ディケンズ伝』、マーガレット・
フォースター『サッカレー、ヴィクトリア時代一紳士の回想記』である。とこ
ろでこれまでなら、切角作家の伝記を読むのだから、後日のためにノートでも
詳しく取ってと固く構えるところだし、作家の伝記を読むぐらいなら作品その
ものを、より多くまたより深く読むべしという反省もあったところである。し
かし今は、伝記もまた文学作品ではないか、それにもう後日もあまりないのだ
よ--この考え方が怠惰につながってはだめ--、作品重視はもちろんごもっともだ
が、作品と伝記を峻別するのでは文学を読む妙味が失われるのではないか、作
品と伝記を安易に短絡的に結びつけるのは警戒しなければならないが、作品の
中に作家を見つけようとすれば、伝記も大いに活用したいところ、こういう心
境になっている。
 それはとにかく、これからも内外の小説を読むことだろう。不思議に好奇心
が強いので、新刊小説にも手が出るだろうが、既読のものを読みかえすことを
中心にしたいとは思う。そしてその際ディケンズの作品も含まれるであろうが、
その場合、これまでよりも音読にも心掛け、かつは挿絵も虫眼鏡で精査してみ
たい。
 というのも、散文を読むということは、印刷された活字を黙読するというこ
とになっている。こういう考え方はアランの「散文論」が力説するところで、
これを今までは余りにも金科玉条にしすぎていたのではないか。改訳の『諸芸
術の体系』によって、「散文論」を読み返えすと、訳文は「よっく解るさ、あ
れで解らん奴は頭が悪いんだ」(西田幾多郎)であろうが、内容は仲々手ごわ
くて、むかし読んでよく解った気になっていたのは、いいかげんなものだった。
 しかしディケンズの小説を読むには、このような考え方は必ずしも適切では
ない。ディケンズの散文は、アランの考える散文の純粋なものではないからで
ある。地の文が詩のリズムを持ち、作中人物の発言が雄弁調になることがある。
それにディケンズ小説は、ディケンズが熱愛した演劇、その特質のいくつかを
含むものである。元来家長が分冊を家族に読んできかせ、あるいはディケンズ
自らがパブリック・リーディングに利用したものなのである。これを黙読する
際にも、潜在的に音声を感じながら読んでも、よろしいのではないか。ドクタ
ー・スレーターのリーディングで、われわれは、ディケンズ小説が音読で効果
を増すことを痛感したのであった。またディケンズは挿絵画家に細かい注文を
うるさく出したというが、自らの場景描写を、挿絵によってより明確にしたい
と考えたからなので、この挿絵を注目しないわけにはいかないのである。〔一
九七九・八・一九)


「ディケンズ」レールを走る
                       			  小 
池  滋
 日本でも昔は「義経」とか「弁慶」とかいう蒸気機関車がありましたが、イ
ギリスではSLに愛称をつけるのはごくあたり前のことでした。ですから、イギ
リス人にとってもっとも親しみのある, "Charles Dickens "というSLがいたと
しても、ちっとも不思議はないでしょう。
 昨年、内山正平先生からそのSLの写真を頂きましたのでその車の経歴をちょ
っと調べてみました。これはロンドンのユーストン駅から北西に向かい、マン
チェスター、リヴァプール、カーライル方面に線路を伸ぱしている大幹線、ロ
ンドン・アンド・ノーヌ・ウェスタン鉄道に所属し、同会社の名技師長として
鉄道史に知られたFrancis W. Webbの設計によって製作された "Precedents "Class
と呼ばれる形式の中の一輌です。
 この "Precedents "は一八七四年から八二年にかけて七○輌も作られた、幹線
急行旅客用の蒸気機関車で、当時としては最高にカッコいい新鋭の貴婦人だっ
たのです。前部に小さな先輪が二個、続いて直径六フィート71/2インチ(二メ
ートル七ミリ)という大きな動輪が四個つき、日本風に呼ぶと1B形というわけ
で、後部に六輪の炭水車を従えています。なお日本のSLと違うところはシリン
ダーが外側でなくて内側についていることで、これはイギリスではごく普通の
ことです。
  "Charles Dickens "はこの形式のいちばん最後に来る車で、一八八二年二月に、
同鉄道のCrew工場で誕生、番号は九五五です。CrewはDickensが『オール・ザ・
イヤー・ラウンド』一八六六年クリスマス特集号に企画した "Mugby Junction "
のモデルではないかといわれる駅で、ロンドンからグラスゴー方向に向う本線
から、マンチェスター行、アイルランドへ渡る連絡船の出発港ホーリーヘッド
行の線路が分れる童要な拠点駅、日本でいうなら大宮とか鳥栖のようなもの、
ここに大きな鉄道工場もありました。出来るとすぐマンチェスター市内の
Longsight機関区に配属され、仕事をはじめてから九年と二一九日で百万マイル
走り、一九○二年八月五日に二百万マイルを達成、三○年間とちょっとの活躍
の後一九一二年十一月にスクラップ処分となりました。どこかに残っていれば、
フェローシップあたりで買いたいところですが、残念の至りです。
 このSLの通常の仕事は、マンチェスター八時三○分発のStoke-on-Trent(スタ
フォードシャーの陶器生産で有名な都市。アーノルド・ベネットの小説の舞台
です。)経由ロンドン・ユーストン行急行を引いて都入りし、その日の午後四
時ユーストン発の急行を引いて戻る、というものでした。あるマニアが計った
ところによると、一八八六年のある日、この列車は途中最高時速六二、一マイ
ル(九九、四キロ)にまで達したそうです(※)。明治一九年の狭軌の日本と
比べることはそもそもナンセンスですが、東海道線が新橋から神戸まで全通し
たのがその三年後の明治二二年です。
 この第一代 "Charles Dickens "が消えた後、おそらく第二代ではないかと思い
ますが、正確にはわかりませんが、一九五一年にもう一輌この文豪の名を冠し
たSLが製造されました。この時はご存じの通りイギリスの鉄道は全部国有化さ
れていました。
 "Britannia "Classと呼ばれた七○○○○--七○○五四までの総数で五五輌の形式
は、先輪四、動輪六、従輪二というパシフィック形(日本でいうと2C1)の炭水
車つきで、国有化後最初に登場したSLです。この中の七○○三三号が "Charles 
Dickens "と呼ばれたことは確かなのですが、どこで働いていたか、その後どう
なったかは不明です。
 設計はDerbyの国鉄工場、製造は初代と同じCrew工場ですが、この頃はすで
にSLの黄金時代は終っていましたし、昔のように各鉄道がしのぎを削って競争
していた時代でもなく、技師長がその個性と能力を十二分に発揮できた時代で
もありません。どこの路線にでも向くような穏当な設計ですが、それだけにあ
まりにもスタンダードで個性に乏しいデザィンです。地下の文豪が見たらあま
りいい顔はしなかったかもしれません。※E. L. Ahrons, Locomotive and Train 
Working in the Latter Part of the Nineteenth Century (Cambridge: Heffer, 1952), Vol II, 
p. 32.(一番大きな車輪にCHARLES DICKENSと記されています)



ハーンのディケンズ評
							                
内   山  正  平
 ハーンは一八九六年(明治二九年)九月から約七年、東大で英語・英文学の
講師を勤めたが、その間の講義が二種類の本にまとめられ、北星堂から出版さ
れている。一は一九三二年、一巻本として、も一つは、一九七○年(一九二七
年版の改訂本)三巻本として。いずれも愛弟子田部隆次、落合貞三郎両氏に西
崎一郎氏が加わり、編集に当っている。
 ハーンの学校生活は十九才、ハイスクールで終っている。従って、講師就任
の要請があった際、「自分は学究的方法で英文学を教える事はできまい。進化
論的工夫によって歴史的感情的に教える事ならできよう。」(田部隆次氏著「小
泉八雲」による)と條件をつけた上で引受けた由である。ともかく、ハーンの
英文学の講義は極めてユニークなものである。我がディケンズに関しても数回
にわたって講義しているが、興味をひかれる点が多いので、一部を紹介してみ
たい。
 或年の講義で彼はPRE-VICTORIAN PROSE-FICTION・・・THE GREAT 
NOVELISTSと題し、その中でTherefore I will say in the simplest way, that the history 
of 19th century fiction begins with Scott and that Scott was followed by Bulwer-Lytton, 
Dickens, and Thackeray.と言い、ディケンズを位置づけている。続<DICKENS>
の項にこんな辞が見られる。All that he wrote is true, is real--and yet it is real only in 
the way that shadows in a concave mirror are reflections of real objects. この意味を彼
は別の講義で次のように述べた。Now the talent or genius of Charles Dickens as a 
novelist was chiefly the same kind of genius that is possessed by the caricaturist--the 
faculty for instantly observing a peculiarity, and exaggerating it picturesquely.  
Sometimes Dickens gives us sweet and good characters, but even then he always 
exaggerates something--just as the artist of the London Punch, when he   draws a 
beautiful girl, never fails to define some characteristic in a somewhat exaggerated way, so 
as to create a type of character・・・・They are all at once true and not true, just as caricature 
is It is very important to recognize this fact before you begin to study Dickens.  
 以上、彼の講義のほんの一部を紹介したが、ディケンズ研究家にとって「ハ
ーンの英文学史」は好伴侶の一つではなかろうか。
 ハーンは一八五○年生れ。ディケンズ急死の前年、十九才で渡米するまで英
国或は佛国にいた。多感な少年時代からべストセラー作家の作品に親しんだの
は当然だろう。東大では自身の読後感を学生に伝える事を幹にした、と言われ
ている。その講義集のユニークさはこの点にある。



	日本におけるディケンズ関係の研究書、翻訳書、ならぴにフェローシッ
プ		      会員による研究書、翻訳書等(一九七八年四月より
一九七九年八月まで)
吉田孝夫『ディケンズのことば』 一九七八年 あぽろん社
ウィルキー・コリンズ作中西敏一訳『白衣の女』I、II、III 一九七八年 国書
刊行会
J・B・プリーストリー著小池滋・君島邦守訳『英国のユーモア』 一九七八年 秀
文イ ンターナショナル
鈴木幸夫編『英米文学辞典』 一九七八年 東京堂出版
宮崎孝一『随想 コロラドの月』 一九七九年 開文社出版(九頁につづく)


漱石の見たディケンズ
 						                  
宮 崎 孝 一
 講談社の「学術文庫」というのに入れるために、激石の『文学論』の英語の
引用文のすべてを和訳する仕事に従ったが、漱石のイギリス作家に関する興味
と知識の広さに改めて感嘆した。ディケンズからの引用も所々に出て来るので、
これを機会に『文学論』のみならず、漱石の書いたものや談話のすべてを通じ
て、ディケンズに対する言及を調べてみた。
 まず、『文学論』では、文学的記述が科学のそれと異なる例として『リトル・
ドリット』第一章の、マルセーユの夏の日の暑さの記述が挙げられている。次
には「対置法」の例として『骨董店』第一章の、陰気な背景と対照された美し
いネルの描写が引用されている。また、文界の流派の明滅去来する例として、
ギャスケル夫人の『クランフォード』第一章における、ブラウン大尉とジェン
キンズ嬢とが、それぞれディケンズとジョンソン博士を推して譲らない光景が
挙げられている。
 漱石の蔵書の余白に記入された感想の中では、『二都物語』についてのもの
が比較的詳しい。「一人の女に三人の男が惚れる趣向杯は愚の極である。然も
其惚れさせ方が頗る拙であるから駄目だ。……」「カートンがダーニ−の代り
に死ぬのは小説として結構であるがmotiveが弱いから不自然な気がする。」「酒
場の親方のデファルジがprominent partをplay。……普通の小説は必らず最初に
出したる人物を仕舞まで利用したがる。……デファルジを応用する所は只むだ
を出さぬ趣好と云う迄である。……」この辺りには既に漱石のやがて作家にな
る眼が光っているように思う。また、「倫敦消息」四月二十日の部には、自分
の下宿している家の家族が落ちぶれて引越しをすることになったので、自分も
いっしょについて行くことになった次第を述べて「……ミカウバーと往んでお
ったデヴィッド・カパーフィールドのような感じもする」と書かれている。そ
の他、多くの興味ある記述や発言があり、漱石の鑑賞眼、批評眼の鋭さを感じ
させられるが、ここに記す余地がない。興味をお持ちの方は、一々当ってごら
んになることをお勧めする。


 滞英日記抄
					                   
松 村 昌 家
 (一九七八年〕四月十四日(金)朝十時にディケンズ・ハウスを訪ね、館長
のディヴィッド・パーカー氏はじめ事務関係の婦人たちにあいさつをする。パ
ーカー氏から研究室に案内してもらい、館内の図書その他の資料の利用につい
てのオリエンテーションを受ける。
 五月十九日(金)タ方にディケンズの誕生地であるポーツマスに到着。二十
一日までの三日間にわたって開かれるディケンズ・フェローシップ第七十二回
年次大会に出席するためである。夜八時から行われた市主催のレセプションの
会場(ロックガーデン・パヴィリオン)に着いて先ず驚いた。来る人来る人、
意外にもお年寄ばかりである。それにディケンズの研究とは縁もゆかりもない
愛好家、崇拝者たちの集まりのようである。その人たちはまた私をみて驚いた
ようだ。若い(?)ディケンズの愛好家が、はるか遠くのトウキョウ・ブラン
チからやって来たのだからである。
  五月二十日(土)ディケンズ・フェローシッブ、ポーツマス支部の支部長で
もあるロード・メイヤーによる開会式が、朝の十時から行われた。参加者は約
二○○名。市長はあいさつの中で、世界各地における支部活動の隆盛を賞賛、
特に日本からの参加者を紹介するといって、会衆の注意を私に向けさせた。万
雷の拍手がわき起こった。どうやら正式の東京支部の代表参加者に勝手に格上
げされたようである。愉快だったのは、このあとの評議員会報告の中で、A・ワ
ッツ氏が、東京支部がそうであるように、「われわれも若い会員をふやし、か
つアカデミック・インタレストを高めるように努力しよう」と呼びかけたこと
だ。昨晩、氏と雑談をしたときに、東京支部の会員はほとんどが大学関係者で
あること、そして私よりも若い会員が大ぜいいることを自慢したのが効いたよ
うである。午後はパーカー氏と共にディケンズの生家を訪問。市の保存が決っ
て、やや立派すぎる位に復元されていた。
 五月二十一日(日)ポーツマス墓地を訪れ、目ざすエレン・ターナンの墓を
やっとのことで探し当てた。それほどみすぼらしく荒れていて、諸行無常を目
のあたりにした感じであった。「エレン・ウォートン・ロビンソン……一九一
四年四月二十六日」と墓石に刻まれた文字が、辛うじて読みとれる。スレータ
ー氏の話では、この墓地には、かのウィンター夫人(マライア・ビードネル)
の墓もあるが、所在さえ分らぬ程に荒れてしまったとのこと。ディケンズが生
まれた町で、この宿命の二人の女性が地下に眠っていようとは、偶然というべ
きか、皮肉というべきか。私がブロンジィーノーの『時と愛』の寓意画を思い
出したと話したら、スレーター氏は、ハーディの詩の中に、この「ポイニャン
ト」な感じをもっとうまく表現したのがあると答えられた。何という題であっ
たか、もっとしっかり聞いておけばよかった。
 六月二日(金)ブローニュの駅には「チャールズ・ディケンズ」と書いた札
をもったフランスの青年が迎えに来てくれていた。今日から三日問『ウィーク
エンド「C・ディケンズ・エ・ラ・フランス」』の会合がこの地で開かれる。会
場の市立図書館は、古い城壁の内側にあった。招待状を送ってくれたマダム・
ワトランが早速シルヴェール・モノ教授を紹介してくれた。セドリック・ディ
ケンズやフィリップ・コリンズらもすでに顔をそろえていた。八時半からモノ
教授の『荒涼館』についての講演があったが、何しろ随分飲み食いしたあとで
あったので、眠気を抑えるのが精いっぱいであった。
 六月四日(日)コンデットヘのバス旅行があった。昨日感心したことは、昼
食時にワインやシャンパンをしこたま飲んだあとで、研究発表や講演会のスケ
ジュールを難なくこなしたことだ(日本の学会では、例外的な少数派を除いて
は、こんなまねはできまい)。コンデットには、ディケンズが晩年近くになっ
て借りていた別荘がある。居間の暖炉の上にエレン・ターナンの額縁が飾って
あった。なるほど、と思った。例のステープルハーストでの鉄道事故にあった
のも、ひょっとするとこの別荘からの帰りだったのかも。この近くで「ディケ
ンズの小径」の命名式が、はなやかに行われた。
 六月九日(金)今日はディケンズの一○八回目の命目。ディケンズ・フェロ
ーシッブを代表して、ウェストミンスタ−寺院にある彼の墓に花輪を捧げる光
栄ある役割を果たした。遠来の客として花をもたせてくれたのであろうが、一
生忘れられない感銘深い思い出となることであろう。



	日本におけるディケンズ関係の研究書、翻訳書、ならびにフェローシッ
プ		      会員による研究書、翻訳書等(一九七八年四月より
一九七九年八月まで)
吉田孝夫『ディケンズのことば』 一九七八年 あぽろん社
ウィルキー・コリンズ作中西敏一訳『白衣の女』I、II、III 一九七八年 国書
刊行会
J・B・プリーストリー著小池滋・君島邦守訳『英国のユーモア』 一九七八年 秀
文イ ンターナショナル
鈴木幸夫編『英米文学辞典』 一九七八年 東京堂出版
宮崎孝一『随想 コロラドの月』 一九七九年 開文社出版
小池滋『ディケンズ--一十九世紀信号手』 一九七九年 冬樹社
田邊昌美『記憶』 一九七九年 中央図書出版社
宮崎孝一校注、夏目激石『文学論』(一)、(二)、(三) 一九七九年 講
談社
村石利夫『日本形容詞辞典』 一九七九年 日本文芸社
アンガス・ウイルソン著松村昌家訳『ディケンズの世界』 一九七九年 英宝
社



 フィリップ・コリンズとマイケル・ スレイター
					                   
西 條 隆 雄
 一九七七年九月より七九年三月まで一年半をレスターですごした。コリンズ
先生のディケンズ・セミナーは多面的で深く、加えて自宅書斎で行ったので印
象は特に強い。ある時三週間ばかりアメリカヘ行ってくるからといって出かけ、
帰ってお会いすると、何とハーバード、バークレーをはじめ二十の大学で講演
と朗読を行ってきたという。コリンズ先生の朗読は国際的にも有名で、今年の
四月にはナショナル・シアタ−でディケンズ朗読を行った。ナショナル・シア
ターといえぱ日本の国立劇場にあたるであろうか。先生の有名さがうかがわれ
る。その朗読も、私がレスターについてニケ月後、たっぷり二時問を使って披
露して下さった。そして、ディケンズ研究以外においてもガイ・フォークスの
夜、五月祭、クリスマスなどの年間行事をも一つ一つ経験させて下さり、加え
て快適な家までお世話していただき、思い出多い滞英生活を刻むことができ、
感謝している。
 スレイター先生にはコリンズ邸ではじめてお会いできる機会をえた。彼がレ
スターにきたのはヴィクトリアン・スタディーズ・センターの招きによるもの
で、これはマルティプリ・ディシプリナリ的研究方法をめざしてコリンズ先生
が内外の著名な学者の協力をとりつけて六六年に作りあげた、この方面では英
国唯一の研究所である。この研究所の一室をかしていただいたおかげで、当セ
ンターの年間の多方面にわたる活動が把握できたが、そのうちの一つに、夜八
時から教員と大学院生が教授の家に集まり、学外の著名な学者を招いて特別講
演会を催す機会が年間に数度計画される。スレィター先生の場合は七七・八年
度第一回目の招聘講師であった。彼とコリンズ先生とは年令こそ十才以上の開
きがあるが、互いに尊敬しあう学者であり友人で、一方が講演する時は必ずと
いっていいはど他方は聴衆に混じっている。この日、コリンズ邸で彼は近刊予
定の『ディケンズと女性』の第一章をよんだ。この書物は九百ぺージに及ぶ大
著となるため、出版社の方が六百ぺージ程度に縮少しないと出版しないといい
出し、彼は目下書き直しに多忙を極めているはずである。コリンズ先生の自信
たっぷりの語り方に比べ、彼の少々かん高い、はにかんだ声が記憶に残ってい
る。そしてこの時以来、ロンドンに行く折々に彼と会うことが可能となったの
である。
「フィリップが昨年のクリスマスに、ある北部都市で行った『クリスマス・キ
ャロル』の講演がとてもすばらしかったので、今年のディケンズ・フェローシ
ップの十二月例会でリピートしてもらうことにした」とマイケルは私に告げた
が、こんなところにも日頃の二人の関係がうかがわれる。十二月二十日、司会
者はマイケル。彼は、年をとるほど益々精力的に活躍するコリンズ先生の姿を
数々の著書、朗読、講演から紹介すると共に、テムズ河の死体引き上げ人ギャ
ファー・ヘクサムのオリジナルはわが祖先らしいとのコリンズ先生の『ディケ
ンジアン』ヘの投稿を引用して、ディケンジアンならではの、和やかでうちと
けた、お互いを信頼している、司会者と講演者のみごとなコンビぶりをみせた。
講演が終ると、マイケルは満足そうにほほえみながらその要約を行い、聴衆に
クリスマスの喜びを期待させる。熱気をおびた会場はこの両者に是非とも一言
語りかけずにはいられぬ雰囲気に包まれた。
 逆にスレイター先生がキャサリンの死後百年を記念して「ディケンズ夫人」
の題で講演した時、コリンズ先生はレスターから上京し、終了後真夜中に帰っ
ていった。その二月例会に集った聴衆の顔には、講演者に対する親しみのよう
なものがあふれていた。マイケルの方もサービスは旺盛で、エドガー・ジョン
ソンのディケンズ伝をこっぱみじんにやっつけ、熱演のあまりあつくなった上
着をぬぎ、引用するはずのディケンズ書簡などはみもせずこれを朗々とそらん
じ、キャサリンがすばらしい女性であったことを弁護した。聴衆は興奮してき
き入り、予定の一時間などとっくにすぎているのに誰一人立上ろうとせず、彼
の熱弁にききほれた。司会者のワッツ氏は大喜び、いつもの早口が英国一の早
口となって講演をほめたてたものだから、聴衆の興奮は容易におさまらなかっ
た。
 同じ二月、ディケンズ祝賀ディナーがロンドンのホテルで行われた。料理を
たベワインをのんで歓談したのち、この日の主賓であるコリンズ先生が四十分
にわたる講演にも似たスピーチで会場を熱気でみたしたあと、最後に松村先生
と私が参加していることを特にメンションして下さった。つづいてウェストミ
ンスター大司教、ディケンズ・ハウスのパーカー氏、そしてとりわけこの日の
ゲストであるジェイムズ・スミス氏が並いる人々を沈黙させた。丁度前年の五
月にマイケルと松村先生と私、それに偶然一緒になったパーカー夫妻で『荒涼
館』の芝居をみに行ったが、数名の役者が各々一人多役をこなしながら、本文
に忠実にみごとな演劇を披露した記憶は今も生々しい。主役と演出を兼ねたス
ミス氏は、作品をドラマ化するに当り会話の部分よりも地の文がいかにすばら
しいドラマを含んでいるか、そしてそれを演出するに当っていかに苦しんだか
を告白した。ディケンズ文学の真髄をついた名スピーチであった。
 滞英生活の土産にと、スレイター先生は二月末特別に許可をえて松村先生と
私をギャズ・ヒルに案内して下さった。かつてトンネルのむこうにあったスイ
ス・シャレーには壁面に鏡を沢山とりつけてあり、それにうつる周囲の木々が
樹海の中にいる感じを与えて、ディケンズはこの書斎を大いに愛していたとい
う。ダミー・ライブラリーには『ねこの生涯』(全九巻)『中国五分間』(全
三巻)『ハンサードの爽やかな眠りの手引き』(全十九巻)等々、滑稽なもの
から『マルサスの童謡』といった功利主義思想を茶化したものもあり、想像の
輿味はつきない。召使部屋、子供部屋をぬけ屋上へ出ると、『エドウィン・ド
ルードの謎』に出てくる豊かな穀倉地帯が周囲に広がっていた。
 滞英生活を豊かに送れたのは、レスターの人々の暖かさと、とりわけ二人の
秀れたディケンズ学者の一ディケンジアンに対する好意ある興味のおかげであ
った。マイケルは日本での講演旅行を終えるとすぐレスターにコリンズ先生を
訪ね、日本での数々の印象を語った、とすぐさま知らせてきた。



 ディケンズの描く女性像の変遷
					                    
滝  裕 子
 ディケンズの作品に登場する女性たちは一般にヴィクトリア時代の大衆の理
想的女性像を代表した「良き天使」のような女性たちであると言われてきた。
謙虚さ
(humility)、慎み深さ(modesty)、貞淑さ(chastity)、繊細さ(delicacy)、美
しさ(beauty)という五つの要素を備えた女性像が当時の社全の理想的な女性像
であって、ディケンズもこの風潮の中でそのような女性像を完全に支持してい
たのは言うまでもないことである。Oliver TwistのRose Maylieから始まって、Little 
Nell, Ruth Pinch, Florence Domby, Agnes Wickfield, Esther Summerson, Amy Dorrit, 
そしてGreat ExpectationsのBiddyに至るまでそのような女性の特徴は次々と引
き継がれていった。彼女たちの共通した点は心の優しさと共に、精神の強靱さ
を内に秘めているというところである。一見矛盾すると思われる優しさと強さ
が彼女たちの性格の特徴であるが、この二つのうち、常に前者が表面に現われ、
後者が内面に隠されていなければならない。前者は人に対する親切心や愛情深
さ、人を愛する心の場合もあるし、単なる物静かな態度だけで表わされている
こともある。後者は道徳的健全さでもあり、物質的な圧迫にめげないで前向き
に生活を開拓していく精神力によって表わされることも、また、男性を励まし
支えていく逞しい意志力に表現されることもある。いずれにせよ、ディケンズ
はこの二つの力のバランスの一大鉄則として、後者が表面に出ることをひどく
嫌悪して、女性の持つ強さは常に優しさや美しさというオブラートに包まれて
いなければならないと長い間固く信じていたようである。当時は当然のものと
してもてはやされ支持されていた女性像であったが、今になってみると、逆に
その特徴がディケンズの女性たちの平板さとか変化の乏しさ、性格の面白味や
人間味のなさなどというマイナスの要素に加えられてしまう宿命となった。そ
して結論としてディケンズは女性を描くことがへたで、その女性像は画一的で
平板であるという評価を受けることとなったのである。
 しかし、ここでより詳細に調べてみると、本来内に秘めるべき女性の強さが
ある時期からディケンズの女性観にかなりの比重を持っているということが発
見できる。小説の中期頃までは女性の強さが表面に出た場合には、そのような
女性に対して不幸な連命と惨めな境遇を与えることで容赦なく切り捨ててしま
ったディケンズであるが(例えばMiss Dartleとか、Hortenstとか、Mrs. Pardiggle
とか、Lady Dedlockなど)、最後期になると、ディケンズのそのような態度は相
当変化していることがわかる。つまり、女性の自己とか個性の中に、強さが表
現されることをその女性の魅力として描くようになって、Estellaの氷のような冷
たさ、Bellaの勝気さ、Lizzieの逞しい生活力、Jenny Wrenの攻撃的な知性、これ
ら四通りの強さを違った意味合いで描き分けている。この四人の女性によって、
ディケンズは女性の強さを否定的で破壊的な女性の性格として見ることをやめ、
女性たちの魅力であり、生きるためのヴァイタリティーの源としてながめるよ
うになってきたのである。このようなディケンズの女性観の大きな変革はディ
ケンズの女性たちをより複雑で人間的な生き物として分析するに耐える要素を
読者に提供してくれたとも言える。そして、勿論作者自身の人間を見る眼が更
に一層深く大きくなってきたことを証明することにもなるだろう。


 田辺昌美著『記憶』
 						                  
植 木 研 介
 これは広島大学の田辺教授が還暦を前にしてこれまでの体験・生活を軸にし
て書きおろされた随想集である。「私の記憶に残るすべての人にたいする、自
分で書いた、私の手紙であるという確信は不動」とあるように、自らのあずか
り知らぬ観念をもてあそぶのでなく、「納得のいく形で皆さん全部宛に手紙を
書くことができたという至福」がにじみ伝わる随筆が二十七おさまっている。
私的な手紙の形をとっているだけ、そこに籠められた思いは篤く、当然のこと
として限定三百部の形で出版され、人目に曝されることを拒んでいる。だが限
定出版というのは勿体ない。もっと多くの人に読まれるのを望んでいる。身辺
雑記でありながらそこに確かな生活が贅沢にもられており、それゆえ、この本
を持ち帰った人達に「女房が夢中になって読み耽って読ましてもらえません」
との声があがったのも無理ないことであろう。贅沢といえば、柿渋を手で漉き
こんだ和紙を用いるなど、本の外装も、製本も凝りに凝った手づくりの本であ
ることもつけ加えておきたい。
 文章は簡潔で暢達である。省略の妙であり不要物を削ぎとった達意の文は、
日頃の唐突とも思われる発言--『出家』の一篇にも出てくるが--それと表裏一体
を成している。そしてその言葉が『目白』『梅干』『柚』を語りながら語られ
るのは、自然の律動、そのうねり変化に身を任せた生活で、それは『漁船』『読
む』の中で体験が時代の中におかれ、『峠』の中で「記憶は非情を前提として
本物の歴史となる」とのアフォリズムとなる。文化をふみにじる文明に対する
諍いと共に、そこに人間よりも大きな存在を常に忘れぬことを示すことば遣い
がある。その故でもあろうか、書かれた部分をつぎはぎ並べてこれが作者だと
いっても、まだ把えきれないものが残るようにも思えるのである。英国小説を
正面から論じてはいないが、ハーディ、コンラッド、ディケンズが沈澱してそ
こここに現われてもくる、そういった本である。
(〒602 京都市上京区油小路通 元誓願寺下ル 中央図書出版社制作)



 宮 崎 孝 一 著『随想 コ ロ ラ ド の 月』
 						                  
横 川 信 義
 後半に「イギリス小説点描」の見出しで十数篇の小論文があり、これで「自
分のことばかりを語るという悪趣味を脱することにはなったかもしれない」と
著者は書いていられるが、実は読者の興味はむしろその「悪趣味」の方にいっ
そう集中する。
 「コロラドの月」に始まる前半の随想は、アメリカ留学、イギリスでの研修
のことをはじめ、著者の幼い日から受験、学生生活、海軍予備学生から教官、
戦後の教師生活など、著者のこれまでの人生を浮き彫りにしてくれる。ディケ
ンジアンにとっては、ディケンズ・フェローシップ東京支部誕生のいきさつを
書いた「ディケンズ・フェローシップ」が、後半のディケンズ作品を扱った数
篇とともに興味を呼ぶところであろうが、日ごろ著者を存じ上げ、その学識と
人柄を敬愛する友人たちにとっては、それと同時に、いかにも著者らしいひら
めきが随所にあらわれる回想録にやんやの拍手を送りたい気持である。その一
つ一つを紹介する紙数はないが、何しろ子守の背にくくりつけられていた赤ん
坊のころ、子守が道端でしゃがんでおしっこをした臭いが、背中の赤ん坊だっ
た著者の鼻を強烈に刺激したのを覚えているほどの鋭い感受性を具えているの
である。母乳をやめさせられた悲しみに竹の垣根に手をふれ、竹からほとばし
る露が陽光に輝く美しさにはっと目を見はる美的感覚もある。小学校の運動会
のランニングで「走りながら私は、頑張れば先頭の生徒を抜けると信じていた。
だが、まあ、無理するのはよそう、二等でいいやという意識があったようであ
る」といった余裕もある。こういう所がどこを読んでも一つや二つは必ず出て
くるので、実にたのしくなる。また福原麟太郎先生との間の美しい師弟関係を
描いた何箇所かには心打たれるものがあった。
(〒160 東京都新宿区坂町二六 開文社出版 一、八○○円)



 広島読書旅行
									
					久 田 晴 則
 この夏も我々は『無商旅人』に連れられて「県民の森」ヘ読書の旅をした。
七月二十九日から八月一日までの三泊四日である。院生を含めた広島在住者を
中心に、東は名古屋、岐阜、大津から、西は長崎、大分から、総勢二十五名が
この清涼の地で相まみえた。前号で田辺先生が報告されているように、清冽な
水と清々しい空気、夜は夢かと紛うばかりの満天の星と天の川、が海抜七百米
余りのこの高原では実に自然なたたずまいとなっているのだから、炎暑と俗塵
の地から登って来た者には驚嘆という他はない。心身が洗われるとはこうした
中においてなのだろう。
 清風と蝉しぐれをついて、朝八時半から夕方五時半頃まで『無商旅人』を読
む。この作品の難解さは我々を机に金縛りにする。腕や背に汗をにじます。日
頃の成果を問われる担当者にまさしく辛い正念場を強いる。今年は院生の田辺、
要田、広島の志鷹、大分の河上、広島の篠田、大津の大野の六兄姉がそれぞれ
‘The Boiled Beef of New 
England’、‘Chatham Dockyard’,‘In the French-Flemish Country’、
‘Medicine Men of Civilization’、‘Titbull's Alms-House’、
‘The Ruffian’の六編を担当した。彼らに対して、司会の田辺先生を初め、湯浅、
藤本、難波、津村、相沢、能美さんなどの先輩諸兄が、直感的な鋭い説や実証
に基いた勝れた意見などを述べて下さったお蔭で、読書会の内容は一層充実し
たものになった。
 ディケンズは、言うまでもなく、 "Uncommercial eyes "、つまり、芸術家とし
てのディタッチメントの眼と化して、さながら変幻自在のプロテウスのように、
いたる所に出没し、それらの個所をいわゆる "texts "としてその解読に専念して
いく。その解読作業を通して、ディケンズ特有のイメジ群がきら星の如く現わ
れてくるし、また、 "secret prose "で綴られた "confidential interview with himself "
の声があちこちから聞えてくる。
 さて来年はI・ウォートンといっしょに釣糸を垂れようか、ペクスニフ氏やニ
クルビィ夫人の饒舌に傾聴しようか、それともまた『無商旅人』と旅をしよう
か、と種々のプランが出ている。楽しみである。なお最後に、先年来我々が手
がけてきた『クリスマス物語」の読書の成果が注釈付きのテキスト版として京
都のあぽろん社から出始めていることを付け加えておきたい。(八月十七日)


 

テーマを追って読む・書く・生きる
	            						
		字 佐 見 太 市
 幼児教育専攻の女子短大で、教養英語のテキストとして『大いなる遺産』を
選んだ時のことである。私自身、「少年」ということに対する思い入れが強す
ぎたのか、授業では第十九章までの第一部を念入りにやり、「少年の眼の特異
性」に注目して読んで行ったが、学生はこの小説に非常に魅せられたらしく、
一気に最後まで訳本で読み切ってしまう者が多かった。
 顧みて、この作品の選択は成功であったが、何故それほどまでに彼女たちが
この小説に感動したのか、その理由をうまく説明できないでいた。単純に考え
れば、彼女たちの専攻対象である「幼児」が生き生きと描かれている為であろ
う。しかし、これでは答にならない。やはり、読者に想像力を喚起させる源と
しての子供の役割を考えなけれぱならない。
 そのような問題意識を抱えていた時、ふとしたことで大江健三郎のエッセイ
「表現された子供」(『言葉によって』)を読み、思わず唸ってしまった。も
ちろんディケンズとは無関係の内容のものだが、「作品における子供の描写の
意味あい」が絵や小説の具体例に即して簡明に記述してある。一字一句のすべ
てに納得してしまった私は、もはやそれ以上に何も言えなくなった。時々、視
点のことで「二人のピップ」を論じたりするが、この「現在の自分」と「かつ
ての子供であった自分」との関係にも大江は言及している。
 このエッセイに感心してしまった私は、「子供の想像力的な役割」のテーマ
から潔く離れることにした。『オリヴァー・トウィスト』も、別の角度から読
もうと決意せざるをえなくなった。かつて、辻邦生のディケンズ論にも兜を脱
いだ経験があるが、とにかく偉大な文学者の眼は、小説であれ評論であれ、鋭
く光っている。そのあまりの輝きに圧倒されて、私の書く領域は狭まりつつあ
る。




 編 集 後 記 
 四、五月にマイケル・スレイター博士の講演会が各地で行なわれ、たいへん
な盛況であった。関係の方々はずいぶんとご苦労なさいましたが、日本のフェ
ローシップにとって、大きな発展の年であった。スレイター博士が香港方面か
ら成田に降り、東京のホテル・ニューオータニに着かれたのは、四月二十九日
の深夜、というか三十日朝の一時半頃。その三十日の午後にはもう京都で、張
りのあるお声で少しの疲れも見せない講演。まことに精力的な方であった。
 成城大学宮崎孝一氏の『随想コロラドの月』、広島大学田辺昌美氏の『記憶』、
二つの還暦記念随想集があいついで出版された。小池滋氏、松村昌家氏の出版
記念会も行なわれた。英国でディケンズ研究に励まれている方もあとを断たな
いし、読書会、読書旅行も着実に続けられている。日本支部はますます充実し
ていくという感を深くする。
 来年十二月には、発会して満十年となる。それを祝するに適切な記念行事の
ようなことも、おいおい考えていかなくてはならないであろう。
 さて、二回目の会報発行ということになりました。内容、体裁等につきまし
て、今後検討を加えていかなくてはならないと思っています。御意見をお寄せ
いただければ幸いです。(中西敏一)

会員名簿


ディケンズ・フェロウシップ日本支部

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