ディケンズ・フェロウシップ会報 第二十一号(1998年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. XXI

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支部


ディケンズ・フェロウシップ日本支部1997年度総会

日時:1997年10月4日(土)午後2時より
会場:成蹊大学学園資料館

1.総 会 (2:00〜2:30)
2.研究発表(2:40〜3:20)

司 会:久田晴則(愛知教育大学)
発表者:小野 章 (信州大学)
Little Dorrit における束縛とLittle Dorrit の解放」
3.講 演 (3:30〜5:00)
司会者:植木研介(広島大学)
講演者:Malcolm Andrews(ケント大学)
"Charles Dickens and his Performing Selves"

1998年春季大会

日時:1998年6月6日(土)午後2時より
会場:山形県生涯学習センター『遊学館』

1.開会の挨拶(14:00〜14:15)

ディケンズ・フェロウシップ日本支部長 小池 滋

2.研究発表(14時20分〜15時30分)

司 会:青木健(成城大学)
発表者:宮丸裕二(慶應大学大学院)
「逸脱した肉体−ピクウィック症候群の二症例−」
武井暁子(淑徳大学)
「『互いの友』に見るアイデンティティの混乱 -- 帝国主義、階級、ジェンダーの視点から --」
3.シンポジウム(15時45分〜17時15分)

テーマ:「ディケンズと狂気」
司 会:原英一(東北大学)
講 師:小野寺進(弘前大学)
講 師:金山亮太(新潟大学)
講 師:松岡光治(名古屋大学)


インターネットとディケンズ研究

The Internet and Dickens Studies

松岡光治

インターネットへの接続および操作性・信頼性・パーフォーマンスが著しく向上し たウィンドウズ 98 は、7月25日の発売以来、三年前のヴァージョン以上に売れてい るようです。利用者が国内だけでも一千万人を越えた現在、インターネットは大学だ けでなく家庭でも必要不可欠な情報通信の媒体となりました。今回はディケンズ研究 に役立つインターネット資源の現状と提言を書かせていただきます。

今われわれにとって一番ありがたいのは、グーテンベルグがディケンズ全作品の電 子テクストをウェッブ上に置いてくれたことです。グーテンベルグはディケンズ以外 にもヴィクトリア朝作家の多くの電子テクストを提供していますので、いつでも自分 のパソコンにダウンロードできます。ディケンズが頻繁に言及する聖書やシェイクス ピアはもちろん、その他の一次、二次資料も陸続とウェッブ上に現われています。私 もフォースターの伝記、ギッシングおよびチェスタトンのディケンズ論と作品論など を電子化しました。データベース化された電子テクストの価値はひとえに検索できる 点にあります。このフレーズはこの作品にあったはずだが、どこか思い出せない時、 また鍵語で論文を書く時などは威力を発揮します。若い人は気づきませんが、視力が 衰えた場合にも電子テクストはフォントを幾らでも大きくできるという利点がありま す。専用のソフトがあればコンコーダンスとインデックスの作成もあっという間です。五万円程度になった CD-R(レコーダ)を使い、保存した電子テクストを ISO 9660 と いう国際規格のフォーマットでディスクに焼きつければ、ウィンドウズでもマッキン トッシュでも開くことのできる CD-ROM ができます。自分の本が絶版になっても、出版 社がいやがるような長い翻訳でも、いずれはこのような電子ブックの形で手軽に配布 できるようになるでしょう。

七月末現在、日本支部の会員約 170 名中、43 名の方の電子メールアドレスが判 明していますが、実際にはその倍近くの方が電子メールを利用できる環境におられる と思います。それで、このまま増え続けることを見越して、六月に実験的なメーリン グリストを始めさせていただきました。これは本部からのお知らせ・会員相互の情報 交換・ディケンズに関する議論などが今後できるようにするための準備です。いずれ はリストも事務局に移るでしょうが、それまで会員の方すべてに入っていただき、支 部の新しいコミュニケーション・ツールにしていただければ幸いです。このリストは サブジェクトを空欄のまま、本文に # subscribe とだけ記入し、dickens-ctl@lang.nagoya-u.ac.jp 宛てに電子メールを送るだけで自動登録されます。ヴィクトリア朝のリ ストに関しては、大所帯の VICTORIA がウェッブ上にアーカイブを置いたので、そこで 自分の好きなテーマを検索することができるようになりました。大衆的な VICTORIA に 比べると、サンタバーバラ校のマッカーシー教授が主宰する dickns-1 は学術的なリス トで、Paul Schlicke, Grahame Smith, Robert Newsom, David Paroissien, Edwin Eigner といったおなじみの研究者も登録されました。その他、ディケンズ・ハウスの 館長デイヴィッド・パーカー氏とおぼしき人が、チャールズ・ディケンズという筆名 で高校生などの質問に答えてくださる BOZ というリストもあります。電子メールの最 大の魅力は海外の研究者や友人とほとんどリアルタイムでメールを交換できることで 、教育面でも例えば日本に関心のある海外の高校や大学と提携して学生の英語学習の モーティベーションとすることができます。

インターネット=ホームページという誤解が通念になるほど WWW はインターネット の基幹となっており、三年前に比べると個人や商業ベースのホームページが教育研究 機関のそれを完全に凌駕しています。ディケンズはウェッブ上でも超売れっ子で、ちな みにサーチエンジンにかけると 250 万近くのページがヒットします。一部の人だけ に研究されるためではなく、万人を喜ばせるためにディケンズが作品を書いたことの 証でしょう。学術的なものでは、サンタクルーズ校の「ディケンズ・プロジェクト」 は毎年夏に行われるディケンズ・ユニヴァースの詳細だけでなく、新たに設立した電 子アーカイブの一環として今年は BBC のドラマ化にあわせて『互いの友』の充実した ページを作成していますし、『ハイパーテクスト』(ジャストシステム)で有名なブ ラウン大学のランドウ教授が主宰する「ディケンズ・ウェッブ」は、研究者や大学院 生の論文を数多く公開しています。高校の先生が国語の授業でディケンズの作品を扱 い、それを公開したサイトも多く見られます。フェロウシップ関係では、フィラデル フィアとロチェスターに続き、先ほどニューヨーク支部もホームページを立ち上げま した。訪問客を受け入れ始めたギャッツヒル・プレイスもディケンズ・ハウスになら ってホームページ作成を考えています。日本支部もそろそろ正式なホームページを開 設してはいかがでしょうか。国内向けには会報をすべて電子化し、海外向けにはその 四分の一くらいを英語に直せば、立派なホームページになると思います。個人以外に 版権のない日本人によるディケンズの論文を集めてハイパーテクスト化し、ウェッブ 上にディケンズ・アーカイブ・イン・ジャパンを構築すれば、ホームページ自体の学 術性も高まり、より多くの人に日本支部の活動だけでなく研究の動向も知ってもらう ことができるのではないでしょうか。

Recommended Web Sites

  1. E-texts
  2. Dickens Home Pages
  3. Books:Search and Order
  4. Search Engines
  5. Retrieval Service


ハーディとディケンズ

Hardy and Dickens

宇佐見太市

数あるディケンズの作品の中でも、特に『デイヴィッド・コパーフィールド』など は、読者を明るく元気にさせてくれる作品の一つではないだろうか。

デイヴィッドは十歳の時、義父マードストンの経営する酒瓶会社に雇われるものの 、着のみ着のままそこを逃げ出し、大伯母ベッツィを目指して決死の逃避行を試みる 。しかし、その時でさえ、デイヴィッドの身辺に射す明るい陽ざしを読者は感じずに はいられない。

おそらくディケンズ自身の中にある、生得の向上心、向日性が、作品『デイヴィッ ド・コパーフィールド』の中に反映されており、それが読者を明るく元気にさせる素 になっているのだろう。ディケンズが時代を超えて、正にイギリスの国民作家になっ ているゆえんがこの辺りにあるような気がしてならない。

著書『英国流立身出世と教育』(岩波新書)の中で、「立身出世と教育」をキーワ ードにして、ディケンズ、ブロンテ姉妹、オースティン、サッカレー、ハーディ、ロ レンスなどの作品世界に迫る小池滋氏は、『デイヴィッド・コパーフィールド』につ いては、ユライア・ヒープの上昇志向にさらりと触れているに過ぎないが、この本の 圧巻は、ディケンズの『われらの共通の友』と、ハーディの『日陰者ジュード』との 比較考察である。チャーリー・ヘクサムとヘッドストーン先生、そしてジュード・フ ォーリーとフィロットソン先生、といった二組の対比は、実に鮮やかである。

小池氏のこの書物に触発された私は、ハーディの『日陰者ジュード』に、敢えてデ ィケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』を比較対比させてみたいと思う。

すると面白いことに、両作品の主人公の人生には共通項が三つあることがわかる。 その一つは、二人共、生まれながらに身分にめぐまれてはいないということ。二つ目 は、それぞれの主人公に対して、二人ずつ対照的な女性が配せられているということ 。つまり、ジュードにはアラベラとシュー。デイヴィッドにはドーラとアグネス。三 つ目は、主人公が共に教育によって身を立てようとする点である。

しかるに、二人の主人公たちの人生は全く対照的である。ジュードのそれは「陰」 であり、デイヴィッドのそれは「陽」である。知的渇望を満たし得る能力と勤勉さと を待ち合わせているにもかかわらず、ジュードは、人生の荒波にもまれるうちに学者 ・聖職者への道を断念してしまう。それに反してデイヴィッドは、たび重なる挫折に もかかわらず、基本的には無邪気なまま立身出世の道を突き進んで行く。

これは両作家の資質の差に拠るものであろうか。ハーディの場合、主人公が人生の 岐路に立った時、それがジュードであれテスであれ、自らの意志でもって、より悲劇 的な選択を好んでしているように思われてならないのである。ところがディケンズの 場合は、あのデイヴィッドがその典型であるように、作者は主人公にひたすら陽のあ たる出世街道を歩ませようとしている。

ハーディとディケンズの文学世界の違いについて、とりあえず私は今、上に述べた ような観点から考えてみたいと思っている。


一九九七年度総会

研究発表

司会:久田晴則

今回の研究発表は、信州大学の小野 章氏にお願いした。氏は『リトル・ドリット 』を「束縛」と「解放」という視点から論じるが、その特徴は、「近代社会における 権力構造」が「近代的な経済構造」にあるとする点である。氏は、フーコーの権力構 造の概念を援用しながら、監獄の住人のみならず、『リトル・ドリット』の主要人物 たちの「束縛と解放」を分析され、説得力あふれた論を展開された。

『リトル・ドリット』における束縛と『リトル・ドリット』解放

Involvement in Little Dorrit and Liberation of Little Dorrit

小野 章

フーコーは、ベンサム考案のパノプティコンを使って、近代社会における権力構造 を解き明かしたが、そのパノプティコンは近代的な経済構造のモデルとしても見なし 得る。近代的な経済構造の中で我々は、自らに負った負債を埋めるべく自らに監視さ れながら投機(投資)をやり続けている。監視者と被監視者、債権者と負債者、これ らを同時に我が身に組み込んでいるのが近代における「主体」である。

Little Dorrit に登場する三人の父―ウィリアム・ドリット氏、キャズビー老人、 マードル氏―はそれぞれ別の世界に属しているものの、共通して言えることが一つあ る。彼らはそれぞれの経済活動の場で中心的役割を果たしていると思われる。

まずはじめにウィリアム・ドリット氏は、マーシャルシー監獄において他の囚人か ら貢ぎ物を授かるかわりに監獄内の和平を保持する役を担っている。この役こそ、前 近代的な経済構造の中でその中心たる王が担っていたものであろう。つまりマーシャ ルシー監獄では、ドリット氏を軸に前近代的な経済構造を持つ前近代的な社会空間が 形成されているように思われる。しかしその前近代的社会空間が、あくまでも、虚偽 の上に成り立っていることを我々は忘れてはならない。結局のところ、彼にとってマ ーシャルシー監獄は "the living grave" に過ぎないのである。

ブリーディング・ハート・ヤード(以下、ヤード)でも、地主であるキャズビー老 人を中心に前近代的社会が形成されているように思われる。前近代的社会における王 は両義的な存在と言えよう。なぜなら王は、社会内の和平を司るが故に尊敬されると 同時に、その社会における永遠の債権者であるために嫌われもするからである。ヤー ドでキャズビー老人の代わりに人々から怨みを買っているのは、集金係として彼に雇 われているパンクスである。つまり前近代における王の役割が二人の人物に割り振ら ているのである。怨まれる対象であるパンクスは、実のところ、近代的経済構造に対 する関心を内に秘めている。ヤードに保たれていると思われた前近代的な社会も、マ ーシャルシー監獄と同様に見せ掛けに過ぎないことが判明する。

マードル氏は近代的な経済構造の権化として描かれている。彼に対する人々の関心 は、近代的な経済構造に対する彼らの関心に等しい。パンクスは世のマードル熱(投 機熱)を次のように表現している。"Merdle, Merdle, Merdle. Always Merdle." Little Dorrit では、近代的な経済構造がまさに圧倒的な力を持ってイギリス社会を覆 い尽くす様が描かれていると言えよう。

近代的な経済構造を持つ Little Dorrit の世界においては、あらゆる対立がなしく ずしにされている。まず周期的な祝祭に代わって投機(投資)が日常的に行われてい るという点で、日常と非日常の対立はもはや見られない。また近代的な経済構造に支 えられ発展を続けるイギリスでは都市と田園の対立も消滅している。首都であるロン ドンにも田園的空間と思しきものは存在する。しかしそれはジョン・チヴァリー青年 が閉じこもる "groves" や、プローニッシュ夫人が創造した "counterfeit cottage" でしかない。これら田園的空間は、それらを取り囲む都会的空間の中にあって、あま りにも矮小である。人間関係においても対立はなしくずしにされている。例えばマー ドル氏と彼に雇われている執事頭はどちらが主でどちらが奴なのか区別がつかない。 マードル氏は、更に、債権者と負債者をも自らの中に組み込んでしまっている。債権 者と負債者の対立もなしくずしにされているのである。

ヴィクトリア朝の小説にとって、作品内の有機的統一の保持は非常に重要であった 。構成要素の全てが有機的に関係し合って築くひとつの世界。その世界とは相容れな い要素は排除される。これが有機的統一を保持している作品のことを指すのであれば 、それは閉じられた空間を形成していると言ってよいだろう。Little Dorrit に遍在 する近代的経済構造は、小説中のあらゆる要素となんらかのつながりを持っている。 まるでこの小説は近代的経済構造を中心に有機的に結びついているかのように思える。しかし忘れてならないのは、近代的社会では対立そのものがなしくずしにされると いうことである。対立は境界を伴う。そして閉じられた空間は、当然、境界を設ける ことによってのみ確保される。ということは、対立をなしくずしにし境界を曖昧にさ せてしまう近代的経済構造は、閉じられた空間とは根本的に性質を異にするのである。監獄的空間に登場人物を束縛している近代的経済構造は、小説そのものをヴィクト リア朝の文学規範から解放していると言えるだろう。


講演

『ディケンズと演技する自我』

"Charles Dickens and his Performing Selves"

Professor Malcolm Andrews

司会:植木研介

〔講師紹介〕『ザ・ディケンジアン』の編集長を一九九一年から務めておられるアン ドリューズ教授のお名前はわれわれにとってお染みの名である。これまでに、Dickens on England and the English (1979), The Search for the Picturesque (1989), Dickens and the Grown-up Child (1994) を出版された。一九七三年ロンドン大学で スレイター教授の許で学位をとり、現在イギリスのケント大学の教授である。誠実で 学生への講義は視聴機器を駆使して簡単な英語で一つ一つまとまった話を広島大学で して下さった。日本支部での講演は、氏が現在関心を持っておられる最新のテーマで あり聴きごたえのある興味深いものとなった。題目は「ディケンズと演技する彼の複 数の自我」とでも訳し得ようか。講演後の公開朗読は、まさに我々を一つの共同体と してしまった。

〔講演要旨〕ディケンズは作家であり同時に役者であった。この二つの組合せが彼の 作品に明確な特徴を与え、ヴィクトリア朝中産階級の文化の中で彼を特異な存在とさ せる力となった。当時の文化の中でこの二つの仕事は独りの人間の中で両立しえない 職業と見なされていた。一方は個人的創造的で、他方は大衆的演出的なものである。 また一方は紳士的知的仕事であり、他方は奔放なサブカルチャーの中で人前で役を演 じる卑しい職業だというのである。本日、私はディケンズの演劇的才能が、作家にし て公開朗読者である彼の芸術にあって独自の特質となる意義を考えたい。これを二つ の面、第一は小説と朗読の両者で用いられた多声的声と、第二はこれと関連のある、 自我の構造に対するヴィクトリア朝文化の態度についての面で詳しく論じたい。

彼の物真似の才能はコベント・ガーデンでのオーディションに応じた二十歳頃まで に充分開化しており、そこではチャールズ・マシューズの名人芸を試みるはずであっ た。マシューズの十八番は独り多役芝居(monopolylogue) で、独演者が異った声色 を用いて短い芝居の全ての役をこなすものであった。病気が望みを断ち、文筆家の経 歴がプロの役者となる夢にとって替ったが、作家になったことをフォースターは「デ ィケンズは立派な職業に就いたが、それはより低俗な職を含みこんでいた」と表現し ている。

ディケンズの物真似の才能は強迫観念的で、時折ふエけて行なうのではなく、彼の 長男が目撃したごとく、彼が作品を創造するさいの重要な部分を成していた。彼の声 に出して演じてみる行為は、登場人物の発話の音声だけでなく、小説の語りや記述の 中の多声的(polyphonic) 様式の中でも起っている。彼の小説の多声的特徴は長く気 付かれていたが、バフチンの『小説の言葉』(一九三五)で深く論究された。バフチ ンは多様な複数の言語・ディスコースは、どの社会の中でも、とりわけ錯綜した社会 では、文化の主導権争いをすると見なしている。また単一の求心的言葉と、破壊的離 心的な対話原理の多様な言葉との間の緊張、即ち寄せ集めのディスコースの二者択一 的連動状態を論じている。彼のこの理論的モデルは、ヴィクトリア朝の雑多な文化と 、ディケンズによって行なわれた小説と朗読の中で展開された独自の芸術の両方にと って興味深い意味を持つのだ。

ヴィクトリア朝初期は、幾つもの言葉(discourse) と話し方がしのぎをけずる、 専門職の分離化と社会の流動化の時期であり、医学用語、法律用語、議会用語が、分 化発達していく。社会の流動性は、社会的出自の指標である言葉と発音に対する不安 を産み、この世紀の終りには容認発音(RP)への要求が英国の広範囲な二重言語状況 (diglossia) を作り出した。

新進の作家はこの複数言語状況(heteroglossia) に直面した。バフチンの言葉の ように「意識は一つの言語を選択する必然性を持つ」からである。ところがディケン ズは、一つの言葉でなく複数の言葉を選び採る。彼の作家の声は、多声で、腹話術の ようで、ある時は感傷的哀歌的で、別の時は、宮廷ニュースのもじりで、またある時 は道徳的説教となる。ヘテログロシアは、ディケンズの場合、引用符で印を付された 沢山の登場人物の発話の中で対象化されるだけでなく、語り手自身の言葉の中に内在 しているのである。ディケンズは色々な声色で話す芝居がかった衝動に抗し切れない のだ。彼の一人称小説の場合、物語る言葉の均質性は保たれるが、この語りは、語り 手の役を演じ扮装している。複数言語状態と独り多役芝居はこの演技を楽しむことと 同じであり、これこそがディケンズ小説の真の特質であり、その源は、彼の役者兼作 家という体質の中に深く根ざしている。

ヴィクトリア朝の社会は演劇の持つ変動性と自由奔放さに偏見を持っていた。成り 上り者の社会であり競争的で上昇志向の強いヴィクトリア朝中産階級はこの奔放さと できるだけ距離を置きたがった。マシューズが亡くなった時、追悼文はこの役者の紳 士としての品位は、彼が生涯を送った劇場の雰囲気に決して汚されなかったとわざわ ざ断言した。中産階級は芝居の持つ楽しさと同時にその脅威に気付いていたのである 。自分達が必死に守ろうとした中産階級としてのアイデンティティが、芝居の持つ、 バフチンの言う「カーニヴァレスク」の中で、階層秩序が宙吊りにされ覆されること を感づいていたのだ。

確固たるアイデンティティを脅かす、変動性豊かな演技者、扮装がディケンズの作 品に沢山登場する。俳優シングル・ケンタウルスのようなチルダー氏も然り。『キャ ロル』の中の亡霊も変幻自在である。多様に変わる性質(polymorphousness)はヘテ ログロシアとモノポリローグの親戚だ。ジキル博士は「人間は本当は一人でなく二人 だ」と言うが、オスカー・ワイルドは単一の自我という概念について次のように言う 。「永遠に信頼のおける一つの核心を持つ人間の中に、エゴを想定し得た浅薄な心理 学に彼は疑いをいだいた。彼には一人の人間は無数の人生と無数の感情を有する複雑 多彩な姿を持つものなのだ。」ヴィクトリア朝の人々は多重人格の概念に強い魅力を 覚えるようになっていた。この脈絡の中でディケンズの朗読を考えたい。

単独の劇的朗読はモノポリローグの強い影響を受け、ある時は語って説明すると、 次の瞬間別人の声に、一瞬の後には別の声に飛び乗るといった移動を操らねばならな い。その時彼に求められるのは自己放棄(Self-annihilation) であり、ディケンズ は聴衆を一つにする為に「身をバラバラにする」とこれを表現した。毎夜、異種言語 状態と独り多役芝居に耽りつつ、何千という見知らぬ聴衆を溶解して一つの共同体を 産みだす為に、ディケンズは彼の身体がバラバラになるまで声を出すのである。


一九九八年春季大会

研究発表

司会:青木 健

本年度の春季大会は、中村隆氏のお世話で六月六日に山形市の山形県立生涯センタ ー『遊学館』で開催された。静かな佇まいの中にある会場には、多くのディケンズフ アンが集まり、研究発表及びシンポジウムを聴講され、また積極的に質疑応答に参加 された。研究発表では、まず慶應大学大学院の宮丸裕二氏が、ディケンズのグロテス クの一側面を『ピクウィック・ペイパーズ』の中にみている。主人公ピクウィックと ジョウ二人を例にとり、身体、行動、笑いの三点から比較し、ディケンズに特有なグ ロテスクの 、面を指摘された。続いて、淑徳大学の武井暁子さんが、『互いの友』 を「アイデンティティの混乱」という視点から論じられた。フロントからも発表後積 極的な質疑、さらにはアドバイスがあり、十分な盛り上がりを見せた。

「逸脱する肉体ピクウィック症候群の二症例」

Irregular Physiques Two Cases of Pickwick Syndrome

宮丸裕二

 チャールズ・ディケンズの小説について、その登場人物の忘れがたさは特徴的なも のとして再三指摘されてきた。作家の人物造形に見られる特有の写実主義的手法に注 目する時、人物群の持つ特徴の多くは、グロテスクを含む身体的特徴に還元して考え ることが可能である。本研究発表は、人物の外観描写に依拠した独自の人物造形が早 くも定着していると考えられる一八三六〜三七年発表の処女小説『ピクウィック・ペ イパーズ』(The Posthumous Papers of the Pickwick Club)を取り上げ、主人公で あるピクウィック氏とジョウという二人の登場人物を、身体、行動、笑いという三点 から比較検討した上で、従来の定型的な見方からは見落とされがちであったディケン ズに特有なグロテスクの側面を指摘することを試みるものである。  『ピクウィック・ペイパーズ』に登場するほとんどの人物が各々に特徴的な癖を備 えていると同時に、身体面においても、時代に望まれる基準から逸脱している。喜劇 的トーンに貫かれるこの小説全体の身体世界を形作っているこうした特徴は、主人公 ピクウィック氏の肥満に代表させることができよう。ピカレスクヒーローとしての過 剰な程の正義感と相容れない太った肉体を持っていることのギャップが笑いを創造す ることは理解に難くない。一方で、そもそもいびつなるこの身体世界の中でも殊更そ の特異さを強調されているのがウォードルの召使いの少年、ジョウである。睡気、怠 情、愚鈍、空腹といった他の特徴をも併せて表象するジョウの肥満はピクウィック氏 の場合とは描かれ方が大きく異なっている。ボードレールの絵画論から言葉を借りる ならば、ピクウィック氏にみられる社会的落差によるおとしめに依存し、常に批判と いう機能を含む"significative comic" とは対照的な、"absolute comic" と呼ばれ るグロテスクの源泉とも呼びうる特質をジョウに認めることができるのである。

 また、こうしたグロテスクはジョウの身体を離れ、行動に注目する時、より明確に なる。一例として異常なる観察癖を挙げることができる。外部的な一切の利害を離れ て、自己目的的に観察・密告を楽しむジョウの不健全な行動は見る者にある種の畏怖 をさえ引き起こさずにいない。同時にこの不健全な行動は不健全なる肉体に呼応して おり、この点でも内面とのコントラストとしての肥満を備えたピクウィック氏と対照 的である。

更に、多くのグロテスク論の中で展開されるところに従い、グロテスクに内在の要 素としての笑いに注目するとき、この点にもジョウの持つグロテスク故の特質を見て 取ることができる。ジョウのノックによる急襲という場面を、ディケンズがストーリ ー進行を妨げてまで敢えて緊張場面に挿入していることが好例であり、この場面が根 本的にナンセンスであるという点以外には笑いに成り得ている原因を求め得ないこと からも、ジョウの存在が自己完結的な存在であることを説明づけることができるので ある。つまり、ピカレスクヒーローのパロディから存在が成立しているピクウィック は、飽くまでピカレスクヒーローらしからぬことのギャップから笑いを引き起こす存 在であり、この点でどこまでもモデルに依存しており、カリカチュアとしての笑いを 持っているが、その一方で、それ以上おとしめることが不可能な人物として現れるジ ョウは、モデルを持たない自律的な存在であり、模倣によるカリカチュアとは決定的 に異なっており、その存在の意味を最終的には問うことが出来ない。自律的にして無 自覚な、グロテスクという存在であることから発する笑いというものを見ることがで きるのだ。

後期ディケンズ作品の人物造形の萌芽がジョウの無自覚な笑いにあるとしたならば 、『ピクウィック・ペイパーズ』についてエドマンド・ウィルスン以来指摘され続け るような挿話内部に閉じこめられたグロテスクという見方が限界を持たざるを得ない ことは明白であり、むしろ主要な物語の流れの中心にも十分に現れているグロテスク こそが注目されて良いはずである。本筋のストーリーで、喜劇的なる主人公達と同じ 場で、笑いを共有するジョウが登場していることにこそ、挿話の内部でのグロテスク に比べて、なお強く初期ディケンズの独自性を見ることができるのである。

ホリントンをはじめとして幾多のグロテスクに関する議論において繰り返されてき たのは、バフチーンの与えるグロテスクの概念を当てはめてディケンズのグロテスク を理解するという方法であった。体制へのアンチテーゼを核として、社会との正負の 関係ゥらグロテスクを認識しようとするこの理解の仕方は、常になんらかのイデオロ ギーと密着している点で見直しを迫られていると言わざるを得ない。むしろ、フィー ドラーの主張した「日常なるグロテスク」という位置づけは、ジョウの示すグロテス ク、ひいてはディケンズのグロテスクを理解する上で、より示唆的であると思われる 。ディケンズ特有の「グロテスクにして主要人物」という人物造形は、後期を待たず して既にここに現れており、いわゆるディケンズ的人物を描き出す独自の人物造形の 手法を、処女小説において既にディケンズは確立していたと言えよう。『ピクウィッ クペイパーズ』に登場する二つの肥満には、人物の成り立ちそのものを異にする二つ の性格が割り当てられており、この内の一方は後に強烈な形で発揮されることになる グロテスクと通底しているのである。

『互いの友』に見るアイデンティティの混乱 -- 帝国主義、階級、ジェンダーの観点から

Confusion of Identities in Our Mutual Friend with Special Reference to Imperialism, Class, and Gender

武井暁子

 『互いの友』はディケンズが一貫して扱ってきたアイデンティティの問題の集大成 といえる作品で、ハーモン殺人事件と彼の正体の判明は作品全体に深い関わりを持つ 。その他、生きる目的を見出す者、自己の利益のために出自のうさんくささを巧みに ごまかす者、現実から逃れるために新しい自分を創り出す者、マイノリティであるた めに本来の価値を認められない者、社会的上昇を果たしたがため本来の自分との矛盾 に悩む者等、さまざまな形でアイデンティティの混乱が起こっている。

ハーモン、レイバーンの場合はアイデンティティの混乱から回復への歩みは父親へ の反抗・和解と密接に関係する。二人が父親の名前を否定、または矮小化することは 父権社会に連なることへの拒否である。彼らは共にテムズ川に投げ込まれ、財産や社 会的地位を取り払った裸の自分と向き合うこととなり、父親の呪縛から解放される。 レイバーンとリジーの階級の違いを乗り越えた結婚は因習的な社交界をわずかながら 揺り動かし、トウェムローの覚醒をも促す。

一方、ヴェニアリングを筆頭とする新興成金階級にとっては、アイデンティティは 社会で幅を利かすための飾りにしか過ぎない。ヴェニアリングが国会議員選挙で行う 演説では、トウェムローとの友人関係を強調し、自分も貴族階級の一員であるかに見 せかける。彼らの虚栄心や自己満足は自分達の狭い社会以外のものへの無関心と偏見 を生み出す。

社会的上昇は時には自己の喪失と根無し草状態を引き起こす。ヘッドストーンの出 世と破滅を通して、ディケンズはある階級から別の階級に引っこ抜かれた人間がルー ツを失って、疑心暗鬼や不安にさいなまれることを見事に描いている。ヘッドストー ンは教師になることによって貧困から抜け出ようとする第一世代であるが、いわばパ イオニアであるため、過去と完全に決別出来ない。彼は過去を捨てるために本来の自 分を抹殺しようとするが、抑制すればするほど生来の激情が歪められ、終に殺人に及ぶ。

ウィルファーとジェニーは自己命名によって新しいアイデンティティを創り出し、 逆境を耐え抜く。特に人形衣装師ジェニー・レンの変身は積極的である。彼女は本名 のファニー・クリーバーとしての自分を抹殺し、童話の主人公の名前を用い、夢の世 界を想像するのを唯一の楽しみとする。

ユダヤ人ライアは無条件でジェニーの天国に入るのを許される数少ない一人である が、マイノリティに対する差別、疎外、偏見の被害を最も被る。彼の善良さや親切は 正当に評価されず、冷酷な金貸しだと誤解される。彼はジェニーとリジーに援助の手 を差し伸べることで心を許せる友を見つけ、フレッジビーと縁を切り、本当の自分を 取り戻す。

結末において、男性は人間的成長の後アイデンティティの混乱を招いた元凶と和解 、もしくは決別するが、女性は男性の保護下に入る。ディケンズはビクトリア朝の中 産階級の上層部に属する白人男性であり、男性主義の社会が存続し、イギリス繁栄の 原動力になることを楽観視していた。にもかかわらず、一見栄華を誇るイギリス社会 が、一皮向けば、自己本位で虚飾に満ち、弱い者の犠牲の上に成り立っていることを 見抜いていたのである。 

人物創造の面では、自らの出自を意図的に攪乱する者、自我の分裂や自己の不在に 悩む者のほうが、面白みがあるか、共感出来る人物である。殊にヘッドストーンの不 安や狂気は現代社会に通じる問題を含んでいる。レイバーンの言葉を借りるなら、デ ィケンズにとって結局「自分が何者であるか」は生涯答えのない謎謎であった。


シンポジウム

「ディケンズと狂気」

Dickens and Madness

司会者:原 英一

 ディケンズの小説には面白い狂人がいろいろと出てくる。『コパフィールド』では ディックさ んという愛すべき狂人が出てくるが、この小説で強烈な印象を読者に与 えるのは、デイヴィッドがそのディックさんとトロットウッド叔母さんが住むドーヴ ァーへ向かう道中で出会ったもう一人の狂人であろう。この男、デイヴィッドが自分 の上着を売ろうとした古物屋の主人なのだが、「ガルーマン」とでも呼ぶべきであろ うが、「ガルーッ、ガルーッ」と意味不明の音声を発して、少年デイヴィッドを恐怖 におとしいれるのである。また、『ニックルビー』で、ニックルビー夫人に異常な求 愛をする隣人、「半ズボンの紳士」も忘れがたい狂人だ。ただ一人、この男を狂人と 認めようとしないニックルビー夫人自身も、常軌を逸した饒舌と自惚れという点で、 狂気から遠くないところにいる。

ディケンズの作品の持つ破天荒なエネルギーは、秩序とか正気とかいった枠など、 いとも簡単に突き破ってしまうような「狂気」を源泉としている。しかも、それは奥 が深く、作品の主要なテーマと密接に結びついている。『大いなる遺産』のピップや 、『リトル・ドリット』のアーサー・クレナムなど、「しらふでまじめ」な主人公の 背後にも、深い意味での狂気の影が差しているのだ。これまでもディケンズの研究の 中では、常に狂気の問題に突き当たっていたのであるが、現在私は、ディケンズを出 発点として、かなり遠い過去に遡りつつ、英国小説そのものの根源にある「狂気」を 追及している。今回のシンポジアムについて、山形大学の中村さんから司会の依頼が きたとき、テーマとして思い浮かんだのが「狂気」だったのはそのためである。こう した大きなテーマは、使い古されたものでもあり、平凡な内容に流れてしまう危険が 大きい。さらに、残念なことには、このところ十七、八世紀のテクストばかり読んで いる私には、ディケンズの狂気について清新な内容を提供することはできそうもない 。そこで今回は私は進行役に徹することとして、若手の活きのいいディケンジアンた ちに、講師として話していただくこととした。

自分の不勉強のゆえの逃げ道だったとも言えるが、結果としては成功だったのでは なかろうか。名古屋大学の松岡光治さん、弘前大学の小野寺進さん、新潟大学の金山 亮太さんの三人の講師には、それぞれ一般的な問題、個別的な問題について、独自の 見解を述べていただき、個人的に示唆を受ける点が多かった。もちろん、各講師は、 自分の興味や研究を、司会者が勝手に設定したテーマに合わせるため、いろいろと苦 労されたことと思う。さらに、かなり強引な時間制限をさせていただいたので、考え るところを十分に話しきれなかったのではないだろうか。三人の講師の方々には、い ずれまとまった論文として、言い足りなかったところを存分に語っていただきたいも のである。

狂気とグロテスク 『バーナビー・ラッジ』における躁暴的狂気と白痴的狂気の観点から

Madness and Grotesque: from the Viewpoint of Frenzy and Idiocy in Barnaby Rudge

小野寺 進

 ディケンズの小説において、狂気形態の両極とも言える躁暴的狂気と白痴的狂気が 顕著に見られるのは、『バーナビー・ラッジ』であると言ってもよい。『バーナビー ・ラッジ』は一七八〇年の「ゴードン騒乱」という反カトリックの歴史的事件を扱っ た歴史小説であるが、群集が暴徒と化し狂乱するのは、物語の後半部分のおよそ一週 間に渡って繰り広げられる騒乱の場面である。その中で大都市の群集は、「気まぐれ 」で「恐ろしく」「残忍」な性格を持ち合わせた「非常に不可思議な存在」として描 かれている。この暴力的な群集の自然発生的な形態は、荒れ狂う海のイメージで表現 されているが、このイメージはまた、もう一つの歴史小説『二都物語』でも、破壊的 な狂乱の群集の描写に用いられている。

『バーナビー・ラッジ』において時のはずみで形成された騒乱は、真面目な労働者 や普通の少年を一瞬のうちに暴徒と変え、伝染病が蔓延するが如く、狂気は社会や民 衆に恐怖の念を植え付けていく。その理性と非理性が混在し、見分けがつかない恐怖 の中で、狂気は理性的人間をも精神錯乱の狂暴な人間に変えてしまう仲介要素となっ ている。そして、ヒューが野獣となり、群集の先導役を勤めたように、荒れ狂う群集 の中に見る躁暴的狂気には、人間の内に潜む獣性の表出、あるいは人間の獣性退行と いう特性が看取されるのである。

こうした躁暴的狂気に対し、白痴的狂気はどうか。白痴と言えば真っ先に挙げられ るのがバーナビーであろう。バーナビーの白痴としての身体的・外面的特徴は、「ギ ラギラ光っている大きな飛び出した目」や青ざめた「落ち着かない顔つき」にあり、 それがバーナビーの様相を一層不気味なものにしている。さらには、自然児としての バーナビーが備えている無垢や空想といったものは、既に多くの批評家が指摘してい るように、自然への回帰というロマン主義的なものでもあり、この特性はまた、『デ ィヴィッド・コパフィールド』のミスター・ディックにも受け継がれている。ディケ ンズの場合、白痴的狂気が示す無垢や空想といったものは、子供のそれより象徴的に 描かれている。なぜなら、子供はやがて肉体的だけでなく精神的にも知性や世界知を 備えた大人に成長していくのに対し、白痴のような精神薄弱者は、永遠の子供として 肉体のみの成長を遂げるからである。

しかし、こうした両極にある二つの狂気にもグロテスクという共通する特徴がある 。ロマン主義やモダニズムのグロテスクに、「奇妙で」、「恐ろしい」、「悪魔的」 なものを見たのはカイザーである。カイザーはまたグロテスクを「疎外された世界」 と定義づけた。彼によれば、「機械的なものは生命を得ることによって疎外され、人 間的なものは生命を失うときに疎外される」ということである。疎外は、「われわれ に馴染み深く気がおけないものが突如、奇異で不気味なものとして暴露する」時に起 こるという。躁暴的狂気の場合、『バーナビー・ラッジ』では、暴徒は「狂える怪物 」に譬えられ、そしてバーナビーは群集の中に「悪魔のような頭と狂暴な目」のヴィ ジョンを見、「怒り」と「破壊」の暴徒は市内を恐ろしい「地獄絵」と変えてしまう 。『二都物語』でも、革命の暴徒たちは「食人鬼」として描かれ、カルマニョールの 踊りは「五千の悪魔」さながらに、「恐ろしい亡霊にも似た狂乱の踊り」と化してい る。その有り様はグロテスク模様であり、躁暴的狂気と化した群集は、日常世界を突 如として地獄の世界、通常の世界が転覆した不気味な世界へと変えてしまう。白痴的 狂気の場合は、ミスター・ディックと同様に、バーナビーの外見上からも明らかで、 その「グロテスクな対照」は「狂気の色を際立たせ、高める」のである。これに加え 、彼らが抱くロマン主義的な空想でも、ミスター・ディックがチャールズ一世の記憶 を凧に託し生の息吹を与えたのと同様、バーナビーは風に漂う洗濯物に生命を与える 。それは見慣れたものを生命あるものと見ていたのと同時に、空想が突然奇妙な想像 力へと暴走するのである。

狂った群集が制圧する世界、そして奇妙な想像力が支配する世界はカイザーが示す 疎外された世界と言える。そうした世界は表層世界に君臨することなく、再び地下に 潜ってしまう。『バーナビー・ラッジ』の終わりの部分で、騒乱は鎮圧され、バーナ ビーは理性を取り戻す。しかし、群集が自然発生したように、またバーナビーの自然 性が保持されたままであることや、朋としていつもそばにいたグリップが「おれは悪 魔だぞ!」と依然として叫んでいるように、それらは絶えず地上に表出せんとエネル ギーを蓄えてもいるのである。確かに、歴史小説という枠組みの中で、描かれている 狂気は18世紀のものであるが、それはまた19世紀の機械化された合理主義、また拝金 主義や腐敗した社会といったものの悪の側面に対するアンチテーゼにもなっている。 それ故に、ディケンズにおける躁暴的狂気と白痴的狂気はそれぞれ、既成の秩序を打 ち砕き、新たな秩序を作り上げるために、常に抑圧されながらも日常世界に揺さぶり をかける、普遍的な「破壊」と「想像力」のエネルギーの象徴であり、『バーナビー ・ラッジ』はそれを典型的に表した作品であると言えるだろう。

ディックさんの狂気は何を暴いているのか

What does Mr Dick's Madness Reveal?

金山亮太

 『ディヴィッド・コパーフィールド』が自伝的要素の極めて濃い作品であることは 議論の余地がないが、そこでは、作者の姿は主人公ディヴィッドの幼年期のエピソー ドの中に投影されているというのが通説であった。小論では本作品に登場する狂人、 過去の記憶に囚われて偏執狂的に伝記執筆にこだわるディックさんに焦点を当て、彼 の狂気の由来及び作品中の役割について考察し、彼と作者とが実は表裏の関係にある ことを指摘した。

主人公ディヴィッドが伯母ベッツィー・トロットウッドの許に身を寄せた時に出会 ったディック氏は、既に伝記執筆を開始してから十年以上を経ていながら、ことある ごとにチャールズ一世の斬られた首が脳裏に浮かんで来て執筆活動を中断せざるを得 ない状態であった。ベッツィー嬢の話から、彼には彼を虐待した父や兄の他に、唯一 人彼を愛してくれた妹がいること、そして彼女が不幸な結婚生活を送っていることを 知ってショックを受けた彼が被害妄想も相俟って熱病にかかってしまったことをディ ヴィッドは知るが、その一方、ディック氏の口からベッツィー嬢にまとわりつく不審 な男が存在することをも彼は知らされることになる。実はこの男は別れた彼女の夫で あり、ここで読者はベッツィー嬢がやはり不幸な結婚の犠牲者であることを知り、デ ィック氏の妹の境遇との類似に気づかされるのであるが、実はそれ以上にディック氏 と作者ディケンズとが類似していることにも注目しなければならない。

ディケンズが父親の代わりに靴墨工場でビンのラベル\りをしていた丁度その頃、 彼の実姉ファニーは奨学金を得て王立音楽院への入学を果たし頭角を表わしつつあっ た。ある時、とあるコンクールに入賞した彼女の授賞式に立ちあった彼は、姉への尊 敬と嫉妬、そして焦燥感と絶望の入り混じった複雑な感情に翻弄される。友人ジョン ・フォースターの手によるディケンズの伝記の中にも収録されているこのエピソード は、過去の辛い経験に対する作者の葛藤がいかに深刻なものであったかをわれわれに 教えてくれるが、ここで注意しなければならないのは、彼の姉ファニーが死亡したの は一八四八年九月、すなわち『ディヴィッド・コパーフィールド』執筆に彼が取りか かる直前だったという事実である。

この年に作者が発表したクリスマス物語である『取り憑かれた男』の主人公は過去 の傷の記憶に苦しむあまり、幽霊と取り引きをすることで記憶を消そうとする化学者 であるが、彼はこれの影響を周囲の人々にまで及ぼしてしまい、過去の記憶を失った 人々が優しさや思いやりといった感情まで失ってしまうのを目撃して更に苦悩を深め る。最終的に彼の回心、そして平和の復活という形で終わるこの物語のメッセージは 明白であろう。過去にこだわることは愚かなことだが、かと言って過去を抹殺しよう とするのは人間性の喪失に繋がるというこの考えは、年に一度、家族全員が集ってこ の一年間を振り返るクリスマスの時期にふさわしいものと言える。しかし、これは作 者が自分自身に向けた警告のような意味があったのではないかと考えられる。

やはり不幸な(と作者には思えた)結婚生活を送った後に夭逝したディケンズの姉 のエピソードはディック氏の妹のそれに容易に重ねることができるが、それ以上に興 味深いのは何故ディック氏はチャールズ一世の道をことあるごとに想起しなければな らないかであろう。ヴィクトリア朝におけるチャールズ一世のイメージは清教徒革命 における唯一の犠牲者というだけでなく、歴代の国王の中では例外的に子煩悩で家族 思い、すなわち「良き父親」のイメージであった。これがヴィクトリア女王とアルバ ート公を理想の夫婦像とする当時の風潮に乗り、チャールズ一世は絵画の題材として 頻繁に取り上げられていた。だとすればディック氏はチャールズ一世の首を想起する ことによって、彼を冷遇した父のイメージに復讐していたと言うことができる。勿論 、それと同時に彼は象徴的親殺しを犯したことから来る罪悪感によって更に狂気を募 らせるのであるが。そのように動揺している彼に追い打ちをかけるのが、保護者であ るベッツィー嬢の周囲にちらつく不審な男の影であってみれば、彼には安寧の境地は 永遠に与えられないのであろうか。

この小説の後半においてディック氏は法律文書の清書をすることでわずかな収入を 得、ベッツィー嬢にそれを捧げるというささやかな幸福を手にする一方、伝記の執筆 は忘却されてしまう。過去を抹殺するのでなく記憶を凍結させることによって得られ た安心感はディック氏のものだけでなくディケンズのものではなかったか。この小説 の後半部分における伝記的要素の薄さがそれを示唆しているように思われる。

監禁/群集/記憶/愛

Imprisonment/Crowd/Memory/Love

松岡光治

 フーコーは近代を管理のまなざしの作用によって強制を加える「階層秩序的な監視」の社会として捉えた。そのようなテーゼを具現する小空間として、スクルージが雇 人クラチットの労働を監視するために仕切りの扉を開け放った事務所がある。安月給 で子だくさんにもかかわらずクリスマスの挨拶をするクラチットに向かい、スクルー ジは「わしは精神病院に引きこもりたい」とつぶやく。このように狂気の問題は誰 が誰を狂気と見なすのかという権力そして視点の問題と常にかかわってくる。階層秩 序的に言えば、理性と同一視される支配者の言説や秩序を支えるイデオロギーが、抑 圧や排除という形で被支配者を狂気に駆り立てる。ビアスは『悪魔の辞典』の中で「 ある人々をキ印だと宣言するのが自分自身正気である証拠が何ひとつない役人である ということは注目に値する」と言った。役人をはじめ権力を握る支配者は、自分の価 値観から逸脱するものに対して「発狂した」とスクルージのように思うわけだが、そ れは自分が理解できないという劣等性を狂気という形で相手に投影し、外的なものと して認知することで自我を安定させる、いわば無意識的戦略にすぎない。ディケンズ が狂気を描く時いつも問題となるのは、例えば『ハウスホールド・ワーズ』所収の「奇妙な木を囲んだ奇妙なダンス」(1852)の中で、彼が見学した精神病院の治療 法を表わすのに「類病は類病をもって治す」という格言を用いたように、狂気と見な す/狂気を訓育する権力の側に潜んでいる狂気に他ならない。

ポオの作品の中に、語り手が南フランスの私立精神病院を見学して院長から話を聞 くという形式の「タール博士とフェザー教授の治療法」という短編がある。この院 長は最近みずから発狂してしまったキ印で、彼自身が患者を扇動して反乱を起こし、 看守たちを逆に監禁して酒池肉林を楽しんでいたことが最後に判明する。これは正気 を失った権力者が私利私欲のために特定の狂気集団と結託する近代/現代社会のファ ルスとして読み解くことができる。ディケンズもまた、同じような逆様の世界のトポ スを使って、このような権力の実践に伴う支配者の屈折した心理をあばくために、近 代社会では正気と狂気の境界線が非常にアンビギュアスになったことを様々な作品で 暗示している。例えば逆様の世界が全編に浸透した『リトル・ドリット』では、遺産 相続で負債者監獄から出たドリット氏は、監獄内ではなんとか保っていた正気と気概 を徐々に失い、そうした弱さを弟に投影しながら、最後は社交界の晩餐会で完全に発 狂し、その「哀れな傷ついた精神」は昔の監獄しか思い出せなくなる。ドリット氏の 場合、債務者監獄に入ったのは怠惰という個人的な性質が原因だが、そこを出て理性 と狂気の境界が極めて曖昧な社交界という看守のいない大きな隠喩的な精神病院に入 ったために、発狂して死に至ったと解釈するのは十分に可能である。つまり、狂気は 個人的・心理的な性質のものというよりは、社会の矛盾と欠陥に存在するものであり 、基本的にディケンズが描出する狂気や白痴は、いつもこのような社会批判の手段と して利用される傾向が強い。

俗に「天才と狂気は紙一重」と言うが、これがとりわけ芸術家や発明家に当てはま ることに異論はないだろう。天才のダニエル・ドイスは発明品を政府に申請した途端 に社会的犯罪者になってしまい、狂人のように「村八分にされ、敬遠され、威嚇され 、嘲笑され」る。ディケンズが沈黙の戦略を通して発明品を「愛」とする逆説的な謎 解きを読者に期待していたか否かはさておき、変革をもたらす発明品や規律を乱す娯 楽といった芸術的創作を狂気の名のもとに抑圧または排除しようとするヴィクトリア 朝社会は、彼にとって人間性そのものを否定する存在であった。このような社会と芸 術の関係に対する理性と狂気を基準にした見方は、ディケンズが1862年3月29 日にロンドンの芸術家総合共済会での晩餐会で行なったスピーチにはっきりと言説化 されている。ディケンズが描く狂気とは発狂そのものでなく、常軌を逸して人間を抑 圧しようとする社会や、そうした社会を支える人物の異常な精神構造のメタファーと して提示される。そこで見落としてならないのは、芸術家や発明家と紙一重の存在と して描かれる狂気や白痴の登場人物が、理性を標榜する権力によって抑圧され排除さ れて無力な存在となりながらも、アイロニーの無意識的提示者として支配者の理性的 言説や社会の権力主義的構造といったかなえの軽重を問う力を、その狂気と白痴とい う否定性の中に持たされていることである。

発表では以上の序論に基づき、監禁/群集/記憶/愛という四つの視点に絞って、 ディケンズと狂気の問題を考察した。


編集後記

会報二十一号をおとどけします。前号では思わぬミスもあったことから、牧嶋秀之 氏に校正その他御協力をいただいた。あつく御礼申し上げます。

電子メールやインターネットの発達によって、研究方法も過渡期にあるようですが、そのような面からの充実を期待したいと思います。(青木)


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