ディケンズ・フェロウシップ会報 第八号(1985年)
The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. VIII
ディケンズ・フェローシップ日本支部
1984年10月―85年9月
1984年10月6日(土)午後2:00より
総会 於成城大学
講演 「ディケンズと翻訳」
講師 小池滋氏
1985年6月8日(土)午後2:00より
1.講演 「ロンドンを歩く」
講師 久田晴則氏
2.シンポジウム
「Our Mutual Friendを巡って」
司会 松村昌家氏
講師 間二郎氏/西條隆雄氏/山崎勉氏
一フェローからの平信
米田一彦
この夏は格別に暑く、それが果てしもなくつづくようだ。一番こたえるのは、
許容限度までビールを飲んで、二、三時間くっすり眠るのは実に「うまい」で
はあるが、夜半に目が覚めると汗ぐっしょり、こうなると仲々二度とは眠れな
いことで、それが毎夜なのだ。そして誰しも身辺に、二、三の不安材料―「戸
棚の中の骸骨」らしきもの―を持っているかも知れず、それらが押寄せてくる。
いざとなれぱそれまでさと、昼間は忘れるように努めているが、夜間は仲々忘
れてしまえない。汗がふき出す。やっと浅い眠りにつくと、早朝から、壁一重
の隣家の幼児が、階段をやけにふみつけて上り下りし、時には絶叫もする。セ
ミ・デタッチト・ハウスといえぱ、聞えはよいが、ニコイチを貫ったのは、当
時としては仕方なかったとはいえ、大失敗だった。
こういうわけで、朝食が進まず、頭はもうろうとしているが、これではいけ
ない、余生は少しでも快適にと思うので、まずは冷房のスイッチをいれ、気に
入りの銘柄の紅茶一杯を持って来てもらい、禁断の煙草を一本くゆらせる。い
ずれささやかではあろうが、精々優雅にやろうというわけである。
さて何か気持のよい読書でもということになるが、何百ぺージもあるディケ
ンズ小説など到底手におえない。焦ってはならぬ、無理をしてはならぬ、これ
は過去の夏の経験から痛いほどよく身にしみていることなのだ。おまけに大分
年も寄っているのである。
英語が割合に読み易く、余り部厚くなく、日常生活を、洗棟された感受性を
働かせながら描いたもの、例えばエリザベス・テーラーやバーバラ・ピムの小
説はどうだろう。このニ人の作品も、いつの間にか、それぞれ十冊近くがたま
っている。字引は傍のテーブルにのせてあるが、あまり参照せず、ノートもと
らず、勿論カ−ドの作りようもなく、話の筋に素直に密着し、作中人物たちの
気持を精々くみとるようにしながら、読んでいくのだ。時間がスムーズに流れ
ていって快い。今はこうした閑つぶしの無責任な読書も許してほしい。「怠惰
の一形式」としての読書だと心得ているのではあるが。「ピム論」「テーラー
論」を書くとすれば、いずれすべての作品を読み返さねばならず、今の読書が
それに寄与するところは余りないかもしれない。
元来がイギリス小説に対して、一人のコモン・リーダーとして接するだけで、
いわゆる研究といったものが不得手で、ついさぼってきた。しかしこのフェロ
ーシッブに参加させてもらったのは、優れた研究者に接して刺激され、自らも
何らかの形で、学問的な寄与ができたらと思ったからのはず。
そのうち涼しくなったら、少しは頑張るつもりである。そのため、精々栄養
も摂り、日課の散歩にも励むつもりでいる。
(九・一)
ディケンズと河川
湯木満寿美
ディケンズの作品に取材されている河川は、メドウェイとテムズである。メ
ドウェイは、川の名は明示されないが、『エドウィン・ドルード』では不吉の
川となる。しかしその他の場合は楽しい川となり、『無商旅人』のなかでは、
作者が幼年時代を過したチャタムの造船所で、滔々と流れる潮を見て陶然とな
ると言っている。
テムズも作者にとって、明暗二相の河となる。詩聖スペンサーが、「うるわ
しきテムズよ、静かに流れよ、わが歌のおわるまで」と祝婚前歌で詠じたこと
は有名であるが、その後ロンドンを流れるテムズは、産業の発達、人口の増加
により、汚染され、『リットル、ドリット』のなかで言う「死を呼ぶ下水」と
変るのである。
さて、テムズ河畔には、ディケンズにゆかりの場所がいくつかある。『ニコ
ラス・ニックルビー』を書いたという保養地ピーターシャムのイン、友人エイ
ンズワースと作品の完成を祝った、ロブスターとしらすをおいしく食べさせる
グリニッジのトラファルガー・タバーン、サザックの現存するジョージ・イン
などである。しかしディケンズが最も詳述しているタバーンは『我ら互いの友』
のなかに出るシックス・ジョリィ・フェローシップ・ポーターズである。作者
は川に突き出ているインのヴィクトリア風のボックス・シートから、船の行き
交う川を眺めながら、小説の想を練ったことであろう。
テムズの河口と潮流を地理的背景とする『我ら互いの友』は、In these times of
oursと書き出しているが、この頃のテムズは最も汚染された河である。人日の
集中した都市の流す下水、塵芥、犬猫の死体、さては人間の土左ヱ門などが浮
び、潮の流れに漂い、またコレラ、疫病の温床となっていた。因みにテムズの
汚濁が間題となり、汚染防止の方策がとられるのはディケンズ没后のことであ
る。
テムズを取材するディケンズの多くの小説のなかで、テムズの最も浸透する
のが『我ら互いの友』である。第一章からテムズをイメージとし、川に死ぬる
ガファ、ライダーフッド、ヘッドストーン、逆に川に生かされるロークスミス
とユージンなどの人物と、事件を結びつけていく。この小説を工リオツトの『荒
地』にたとえるが、およそテムズを取材した詩文のなかで、これほど優れたも
のはないだろう。
ロンドンを歩く
久田晴則
「芸術は身体空間だ」という発想を考えた場合、その「身体空間」とは「内
側にいる感じ」のことだと言える。ディケンズにおける「内側にいる感じ」と
は、例えば、「自己との内密の対話」という芸術家本能の中枢を指す。
ロンドンに対するディケンズの感応を「身体空間」の観点から考えた時、そ
こに何が考えられるのか。彼の心身を十全に満してくれた偉大な自然・田舎で
あるチャタムとロチェスターを喪失した瞬間、ディケンズはその自然的なもの
を純化し増幅すべく、反自然的な都市ロンドンの都市性を受け入れていった。
ディケンズの場合、自然の喪失は白然を彼の内へ取りこんだことであり、それ
は同時に都市的なものが彼の中に存在し始めたことである。彼のロンドンの遍
歴放浪は、「言語と身体性としてのミクロ都市を持ち歩くこと」だったと言え
よう。
ディケンズの作品群の中に、不変数の如くに現われ続けるコベントガーデ
ン・マーケットや各種のスクエアなどの閉ざされた小空間は、彼の内部に押し
込められた反都市的なもの執拗な象徴的描出、彼の身体空間の具体的な投影で
ある。その最も極端で最も特徴的な顕れをティム・リンキンウォータ−の示す
シティスクエアヘの偏執的な囚われの中に見ることができる。また一方真夜中
に「締め出しを食った(got the key of the street)」ジョブ・トロッターがコベン
トガーデン・マーケットの野菜@の中にもぐり込んだ経緯も特筆すベき特徴で
ある。これらとの彼の宿命的な関係は、単なる「都市の中の田舎」のモティー
フでは計ることのできない含蓄を持っている。
ロンドンは「うさんくささ(内部と外部、即ち、室内と街路との関係の不可
分離性)」の度合の極めて高い街である。「知られることに関しては無能であ
り、従って想像力に頼らざるを得ない」ことから生れる「都市の不可思議」が
その特質に起因する。自然と田舎を内にかかえ込み、「街路の鍵」を手にした
ディケンズは、この「うさんくささ」の中に「存在の未知のあり方」を透視し、
そこに「都市の不可思議」を浮き上らせる即ちガレキあるいは廃嘘のイメージ
に満ちたものの山から「不必要な細部や断片」を取り出してそれらを互いにぶ
つけたり並べかえたりすることによって、中に目覚めを待ちつづけて息づいて
いるものを顕在化する。これは、「モンマス街の黙想」を筆頭として、誠に「ず
うずうしいまでの」翻訳の作業だと言えるだろう。「世界の小さいこと」の実
感や「幻影こそリアリティそのもの」という認識の迫真力の生れる所以である。
ロンドンは、「楽園」から追放され十全な「室内」を失わざるを得なかった
潜在的な造反者ディケンズを懐柔する文化装置であった。結果、街路はディケ
ンズに正当な経験を与える不可欠な場所となったと言える。
(八五年六月広島大学における講演)
デフォーのA Tourとディケンズランド
中西敏
デフォーのA Tour、にはディケンズと縁の深い土地に関しての興味深い描写
が幾つかある。その二三をここで記してみる。
ロチェスターとチャタムの境については、「七人の貧しい旅人」の中におな
じみの言棄があるが、デフォーも、ストルードとロチェスターとの間に川が、
後者とチャタムとの間に非常に小さな"marsh of vacancy"がある以外は、三つの場
所は"contiguous"と記している。またデフォーはメドウェイの橋を、ロンドン・
ブリッジを除き、英国で作られたすべての橋の中で、最大、最高、かつ最強の
橋と言っている。その橋は一八五六年に取り壊されることになった十四世紀か
らのもののようで("the 14C bridge, demolished in 1856"―Blue Guide.なお一三九一
年にトラストが設立され、現在に至るまでそのトラストによって修理、改築が
行われてきている)、後にピクウィック氏一行が古城を眺めることになる橋で
ある。古城と川との間の現在の遊歩道には、その橋のバラストレイドが使われ
ている。キャンタベリー参りの巡礼の通るギャッズ・ヒルが追剥で有名であっ
たことは、『ヘンリー四世』第一部でもよくわかるが、デフォーもチャタムで
給料をもらった船員がよく襲われたこと、一六七六年かその頃の或る朝四時に
そこで強盗を働いたニックスという男が、馬を飛ばして午後にはヨークに着き
アリバイを立てたこと、チャールズ二世がその男に"Swift Nicks"という名を与え
たことなどの事実や伝説を記している。
A Tourを読むと、ヤーマス及びそこから北の方、サフォークの北東端あたり
のクローマーやさらにその先は、船にとって難所中の難所であったことがわか
る。クローマー・ベイは"Devil's Throat"と呼ばれていたようである。ヤーマスや、
そこより南であるが、デイヴッドがマードストーンに連れられていくロースト
フトの荒れ狂う海は、ターナーによって描かれている。またデフォーは、ヤー
マス北のウィンタートンから先は、古い板や梁や材木、船の残骸、"ruins of
mariners' and merchants' fortunes"からできた建物がほとんどと記している。
ミッドランドの旅でデフォーはグランサムの町を、"is famous . . . for abundance
of very good inns, some of them fit to entertain persons of the greatest quality . . . "と描
いている。ディケンズは一八三八年一月にヨークシャーに行く途中、フィズと
共にこの町のジョージに泊り、妻ケイトヘの手紙でも、『ニコラス・ニクルビ
ー』の中でも、すばらしいインであると称えている。この町は現在でもエイン
ジェルとジョージが有名で、前者は英国全体でも数少ない中世紀風のものとい
うことである。ただジョージは一七八〇年の火災後再建されたジョージ王朝風
のもので、デフォーも見たと推測できる中世紀建築のジョージは、ディケンズ
の頃にはもうなかった。同じくヨークシャーの旅でディケンズが泊ったバーナ
ード・カースルのキングズ・ヘッドは、十八世紀中頃からのもので、デフォー
がこの"ancient town"を訪れたときそのインはまだなかった。この町を流れている
ティーズ川に古城近くで合流するPercy Beckは、不意に増水する危険があるよ
うで、現在そのbeckのある鬱蒼たるFlatts Woodに入ると、急に増水するので要
注意の立て看板がある。そのbeckではなく、ずっと下流のピアスブリッジのテ
ィーズ川のことであるが、或る男が浅いので跣で渡ったところ、突然水が増し
て溺死してしまったという面白い話を、デブォーはA Tourの中で伝えている。
続・女性読者とディケンズ
野畑多憲子
会報第七号上の、宇佐見氏の「女性読者とディケンズ」を拝読し、『若草物
話』やアン・シリーズを読んだ昔を思い出しました。
ここに、宇佐見氏の表題を拝借させていただいたのは、宇佐見氏の一文によ
り、私も「思いがけないところで言及されているディケンズ」の例を一つ思い
出したからです。それは、Maud Hart Lovelace(1892-1980)のBetsy and Joe(1948)
(邦題『ベッシィの高校卒業期』、恩地三保子訳、秋元書房昭和三六年)です。
ラブレイスといっても、大方の読者は御存知ないことと思いますが、アメリ
カの児童文学者で、初めは大人むきの歴史小説を書いていたそうですが、一人
娘にきかせるためにつくった話をもとにした、「ベッシィとテイシィの物語」
で有名になりました。日本でもその最初の一冊が最近出版されましたが、アメ
リカでは、これらの一部が、教科書や副読本に用いられたこともあるそうです。
娘の成長と共に、ベッシィも成長し、高校や大学の生活を扱った作品も書か
れました。これらのうちのいくつかが、日本でも昭和三〇年代に翻訳されてお
り、今問題にしているのもそのうちの一冊です。
作者の分身であるベッシィも、ボーイフレンドのジョーも、作家志望なので、
ここには文学作品の名がいろいろと出てきます。二人ともシェイクスピアが好
きで、クラスでは、『お気に召すまま』から始めて、『ハムレット』や『マク
ベス』を読んでいます。
さて、本題のディケンズですが、ジョ−に好きなものは何かと尋ねられたベ
ッシィは、「ダンスに、小説を書くことに、本を読むこと。私、いま『リトル・
ドリット』を読んでるのよ。読んだことある?」と、答えます。(前掲書、一
九五頁)
ラブレイスが書いているのはこれだけです。だからこそ私は、一九一〇年代
に、ミネソタの小さな町の女子高校生が、どんな動機から『リトル・ドリット』
を読み、どんな感想をもったのか、ぜひきいてみたいと思うのです。他に言及
されている文学作品が、いずれもいかにも文学好きの高校生が読みそうなもの
ぱかりですので、なおのこと。
もう一つ、ベッシィたちは、卒業式に、シューベルトの「きけ、きけ、ひば
り」と共に、ディケンズの詩にある'The Ivy Green'(『ピクウイック』所載)を
うたう予定だったこともつけ加えておきます。ただし、バスのソロを受けもつ
生徒が出席できなくなって、結局彼女たちは、この「ブルブルッとする暗いう
た」(一九九頁)をうたうことは、できなかったのですが。
読み手の「思い」
宇佐見太市
アガサ・クリスティーの作品は、原書であれ、翻訳であれ、気軽に読める。
映画と違って、活字の場合は、自由自在に好きなところを何度も読める点が良
い。
しかし、ディケンジァンとしての悲しき性であろうか、ディケンズに関する
件に出くわすと、思わず姿勢を正して考え込んでしまう。
驚異的なロングランを続ける戯曲『ねずみとり』の中の登場人物クリストフ
ァ・レンは、山荘の外の激しく降りしきる雪景色から、『クリスマス・キヤロ
ル』の世界を連想しつつ、次のような言葉を吐く。
Terrible weather, isn't it? Takes one back to Dickens and Scrooge and that irritating
Tiny Tim. So Bogus.
私が真意をはかりかねて一瞬とまどったのは、'So bogus.'という言葉である。
因みに、ハヤカワミステリ文庫の翻訳を見てみよう。
すごい降りですね。チャールズ・ディケンズの時代に逆戻りしたみたいだ、ま
るで『クリスマス・キャロル』そのまま。童話の世界だな。
これは、非常に工夫の凝らされた意訳と言えよう。しかし、「童話」という
言葉が私には少し気になる。この言葉は、なるほど時にはグリム童話に見られ
るような残酷なイメージを醸し出す場合もあるが、普通は、ほのぼのとした美
しいおとぎ話、という意味となる。ここでは、どういう意味で用いられている
のであろうか。
もちろん、クリストファ・レンの人物像をも考慮に入れなければならない。
彼は、一見意味ありげなことを饒舌に喋る男ではあるが、その裏に何か深い思
いが込められているわけではない。ゆえに、この人物に作者が自分の心をその
まま語らせているとも考えられまい。
私としては、次のように考えてしまうのである。クリストファは、自分が今
いる山荘の状況を、『クリスマス・キャロル』の世界に引っかけて、「現実に
ありもしない、作り物くさい、嘘っぱちの世界だ」と述べた、と。
しかし、この解釈の背景には、やはり私の『クリスマス・キャロル』観が自
ずと投影されているかもしれない。「えせヒューマニズム打破の物語」として
『クリスマス・キャロル』を読む私の、どうにもならない「思い込み」が大き
く作用しているのであろうか。
いずれにせよ、作者、翻訳者、読者が三者三様に、何か「思い」を込めてい
るわけだが、それをスッキリさせるのは本当に難しい。やはり、読者の私が、
先ず第一に、固定観念を拭い去るべきであろうか。
スクルージの自己喪失と人問復活
志鷹道明
吝嗇家のスクルージ老人が過去のクリスマスの精霊に導かれ、幼年時代を一
時過したことのある寄宿学校を訪ねる場面がある。クリスマスの季節だという
のにスクルージ少年はがらんとした教室にひとり淋しく取り残されており、老
人はこの哀れな幼い自分の姿を見て涙を流す。
. . . a lonely boy was reading near a feeble fire; and Scrooge sat down upon a form, and
wept to see his poor forgotten self as he used to be.
(Stave )
(....弱々しい火のそばで、男の子がひとり淋しく本を読んでいた。スクルージ
は椅子に腰をおろすと、忘れられていたかつての自分の哀れな姿を見て涙を流
した。)
(第二節)
右の文章で注目すベきは、「かつての自分」が誰によって「忘れられていた」
のかが明確にされていない点で、このため「忘れられていたかつての自分」の
箇所は一種アムビィギュアスな表現となっている。ここでまず第一に考えられ
るのは、スクルージ老入自身によって「忘れられていた」ということ。それと
いうのも彼はこれまで「暗闇は安くつく」という思い込みのもと、我欲でこし
らえたローソク消しを過去のクリスマスの精霊(老人の過去をあかあかと照ら
し出すローソクのイメージをもつ)の頭に被せてきたからである。次に考えら
れるのは、寄宿学校の仲問によって、ということ。これは二人が学校にやって
くる途中で、クリスマス休暇を家で過そうと楽しげに故郷へ向かう大勢の寄宿
仲間に出会った時、精霊の「友達に置いてきぼりをくった子供がひとりぼっち
でまだ学校に残っているよ」という言葉から理解できる。最後にスクルージ少
年は両親によっても「忘れられていた」と考えられる。少年が「置いてきぼり
をく」い「ひとりぼっちで」学校に残らざるを得なかったのは、少年を呼ぴ戻
してくれる温かい家庭がなかったと想像できるからである。そうするとスクル
ージの「かつての自分」は三重に、すなわち自分自身によっても、「忘れられ
ていた」ことになる。自分の両親にさえ「忘れられ」、さらに仲間によっても
「忘れられ」たみじめで哀れな「自己」(self)を、人は自分の内なる意識の底
の暗闇へ閉じ込めたいとは思わないであろうか。
スクルージ老人は「忘れられていたかつての自分」と再会すると、懐かしさ
が込み上げてきて涙を流す。ふだん忘れている自分の「根」(ルーツ)(self)
―生命の源泉―の在処が分かった懐かしさである。自分の「根」(ルーツ)か
ら切り離されること、それが自己喪失の始まりであるならば、「根」(ルーツ)
の再発見は人間復活の始まりと呼べるかも知れない。
Mr. Dick's Kiteについて
青木健
ディケンズ・フェローシップのロンドン本部(「ディケンズ・ハウス」内)の、
Hon. Gen. SecretaryのMr Alan S. WattsがMR. DICK'S KITEと題するパンフレッ
トを自費出版しています。左記の英文はNo. 7(July 1984)からの抜枠です。関
心のある方は、直接御連絡下さい。
Dear Bozonians,
It seems a long time since I complied the last issue of MR DICK'S KITE, but I
hope this one proves to have been worth waiting for. All Branch Secretaries receive a
free copy, and I should be most grateful if they would circulate it around their members
and encourage as many of them as possible to become regular subscribers. The
subscription is only 50p per annum for UK members and £1 for those overseas.
(However, we may soon be obliged to increase these rates.)
While I am mentioning subscriptions, may I ask all current subscribers to make
sure they have paid for the third year (Nos 7 to 9), and if they haven't, would they please
let me have their remittances without delay?
なお、Mr. A. S. Wattsの住所は次の通りです。
Mr. A. S. Watts 33a The Avenue, Beckenham, Kent BR3 2ER
シンポジウム
Our Mutual Friend
松村昌家
六月八日(土)、恒例のディケンズ・フェローシッブ春季大会が、当フェロ
ーシップともゆかりの深い広島大学で開かれた。シンポジウムのテーマとして
選ばれたのは、『われらが共通の友』。その司会をつとめた者として、報告を
簡単にとりまとめておく。
例によって年齢構成や輿味のもち方のヴァラエティを考えて、今回は山崎勉、
西條隆雄、間二郎の三氏に発題をお願いした。ご発表の内容に関しては、各氏
から寄せられた概要を見ていただきたい。各発題者のお書きになった概要から
もはっきりうかがえるように、司会者も各氏の輿味のもち方、主題の選び方の
ヴァラエティに、初めからしまいまで深い輿味を感じた。―そこには、年齢層
の違いもさることながら、各自の研究環境、ないしは風土といったものまで感
じさせるものがあった。
もとより何か結論を見つけ出すつもりはなかった。各自がディケンズの読者
として、各々の個性を存分に発揮しながら、客席をうなずかせ、首をひねらせ、
考えさせ、笑わせ、そして何らかの刺激を与える―わがフェローシップのシン
ポジウムは、これでよいのである。
ご存じファウラーの『現代英語用法』によれば、"mutual friend"というのは、
語法として正しい言い方ではない。しかしディケンズは、この言い方が好きで
あったようである。一八三六年『ピクウィック』を執筆し始めてまもない頃に、
彼はそれを使っている。そして、それが小説の表題となった。この「表題が疑
いもなく、"mutual friend"の流通性と大いに関係している」と、ファウラーは指
摘している。ディケンズの言葉が文法よりも強かった一例を再確認し合う機会
にもなった、シンポジウムであった。
「おかねが好きな」ベラ
間二郎
今さら言うのもおかしいようなことだけれど、OMFはやはりディケンズの最
後の完結作にふさわしいものだと思う。それぞれが微妙に交差しながら、三つ
の面が替り合って読者の意識に押し追ってくる―それを、@ロンドン(ないし
英国)を舞台とするところの、時代のエトスをあらわすヴェニァリングたちの
グループ、Aジョン・ハーマンとベラのグループ、Bリジー―ユージン(―ブ
ラドリー)のグループと一応呼ぷことができよう。
この@は、社会に視点を注ぐもので、それ以前の作品、とくに、HT以後のも
のの要約の趣きがあるが、それ自体としては重みの点で前作に及ばない。この
作品の特徴は、AとBの方にあると言えるだろう。まずAでいうなら、ベラが
「おかねが大好き」な状況から出発し、「おかね」ばなれの段階を経て再び「お
かね」に辿りつくという点だ。「おかね」万能の風潮をもろに批判するのでは
なくって、いわば止揚する立場を彼女が示していることだ。そして問題は、「お
かね」を愛する、愛さざるをえない彼女の立場が、はなはだ具体的に描き出さ
れていることだ。「恥ずかしいほど貧乏で、腹の立つほど貧乏で、あさましい
ほど貧乏」な、しかもその母親がいちじるしい不協和音をかなでるベラの家庭
は、彼女の脱出意欲をかき立てやまないのに不思議はない。この点ベラは、(ス
クルージでもあれば)ピップでもある。「大いなる期待(遣産)」の夢破れて
苦い現実の貧しさを、ごていねいにも喪服姿でしこたま味わうのだから。その
後のベラがボッフィン邸に迎えられて、恩人のあさましい変貌を見て自分の「お
かね」志向を反省させられる過程も、ロウクスミスとのかかわりを含めて、彼
女の自我と知性を明らかに描き出しつつ、語られている。つまり彼女の開眼は、
スクルージ張りの超自然的な媒体を借りての寓話性の代りに、かなりにリアリ
スティックな描写の積み重ねの上になされているのである。それを語るスペー
スもないけれど、たとえばベラが初めて登場するくだり(第一巻四章、オクス
フォード版三七頁)の描写だけでも、ベラの「ベラ性」は読みとれるのではな
いかと思う。つまり、Aの面と言ったのは、自我と知性と俗物性を多分に備え
たベラという女性の登場と、それを描き出す具体的な筆運びから来る鮮烈なイ
メージの積み重ねのことなのである。アンガス・ウィルスンがベラを語って、
ヘンリー・ジェイムズの描くナンダにふれているが、我々がディケンズを―特
にその現代性を―語る場合に、その後の作家たちのよりポピュラーな人物や主
題の言葉を借りて―変な言い方だか、ディケンズをそんな形で翻訳して―語る
こともディケンズを分かりやすくするひとつのやり方ではないかと思う。そし
て同時に、その主題を担う人物の性格やその行為がいかに描かれているかとい
うことにも、もっと注意を向けたい気がする。Bについてはそれが、「おかね」
よりもむしろ、「社会的地位」をめぐっての諸問題を含むということだけを言
ってこの尻切れとんぽの稿を結ばざるを得ない。
ボフィン像
西條隆雄
塵芥処理人などという社会の底辺の人間が文学に登場し、しかも作品中で中
心的役割を演じる。はたしてこんなテーマの読物が当時どこかにあったのであ
ろうか。この率直な問いに対して驚くべき近似値を示すのが「リテラリー・ダ
ストマン」と題する一八三四年のバラッドであった。
当時の人なら誰もが知るバトル・ブリッジの北に連なる塵芥の山なみ、この
一画でごみ処理をしながら文字を覚えたダストマンが、ただちに『ペニー・マ
ガジン』『ジョンソン辞典』さてはあらゆる定期刊行物を買いこみ、娘には音
楽の教育を与え息子には将校の地位を買い、タ食後には古典をよみ特許劇場に
通う。夢は国会議員となり新聞税廃止に執念をもやしたいという内容をうたう
俗謡である。活字文化への憧憬はヴィクトリア朝杜会の悲願であり、これは死
体引きあげ人の娘リジーの言葉に明確にのべられているし、あのヒグデン婆さ
んですら「アイ・ラヴ・ア・ニュースペイパー」と断言するのである。
このリテラリー・ダストマンが当時の芝居や大衆小説に出てくる守銭奴と結
びつき、ボフィンが生まれたと私は考える。彼がウェッグに読ませる八巻本の
ギボン、六巻本のプルターク、そして『アニュアル・レジスター』は、これす
べてディケンズ書斎に並んでいたというのが面自い。だが彼の嗜好はやがて守
銭奴伝に傾斜してゆく。トッパムの『ジョン・エルウィス伝』はもちろん、ハ
ーモンの遺言書に関してはエインズワースの『守銭奴の娘』もリストされてし
かるべき書物である。いや、これは作家がのべていないだけで、ボフィン蔵書
にはしかと入っていたことであろう。そして彼は、ウィルソン、カービー、メ
リーウェザー等の著作から十八・九世紀の典型的な守銭奴の伝記をよんでもら
い、彼等の金のかくし場所を耳にする度に目を輝かせ、息をはずませ、手足を
ふるわせる。誠実で仕事熱心な昔のボフィンとは想像を絶する変身である。彼
は言葉に声に態度に、生々しいまでの守銭奴の本性を具現する。
しかし、これはジョン・ロークスミスとの間で仕組んだ芝居であり、「ゴー
ルデン・ダストマン」の呼称の如く彼の誠の心は微動だに変わっていなかった。
そのからくりのおかげでベラは金の醜さを知り、心の中の「純金」を見事証明
することになったのである。また、前代のハーモンは「よみがえる」ことのな
いよう念入りに埋葬を指示したのに対し、若きハーモンは「よみがえる」こと
によってボフィン夫妻の忠勤と愛情を知り、かつ貧しい青年としてベラの愛を
獲得したのである。
作品のテーマは、第一巻の巻題「酒杯と唇」に含蓄されるように、物欲・金
銭欲にあけくれる人々の軌跡は結局のところ、「ためしの溶鉱炉」(三巻五章)
になげこまれ、純金となって出てくるか、それともかすとなって出てくるかと
いうところにあるのではないかと思うのである。
Our Mutual Friendにおける上昇と下降のイメージ
山崎勉
エドマンド・ウィルソンが指摘したように、ディケンズは、この小説の中で
ヴィクトリア朝期の搾取というものに対して最終的な宣告を下している。パブ
ジー商会は、その搾取の主体の一例なのであるが、皮肉なことに、その建物の
屋上に造られたつましやかな庭が、どうやらこの小説の主題を知る上でかなり
重要な役割を果たすトポスとなっているようである。物語が三分の一程進んで
いった処に象微的に置かれた、その屋上の庭への上昇(ないしは、「巡礼」)、
そして、そこからの下降という空間的な移動を扱った一場面は、その後の登場
人物達のテムズ河を背景とする移動のいわば原型となっているのである。さら
に、ジェニー・レンの"Come up and be dead!" 、"Get down to life!"というライアヘ
のその庭への誘い、そして、そこからのフレッジビー追放の言葉は、「死の中
の生」と「生の中の死」というこの小説の主題とその移動とを結びつけてもい
る。
ベティ・ヒグデンは、他者からの施しを求めることを良しとしなかったディ
ケンズの人生哲学を反映する人物である。「巡礼」に喩えられた彼女のテムズ
河上流への旅は、救貧法との戦いに終始した彼女の人生を表象している。ベテ
ィの死を看取ったリジー・ヘクサムもまた、溺死体を貪るが如き過去の生業の
贖い、そして、ユージン・レイバーンヘの無私の愛の追求のため、ロンドンか
らオックスフォードシャーの境界地方を流れるそのテムズ河畔へと上昇した人
物である。作者は、その地を、「人と神との隔りがさしてないような」領域に
程遠くない処であるとしている。リジーを追ってその河を小舟で遡ったユージ
ンにとっても、そのテムズ河上流の地への旅は、本来的な白己の発見、彼に対
するリジーの純粋な愛というものの認識の場への旅となっている。ベラ・ウイ
ルファーとジョン・ハーモンとは、彼等の愛が熟成するのを待つかのように、
ロンドンからグリニッジヘと下降し、全てが証明し尽された時にロンドンヘの
帰還を果たしている。プラッドレー・ヘッドストンとロジャー・ライダーフッ
ドも、地理的には、テムズ河上流への上昇をする。しかし、パブジー商会の屋
上の庭からフレッジビーが追放された如く、彼等も侵入者として溺死の罰を受
けることになる。
後期の小説に登場する上昇・下降のイメージ、例えぱ、アグネスの"pointing
upward"、エスターの譫妄状態の中での幻の階段の上昇、スティーブンの竪抗転
落とその底から星を見上げるという動作、クレナム夫人の屋敷の崩壊、ピップ
のマグウィッチとのテムズ河下降、といったものは、ディケンズの挫析感、世
界が迷宮であるという意識、そして、そこからの脱出願望の表象であると私は
考えている。それ故に、私は、Edwin Droodの冒頭のspikeに阻まれた大聖堂の
塔に、大いに輿味をそそられるのである。
ディケンズと翻訳
小池滋
「ディケンズと翻訳」といっても、翻訳の苦心談や白慢話をするつもりはな
い。また、既訳の比較優劣をあげつらうわけでもない。そうした話題は、例え
ばシェイクスピアやドストエフスキーのように、日本で数種類の完訳全集が出
るとか、個人全訳が達成される日が来るまでは控えねばならない。ことディケ
ンズの翻訳に関しては、日本はまだ発達途上国なのである。
そこで、そのような日の到来を願う一人として、ディケンズ翻訳について基
本的な問題を三つ述べてみたい。
第一はテキストの問題である。厳密な本文校訂を施した作品全集は、本国イ
ギリスですら(『クラレンドン版全集』)まだ完成を見ていないのだから、翻
訳においても忠実な訳が望めないのは無理もない話かもしれない。本文校訂と
いうとひどくペダンチックな議論で、ただ楽しむだけのディケンジアンには無
縁のことと思う人がいるかもしれないが、実はそうではない。例えば『リトル・
ドリット』の中の一つの誤植"sallow"であるべきものが"shallow"となったまま、
つい最近までまかり通っていた。そのためプレイヤード版の仏訳者がいかに無
駄な苦労をしたかを考えると、他人ごとではない。同じような危険な暗礁が、
あちこちで待ち伏せしているのだ。
第二に、ディケンズの文章の音楽的魅力のこと。朗読によって多くの人を魅
惑した作品であるから、翻訳の際にこの特質を見すごしたら、原作に対して許
されざる罪を犯すことになってしまう。『ドンビー父子』の鉄道旅行の描写な
ど、例は枚挙にいとまないほどである。翻訳が一つの朗読の材料となり得るか
どうか―これが重要なテストである。
第三に、もっとも重要な点として、ディケンズの対象認識の方法をいかに忠
実に反映するか、の問題である。詳しくは辻邦生氏の一文「ディケンズの意相」
(筑摩書房版『世界文学大系』第三四巻『荒涼館』に挿入されている付録―昭
和五〇年一月―収録)が具体例としてあげている『ディヴィッド・コパフィー
ルド』第四十三章の中の、thatで導かれる名詞クローズの長い並列を見ていただ
きたい。「私が…した」ではなく「私が…したこと(を憶えている)」なのだ。
ここからディケンズの文学をプルーストと比較することも可能であるが、こ
の箇所についても、第一に述べた本文校訂が重要な意味を持つ(『クラレンド
ン版』の注記を参照)。これまで考えてもみなかったような新しい発見が、「…
したこと」の連続の陰から私たちを待ち受けているのである。
(八四年十月成城大学における講演)
お知らせ
昨年一年間英国で研究をなさった成城大学の青木健氏が、BBCで放映された
『ピクウィック・ペイパーズ』、『ニコラス・ニクルビー』(数年前舞台で上
演され大好評であったもの)、『ドンピー父子』、『クリスマス・キャロル』
などのビデオ・テープをお持ちです。ただ日本の機械では合わないのがあるよ
うです。関心のある方は、青木氏までお間い合わせ下さい。
(N)
日本におけるディケンズ関係の研究書とフェローシップ会員の著訳書
ピータールイス著岡本昌雄他訳『ジョージ・オーウェル 一九八四年への道』
一九八三年 平凡社
ウォルター・アレン著和知誠之助・藤本隆康他訳『イギリスの小説―批評と展
望』(上・下)一九八四年 南雲堂
マイケル・ワトキンス著小池滋他訳『英国人―田舎に生きる人々』一九八四年
秀文インターナショナル
吉田孝夫著『ディケンズのユーモア』一九八四年 晃学出版
小池滋「ヴィクトリア朝イギリスの概観」「ヴィクトリア朝の小説3」、川本静
子「ヴィクトリア朝の小説1」(『講座英米文学史9〈小説〉』)一九八四年
大修舘書店
川本静子著『ジェイン・オースティンと娘たち―イギリス風俗小説論』一九八
四年 研究社出版
村石利夫著『日本語おもしろ雑学集』一九八五年 日本文芸社
エドワード・ブルワ=リットン作中西敏一訳『不思議な物語』(上・下)(下
には『幽霊屋敷と幽霊』を含む)一九八五年 国書刊行会
スヴェン・ティトー・アーヘン著湯木満寿美訳『私たちを取りかこむシンボル』
一九八五年 英宝杜
小池滋解説、訳ほか『鉄道諸国物語』一九八五年 @生書房
ジョン・フォースター著官崎孝一監訳・間二郎・中西敏一共訳『チャールズ・
ディケンズの生涯』〔上巻〕一九八五年 研友社
東田千秋編臼田昭・鈴木健三・松村昌家・須賀有加子他『イギリス小説の今昔』
一九八五年 南雲堂
松村昌家監修松村昌家・小池滋・臼田昭・小松原茂雄解説『ピクウィック・ペ
イパーズ』(マンスリー・ナンバーズ複刻本)一九八五年 名著普及会
鈴木幸夫氏に勲三等瑞宝章
フェローシップ理事、早稲田大学名誉教授、跡見学園短期大学教授鈴木幸夫氏
は、昨一九八四年秋の叙勲で、勲三等瑞宝章をお受けになりました。また本年
一月二十七日(日曜日)には、早稲田大学大隈会館において、早稲田大学の先
生のゼミの卒業生の会(鈴の会)を母体とした、「鈴木幸夫先生の叙勲を祝う
会」が盛大に挙行されました。フェローシッブとして心からお喜び申し上げま
す。
編集後記
会報は今年が第八号になる。毎年八月二十日頃までに原稿を出していただく
ことにし、今年はその旨を六月の広島での大会の案内状に記しましたが、気が
つかれなかったり、お忘れになった方もあることと思われます。今後も、これ
までまだお寄せになっていない方々の玉稿を、特に願っております。ただ頁数
に制限がありますので、その点は御承知おきください。
例年通り村石利夫氏には、印刷所との連絡その他で種々お世話になりました。
また青木健氏が、校正その他に多大の御協力を下さいました。あつく御礼申し
上げます。(中西)
ディケンズ・フェロウシップ日本支部
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