ディケンズ・フェロウシップ会報 第三号(1980年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. III

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部


ディケンズ・フェローシップ日本支部
1979年10月--80年9月

1979年10月20日(土) 総会 於成城大学 講演、 川澄英男氏 "ディケン
ズの文体 について "、  亀井規子氏 "ディケンズのアメリカ体験 "
 11月21日(水) 於東京朝日新聞社内アラスカ 講演、  Mrs. Edna Healey 
 "Lady  Unknown、The Life of Angela Burdett Coutts "
   11月22日(木)於京都英国文化センター 講演、  Mrs. Edna Healey 
 "Friendship  between Angela and Charles Dickens "
1980年6月7日(土) 春季大会 於同志社大学新町校舎 開会の挨拶、 支部
長 宮崎 孝一氏、 同志社大学文学部長木村俊夫氏 講演、 Mr. John Lowe 
 "The London of  Charles Dickens "、 司会米田一彦氏、講師間二郎氏、植木研
介氏、西條隆雄氏
 
 6月7日の同志社大学での春季大会には、大会を祝う、次のような、Mr. Philip 
Collinsの手紙、Mr. Michael Slaterの電報がとどきました。

I am honored by this opportunity to send fraternal greetings to my Dickensian colleagues 
in Japan, and do so with the greatest pleasure.  As a Vice-President of the Dickens 
Fellowship, but even more as a fellow enthusiast and student of his life and work, I am 
delighted by news of the vigorous interest which Japanese scholars have lately been 
displaying in Dickens, and which the present gathering will, I am sure、 further inspire.   
May the love for one's fellow men, which has his works so strongly enunciate, help to 
strengthen the bonds between nations: and may the good cheer in which he so delighted 
make the present occasion memorably enjoyable.
   									
		Philip Collins


BEST WISHES FOR SUCCESS OF LITTLE DORRIT SYMPOSIUM AND 
WARMEST GREETINGS TO ALL MY JAPANESE FRIENDS AND FELLOW 
DICKENSIANS                        MICHAEL SLATER

              

 十年前のこと
 									
			内 山 正 平
 私は一九六四年の四月から五ケ月余をロンドンで過しました。渡英の目的が
ディケンズ研究の手がかりを見つけることでしたので、先ず頼ったのはロンド
ンのディケンズ・ハウスでした。間もなく、向所に本部を置く、ディケンズ・
フェロウシップという世界的な組織のあることを知りました。当時同所の事務
長格の人はミナーズ女史。『ディケンジアン』の編集責任者はスティプル氏。
フェロウシップ理事長格の人は故・グリーブス氏でした。
 滞在中、私はニケ月に三回程の割合で行われる本部主催の行事には全部出席
しましたので、熱心さだけは認めてくれたのでしょう。帰国間際に、ミナーズ
女史から、「日本に支部を創れないものだろうか」と云われ、私は軽率にも、
「努力してみましょう」と約束しました。
 帰国後の私に、この約東は予想以上の重荷となってのしかかりました。日本
のディケンズ愛好者にどういう風に呼びかけたらよいものか。その方法は、や
さしそうで、私には至難なものでした。私が、これから研究を始めようとして
いる無名の一学徒に過ぎなかったこと。も一つは母校のワセダに、当時まだデ
ィケンズ研究者として世に認められている人がいなかったこと。この二つが、
私の計画遂行を一そう困難なものにしました。 
 私はある日、博識の畏友、大沢実君に相談しました。彼は「一ッ橋大学の海
老池俊治氏を紹介しよう」と云ってくれましたが、両氏とも病弱だった故か、
話は進まず、その中に残念ながら、相次いで両氏とも世を去りました。大沢君、
十三回忌の法要が近く行われます。途方にくれた中で、私は身の廻りに、日本
中の英米文学者の動静を全部知っている、と云われていた人物のいることに気
付き、早速彼に、「東京で、ディケンズ研究者として名声ある人は」と尋ねた
ところ、彼は即座に「宮崎孝一氏と小池滋氏」と答えました。彼とは、創立当
初からの会員であり、ワセダでの私の後輩、橋本宏君です。
 一九七○年の早春の頃だった、と思いますが、私は、当って砕けろ、の覚悟
で宮崎、小池両氏に手紙を送り、大隈会館へ御足労を願い、初めてお目にかか
って、日本支部創立の下相談をしました。一面識もない、無名の私からの一度
の誘いに両氏共直ぐ応えて下さったことは、今なお不思議に思えてなりません
が、両氏共前々からディケンズ愛好者の会の出現を切望していたからでしょう
か。三人が腹案をねった上、も一度大隈会館で会合しました。この二回目から、
鈴木幸夫氏に加わってもらいました。
 それ以後のことは、宮崎氏か、小池氏に語っていただくのが適当です。私の
果した役割はこれ迄で、発会式を挙げるまでの重要な仕事、今日に至るまでの
会運営の基礎作りは、殆んど両氏の御尽力に依るものだからです。その年の夏
から一年間、宮崎氏は英国へ留学しましたので、小池氏の負担は更に大きくな
りましたが、衆知の御人柄で、厄介な仕事も終始平然として成し遂げてくれま
した。遠く広島の田辺氏、大阪の山本氏、米田氏にも呼びかけて発起人に加わ
って頂き、会の組織を全国的のものにしたのも、設立趣意書を起草したのも、
小池氏の果した仕事の一端です。宮崎氏のその際の渡英は、フェロウシップ本
部との交渉を容易にしましたので、日本支部にとっては反って幸でした。
 束京ブリティッシ・カウンシルの当時のチーフ、デューク氏が文学好きであ
ったこともわが支部にとって幸でした。種々、便宜を与えてくれました。支部
規約の原案審議会や役員選出会等の為の会場を進んで提供されました。支部長
として私共は滞英中の宮崎氏を推せんしましたところ、謙譲な同氏は固辞して
受けず、三回の書信の往復で、漸く承諾を得ました。
 一九七○年十二月廿二日、学士会館で発会式、兼、第一回総会を開催しまし
たが、その析、中島文雄先生が座長を勤めてきばきと議案を処理進行させて下
さったことは忘れられません。
 以上、日本支部創立に至るまでの要項を記録的に記しました。ディケンズ・
フェロウシップ日本支部は、ディケンズが世界中の大衆から愛好されている限
り、会員諸見の御努力で堅実な歩みを続け、数多い日本の英文学会の中で、き
わだった業績を誇ってゆくと信じます。


 ディケンズのアメリカ体験
 									
			亀 井 規 子
 ディケンズがはじめてアメリカの土をふんだのは、一八四二年一月二二日の
ことである。アメリカはボストンをふりだしに、約五ケ月の旅をするのだが、
その旅行中、何を見、どんな体験をし、そしてその体験をどのような文章にし
たかを検討してみたい。
 アメリカに渡る前のディケンズのアメリカ認識は、かなり好意的なものであ
り、アメリカは自由と民主々義の国でイギリスもアメリカを手本にして進むべ
きだと思い、イギリス流の俗物根性や貴族的特権のない国だと憧れていた。
 だが、現実にアメリカに接して、はじめはいいことばかりのように思えたが、
だんだん幻滅を感じる。たとえば大歓迎をうけて喜んでいたが、連日連夜の宴
会に健康をそこね、あまつさえ、人の自由を無視して、善意をおしつけようと
するので不快を感じる。また自由の国と思っていたのに奴隷制度が存在してい
るのに驚いたディケンズが、知り合いになった議員にこの間題を持ち出すと、
かえって迷惑がられる始末で、言論の自由というものがイギリスより少ないの
ではないかと思えてくるのだった。ポストンでは町の清潔さを喜んだが、南下
するにつれ、唾吐きと噛みたばこの風習に悩ませられる。
  ディケンズの第一回アメリカ旅行は思惑がはずれて幻滅をいだいた旅行であ
ったといえるが、この旅行から生まれた文章は三種類ある。旅行中イギリスの
友人たちに書き送った手紙。それから帰国後この手紙を友人たちから借りうけ、
自分の日記やメモなどを参考にしながらまとめて出版した『アメリカン・ノー
ト』。第三は、その翌年から発表しはじめた長編小説『マーティン・チャズル
ウィット』で、マーティンが一旗あげようとアメリカに渡ってひどい目にあう
通称アメリカン・エピソードといわれる部分である。
 ディケンズの手紙は描写が実に生き生きとして、読者にも眼前にその光景が
浮ぶように書かれている。文章としては『アメリカン・ノート』よりのびやか
で、個人的な感動がじかに伝わって面白い。だが『アメリカン・ノート』の価
値はその資料的な面でもっと評価されてよいのではないだろうか。たとえば奴
隷制度についても虐待されている黒人についての新聞の切抜きなどかなり集め
てきている。手紙も『アメリカン・ノート』もルポルタージュであるが、事実
を小説の中に組み入れるとき、ディケンズはカリカチュアにしてみせることが
多い。たとえば唾吐きの風習について『アメリカン・ノート』では部屋の隅に
あるたんつぼにうまく唾を叶くのがアメリカ人の特技だなどと感心してみせる
のだが、『マーティン・チャズルウィット』ではチョロップが腰をとろして自
分を中心にぐるりと唾を点々ととばして円を描いてみせる。むくつけきチョロ
ップにこうした子供っぽい仕車をさせるところにディケンズらしい特徴が表れ
ている。
 アメリカで生活したわけでもない単なる旅行者であったディケンズにとって、
アメリカ体験は、彼の人生観に変化をもたらしたというようなものではないが、
自分の体験を一つの素材として文章化した際の、そのやり方に人の興味をさそ
うのである。




表紙の絵
The first meeting of the 'Pickwick Club', One of Seymour's illustrations



ディケンズの文体
									
				川  澄  英  男
   右の題で話をさせていただきましたのがほぼ一年前。ディケンズの作品をす
べて網羅して……というわけにはとてもいきませんでしたので、最初の頃の『骨
董店』を。大方の印象が静かに消え去ってしまった後ですが、今猶心に残る事
柄を二つ三つ。まずは、やはり豊富な語。これは何もビッグ・ワードを用いる
ということに止まらず、チョイスの問題かと。村の先生の所にネル達が泊まっ
た時、先生は小供達の勉強を午後から休みに。
 "...and was this a time to be poring over musty books in a dark room, slighted by the 
very sun itself? "  この場面でslightはディケンズしか使えない。次に、文章がリ
ズムをもっていて、音読に適していること。これが物語を楽しくしている。語、
句、節、時には文を幾つも並列して連ね、接続詞、ダッシュセミコロン等を重
ねて、畳掛けてくる。そこに一定のリズムができる。音読にいい理由はそれだ
けではないが、既にマイケル・スレイター氏によって華麗に証明されているの
でこの辺で。次にカッコ。ユーモアやアイロニーは、書かれる時、独立した文
章にできなかったり、またそうしては効果が薄れてしまうことが多い。これは
ディケンズのような作家にとっては大問題。そこでカッコによる挿入の採用。
クウィルプがブラースの事務所を訪れて、ドアをノックする。ドアが開く。 "Eh?" 
said the dwarf, looking down (it was something quite new to him) upon the small 
servant. "「小さな召使い」という言葉が出る前に挿入句があり、挿入句が「下
を見る」の一般的説明になっていて、同時に、何を見たかの瞬間的サスペンス
を作り出している所がいい。挿入句を独立させて後に付けては、ここでのおも
しろ味は台無し。ユーモラスな箇所は他にも多いが、キイになるのはアイデア
とともに、やはりディケンズの言葉そのもの。二十六時間も眠り続ける独身の
下宿人に対して、 "we cannot allow single gentlemen to sleep like double gentleman 
without paying extra for it. " 三人の姉妹のうち一人が結婚するが、残った二人を
 "the two surviving Miss Wackleses "といった具合。次にイメージやアイデアのコ
ントラストについて。と言いたいが、もう紙面がないので最後に、小人のクウ
ィルプの「攻撃性」についてひと言。知識と地位の勝る弁護士をアゴで使って、
無理やりタバコをふかさせる。愛すべきはずの従順な妻を虐げて朝まで眠らせ
ない。時に、ドアをキーキーさせるという全く物理的手段で妻をリモート・コ
ントロールする。カードと酒の好きな義母に、それを目の前に置いて与えない。
鎖でつながれた犬を残酷にいじめる等々。心理学でお馴染みの、攻撃とか補償
とかの幾つものパターンが示されている。なるほどディケンズは心理学者でも
あったのか。ともかく大した作家です、実に。ではどこまで大したものか。容
易ではない--『ハード・タイムズ』を前にして、静かに燃える秋の夕幕れ。




エイミィ・ドリットについて
 			  						
					間  ニ 郎
 小説『リトル・ドリット』の中で、エイミィとアーサーは、価値規準の核に
なっている。とくに、(後者を通じて示される〈価値〉は途中まで潜在的なも
ので、最終的にエイミィが彼を再生させるわけだから)エイミィの「自我なき
愛」「虚心」「無穢(イノスンス)」を特質とする曇りなき目は、彼女の家族
や社会の諸層を支えているものの虚構性を、明らかに照らし出して行く--自己欺
瞞の極限を行く父のウィリアム、自我と虚栄に身を売る姉のファニー、浮き草
の如き兄のティップ。カルヴィニズムに自我の隠れ家を求めるミセス・クレン
ナム、その他マードル、バーナクル一族、ミス・ウエイド、等等。この「高次
の善の化身」たるエイミィの〈実体感〉がどこからくるかについて、たとえばF・
R・リーヴィスは「リアリティの中から生まれた存在」としてその迫力を熱っぽ
く説いている。
 だが、この「ちいさい」「空霊的」な「高次の善--人間の可能性--の化身」が、
その精神牲によってのみあの身近かさを感じさせる、とはどうも考えにくい。
同情・寛容・自己犠牲・自己抑制・奉仕・その他もろもろの〈美徳〉と微妙に
かヽわり合いながら、生身の女の異性への思慕がこのヘロインの体験として描
かれており、それが彼女を、まるみのある、地上の人間にしている、と私には
思える。そのプロセスをつぶさに辿る余裕はないが、ロンドンブリッジでのア
ーサーとの最後の対話に続く彼女の「唇のふるえ」「表情のさわぎ」「一瞬の
おののき」(--二十二章、一六○頁)や、父のアーサーに対する卑劣な無心を
知っての、つねならぬ心の痛み(同二六三頁)、フローラの思わせぶりな告白
への反応(同二十四章二八六頁)、アーサーを避ける彼女の悲しみ(同二九一
頁)、それに続く「ふしぎな王女さまのはなし」を語り終った時の顔の赤らみ
(同二九二-五頁)などに加えて、地の文による間接的なコメント(--三十二
章、三八一頁、--八章五一九頁等)を仔細に読む時、思い通じない女の恋、と
も言うべきパターンが、彼女の空霊性と微妙にないまじって、このヘロインに
厚みを添えているのが感じられる。(マンスフィールド・パークのファニィ・
プライスと少なくとも形の上では似ている)
 またこの思慕は最後に実を結ぶわけだが、思い諦めようとするその道程にお
いては墓碑銘に悲しみを託するジョン・チヴァリィ君の思いと軌を一にしても
いるのである。
 なお、エイミィの「恋--愛」の描写はすべてオブリークな表現(「王女さまの
はなし」がそうであるように)に終始している。この工夫が、彼女の中心的特
性たる「善の化身」を損うことなく--時に読みとばされる可能性も含めながら--
このヘロインを実体感のある身近かな存在たらしめ得た理由のひとつであろう。


 ウイリアム・ドリットをめぐって
			    					
					植 木 研 介
 この作品の中で最も鮮明な像を持ったウィリアム・ドリットを、作品解釈の
点から、極論すれば、作品に夥しく描かれる「とらわれた心」を持つ神経症の
一例にすぎないとの読みかたが現在主流になっている。作品のみを把握しよう
とするならそのとうりであろう。
 が一方で、作者ディケンズと性格創造という点から、ウィリアムは、作者の
父ジョン・ディケンズの「正当化」ないし「弁明」--雄弁で金にしまりがなく、
それ故家族に苦しみを嘗めさせた自分の父を、作家は愉快で愛すべきミコーバ
ー氏として作品化・結実させたが、彼の中に描き尽せなかった側面、なに故に
父はあのような人問になったのかとの問いに対する解答としての「弁明」--とい
うE・ウィルソンの説が広く識られている。
 これに対してE・ジョンソンはこれを誤りであると主張し、父ジョンは、金銭
的にだらしない性格の故に牢に入るはめになったのであって、獄に繋がれたた
めにあのような性格になったのではなく、原因と結果が逆だと指摘している。
さらに論じて、ウィリアムは父ジョンとはまったく無関係の、独立した人物創
造・性格創造で、もし誰かと関係あるとすれば、負債者監獄の強迫観念に取り
憑かれていた作者自身であると述べている。
 さて作品の前半「貧困」の巻において、ウィリアムの長い人獄の歳月が彼の
心を金にし、小心者の彼が、自己を欺いて尊大な態度を採り他の囚人から金を
無心して生きていく姿が描かれている。自分の卑劣漢ぶり、あさましさを自ら
唐突に口にして涙したかと思うと、すぐに娘に無理を押しつける彼の激しい両
極端を揺れ動く心理状態は、内容は異なっていても、心の激しい振幅という点
で、彼の雄弁さと共にミコーバー氏のものであるといってよい。E・ジョンソン
の説にもかかわらず、ここには作者の父の面影が、やはり認められるのである。
後半の「富」の巻で、思わぬ財産を得たウィリアムは、体面の保持と自分の過
去の払拭に腐心するのだが、心はいつも過去が暴露される不安に怯えている。
そしてその恐れは、牢番の息子チヴェリからの贈り物の形をとって現実に過去
がつきつけられ、これを契機として、彼の心は牢を求め始め、ローマでの晩餐
会の席を獄中のものと思い演説をしてしまうのである。この作品後半のウィリ
アムの恐怖こそが、作者のウィリアム創造の源であるとすれば、ディケンズは
まず自分の靴墨工場での体験と惨めさを『デヴィド・カパーフィールド』の中
で描いたあとで、自分の過去が暴露される恐れを、究極的に牢へと回帰するウ
ィリアムを描写することで乗りこえ浄化したと解せないであろうか。この意味
からも、抽象性のたかい『リトル・ドリット』は同時に執筆時期のディケンズ
を反映する最も自伝的色彩の濃い作品であると私には思われる。


アーサー・クレナムの遍歴
		 							
				 西 條 隆 雄
 人問はすべて社会的あるいは心理的な牢獄に入っているという読み方を離れ、
『リトル・ドリット』はどのような構成の下に、いかなるドラマを展開してい
るかという点から、作品を分析してみたいと思う。
 第一分冊(一−四章)を詳しくよむと、光と闇、旧約と新訳聖書、地上と天
上の対比が明確に示され、加えて「海が死者をはき出す時」(『黙示録』二の
章十三)という、因果応報を伝える表現に出合う。また、地上の人間は「休息
なき旅人」であり、人は挨っぽい坂道をのぼり、苦しい平原を骨折って「人生
の巡礼」を旅ゆく、とのべられる。容易な救済は皆無であること、そして人生
は神の栄光、つまり救いを求める旅であることがふまえられている。作品はこ
のように宗教的枠組の中に構築されており、ここに「意志、目的、希望」を失
った、魅力なき四○才の異例の主人公が設定されている。アーサー・クレナム
は、父の死後一年あまり諸国を旅したあと、ロンドンに帰ってくる。
 その帰郷の情景は、「死」と「牢獄」を伝える言葉にみちている。また、教
会の鐘、下水(テムズ河)、安息日の解禁といった、当時激しい非難をまきお
こした時事問題が、ロンドンの街に一層の暗さと混沌を加えており、この外界
の暗さと混沌を、ディケンズは巧妙にアーサーの内界のそれに対応させ、彼の
喜びなき、意志なき世界を印象づけている。アーサーは日曜日に帰郷し、母の
家を訪れた。だがそれを各めるごとく、執事は、「日曜日に帰られることをお
母様がお許しになるでしょうか」とのべる。ここにアーサー帰郷の理由、ひい
ては作品の主題の展開の端緒がうかがわれよう。彼は、混沌とした自分の内面
世界にわけ入り、意志と希望なき人生の拠ってきたる原因を追求し、そして一
個の意味ある生を取戻すことを願っているのである。彼が「旅人」(二章)と
して作品に登場していることは、意味深長といわねばならない。
 この点を更に具体的に示す個所は、アーサーがダニエル・ドイスと共同事業
を開始し、人生に目的らしきものをもった時である。彼は仕事部屋の上げぶた
からさし込む光線をみて幼い頃にみた絵本の中で、同様な光線がアベルの殺人
行為を目撃していたことを思い出すのである(二十三章)。
 一見何でもないイメージのように思われるが、ここにアーサーの立場が巧み
に表現されている。つまり、彼はこれまで母親の狂ったように厳しい宗教の命
ずるままに、それを遵守するアベルとして育ったが、今やそのアベルを殺し、
母の宗教にそむくカインとなったのである。母との離反はアーサー自立の一歩
を刻む。かくしてアーサーの帰郷は、母の宗教によって投げこまれた精神的死
の中にあって、懸命に人生の意味を尋ねるという、切迫した問題をはらんでい
る。
 だが、四○年にわたる母の影響力は容易に消えない。作品中アーサーが出合
う三人の女性(フローラ、ペット、リトル・ドリット)との関係を通して、我々
は彼の現実把握がいかにあいまいであるかを知り、また彼の精神的脆弱をいた
いたしいほど理解し、最後には彼の肯定的な人生の発見をよみとるのである。
 アーサーの救済にあたり、リトル・ドリットの果たす役割は、とりわけ重要
である。彼女は単なる天使としてではなくアーサーを恋する一女性として描か
れており、父親に対する愛情を恋人に対する愛情へと変容してゆかねばならぬ
試練をふる。それ故、彼女の愛情と献身は、作品及びその控え目な結末に、一
層の重厚さを与えているといえるであろう。




二人の父親
									
					北 條 文 緒
 リチャード・エルアンの『ジェイムズ・ジョイス』はリーダブルな伝記であ
る。細かい活字で八百字以上、しかも無数のデイテールから構成されているに
もかかわらず、気が付くともう終り近くまで来ていて、読み終えるのが借しく
なる。
 そのエルアンの本で、ジョイスの少年時代の記述を読んだとき、ディケンズ
の伝記を読んでいるような錯覚におちいった。父親に経済的才覚がなく、一家
がジリ貧の一途を辿る。引っ越すたびに、家はみすぼらしくなってゆき、質屋
通いや友人からの援助などでその場その場を切りぬける有様。困窮のために、
ジェイムズは九才のとき学校を一時退学する。次は靴墨工場かと思うところだ
が、ジョイス家の場合、親の(特に母方の)社会的地位がディケンズ家より格
段に上で、親からゆずり受けた地所の切り売りができたおかげで、そこまでは
ゆかずにすんだ。しかし自分の収入の範囲で暮す計画性の欠如、そのひとつの
あらわれとしての子だくさん、お人好しで熱しやすいにぎやかな性格、共に下
級官吏であったこともふくめてこの二入の父親には共通点が多い。ジョン・デ
ィケンズとジョン・ジョイス。ファースト・ネームまで同じだ。
 しかし、そのような家庭環境に育った二人の息子の生き方にはかなりの差が
あるようだ。少年労働者の群に投げ入れられたとき、将来の夢がくだかれ、見
捨てられたと感じた。その心の傷が作家ディケンズの核にあることは周知の事
実である。二度と貧困の惨めさを味うまいという決意、人々との連帯感を得、
人生の成功者になろうという野心から、ディケンズの文体のあのエネルギーは
湧き出ていると言えよう。
 一方ジョイスの方はと言えば、貧困を恥と思う気持は彼にあっては稀薄だっ
たように見える。自立してからも、父親の轍を踏むまいという気配もなく、エ
ルアンの表現によれば、「まるで恩恵をほどこすように」誰彼の別なく借金を
申し込み、手にしたお金は無計画に使ってしまう。食べる物がなければ、食事
時をねらって人を訪問する。他入にどう思われるかという配慮の完全な欠如は、
凡人の及ぶところではない。あたかもジョイスにとっては、からの財布や、す
り切れた洋服や、やつれた家族の顔は目の前にありながら、それ自体としては
存在していないも同様の、どうでもいいことだったようだ。
 二人の作家の気質の違いもあろうし、ジョイスはディケンズほどの辛酸を嘗
めなかったということに話は尽きるのかもしれない。しかしもしかすると二人
の作家のこの姿勢の差のなかに、文学と日常的現実とのかかわりあい方が時代
を経て変化してゆくそのさまが端的にあらわれていると言えるのかもしれない。



   日本におけるディケンズ関係の研究書、翻訳書、ならびにフェローシッ
プ会員による研究書、翻訳書等
野中涼『ブロンテ姉妹』 一九七八年 冬樹社
小池滋『英国鉄道物語』 一九七九年 晶文社
村石利夫『日本語の正典』 一九八○年 池田書店
和知誠之助『女性と英米文学』 一九八○年 研究社
桜庭信之『イギリス文学の歴史』 一九八○年 大修館 
村石利夫『日本故事名言辞典』 一九八○年 日本文芸社 
川本静子『G・エリオット』 一九八○年 冬樹社
ダニエル・デフォー作宮崎孝一訳『ロクサーナ』 一九八○年 堺書房




ナンシーは何故・・・・・・
			 						
					宇佐見 太 市
 『オリヴァー・トウィスト』に開して前々から疑間に思っていることが一つ
ある。ナンシーが、サイクスに殺される直前に彼に向って、何故、「お互いに
二度と顔を合わせないで離ればなれになって暮らそう」と言ったのか。「一緒
に暮らそう」とどうして言わなかったのか。このような孤独なナンシーを描い
た作者の真の意図が私にはわからない。
 もちろん、この謎解きにはいくつかのヒントが存在する。「堕落した女の救
済には、ディケンズは高い代償を要求する立場の作家ゆえ、ナンシーのような
女はそれ相当の苦難に耐えねばならず、我々現代読者が期待するようなセンチ
メンタルな解釈は入る余地が無い」と教えてくれる論文などその代表である。
 ところが、このように英米の学者が如何に説得力のある解釈を示してくれよ
うとも、私は浄瑠璃や歌舞伎狂言の道行の場合に余りにも慣れ親しみ過ぎてい
る。それゆえに、ナンシーとサイクスの、この劇的な場面を続み返すたびに、
一方では、互いに手に手をとり、かばい合い、寄り添うように連れ立って行く
男女の姿が自然と目に浮かんでしまい、ついつい比較してしまう。こうなると
アナクロニズムも極点に達するが、何とも致し方ない。
 他人の論文にも頼らず、極端な日本人的見方にも偏らず何とかしてこの謎を
解きたいのだが、答えは案外、作品中に潜んでいるのかもしれない。読者に直
接に語りかけず、たえず読者から遠く離れている現代作家とは違って、この作
品の場合、作者の個人的な声がかなりストレートに聞ける。実際、そのような
読者への話しかけの中に、作者の文学観、芸術観、人生観などが随所に出てく
る。それらを寄せ集めれば文学論ができ上りそうな気さえする。その語りの一
つ、「人間は死の手が迫ってくると一目でも自然を見たいと思い云々」(三十
一章)が、この謎解きの鍵にはならないかと、私は秘かに思っている。




チョークの村にて
 									
					伊 藤 廣 里
 ある初秋のバンク・ホリデーに、私はチョークのバス停で下車した。ディケ
ンズが、キャサリンとハネムーンで泊ったという家の前に、私はいつしか来て
しまっていた。それは、こじんまりとした黄色い家であった。戸口の上につけ
られたディケンズの肖像のプラークが私をなごませる。
 近所の老母が、用事でもあったのか、その家のドアをノックする。家人は不
在のようだ。彼女は、私に、今日は休日で誰もおりませんから、明日またいら
っしゃいな、といって立ち去ってしまった。私は鉄門を押して庭に入ってみる。
芝生の小さい庭だ。周囲には、ゼラニウム、サルビア、マリーゴールド、スイ
トピー、フロック等が咲き乱れている。キングサリは、すでに花の盛りをすぎ
て、サヤエンドウに似た、黄ばんだ細長い実をつけ始めていた。
 私は庭を出てから、モンシロ蝶の舞う赤っぽい道を、テム川の方へと、とぼ
とぼと下っていった。川に通じる野道の左右には、麦秋の畑が、のびやかに、
ひろがっている。若き日のディケンズ夫妻の姿を、私は遠い空に描いてみた。
畑には、コムバインが、うなりつづけている。それは、時代の推移を私に痛切
に感じさせるのであった。
 野道の路傍には、イラクサが茂っている。ノボロ菊や、夕顔や、デイジーが、
ひっそりと咲いてもいる。低空には、アザミの種子が舞っている。小川の傍ら
のサンザシの潅木林の中では、無数のスズメが、ひっきりなしに、さえずって
いる。ここで、自転車でやって来た二人の少年に私はあった。フォージを見物
したらどうですか、といって、私の手帳に、そこへの略図をかいてくれた。『大
いなる遺産』のオリジナルのフォージは、ロチェスター方面へ行く道路の右側
に、一軒、ぽつんと立っている。それは陋屋であった。



	会発足の頃見た映画『デイヴィッド・コパフィールド』
 									
					中 西 敏 一
 古いことで恐縮ですが、日本支部が誕生してほどなくしてから、メンバーに
なったからでしょう、送っていただいた券で、日本語題名『さすらいの旅路』
を、築地の試写室で見た今はおぼろげな記憶からの少々を、ここで記させてい
ただくことにする。
 ロン・ムーディ(この人のフェイギンを私は見ていない)のユライア・ヒー
プ、リチャード・アッテンボローのタンゲイはよかった。しかし、クリークル
になったオリヴィエは、役不足という感じがしたし、なによりも心にひっかか
ったのは、ラルフ・リチャードソンのミコーバーが、登場場面も、したがって
彼独自の雄弁を披露する場面も少ない上に、この名優も、ミコーバーにしては
表情がきつすぎる感じがしたことである。しかしいちばんの問題は、ミコーバ
ーを初めとして、デイヴィッドを取りまくこの作品の肝心かなめの人間が、必
要最小限に、言いすぎかもしれないが、ぽつりぽつりばらばらという感じでし
か登場しなかったことである。
 実は私は、七○年五月の『ディケンジアン--百周年号」にある、ディリス・ボ
ウエル氏の「ディケンズとフィルム」を見ながら、この文を書いている。ミコ
ーバーなどの登場がはなはだ少ないのに、デイヴィッドの回想の場面ばかり出
てくるのは、アメリカのテレビ向けのフラグメンティションを目的としたもの
であることを、私はボウエル氏の文で知った。またボウエル氏は、回想の場面
に頼り、大人となったデイヴィッドの悔恨の念を強調したために、ディケンズ
のグレイト・フォワード・ドライヴがないと言っているが、まさにその通りで
あった。
 ディケンズは、登場人物たがいのcollisionとストリーのworkingを非常に重ん
じた作家である。それらがあまり見られないこの映画に対して、ディケンズな
らば何と言ったことであろうか。
 十年ほども前の映画のことを記したが、日本支部ができて十周年ということ
でお許しいただきたいと、勝手な口実を設けることにする。なおつけ加えると、
後日この映画がテレビで放映された時、ヒープが初めてディヴィットと会う、
まさにヒープらしい場面は、カットされていた。




 田辺先生の御逝去を悼む
									
					久 田 晴 則
 恩師の追悼文を綴らねばならぬという巡り合せは、誠に恐ろしくも避け得な
い必然と言うべきであろうか。田辺昌美先生は四月二九日の未明、肝不全のた
め青天の霹靂さながらに他界され、私たちとは幽明境を異にしてしまわれたの
である。が、その時私たちの心の中にできた衝撃的な空洞は、今になっても縮
少するどころか一層底知れぬ深みを湛え始めてさえいる。けれども私はこの空
洞を埋めずにそのままにしておきたいと思う。なぜならその空白はどんな実質
よりも実在なのであり、その奥底から先生の御声が肉声以上の真実味をもって
響き上がってくるように思われてならないからである。
 私は、先生のもとでディケンズを読みながら、ディケンズを通して先生から、
また逆に先生を通してディケンズから実に多くのものを学び教えられてきた。
 田辺先生はディケンズの人間性にひかれ、且つ作家としてのディケンズの激
しい人生の活写に魅せられてこられた。ディケンズは悪戦苦闘の生涯を通じて
成功の高みに上れば上るほど敗北の深みに足をすくわれるという人生の皮肉を
身をもって体験し、それをそのまま己れの文学にしていたのであるが、先生は
ディケンズの描くその人生の軌跡と、その中で刻々と変りゆく軌跡の模様を見
詰める作者ディケンズの冷徹なまでの眼とに幻惑され、ひきつけられてこられ
た。あの名随筆集『記憶』(田辺先生のご還暦記念として書きおろされたもの)
に収められている『峠』の中で先生は、人生の微妙な瞬間々々を掴みとる眼の
非情なまでのはたらきをディケンズから教えられたと告白され、物を見詰める
ことによって蓄積されてゆく「記憶は非情を前提として本物の歴史になる」と
いう冷厳な命題を提示しておられる。
 先生の人生とディケンズの文学との間に明確な一線を引くことは困難である。
先生は、チェスタートン流に言えば、ディケンズの文学を「田辺化」してそれ
を執拗に生きられたといえるのではないだろうか。ディケンズがイメジ化した
人生の波欄のただ中でディヴィッドがふと漏す言葉「瑣事積り積って人生」(五
十三章)こそは、田辺先生の人生哲学であり、先生の生活が回転する中軸的な
命題であった。先生は私たちによく瑣事を大事にするよう諭されるとともに、
自らも手許や身の回りにあるものを大事に扱い大切に保存された。粗末にする
ことを嫌われた。そしてしばしば「私はけちん坊だから」とおっしゃっていた。
(『どけち』参照)けれども、その「けち」の態度は単なる物惜みなどでは決
してない。それは現代文明への抵抗に根ざした、物への深い愛情の表現だと言
うべきだろう。諸々の物に取り巻かれたギャンプ夫人やクレメンシー嬢から常
に多産の光が輝いているように、先生の回りには常に豊かさの光が照り映えて
いた。ある先輩はこれを「精神的快楽主義」と名付けていた。
 先生の言われたり書かれたりした様々のお言葉が、あの空洞の中からどれも
一つ一つ先生の遺言のように警き上ってくるが、去年夏の読書会での、「皆そ
れぞれ自分の鉋を作って作品を削って下さい」というお言葉は、作品と取り組
む際の基本的姿勢として、殊の外強く訴えてくる。肝に銘じてゆきたいと思う。
 先生のご生前のお言葉のうちで、先生のあのように突然のご最期を予言して
いるように思われるものが多くあったことに今さらながらはっとさせられる。
あの随筆集の中で先生は、「凧が見えないくらい高く上ったところでパッと手
離すように、さわやかに訣別したい」とお書きになっているが、誠にそのお言
葉の通りに先生は去っていってしまわれた。
 今はただ、ご高恩を感謝し共に過した楽しい日々を偲びつつ、ご冥福をお祈
り申しあげるとともに、田辺先生の記憶を明日への糧とすべく心に誓いたいと
思う。
 なお先生のご略歴と主なご著書を記せば次のとうりである。
 昭和十六年広島高等師範学校英語科三年終了・同十九年広島文理科大学文学
科(英語英文学専攻)卒業・同二一年広島高等師範教官・同二六年広島大学広
島高等師範教授・同二七年広島文理科大学講師・同二八年広島大学文学部講師・
同三一年同助教授・同四五年同教授・同五四年同学生部長。
 『ディケンズの文学』昭和三五年、(南雲堂)、『ジェイン・オースティン
の文学』昭和四○年、(あぽろん社)、学位論文『The Uncommercial Traveler研
究、Dickens文学の一つの完成』昭和四二年文学博士号を授与される(昭和四四
年、第一学習社より出版)、『チャールズ・ディケンズとクリスマス』昭和五
二年、(あぼろん社)。
   田辺昌美氏の御葬儀には小池滋氏が、広島大学文学部葬には宮崎孝一氏が、
会を代表して参列されました。




田辺先生を偲ぶ
									
					篠 田 昭 夫
 その死(四月二九日)が入院から一ケ月という余りにも突然のものであった
だけに、未だに信じきれず、「そういえばしばらくお会いしてないから、そろ
そろ電話がかかってきて、『よお元気か。たまには顔を見せんか』と、いつも
の一種ぶっきらぼうでせかせかした先生の声が、耳に飛びこんでくる頃だ」と
いう想いが、今でも何かの折に脳裡を横切ることがある。そうした時に電話の
ベルが鳴ると、はっとして一瞬もしやとの想いが駆け抜ける。が次の瞬間には
それは消え失せてしまって、後には遣り場のない気持だけが灸り出されて残る。
 これは先生が愛用された言葉を拝借するならば、「人生において最も大事で
ある些事」を「凝視」することを通して、「記憶」に刻み込む「生活」の一環
として、教え子、門下生の指導と育成に精魂を傾けてこられた先生の姿勢に、
長年触れてきたことに端を発っして惹起される内面の動き、というべきもので
あろうか。
 それ程に教え子に対する先生の態度には、こちらも文字通り性根をすえて真
剣勝負を挑む覚悟で応対し取組むことに、自ずと徹することになる厳しさと経
さが、異様なまでの迫真性を帯びて脈打っていたのである。それだけに時には
激突して、私の方も思わず興奮してつい語気が荒くなって、口論になることも
あったが、ディケンズの読み方を始めとして、生き方の諸般において徹底的に
鍛え直されて、一個の人間として、教壇に立つ身として、多少なりとも将来に
渡って営みを続けて行くことができそうな基盤を植え付けて頂いた御恩には、
ただただ頭が下がるばかりである。
 その御恩に対する何程のお返しもできない内に不帰の客となられたのは、痛
恨の極みではあるが、後は受けた教えを活かしつつ「読み」を深めて行くこと
に全力を傾注することが私どもの責務であろうし、また先生の御恩に答える道
でもあろう。そして先生が遺されたものの中では最も大事なものの一つである
「読書旅行」を今後も継続して、無論変容はして行くであろうが、先生がとも
された明りだけは絶やすまいという気運が盛り上がっている事実を、こうして
したためることができるのがせめてもの事である。
 ともあれ無類の独特の優しさを反面内に包みこんだいい先生だった。もっと
長生きをして頂きたかった。享年六十才。合掌。


編 集 後 記
 日本支部が発足してから満十年を迎えることになった。あっという間の十年
という感もするが、その間に支部では、東京、広島、関西の各地で、様々な行
事、研究等を行なってきたし、会報も第三号を発行することとなった。昨年は、
マイケル・スレイター氏に引きつづき、十一月に、東京および京都でエドナ・
ヒーリー女史の講演会が開催された。会が一段と国際的なものになったと言え
よう。これからまた十年後には、会はどのように発展しているであろうか、た
のしみである。四月二十七日に田辺昌美氏が御逝去なさいました。会が満十年
を迎えたというのに、まことに悲しい、残念なことです。つつしんで御具福を
お祈り申し上げます。(中西敏一)

会員名簿


ディケンズ・フェロウシップ日本支部

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