ディケンズ・フェロウシップ会報 第四号(1981年)
The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. IV
ディケンズ・フェローシップ日本支部
1980--81年9月
1980年10月2日(土)
総会 於成城大学
ディケンズ作品の朗読--『大いなる遺産』,『クリスマス・キャロル』
スリチュアート・アトキン氏とマイケル・バンナード氏
1981年6月6日(土)
春季大会 於愛媛大学
講演 「夏目漱石とディケンズ--坊ちゃんの場合--」
講師 松村昌家氏
司会 植木研介氏
シンポジアム「『ピクウィック』の魅力をさぐる」
司会 小池 滋氏
講師 臼田 昭氏 / 福村絹代氏 / 西條隆雄氏
6月29日(土)
講演会 於成城大学
講師 Deborah A. Thomas教授
"On Dickens's Chrismas Stories"
〈〉東京地区月例輪読会 於成城大学
(『ピクウィック・ペーパーズ』
第20章まで)
C・D・とD・C・の相貌
宮 崎 孝 一
Charles Dickensは一八四九年に新しい小説に取りかかるに際して主人公の名
として多くの名前を考えたが、最終的にDavid Copperfieldに決定した。そして、
そのことを友人ジョン・フォースターに知らせたところ、この名前の頭文字が
作者自身の頭文字を逆にしたものであることを指摘されて驚き、かつ喜んだと
いうことである。この小説に自分の前半生の経験や想念の多くを投入しようと
考えていたディケンズが、この頭文字の符合に特別の意味を認めたのも当然で
あったろう。しかし一方、作品を読む者が、作者と作中人物とを余りに単純に
同一視することは大きな危険をはらんでいることは言うまでもない。
以下、ごく断片的ながらとC・D・とD・C・の相違点について考えてみたい。
まず思いつくのは、「チャイルド・ワイフ」ドーラに対するデイヴィドの思い
やりと寛容さである。ディケンズが妻キャサリンに対して示した手きびしさを
思うと、このやさしさは、彼が持ちたいと願いつつ、現実には養い得なかった
要素ではなかったかと考えられる。しかしまた、ディケンズも元来はそういう
心情の持ち主だったのだが、初恋の相手マライア・ビードネルに裏切られたこ
とによって、女性一般に対する態度が変わったのだといえるかもしれない。(『大
いなる遺産』におけるミス・ハヴィシャムの男性不信に至る経緯が思い合わさ
れる。)ディケンズがマライアと別れた二十二年後に、思いがけず彼女から手
紙が来たとき、彼は次のような返事を書いている。
……私ほど忠実で没我的な恋をした者はないと信じます。……あれ以後私
は、あなた が私を惨めにも幸福にしてくださった頃ほど、良い人間ではな
くなりました。あの頃 の半分ほどの良い人間になることも決してできない
でしょう。
この手紙を書いた頃のディケンズの身辺の事情を思い合わせる必要もあろうが、
やはりここにマライアが彼に与えた傷の深さを読み取ってもあながち見当外れ
ではあるまい。この小説で次に目立つのは、デイヴィドのスティアフォースに
対する盲目的崇拝である。デイヴィドはセイレム塾で初めて彼に会った瞬間か
ら、完全に彼に魅せられてしまう。
「彼のきびきびした身のこなし、野性的な気魄、朗らかな声音、あかぬけした
容姿、天性といってもよい不思議な魅力」と最大限の賛辞を捧げ、後にスティ
アフォースが、デイヴィドの幼な友達エミリーを誘惑し、捨てるという事件が
起った後でさえ、デイヴィドの彼に対する気持は変わらない。一方、スティア
フォースは新入生デイヴィドに、「君は妹はいないの?」と尋ね、いないとい
う返事に、「そりや残念だな。もしいれば、さだめしおとなしくて、目のぱっ
ちりした美人だったろうにね」と言い、後にはデイヴィドを「デイジー」とい
う女性名で呼んで可愛がる。それはほとんど同性愛的な関係さえ思わせるもの
であるが、こういう全面的傾倒はディケンズの経験にはなかったものではなか
ろうか。 成人後のデイヴィドは「何か大事なものが欠けているために幸福に
なれない」という感じが胸を去らないが、ドーラの死後、「理想的」な妻アグ
ネスを得ることによって満ち足りた生活に入っていくことになっている。ディ
ケンズもまた恐らくデイヴィドが感じたのと同種の欠如感に苛まれていたこと
であろうが、彼にはついにアグネスは現われなかった。晩年の愛人エレン・タ
ーナンが果してどれだけ純粋な満足を彼に与えたかは甚だ疑問である。
さて、作家として成功したデイヴィドは次のような信条を述べている。
……時間を守り、秩序を重んじ、孜々として努力するという習慣がなけれ
ば……とう てい私のしたことすらできなかったろう。私は一旦手をつけた
ことは、すべて全心を 傾けて、りっぱにやろうと努力した。
これはむしろディケンズ自身の生き方の表明であり、デイヴィッドの生活には
これを裏づけるような行動はほとんど見られない。しかし、このような言明に
影響されてか、(あるいは時代精神の表われか、)フォースターはこの小説に
ついて次のような倫理的解説を加えている。
事件の進展から、われわれは克己心と忍耐、避け難い不幸への静かな忍従、
改革し得 る悪に打ち克つための奪闘努力等の価値を学ぶのである。
また、現代の批評家グエンドリン・ニーダムその他は、この作をビルドゥング
スロマンの一例と見なしている。なるほど、この小説の所々に挿入されている
人生論的言辞だけを捉えれば、このような見方をすることも可能であろう。し
かし、作品全体の具体的な流れを虚心にたどるならば、作者ディケンズが持ち
たいと願い、果したいと願って叶えられかった深奥の希求を、教訓や人間形成
物読を超えた次元において発見することができるのではあるまいか。
ジョイスのディケンズ讃美論
鈴 木 幸 夫
来年(一九八二)二月二日はジェイムズ・ジョイスの生誕百年記念日です。
そのジョイスに「チャールズ・ディケンズ百年祭」という五頁ばかりの短い評
論があります。これは一九一二年四月にジョイス三○歳のとき、イタリア北東
部の市パドヴァで書かれたもののひとつで、当時生活に苦しんでいたジョイス
がイタリアのパブリック・スクールで教職につく資格試験に応じるために、パ
ドヴァ大学へ提出されたものでした。いまひとつはイタリア語で書かれた「ル
ネサンスの文学的一般影響」で、これも五頁の短文です。この二論文は近年フ
ェアフィールド大学のルイス・バローン教授によってパドヴァ大学文書局から
発見されました。教授はジョイスに与えたディケンズの影響に関心が深く、一
二年四月二五日付のジョイスが弟に与えた手紙を手がかりにわざわざパドヴァ
ヘこの原稿探索の旅行をしました。
ジョイスがイエイツよりリアリスティクであるのは、イプセンやフローベー
ルと同じく、デフォウやディケンズを読んだからだといわれます。ジョイス所
有のディケンズ諸作品のうち『デイヴィド・コパフィールド』には下線やX印
がほどこされていますし、『ユリシーズ』を書くのに『ハード・タイムズ』や
他の作品を頭に浮べていたことは確かなようです。『フィネガン徹夜祭』にも
しばしばディケンズの影が見られます。サミュエル・ベケットは『大いなる遺
産』にあるディケンズのテムズ川の描写には、難解ながら言語と会話と身振り
の本質を抽出したもので、あいまいさの持つ必然的な明解さがある、と書いて
いますが、これはそのままジョイス作品にも当てはまりそうです。
ジョイスに大きな影響を与えたのはイタリアの哲学者ヴィーコとともに、デ
ィケンズであるともいえそうです。ジョイスは、ディケンズが英語に及ぼした
影響は、シュイクスピアにつぐもので、それも多くディケンズ作品の大衆性に
よるものといい、ディケンズにつけられたあだ名「偉大なコックニー」そのま
まに、ディケンズを最上のロンドン子、言葉の十全なセンスとして賞讃を惜し
みません。ロンドンがディケンズ自身であったように、ダブリンがジョイス自
身でもあったからでしょう。ジョイスはディケンズを偉大な文学的創造者のひ
とりと考えております。
バローン教授は『パドヴァにおけるジョイス』(一九七七)という本に、さ
きの二つの論文を収め、ひとつを英訳して、編集、解説、類似研究、注解をま
とめました。教授はニューョークのジョイス協会、ディケンズ・フェローシッ
プ、アメリカディケンズ協会などの会員です。
『ハード・タイムズ』のテキスト
寺 内 孝
『ハード・タイムズ』は「ハウスホールド・ワーズ」に週刊連載された後、
著者の手で二度改訂されている。一八五四年の一巻本と一八六八年のチャール
ズ・ディケンズ版の時とである。一般に、その後のリプリント版は後者二版の
内いずれかを原本とするのが普通で、例えば四枚のさし絵に特徴のあるThe
Oxford Illustrated Dickens版は68年版を原本にしているのに対して、Penguin版は
五四年の一巻本がそれである(この版は編者の諸言及び注釈事項の選択等で不
評。諸言中に人名の誤植や書名の誤りもある(K. J. Fielding, The Dickensian, LXV
((1973)); Anne Smith, Dickens Studies Newsletter))。
また綴字・句読法で現代の慣用法に従おうとするSignet版は五四年の一巻本
に基づいたと記しているが、Anne Smithは六八年版が原本になっているようだと
言っている(彼女の指摘は正しい。何故なら、五四年版と六八年版の記述が相
連している約四五箇所中、Signet版が五四年版と同記述になっているのは二箇所
だけだから)。これらのリプリント版はいずれも大抵は元のテキストをそのま
ま受け入れている。Penguin版も同様であるが、その編者は一箇所だけ原本の誤
りを指摘し、"objectionable"は"unobjectionable"でなければならないとしているが、
彼はその指摘のために論難されている。何故なら、この版よりも早い版で正し
い方を採っているから(K. J. Fielding; Anne Smith)。一九六六年に出版されたノ
ートン版は六八年版に拠っているが、その版の問題点を十九箇所に亘って指摘
し、修正している。それらの中には、ThickをThtick, eveningをmorning、
remonstratedをdemonstrated、oldをodd、signallyをoriginally、consentedをconcerted
にそれぞれ修正した箇所や従来の総ての版で「ハウスホールド・ワーズ」の一
行相当分が校正刷り段階で落とされたままになっていたのを原稿通りに復活さ
せたものも含まれている。
フォードとモノの優れた本文批評はノートン版で結実し、今やそれが定本で
ある。それだけに誤植(句読点等を含めて八箇所はある)や引用符等の欠落(五
箇所)を残したまま刊行されたのは惜しまれるし、"Textual Notes"でも先の
"unobjectionable"が言及されていなかったり、原稿や校正刷りに存在している"put
her hand up to her eyes"、"Government gentlemen comes down"(いずれも六八頁二六
行目の注)の下線部が落ちていたりなどしている。
ディケンズ関係の研究書・翻訳とフェローシップ会員の著訳書
小池 滋訳『デイケンズ--リトルドリット』 一九八○年十月集英社 (世界文
学全集)
東田千秋編『ディケンズを読む』(山本・小池・東田・多田・松村・須賀・米
田) 一九 八○年十月 南雲堂
村石利夫著『日本数字用語辞典』 一九八○年十月 日本文芸社
鈴木幸夫著『英米の推理作家たち』(ディケンズヘの言及を含む) 一九八○
年十二月
評論社
宮崎孝一監修村石利夫編著『カタカナ語の辞典』一九八一年二月 池田書店
坂本朝一著『放送よもやま話』 一九八一年四月 あずさ書房
北條文緒著『ニューゲイト・ノヴェル--ある犯罪小説群』 一九八一年五月 研
究社
松村昌家共編著『文学と悪』 一九八一年六月 南雲堂
村石利夫訳『吉右衛門俳句集』 一九八一年六月 黎明図書出版
松村昌家著『ディケンズとロンドン』 一九八一年七月 研究社
村石利夫著『日本--語源辞典』 一九八一年七月 日本文芸社
横川信義訳『ポー最後の謎』(原著者マニー・マイヤーズ) 一九八一年八月 角
川書店
小池滋訳『英国紳士』(原著者ダグラス・サザランド) 一九八一年九月 秀
文インター ナショナル
《シンポジウムから@》
われらが青春のために−−「ピクウィック讃」−−
臼 田 昭
バーバラ・ハーディは『ピクウィック・ぺーパーズ』中、飲食への言及個所
は二九五と指摘している。これはおそらくディケンズの作品中最高であるにち
がいない。
健康にして正直な人間である限り、だれしも飲食の喜びを礼讃する。少年の
頃から辛酸を嘗め、苦労を重ねてきたディケンズは、『ピクウィック・ぺ−パ
ーズ』で、ついにおのが本性に従い、自己を最大限に発揮して生きてゆける道
を見つけたのだ。この身内が熱くなるような喜びは、当然、人間のもっとも自
然で、もっとも純粋な悦楽たる飲食の形をとって表現される。『ピクウィック・
ぺ−パーズ』は、ディケンズの青春の喜びの表現なのだ。
だが、ディケンズの作品中、飲食の楽しみを如実に描いてもっとも透逸なの
は、クラチット家のクリスマスの晩餐と、ナブルズ一家がサーカス見物に出か
ける前の食事の場面だろう。これらの古典例に比べると、『ピクウィック・ぺ
−パーズ』の二九五回は、いずれも見劣りがする。なぜかといえば、ピクウィ
ック氏を中心とする「共感的」登場人物はみな裕福で橘曙覧のいわゆる「たま
に魚煮る」喜びが話の本筋にならないからだ。ディケンズはここではまだ貧富
のコントラストで物語の連びにアクセントをつけることを知らなかったと言う
べきだろう。
『ピクウィック・ぺーパーズ」で挿入的物語の中に押しこめられ、抑圧され
た貧困と悲惨が、中年から初老にかけ、人生の苦渋と幻滅に遭遇したディケン
ズに、どのように作用したかは、われわれも知っている。
しかし今はディケンズの「後期」を論じるときではない。テーマは『ピクウ
ィック・ペーパーズ』、そしてそれは、いかなる矛盾を内蔵していようと、デ
ィケンズの青春を代表する。しかもディケンズの人生はわれらが人生なのだ。
だから彼の青春をたたえて、そしてまた今や去りゆこうとするわれらが青春の
ために、今一時、ボブ・ソーヤーとともに、ミルク・パンチの杯を高く挙げよ
うではないか。
春季大会報告
植 木 研 介
六月六日松山で支部大会が開催された。フェローシップが発会して十年、こ
れまで東京・関西各地・広島といった馴染みの土地で会が持たれていたが、本
州を離れて初めて海外へ飛躍。初めて飛行機に乗られた会員もおかげでチラホ
ラ。もちろん汽車と船を断固愛する会員も多数あり。
「漱石とディケンズ」と題する講演で、松村氏は『坊っちゃん』と『ニクルビ
ー』に焦点をあて、内容の類似に止まらず、執筆当時の両作家に見られるネガ
ティブ・テイストなるものを提起された。学会に継ぐ学会で、疲れと頭痛を押
しての講演となったが、その熱弁と笑いに一同引きこまれ快調な締めくくりで
あった。
次に、旅に出たのならと『ぺ−パーズ』を選び、小池氏の自然流の司会に任
せて、その「魅力をさぐる」シンポウジアムを開いたしだい。臼田氏から、食
物の記述の多さではディケンズの作品中随一であろうこと、一方で『チャズル
ウィット』に見られる食事する者の躍動する歓びが見られないことが、食事に
対するイギリス的慧眼と共に淡々と楽しく披露された。福村氏は作品の内部か
らサムの教育によってピックウィック氏はどこまで変化し、どこに停まったか
を、主人公への作家の距離と同化、また太陽のイメージ等から真剣に論じられ
た。西條氏からは、作品をヒットさせた作品の外部要因として、当時の活字文
化と出版状況の説明があり、また「ストック・シチュエーション」と呼べるも
のが存在したことなど有益な示唆が述べられた。時間が足らず、その点がうら
まれるにしても、その後の討論が会を充実したものにしてくれた。
梅雨の間の遠隔の地ということで少人数の心づもりが、暑いほどの快晴に恵
まれ、宮崎支部長を始めとして五十名以上の参会をいただいた。内、会員が二
十六名、入会希望を申し出られたかたが六名あった。立派なスピーカーズにお
願いしたお陰で、愛媛の英文学や独文学の専門の人々から非常な好評をいただ
き、会員だけでなく、皆がディケンズを満喫できる春季大会となった。
《シンボジウムからA》
『ピクウィックの変貌』
福 村 絹 代
『ピクウィック・クラブ遺文録』は構成の粗い作品というのが通説であったが、
一九五十年代以後、この最初の小説において作者はすでに、ある程度の意図的
な配慮をもって構成をしたことの指摘がなされるようになった。
この作品は他人の発案によって書き始められたものであるが、ディケンズは
これをいち早く自分のテーマの中に組み込んでしまった。そして作品の最初の
部分の、滑稽で楽天的な雰囲気を崩さない範囲内で、彼の関心事である、社会
悪の暴露という深刻なテーマを取り入れたのである。主人公ピクウィックは、
社会悪の犠牲者として幾分とも悲劇性をもつためには、最初の滑稽で愚鈍な性
格のままでいるわけにはいかない。だから彼はしだいに威厳のある、敬愛され
る性格に変貌していくのである。この変貌は彼を描く時の筆致の変化にも明白
に表われている。最初は彼はひたすら肉体的に愚弄される滑稽な姿に描かれる
が、後には精神的に愚弄されて悩む姿に変る。最初は作者は彼をしばしば "the
illustrious man "とか "the great man "とかいった、誇張的な呼び方をしているが、
二十章を最後にして、作者の主人公に対するこのからかいの態度はなくなる。
この作品は光のイメージで始まり、ピクウィックは朝の太陽に喩えられる。
そして神のごとき精力をもって「虚栄の市」のような社会を自由に遍歴する。
しかし最後には、最も邪悪な社会悪(法の腐敗と負債者監獄)の網の目に捉え
られてしまう。喜劇であるから彼は無事救出されて田舎へ隠退して幕となるが、
最後には彼の神通力も消え失せ、朝の太陽のイメージはなくなった感がある。
この作品は表面上楽天主義的であるが、このような結末の中にすでにディケ
ンズの悲観主義がひそんでいるとも考えられる。そしてこの作品で随所に取り
扱われている社会の暗黒面が、ディケンズの後期の最も悲観主義的な作品、『淋
しい邸』、『リトウル・ドリット』、『大いなる遺産』で本格的に展開される
ことになる。
《シンボジウムからB》
『ピックウィック』と一八三〇年代
西 條 隆 雄
初号の売れゆきこそ四百部ではあったが、第十五分冊を出す頃までには四万
部という部数を売りつくした『ピックウィック』は、ありとあらゆる階層・年
令の読者に熱狂的に読まれた。他方、作品中のさし絵だけを集めた冊子とか、
作品とは無関係だが名前だけ借りた『ピックウィック歌謡集』が出版され、ま
たボス、ポズの名で剽窃物が次々にあらわれては飛ぶように売れた。ピックウ
ィックとさえ名づければ、内容が何であれ商売が成り立ち、一八五二年の時点
でさえ剽窃物で採算がとれるはど、彼の名前は魔術的な力をもっていた。
一体、二十四才の処女小説が何故これだけの熱狂を作りあげたのであろうか。
ここではその理由を次の三点から考えてみたいと思う。第一に、当時の人々が
親しんでいた作品と『ピックウィック』との関係、第二に、一八二○年代から
一八三○年代にかけて急速に大衆に浸透しはじめた活字文化の波、そして第三
に、当時の一般的風潮、とりわけ小説についての考え方がどう関わっているか
である。
第一点については、フィールディング、スモーレット、ゴールドスミスなど、
十八世紀小説家の強い影響以外に、十九世紀に刊行され大人気を博したいくつ
かの分冊出版本との関係をみたい。例えば、ローランソンの絵とコームの解説
文より成る『シンタクス博士の三旅行』(一八一○--二一)、イーガンの『ロン
ドンの生活』(一八二○--一)、サーティーズの『ジョロックスの冒険』(一八
三一--三四)である。ディケンズはこれらを巧みに取捨選択し、かつて一大旋風
をまきおこした場面を再び登場させることによって、読者との間に親密な結び
つきの基盤を作りあげているのではないか。読者の心に焼きついている場面を
用いることによって、喜劇効果と人情の機微の映像を倍加させているのではな
いであろうか。
第二は小説の読者についてである。スコットの『ケニルワース城』(一八二
一)が三○シリング半という破格の高値をつけて以来、新刊小説はごく一部の
人々を除いて購読者を失ってしまった。しかし一八二○年代の後半には出版社
は新たな読者層の開拓に積極的に力を入れ、廉価で小説のリプリント選集とか、
日常生活に役立つ知識の出版物を出しはじめた。しかし更に画期的なことに、
大多数の労働者に、わずか一ぺニないし一ペニ半で種々多彩な読み物を提供す
る雑誌が一八三二年に刊行された。廉価出版が採算にのる可能性をみて、以後
数年間英国は雑誌氾濫の時期を迎えるが、役立つ知識の重要性を認め、読書に
よる新しい精神世界への目醒めに感動した労働者階級の間には、読書の習慣が
急速に広がってゆく。『ピックウィック』の読者数が一挙に天文学的数字には
ね上る素地は、出来上っていたといえるであろう。
最後に、当時のものの考え方と小説との関係にふれてみたい。女王の即位と
符合するかのように、摂政時代の放将な生活、陽気な馬鹿騒ぎに代り、真面目
さ、清浄さが人々の求めるところとなった。また、一八三二年の選挙法改正の
希望と挫折を通して、心ある人々は人道的な考え、慈善、改革への願望をもち
はじめる。つまり理想主義が社会意識に入ってくるのである。そして、前世紀
の機智、諷刺に代り、善を肯定し、生の苦痛を和らげ、人々を美と調和を求め
る気持にひたすヒューモアが歓迎され、これがはとんど詩論の高みにまで上っ
てゆくのである。『ピックウィック』における人間関係の大らかさ、素朴さ、
そして善の国の可能性をみなぎらせた楽天観は、とりわけこの時代の人々には
強烈な新鮮さと共感を与えたと思われるのである。
ディケンズの「失われた時を求めて」
福 島 光 義
われわれには稀にではあるが特定の味や匂いなどの感覚的体験を通して、極
めて個人的な過去の記憶がふっと蘇える瞬間がある。これはプルーストの『失
われた時を求めて』の話者が、皿に当るスプーンの音や、不揃いな敷石の感覚
や、マドレーヌのかけらの浸っているお茶の味などから、失われていた年月、
地名、建物、人々などを突然見出すという体験と符合する。プルーストはこれ
を意志的記憶と区別し無意識的回想と呼び執勘なほど詳細に記述している。
ディケンズの作品にはかかる回想があるだろうか。ディケーンズは『大いな
る遺産』第一段階、最終章(十九章)の或る一場面で、ごくわずかではあるが、
無意識的回想に触れている。莫大な遺産相続の見込みがあるという知らせを受
けた翌日、ピッブはジョーの礼儀作法などの件でビディと口論をするがその間
ビディは黒すぐりの葉を一枚摘み両手の間ですりつぶす。その後話者は黒すぐ
りの匂いをかくたびに「小道のそばの小さな庭園でのあの夕暮」を思い出す。
理知の努力ではなく無意識的なるものの作用による過去の再現。プルーストな
らば、ディケンズがさりげ気なく通過した正にこの感覚的瞬間をエクスタスィ
をもって捉え、現在と過去とを同時的に体験することによって、人間は死の不
安から解放される超時間的な存在となり得る云々と、時には読者を辞易させる
ほどのスタイルをもって、その無意識的回想の理論を展開するであろう。
『大いなる遺産』も『失われた時を求めて』も共に告白的な回想形式のフィ
クションである。プルーストの話者がマドレーヌの味から芸術創造上の苦悩を
越え啓示的な「特権的瞬間」を見出し無上の歓喜に包まれているのに対し、デ
ィケンズの話者ピリップ氏は黒すぐりの匂いからスノベリィに侵されかけた少
年ピップの苦い思いを再び味わっている。『大いなる遺産』には、過去の人問
の行為や失われた時は取り戻せないという認識が働いているが、ディケンズは
これを慨嘆せず余裕をもって眺めている。両作品共に失われた時を求めてはい
るが、ディケンズが主に表舞台を描写したのに対してプルーストは創作過程そ
のものを、いわば舞台裏までつぶさに見せなければならなかった。
私の骨董探索
高 井 由 利 子
Daniel Quilpの職業が、Ship-breakerであると読んだ時は、それが如何なる生業
やら、よく分らぬままにいたが、ふとした父との会話の中で、如実な説明を与
えられた。例えば戦時下の日本では、海軍に提供する船材として、山から切り
出される木は、樹齢何百年という最高級の巨木しか採用にならなかったという。
このように建造され、やがて務めを終えた船は、船としては生命を使い果した
ものであっても波に耐えぬいた木材そのものは、解体され、今度は極上の建築
材として再利用され、そののち、何十年、何百年という風雨に耐えることにな
ったという。古い商家の軒先に上っている屋号をしるした大きな看板などに、
しきりに使われたと教えてくれたのは母である。
これだけ聞けばQuilpが、どういう部門の仕事を受け持っていたかということ
のみならず、彼の怪力の謂れや、卵や海老の殻をも噛みくだき、のみ下したり、
あるいは無頓着にも楊子にするために、時計の針をひきちぎったりする、破壊
力や、強い暴力への偏向についても、なるほどと合点がゆく。なお、Dickensは、
Quilpの住まいを、"Survey side of the river"と記しているが、Thames河南岸には今
も、Survey Commercial Docksと呼ぱれる地域があり、一十九世紀初頭に開けたの
ちは、木材の商いの中心地であった--とF. R. Banksによっていみじくも教えら
れた。(The Penguin Guide to London)
Rob the Grinderが鳥刺し(bird-catcher)であることも、よく分らぬままに読ん
でいたが、モーツァルトの「魔笛」のパパゲーノに近いスタイルを発見したの
に続いて、これについても父がヒントを与えてくれた。Robは、「広辞苑」の説
明にあるように、鳥モチで鳥を捕獲するのではなく、するどい指笛で鳥を呼ぶ。
父は、野鳥の好きな人が指笛を鳴らすと、そこいらの梢にいる、めじろの大群
が、つられて鳴き交し、大騒ぎになる様子を見聞している。私の骨董探索は、
墓掘りや、lamp-lighterに始まり、行商人、辻音楽師、大道芸人、旅芸人、サー
カスの一座と、Nellのたどった道をたよりに、彼らの幻の姿を専ら追い求めてい
る。フェリーの「道化師」や「カサノバ」のポスターを目にするごとに、何度
となく、まるで夢遊病者のように、映画館の暗がりへと、さまよいこんでしま
うのも、こういった理由による。
ディケンズとひな菊
湯 木 満 寿 美
大正十三年石川林四郎先生は、「英文学に現はれたる花の研究」で、英詩を
引用しながら、デイジィの考証をしておられるが、この花を最も愛好した詩人
はワーズワースで、グラスミアで三篇も作っている。今でも農村に見られるが、
嘗てはこのささやかな美しいデイジィはイギリス全土の野に咲き子どもらはこ
れを摘みディジィチェインを作っては胸にかけて遊んだ。花ことばとして無心、
平和、希望があげられているが、この花が英詩文で幼年時代の至福の回想、流
人の望郷の花となることも自然である。バーンズは「オールドラングサイン」
のなかで、「ふたりは丘をかけめぐり、競ってひな菊を摘んだ。しかしその後
は長い日々、つらい旅路をさまよった。」と懐古の情を詠み、ジョージ・エリ
オットは「フロス河畔の水車小屋」で、トムとマギィの兄妹があい擁して溺死
する最終章で、「ボートは再び姿をあらわした。しかし兄と妹は二度と離れる
ことなく抱きあったまま沈んでしまった。仲よくその小さな手をしっかり握り
あって、ひな菊の咲く野原を歩きまわった日々を、崇高な一瞬のうちに再び生
きかえらせて。」と幼年時代を哀惜している。
さてディケンズの「骨童屋」では、老婆が五十五年前に廿三才で死別した夫
の墓で、ひ
な菊を摘みながら、「ひな菊が咲くと、それを摘み家にもち帰るのよ。」「わ
たしはこの花がどの花よりも好きで、この五十五年そうだったのよ。ずいぶん
長い歳月がたって、わたしはもうひどい年よりになっているんだね。」と昔を
思い浮べる場面がある。また同じ作者の「デイヴィド・コパーフィールド」の
なかにも、スティアフォースがデイヴィドの肩をたたいて、「君はひな菊そっ
くりだよ。日の出に咲く野のひな菊だって、君ほど初初しくはないよ」と呼び
かけるくだりがあるが、これは才人スティアフォースが機転をきかせて、ディ
ヴィとデイジィと音を通わせた愛称ともいえるだろう。
「研究姿勢動向」
宇 佐 見 太 市
過ぎ去りし日々の回顧には大いに早すぎる私ではあるが、ここ五、六年の間
に書き進めてきた八篇余りのディケンズ論を自ら総括することによって、作品
に取り組む私の姿勢に二通りの方法があることに初めて気づいた。一つは、文
化の香ただよう精神生活に対する憧憬者としてピップを捉えたり、存在認識論
者としてルイザを解釈したりする、いわば読後に作品全体から酵し出される人
物像へのパーソナルな接近である。もう一つは、各作品を読み進む過程で瞬間
的にひらめく「謎」との遺遇である。ピップがハーバートから「ヘンデル」と
呼ばれることの意味は何か、ナンシーはサイクスに殺される直前に何故「二人
一緒に」ではなく「離ればなれになって暮らそう」と言ったのか、バウンダー
ビーの母親の果たす役割は何であるのか、大岡昇平は自作『最初の目撃者』の
中でディケンズの『手袋』に言及するに際してどうして人物関係を移し間連え
たのか、などと言った私にとっては誠に純粋素朴な疑問点の解明である。でき
上りは小説の構成と作者の意図に迫るものとなるが、これ又パーソナルな推論
を基礎にしている。
前者は総合的な作品評価に立ってから考察を開始するのに対して、後者は断
片的な一場面から作品全体に迫っていく。それゆえ、一見したところ両者には
大きな相違があるように思われるのは当然である。ところが、実はこれら両ア
プローチから最終的に私が探ろうとしているのは作品の「主題」であり、いず
れの方法も有効であると固く言じている。私には共にいとおしい研究姿勢に思
われてならない。
さらに又、これら二通りのアプローチの根底には、ディケンズの非凡なる才
能に対する心からの敬愛が大きく存在していることは言うまでもない。だから
こそ、私は極めてパーソーナルな読みを敢えて志向するのである。
ディケンズの「心」
藤 本 隆 康
現代人の懐しむ蒸気機関車が、ディケンズにとって自然をむごたらしく破壊
する「怪物」に見えたように、文明と人間との間にはいつの世にも軋轢がある。
蒸気機関車は、今では自動車であり、ジェット旅客機であり、コンピューター
である。物と心との乖離は、時代とともに加速度的に進行している。ディケン
ズの描いたあの人間臭い世界は、今日では人工照明に照らされてその妖気を奪
われ、彼が憑かれたように描き続けたロンドンの薄汚れた下町にも近代的なビ
ルが立ち並んでいる。ディケンズがもし現代に生きていたら、これをどんな風
に感じ取るだろうか、とふと考える。
ディケンズが寒さに凍え、ぬかるみの道を難渋しながら馬車を走らせた取材
の旅も、千トンそこらの小さな郵便船で嵐と船酔いのため死ぬ思いをしながら
アメリカに渡ったことも、今日では夢物語である。今なら高速道路で自動車を
とばしたり、ジェット機で世界を駆け巡り、あるいは日本にやって来てあの有
名な公開朗読を開かせてくれるかもしれない。それはともかく、時代は変わっ
ても人間は変わるものではない。ディケンズが現代に生きていたとしても、彼
は人間の豊かな宝庫であるあの「ディケンズの世界」を必ず再現してくれるこ
とであろう。
ディケンズの文学は、公開朗読に象徴されるように、読者や一般大衆との一
体感に基づいている。彼の活躍した時代は、幸いなことに、人間が社会と有機
的なつながりを失っていない時代であった。非情で複雑になった現代では、た
とえば「ぼく、もっと欲しいんです」といった一作中人物の言葉が、当時のよ
うな波紋を社会に投じることはまずないであろう。人問と社会との齟齬はます
ます深まっているのだ。ヴィクトリア朝という枠の中で、人間性を標傍して闘
ったディケンズは、人生の不条理を、そして孤独や挫折感、犯罪といつた社会
に生きる人問の病いを痛切に感じ取っていた。それはけっして一作家の苦悩に
終わるものではない。馬車が汽車に、汽車がジェット機に変わっても、「ぼく、
もっと欲しいんです」という素朴な叫びは、人間が人間であろうとする限り生
き続けるであろう。その声を、我々は蒸気機関車のように単なる一郷愁として
終わらせてはならないはずである。
ディケンズの表現技法
山 本 恒 義
ディケンズの作品を読んで表現面で特に目立つ点は、アニミスティックな表
現が多いことである。『大いなる遺産』の中から例をとりあげてみよう。ピッ
プが弁護士ジャガーズ氏の事務所を訪問するところがある。その事務所の天窓
から見える隣の家々が、ピッブの目には "as if they had twisted themselves to peep
down at me "(第二○章)というように、アニミスティックなものに映る。また、
ジャガーズ氏の部屋の中の棚の上に恐ろしい顔をした鋳型が二つ並んでいる。
顔は "swollen "して、鼻のあたりが
"twistchy "(第二○章)だという表現は不気味なふん囲気を生み出す。さらに
このニつの鋳型の顔が "as if they were playing a diabolical game at bo-peep with
me "(第四十八章)というように、ピップにとってはまるで生きている人間の
顔のように見える。このような表現はディケンズに特有の奇抜なもので、ピッ
プを不愉快で不安な気分にさせる効果がある。
ピップがロンドンで紳士修業をするために、最初に下宿する所となるバーナ
ーズ・インは、陰気臭い建物である。窓にはってある「貸間」という札がピッ
プには自分を
"glare "(第二十一章)しているように見える。また、ピップがある晩ハマムズ・
ホテルで泊まった時、部屋の中の寝台が四つ足の "despotic monster "(第四十五
章)であるかのような印象をピップに与える場面がある。ここでは彼の不安定
な心理状況が暗示されている。
以上のアニミスティックな表現はほんのわずかな例にすぎないが、いずれの
場合の表現についてもおおよそ言えることは、それが不気味なふん囲気を生み
だすことと、奇抜な表現であることである。表現が奇抜であるということは、
読者に今までとは違った物の見方をさせることにもなる。つまり、読者に新鮮
な感じを与える効果がある。このようなアニミスティックな表現は『大いなる
遺産』においては、ピップの心理状態と関係しているように思える。
大いなる遣産が手に入ることになったピップは、ジョ−の無学な面を軽蔑し
て、彼から次第に離れていく。と同時に、ピップの心には自分のそのような行
為に対する罪意識も芽生えてくる。罪意識のために心が不安定な状態になった
ピップにとっては、まわりの事物がまるで人間の生命をおびて、自分をとがめ
ているように見えることがあるだろう。
このようなことを考えてみると、ディケンズのアニミスティックな表現法は、
単に一時的な楽しみや驚きの効果をだすためにのみ使用されているのではない、
と言える。従ってアニミスティックな表現の研究は、ディケンズ文学の世界を
理解したり解釈したりするための、一つの糸口を与えてくれるのではないかと
思う。
編 集 後 記
創刊号以来の編集を担当して来られた中西氏が英国に留学され、今回は不馴
れな代行者の編集となりました。もろもろ不行届をお詫び致します。今度の号
は全会員への御案内に応じてお送りいただいた原稿だけででき上がりました。
フェローシップの会報として「語り合い」の場のような性格も入り込んできた
と思いますが、なお御意見を賜わりたく存じます。編集の不馴れからの手違い
があったにも拘らず、印刷関係の仕事を迅速に進めて下さった村石氏の寛容に
対して心からの謝意を表します。(間)
日々に疎し
山 本 忠 雄
これは私のことで自戒の語である。関西に在住しているので、京都と神戸に
集まった時、出席したことはあるが、健康が不安なので、いつも東京のフェロ
ウシップには遠のいている。フェロウシップの会に出ないのは、フェロウシッ
プの資格を欠くわけだし、殊に楽しみな懇親パーティには、一度も顔を出した
覚えはないので、去る者は日々に疎くなるばかりだ。
私は平生から附き合いがわるく、たまの会合に加わるのを何よりも好み、特
にビール・パーティのようなくつろいだ会には、喜んで仲間入りするのが常で
あったのに、健康のためとはいえ、みすみす折角のパーティを断念するのが常
となったのは、千載の恨事と称すべく、賑やかな会合を誰よりも楽しんだディ
ケンズにも申し訳のない次第で、この通俗的な小説家の愛読者をもって任じて
いる私としては、何ともやり切れない気持である。
ジョンスン博士は「暇な時は独りで居るな、独りの時は暇で居るな」と戒め
ている。暇な時も独りでいるしか仕方のない私は、独りの時は暇もなく、今で
もディケンズを読みつづけている。英語や英文学に親しむ自信はこれで保たれ
る。独りでいても淋しくないのはこのせいだ。その割に研究らしい研究も一向
に捗取らず、宿題がいつまでも宿題で残っているのが、通俗的な読者たる所以
で、この点は誰よりもフェロウシップの一員たる資格を具えていると自負して
いる。
他の学会などにも疎くなり、会費の払い込みがおくれたため、除名された学
会もある。フェロウシップに限って、そんな運命は免れたい。フェロウシップ
が其処にあり、自分もそれに加わっているだけで、ディケンズを身近に感じる
功徳があるからだ。
神戸の地より皆さんへ
田 村 哲 也
いつも、行事のお便りをいただきながら、失礼いたしております。「ディケ
ンジアン」等の資料を拝見し、少しでも、ご苦労に感謝しております。
天賦の才を持った人、ディケンズの慧眼と言ってしまえばすべて終ることか
もしれませんが、『オリヴァー・トウィスト』を読み返しながら、新たに感じ
るものが出て来ます。福祉問題の見直し等といわれる昨今ですが、福祉施設へ
の示唆に富む数々の事柄が、伝わって来ます。シェークスピアの『ヴェニスの
商人』に見られる高利貸への示唆、ジョージ・オウェルの『アニマル・ファー
ム』の告げる、社会主義機構を獲得する現代イソップ物語的示唆、ソルジェニ
ーツインが収容所群島で描いた、種々の示唆なども患い合わされます。
或るイデオロギーの枠組の中にはまりこんだものでなく、時代が変り、制度
が変っても人々をして、何回も読みなおさせ、そのたびに新たなる感銘をあた
える作品。これは、やはり、ディケンズ、シェクスピアをおいて、外には、な
かなか見当りません。そういうことを思いながら、少しずつ勉強させていただ
いていますので、ご遠慮なく会を進めていただきますようお願いします。
辺地から
入 江 典 太 郎
会報への寄稿ご慫慂の貴翰を頂きましたが、小生ごとき市井人にはとても立
派な学間的、文学的文章が書けるはずがありません。
ただ、あれはどコモン・ピープルを描き、語ったディケンズのことであって
みれば、そのフェローシップ会員も錚々たる英文学者、英文学生の純粋集団に
近い現状に、さらに一般市民の参加がふえることが望ましいとも思われます。
幸いNHK会長の尊名も見えていてこれが市井会員のピン。キリが小生と思っ
ていたところ、坂本氏はこの四月に「放送よもやま話」を出版されて忽ち随筆
家、文学者の市民権を獲得され、結局、俗輩会員は小生一人となったようであ
ります。
幅広い参加歓迎のご方針を検討されるよう願い上げますと共に、孤影なりと
も頑張って稀少価値を発揮したいとも念願しております。なにとぞ宜しくお願
い申し上げます。
ディケンズ・フェロウシップ日本支部
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