Dickens の狂気


小野寺 進


 The unhappy man whose ravings are recorded above, was a melancholy instance of the baneful results of energies misdirected in early life, and excesses prolonged until their consequences could never be repaired. The thoughtless riot, dissipation, and debauchery of his younger days, produced fever and delirium. The first effects of the latter was the strange delusion, founded upon a well-known medical theory, strongly contended for by some, and as strongly contested by others, that an hereditary madness existed in his family. This produced a settled gloom, which in time developed a morbid insanity, and finally terminated in raving madness. ("A Madman's Manuscript"The Pickwick Papers, pp.146-7)(イタリックスは 筆者による)

これは医師の所見として、ある不幸な男が熱病と譫妄状態に陥り、それが妄想となり 、固定した憂鬱を経て狂気に至るまでの臨床像を精神病理学の観点からDickensが記 述している所である。今日から見れば貧弱な当時の精神病理学をDickensは熟知して いて、それを作品の中に反映しているが1、本稿では、そうした精神病理学の観点からでは なく、Barnaby Rudge を中心に、狂気形態の両極にあると言ってもよい「躁暴的狂気」と「白痴的狂気」の 意味するものを明らかにすると共に、それがグロテスクを通じて彼の主要な作品のテ ーマや登場人物たちと密接に関係していることを考察したい。
 こうした躁暴と白痴の観点からDickensの狂気を考える基底には2、表面的にも顕著に彼の小説に描かれている狂気 の形態であるというだけでなく、一見すると別個のものであるように見える両者の中 に、グロテスクを通じて彼の小説全体の底流に流れている共通項が看取されるからで ある。


 Dickensの小説における躁暴的狂気は特に群集の描写に見られるが、それが最も顕 著なのは、群集が暴徒となり狂気と化していく二つの歴史小説Barnaby RudgeA Tale of Two Citiesであると言ってもよい。Barnaby Rudgeは、1780年の「ゴードン騒乱」という反カトリックの歴史的事件のを扱った歴 史小説であるが、群集が暴徒と化し狂乱するのは物語の後半部分、およそ一週間に渡 って繰り広げられるこの騒乱の場面である。その中で、Dickensは大都市における群 集について次のように述べている。

A mob is usually a creature of very mysterious existence, particularly in a large city. Where it comes from or whither it goes, few men can tell. Assembling and dispersing with equal suddenness, it is as difficult to follow to its various sources as the sea itself; nor does the parallel stop here, for the ocean is not more fickle and uncertain, more terrible when roused, more unreasonable, or more cruel. ( Barnaby Rudge, p.396 )(イタリックスは筆者による)

これは「非常に不可思議な存在」で、それは「気まぐれ」で「恐ろしく」、「残忍」 な性格を有する群集の自然発生的な形態を示しているが、こうした形態は群集の増大 を可能にする反面、突然の崩壊の危険を孕んでもいる。それは発生自体が突然である ためで、群集は増大し続ける限り存続するが、増大をやめると崩壊するという群集の 特性から来ているのである3。この荒れ狂う海のイメージで表現された群集は また、もう一つの歴史小説A Tale of Two Citiesにおいて、カルマニョールの踊りに象徴される狂乱の群集の描写でも同様 に用いられている。

The sea of black and threatening waters, and of destructive upheaving of wave against wave, whose depths were yet unfathomed and whose forces were yet unknown. The remorseless sea of turbulently swaying shapes, voices of vengeance, and faces hardened in   the funaces of suffering until the touch of pity could make no mark on them. (A Tale of Two Cities, p.209)

群集の両作品に共通する点は、「恐ろしい」・「残忍な」性格である。Barnaby Rudgeにおいて時のはずみで形成された騒乱は、真面目な労働者や普通の少年を 一瞬のうちに暴徒と変えてしまう。伝染病が蔓延するのと同じように、狂気は社会や 民衆に恐怖の念を植え付けて行く。

Each tumult took shape and form from the circumstances of the moment; sober workmen going home from their day's labour, were seen to cast down their baskets of tools and become rioters in as instant; mere boys on errands did the like. In a word, a moral plague ran through the city. The noise, and hurry, and excitement, had for hundreds an attraction they had no firmness to resist. The contagion spread like a dread fever: an infectious madness, as yet not near its height, seized on new victims every hour, and society began to tremble at their ravings. (Barnaby Rudge, p.403)(イタリックスは筆者による)

 個々の人間が目に見えぬ恐怖から身の安全を感じるのは群集の中にいる瞬間である 。群集はいったん存在しはじめると増大することを望む。それは敵対的になったり危 険になったりする恐れのある外部の影響から身を守るためでもある。群集の中で、個 々の人間は、自分が個人としての制約を超越していると感じることができる。それは 自らの理性において自分自身を閉じこめておくことから解放される。つまり、群集心 理として、個が個でなくなると同時に自分が自分自身でなくなるからである。このこ とは逆説的に、理性と非理性が混在し見分けがつかない恐怖の中では、狂気は理性的 人間をも精神錯乱の狂人に変えてしまう仲介要素と成りうることを示している。
 この群集の狂気が、正常な人間までもを狂人に変え、秩序世界を無秩序な世界とい う脱日常世界を築き上げる。Barnaby Rudgeにおいて、その世界が最高潮に達するのは、「暴徒たちがベッドラム精神 病院の門を破り、狂人を全部逃がそうとしている」噂が広まった時である。

A rumour had now got into circulation, too, which diffused a greater dread all through London, even than these publicly announced intentions of the rioters, though all men knew that if they were successfully effected, there must ensue a national bankruptcy and general ruin. It was said that they meant to throw the gates of Bedlam open, and let all the madmen loose. This suggested such dreadful images to the people's minds, and was indeed an act so fraught with new and unimaginable horrors in the contemplation,   that it beset them more than any loss or cruelty of which they could foresee the worst, and drove many sane men nearly mad themselves. (Barnaby Rudge, p.514)(イタリックスは筆者による)

こうした噂が広がって初めて、ロンドン市当局は秩序を回復せんと本格的に暴徒鎮圧 に着手することとなる。恐ろしいイメージを民衆に植え付ける狂気は、暴力や破壊を 通じて無秩序の帝国を築くために君臨する王であり象徴であるとも言える。当時の狂 気に対する民衆の恐怖は、狂気を壁の中に閉じこめておくべきことを要求するもので あり、狂人は秩序を維持するために社会が隠蔽・監禁しておかなければならない人間 性を否定された存在であった4。ロンドンにあるベスレヘム(ベッドラム)病院 は、13世紀半ばに創設され、すでに1403年には6人の精神錯乱者が鎖と鉄具で結ばれ ていたのが認められ、1598年にはその人数は20となる。1642年に拡張された時、新し い部屋が12建て増しされ、そのうち8つが狂人に割り当てられた。1676年に精神病院 として再建されてからは、その収容力は120名から150名にも及んでいる。当時は「不 治と見なされた」狂人は病院へは収容されず、その事態は1733年まで続いた。18世紀 までの治療法は瀉=や催吐剤といった旧来のものであったが、19世紀から精神療法が 取り入れられ改善が成された5。しかし、狂人を閉じこめておく病院の監禁施設 は依然として牢獄のような外観を持っており、その中に白痴や躁暴性の気違いが閉じ こめられていた。狂人の牢獄には格子窓がつけてあって、繋がれている狂人たちを外 部から見られる仕掛けになっていた。その公開見学は、民衆の娯楽として1770年代ま で行われていたが、ベスレヘム病院では、19世紀の初頭でも、日曜日ごとに1ペニー の料金で躁暴性の狂人を見せており、この見せ物に年間約9万6千人が訪れていたと そうである。実際Dickensも1836年にこの病院を見学に行こうという計画もあった6。そうした公開見学の描写はまた"Madman's Manuscript"の冒頭に見られるが、そこでは狂人が精神病院に閉じこめられ、鎖で繋 がれ、藁の中で転げ、見物客が鉄の柵越しに覗いていることを語り、そこに至るまで の過去を回想する。

Yes! ー a madman's! How that word would have struck to my heart, many years ago! How it would have roused the terror that used to come upon me sometimes; sending the blood hissing and tingling through my veins, till the cold dew of fear stood in large drops upon my skin, and my knees knocked together with fright! I like it now though. It's a fine name. Shew me the monarch whose angry frown was ever feared like the glare of a madman's eye ー whose cord and axe were ever half so sure as a madman's grip. Ho! ho! It's a grand thing to be mad! to be peeped at like a wild lion through the iron bars ー to gnash one's teeth and howl, through the long still night, to the merry ring of a heavy chain ー and to roll and twine among the straw, transported with such brave music. ("A Madman's Manuscript"The Pickwick Papers, p.139)

狂人は非常に暴力的で、なおかつ妻を間接的にではあるが殺すという犯罪的で、物語 は躁暴的狂気の残忍さと恐ろしさを語っている。物語は18世紀末から19世紀にかけて 流行したゴシック小説の影響を受けていると同時に、Edgar Allan PoeのGrotesque and Arabesqueに強い影響を与えたと言われている7。ゴシック小説の目的が神秘感・恐怖感を煽るも のであったように、この物語における狂気は、精神病理学の観点からその実体を浮き 彫りにしようとしたというよりはむしろ、恐怖というものを増幅させる機械装置のよ うな役割を果たすものであると了解される。ここでの狂人が野獣に譬えられているよ うに、またBarnaby RudgeでHughが野獣と化しているように、そうした恐怖を生成しているのが、破 壊的で悪魔的な人間の側面、つまり人間の内に潜む野蛮な獣性である。そうした野蛮 な獣性が表出する、あるいは人間が獣性退行するという原始主義へ回帰するのが顕著 に見られるのは、Barnaby RudgeA Tale of Two Citiesなどにおいて、正気な人間が突如として暴徒となり狂人へと変貌していく 荒れ狂う群集の中なのである。


 野蛮な獣性を特性とする躁暴的狂気に対し、白痴的狂気はどうであろうか。白痴と 言えば真っ先に挙げられるのがBarnaby Rudgeに登場するBarnabyであろう。Barnabyの白痴としての身体的・外面的特徴 として「ざんばらに垂れている赤毛」、「この世のものとは思えない落ち着かない顔 つき」そして「大きな飛び出した目」が描かれている。

  He was about three-and-twenty years old, and though rather spare, of a fair height and strong make. His hair, of which he had a great profusion, was red, and hanging in disorder about his face and shoulders, gave to his restless looks an expression quite unearthly ー enhanced by the paleness of his complexion, and the glassy lustre of his large protruding eyes. Startling as his aspect was, the features were good, and there was something even plaintive in his wan and haggard aspect. But, the absence of the soul is far more terrible in a living man than in a dead one; and in this unfortunate being its noblest powers were wanting. (Barnaby Rudge, p.28)(イタリックスは筆者による)

DickensはBarnabyを白痴と言及してはいるが、一方で、批評家からは、空想が常軌を 逸脱しているという点で「白痴の例としては説得力に乏しい」とか、また今日的観点 から見れば、病気の症状としてはむしろ自閉症に近いという指摘もされている8。それはまた、症例としての白痴というより、白 痴が何を意味するのかの裏返しと受け取れる。

 ゴードン騒乱において、Barnabyが暴動の一先導者として群集と共に凶暴性を発揮 する場面があるが、白痴として彼が見せる狂気は、Dickensの小説に描かれている子 供に多く見られるのと同様に、無垢と空想的想像力に表されている。暴動の本来の目 的が反カトリックであったにもかかわらず、参加した一般群集の多くは、無鉄砲な衝 動、貧困、無知、略奪への渇望、悪事をしたいという欲求だけにかられ、その意義な どについては考えようとしないのに対し、Barnabyは立派な正義のために戦っている ので、最後まで指導者を守らねばならないと、心から信じ切っている人間で、しかも その参加理由が、金 (gold)を手に入れ母親を幸せにするという素朴な思いからであった。

  ‘For your sake!’he cried, patting her hand. ‘Well! It is for your sake, mother. You remember what the blind man said, about the gold. Here's a brave crowd! Come! Or wait till I come back ー yes, yes, wait here.’(Barnaby Rudge, p.364)

更に、彼がこの騒乱に関しては、参加した運動やそれを支持した人々のどこが立派な のか教えられず、また大きな犠牲者を出したことについて、多くの人が悲しんだり苦 しんだりしなくてすめばよかったのにと考えているように、Barnabyは社会悪の犠牲 者となっている無垢なる子供と呼応するように思われる。自然児としてのBarnabyの 無垢性は、彼の楽しみの中に見られるが、それはPeter Coveneyを始め多くの批評家がDickensとロマン主義あるいはワーズワスの影響を指摘 しているように、自然への回帰というロマン主義的なものでもある9

Barnaby's enjoyments were, to walk, and run, and leap, till he was tired; then to lie down in the long grass, or by the growing corn, or in the shade of some tall tree, looking upward at the lignt clouds as they floated over the blue surface of the sky, and listening to the lark as she poured out her brilliant song. (Barnaby Rudge, p.340)

こうした白痴の特質は、David CopperfieldのMr. Dickにも看取される。彼にもBarnabyと同様に、「妙に頭をうなだれて気抜けしたよ うな態度」、「奇妙にキラキラと光っている恐ろしく飛び出した大きな目」といった 外見上の極めて類似した特徴が見られる。

  Mr. Dick, as I have already said, was grey-headed and florid: I should have said all about him, in saying so, had not his head been curiously bowed ー . . . ー and his grey eyes prominent and large, with a strange kind of watery brightness in them that made me, in combination with his vacant manner, his submission to my aunt, and his   childish delight when she praised him, suspect him of being a little mad; . . .. (David         Copperfield, p.194)(イタリックスは筆者による)

ひどく=色のいい白髪の中年であるにもかかわらず、Mr. DickはBarnabyと同じく、無垢と空想を備えた子供のままの状態を保持しているので ある。そういった彼の様子をDavidは次のように記述している。

I used to fancy, as I sat by him of an evening, on a green slope, and saw him watch the kite high in the quiet air, that it lifted his mind out of its confusion, and bore it (such was my boyish thought) into the skies. As he wound the string in, and it came lower and lower down out of the beautiful light, until it fluttered to the ground, and lay there like a dead thing, he seemed to wake gradually out of a dream; and I remember to have seen him take it up and look about him in a lost way, as if they had both come down together, so that I pitied him with all my heart. (David Copperfield, p.216)

Dickensの小説の中で、他にも、10歳の時熱病にかかり、それ以来成長が止まり、肉 体的には28歳の女性であるLittle Dorrit のMaggyや、18・19歳にもかかわらず、精神的には子供で、異様な外観をしている Nicholas Nickleby のSmike等もそのヴァリエーションとして含めることができよう。当然ながら、そう いった人物たちには多くの差異が見られるが、それはForsterがHazlittをして、Dick ensの人物描写を賞賛しているように、「似ている人物を、それぞれ際立たせること 」というDickensの筆致なのである10。何れにせよ、重要なのは、Dickensの場合、白 痴的狂気が意味する無垢や空想は、子供のそれよりもより象徴的に描かれているので ある。なぜなら、子供はやがて肉体的だけでなく、精神面でも知性や世間知を備えた 大人に成長していくのに対して、白痴のような精神薄弱者は、永遠の子供として、肉 体のみの成長を遂げるからである。


 Dickensの小説において、二つの狂気に共通する特徴はグロテスクである。躁暴的 狂気の場合、Barnaby Rudgeにおいては、暴徒は「狂える怪物」(a mad monster)に譬えられ、そしてBarnabyは群集の中に「悪魔のような頭と狂暴な目」(de mon heads and savage eyes)のヴィジョンを見、「怒り」(wrath)と「破壊」(ruin)の暴徒は市内を恐ろしい 「地獄絵図」と変えてしまう。A Tale of Two Citiesにおいても、革命の暴徒たちは「食人鬼」(Ogre)として描かれ、回転砥石 を回すその顔は、「すさまじい」形相で「歪み」、かつ「=と汗にまみれ」ており、 その服装も「悪魔のように飾り立てている」とある。そして、Michael Hollingtonが「悪魔的な死の舞踏」と呼ぶ、「醜悪に歪められた」カルマニョールは 、「五千の悪魔」さながらに、「恐ろしい亡霊にも似た狂乱の踊り」と化している11。その有り様はグロテスク模様であり、そのグ ロテスクは革命の歴史の恐ろしさを生々しく描き出し、狂気を前面に押し出す役目を 果たす。
 白痴的狂気の場合は、MaggyやSmikeやMr. Dickと同様、Barnabyの外見上からも明らかで、その「グロテスクな対照」は「狂気 の色を際立たせ、高める」のである。

His dress was of green, clumsily trimmed here and there ー apparently by his own hands ー with gaudy lace; brightest where the cloth was most worn and soiled, and poorest where it was at the best. A pair of tawdry ruffles dangled at his wrists, while his throat was nearly bare. He had ornamented his hat with a cluster of peacock's feathers, but they were limp and broken, and now trailed negligently down his back. Girt to his side was the steel hilt of an old sword without blade or scabbard; and some parti-coloured ends of ribands and poor glass toys completed the ornamental portion of his attire. The fluttered and confused disposition of all the motley scraps that formed his dress, bespoke, in a scarcely less degree than his eager and unsettled manner, the disorder of his mind, and by a grotesque contrast set off and heightened the more impressive wildness of his face. (Barnaby Rudge, p.28)(イタリックスは筆者による)

 ロマン主義やモダニズムのグロテスクを「恐ろしい」・「悪魔的」としたのはKays erである12。Kayserはグロテスクを「疎外された世界」と 定義づけた。彼によれば、「機械的なものは生命を得ることによって疎外され、人間 的なものはその生命を失うときに疎外される」ということだ。疎外は、「われわれに 馴染み深く気がおけないものが突如、奇異で不気味なものとして暴露する」時に起こ るという。狂気と化した群集は日常世界を突如として地獄の世界、通常の世界が転覆 した不気味な世界へと変えてしまう。  また、白痴的狂気が示すグロテスクも、彼らの外観だけにあるわけではなく、彼ら が抱くロマン主義的な空想力の中にも見られる。Mr. DickはCharles 1世の記憶を凧に託し生の息吹を与えるように、Barnabyは風にただよう洗濯物に生命 を与える。つまり生なきものに生を与える「奇抜な想像力」を見せるが、それは奇異 で不気味なものとして立ち現れる。

‘Look down there,’ he said softly; ‘do you mark how they whisper in each other's ears; then dance and leap, to make believe they are in sport? Do you see how they stop for a moment, when they think there is no one looking, and mutter among themselves again; and then how they roll and gambol, delighted with the mischief they've been plotting? Look at 'em now. See how they whirl and plunge. And now they stop again, and whisper, cautiously together ー little thinking, mind, how often I have lain upon the grass and watched them. I say ー what is it that they plot and hatch? Do you know?’
‘They are only clothes,’returned the guest,‘such as we wear; hanging on those lines to dry, and fluttering in the wind.’
‘Clothes!’echoed Barnaby, looking close into his face, and falling quickly back. ‘Ha ha! Why, how much better to be silly, than as wise as you! You don't see shadowy people there, like those that live in sleep ー not you. Nor eyes in the knotted panes of glass, nor swift ghosts when it blows hard, nor do you hear voices in the air, nor see men stalking in the sky ー not you! I lead a merrier life than you, with all your cleverness. You're the dull men. We're the bright ones. Ha! ha! I'll not change with you, clever as you are, ー not I!’ (Barnaby Rudge, pp.81-82)

Barnabyは、見慣れたものを生命あるものと見ていたのと同時に、空想が突然奇妙な 想像力へと暴走するのである。かくして、二つの狂気とグロテスクの関係を見てきた が、それはまたKayserが示した疎外された世界を表現する手段でもあった。


 狂った群集が制圧する世界、そして奇抜な想像力が支配する世界は疎外された世界 であると言える。それは正常な日常世界では決して表面に出てくることはないからだ 。そうした世界は、物語において、表層世界に君臨することもなく、再び地下に潜っ てしまう。Barnaby Rudge の終わりの部分では、騒乱は鎮圧され、Barnabyは理性を取り戻す。しかし、群集が 自然発生したように、また、Barnabyの自然性(自然への回帰)が保持されたままで あることや、朋としていつもそばにいたGripは依然として「おれは悪魔だぞ!」と叫 んでいるように、それらは絶えず地上に表出せんとエネルギーを蓄えているのである 。確かに、歴史小説という枠組みの中で、描かれている狂気は18世紀のものではある が、19世紀の機械化された合理主義、また拝金主義や腐敗した社会といったものの悪 の側面に対するアンチテーゼとなっている。いつの時代においても狂気というものは 監禁・隠蔽といった人間精神の疎外された状況に置かれてきたが、例えばShakespear eにおいて狂気がKing LearやHamlet等を通じて悪を炙り出すと同時に、真理を伝える一つの表現手段であっ たように、Dickensにおいても「躁暴的狂気」と「白痴的狂気」はそれぞれ、既成の 秩序を打ち砕き、新たな秩序を作り上げるために、常に抑圧されながらも日常世界に 揺さぶりをかける普遍的な「破壊」と「想像力」のエネルギーの象徴となっているの である。こうした疎外はまた、文明化された世界の疎隔、自然と人間の疎隔といった 自我の疎外に繋がっており、Dickensの主要な作品のテーマや登場人物たちと密接に 関係している。特に、Esther Summerson、Arthur Clennam、Sydney Carton、Pip、Eugene Wrayburnといった後期を代表する主な登場人物たちは絶えず疎外という問題に直面すると共に、何らかの形で狂気と深く関わっているのである。例えば、40歳になるまで 心理的・精神的牢獄に閉じ込められ、意志を持つことも許されず、自己の分裂を余儀 なくされたArthur Clennamは、正気と狂気が逆しまになった精神世界に住むWilliam Dorritと深く関わっていくことになる。こうした疎外された主人公を巡る問題は、Di ckensが一貫して追及してきたテーマであり、社会に抑圧された人間性を復権させよ うとするものでもあったのである。

*本稿は1998年6月6日に開催されたディケンズ・フェロウシップ日本支部春季大会( 於:山形県生涯学習センター『遊学館』)におけるシンポジウム「ディケンズと狂気 」の中で発表した小論に訂正・加筆を施したものである。尚、ディケンズからの引用 はすべてThe Oxford Illustrated Dickens版に拠る。

  1. Dickensの精神病理学の知識と作品との関係を論じたものに、Leonard Manheim, "Dickens' Fools and Madmen" Dickens Studies Annual 2 (New York: AMS press, 1980) pp. 69-97.がある。

  2. この「躁暴」とは、暴力的であると共に犯罪的で、治安上、監禁などを要するも のを指し、また「白痴」とは、知的欠陥の程度が甚だしい状態を示す精神薄弱を指す ものとしてここでは用いる。

  3. 群集の自然発生的な形態については、エリアス・カネッティ『群衆と権力』(上 )(法政大学出版局, 1971)pp. 5-6.を参照。

  4. Robert E. Lougy, "Remembrances of Death Past and Future: A Reading of David Copperfield," Dickens Studies Annual 6 (New York: AMS Press, 1980) p. 49.

  5. ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(新潮社, 1975)p. 135, pp. 168-9、ロイ・ポーター『イングランド18世紀の社会』(法政大学出版局, 1996) p.419-20、及びDaniel H. Tuke, Chapters in the history of the Insane in the British Isles, etc (Kegan Paul&Co, 1882) pp. 66-81.参照。

  6. Letter to John Macrone (23 June 1836) , The Letters of Charles Dickens Vol. 1 (Pilgrim Edition) (Oxford: The Clarendon Press, 1989) p. 153.

  7. "Dickens' Fools and Madmen," p. 75.; Edgar Johnson, Charles Dickens: His Tragedy and Triumph 2vols. (Simon and Schuster, 1952) Vol. 1, pp. 396-7.参照。

  8. Philip Collins, Dickens and Education (Macmillan, 1963) Ch. 8.; Thelma Grove, "Barnaby Rudge: A Case Study in Autism" The Dickensian Vol. 83 (Part 3) (Autumn 1997) pp. 139-148.

  9. Peter Coveney, The Image of Childhood (Harmondsworth: Penguin, 1967) Ch. 5.

  10. John Forster, The Life of Charles Dickens 2vols (1927; New York: Dent &Sons (Everyman's Library), 1980) II, p. 109.

  11. Michael Hollington, Dickens and Grotesque (London&Sydney: Croom Helm, 1984) p. 112.

  12. Wolfgang Kayser, Das Groteske: Seine Gestaltung im Malerei und Dicktung (1957; Oldenburg: Gerhard Stalling Verlag, 1961) pp. 198-202.

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