A Christmas Carol における光と闇の諸相
松 岡 光 治
The people that lived in darkness saw a great light; light dawned on the dwellers in the land of death's dark shadow. (Matt. 4: 16) 人間と社会の営み全般に見出せる様々な対立した現象を把握するのに、最も包括的なイメージは光と闇ではあるまいか。ピューリタニズムと功利主義の倫理観を基盤とするヴィクトリア朝社会にあって、常に福音思想を信奉した Charles Dickens (1812-70) の作品に共通する点は、光の思想がその象徴的表現において中心的座標をなす聖書に則して、光と闇の対立が倫理的な次元で浮き彫りになっていることである。この対立は、ディケンズが最初の小説 The Pickwick Papers (1836-37) で "There are dark shadows on the earth, but its lights are stronger in the contrast." (799) と明言して以来、 "Evil often stops short itself and dies with the doer of it! but Good, never." (101) と述べた完成した最後の小説 Our Mtual Friend (1864-65) に至るまで、勧善懲悪に根差した光の最終的勝利に帰着するのが通例である。1 そして、この言わば硬調印画こそ、メロドラマ的性格を帯びた彼の作品における通俗性の原因として、しばしば批評家の槍玉に挙げられるのである。 しかし、ディケンズの作風については前期から中後期へ進むに従い、キアロスクーロで画然と区別された善悪の境界線は曖昧になり、確かに光と闇のイメージもまた複雑に混じり合うようになる。例えば Little Dorrit (1855-57) や Great Expectations (1860-61) の結末に留意すればよい。前者における Arthur と Amy の新婚生活の場が地上の楽園でない点は、「いつもの狂奔」を続けるだけで何ら変化しない社会の現実を示す、 "sunshine and shade" (826) という光と闇が混在したイメージで理解できよう。後者では、Pip にとって Estella との再度の別離を暗示する "shadow" (460) は消えたけれども、幸福を約束するはずの光は楽天的色彩のない、新たに発生した「夕霧」の闇と調和した "tranquil light" となっており、現実性に富む抑制されたハッピー・エンディングを奏でている。2 こうした明暗の混在という作風に移って行った背景には、産業革命後の都市の人工的な光とその反動として生じた都市スラムの人工的な闇とが交錯した社会、そのような矛盾した社会に住む人間の錯綜した心理の綾を忠実に描出するには、前期における black or white という単純な二元論では説明しがたい矛盾に逢着するというディケンズの社会的・心理的洞察がある。光と闇の逆説的混在とは、こういう現実認識の深化に裏打ちされたディケンズの中後期における社会観を表わす一つの意匠であり、海、霧、牢獄、河といった有機的なイメージもまた、安易に黒白を付けられない複雑な社会を清濁併せのむ形で巨視的に捉えた、同じ弁証法的な象徴だと言えるのでないだろうか。 ディケンズの作品のトーンが明から暗へ変化する転機を Martin Chuzzlewit (1843-44) と Dombey and Son (1846-48) の間とする伝統的な考えに異を唱えるつもりはないが、その点で両者の橋渡しをする Christmas Books (1843-47) の作風研究は意義深いものがある。その劈頭を飾るA Christmas Carol(以下『キャロル』と略す)には、残念ながら black and white という形で光と闇が融合したイメージはまだ見られないが、そうした中後期の作風への布石として光と闇それぞれの双価性だけでなく、物事に内在する両面性へのディケンズの鋭い慧眼を示すような光と闇のイメージが、私達の注意を引き付けてやまない。本稿では、光と闇の諸相を主として聖書的コンテクストに照らしながら分析することで、中後期の作風の萌芽を幾つか見出してみたい。 I『キャロル』における時間構成は、幻想の世界で主人公 Scrooge が過去・現在・未来へ移って行く内枠と、現実の世界でクリスマス前夜から翌朝へと展開する外枠とが、走馬燈のごとく回転する二重構造となっている。スクルージの道徳的堕落に従って作品の色調が暗くなる内枠とは対蹠的に、改心というテーマを実質的に支えるのは、言うまでもなく闇から光の領域へと変化する外枠の方である。 風景画家ターナーは『キャロル』と奇しくも同じ1843年に、Shade and darkness -- the evening of the Deluge および Light and colour -- the morning of the Deluge を発表した。3 これらはそれぞれゲーテの『色彩論』Zur Fabenlehre (1810) におけるマイナスの寒色とプラスの暖色に倣って、万物が死に行く闇の世界と光に満ちた世界の初めを描き出している。4 ディケンズの光や闇のイメージもまた、その心理作用や象徴性の点で暖色や寒色と軌を一にする。事実、彼は擬装された光としての色彩の代わりに、光明や陰影の微妙なグラデーションが内包する様々な意味を使い分けながら、冷たさ・悲哀・恐怖に対する暖かさ・幸福・歓喜といった情緒的連想を通して、日暮れと夜明けのコントラストを鮮明に引き立てている。そういう意味で、「霧」に支配された作品冒頭はまだ3時過ぎとはいえ、既に "quite dark" (9) で夕暮れ時と同じ状況だと言える。この時間設定はいわゆるモーセが起こした砂嵐もどきの "palpable darkness" (Exod. 10: 21) としての「霧」の描写の反復と相俟って、道徳的堕落という主人公の罪から生じた精神的な死の状態を暗示せずにはおかない。同じような時間構成の点でスクルージの現在の状況を示す好例として、彼が現在の精霊との旅で体験する鉱山における夕陽のシーンがある。 Down in the west the setting sun had left a streak of fiery red, which glared upon the desolation for an instant, like a sullen eye, and frowning lower, lower, lower yet, was lost in the thick gloom of darkest night. (49-50)太陽神 Helios さながらに黄金の馬車の御者として道徳の坂道をひたすら駆け下りるスクルージの現況は、ちょうど夕陽で顔を深紅に染めながら馬車で丘を駆け下りる A Tale of Two Cities (1859) の St. Evrémonde 侯爵 (107) のように、まさに「沈み行く太陽」そのものだ。だが、最大の闇である陰府の国にそのまま留まる侯爵と違って、スクルージは太陽と共に復活する。太陽神話によれば、西に沈んだ太陽神は真夜中の海底を航海し、夜の怪物との戦烈な戦いを経て、翌朝再び東の空に甦って現われる。5 このような死と再生の元型を外界に投影したユングの "the night sea journey" というモチーフは、スクルージが夜の幻想という無意識の暗い世界で死線をさ迷うような苦難を経験する、旅のモチーフと図らずも一致している。6 「暗夜の深い闇」ヘの下降という退行現象について言えぱ、母なる大地 (Mother Earth) が胎内にスクルージを仮死状態で隠すという表現形式は、再生によって父なる天の所、即ち光なる神の所への上昇を志向するのに必要な、暗い子宮という闇の世界における胎児の眠りと決して無縁であるはずがない。ところで、現在の精霊との旅は「鉱山」に続いて、意識と無意識の接点とも言える陸と海の境界線に位置した「燈台」を通って「海上」へ移って行くが、スクルージは "the lonely darkness over an unknown abyss, whose depths were secrets as profound as Death" (51) を横切った後、不意に甥 Fred の "a bright, dry, gleaming room" へ移ったことに驚く。つまり、これら人知で「測り知れない」一連の闇の世界から光への移動は、「夜の海の航海」を終えたスクルージの翌朝における復活という運命の急変 (peripetia) を、時間的推移の空間表象という形で読者に事前に察知させる作者の戦略の一つと考えられる。その意味で現在の精霊を扱った Stave III は、作品構造全体の縮図のように思えてならない。以上の論理から帰結する点は、スクルージにとって現実の死は否定的な闇であるが、作品構造として彼が体験する幻想での象徴的な死の闇は、再生へとつながる時むしろ劇的変化の前触れとして肯定的な意味を持つということである。 IIディケンズは "I have purposely dwelt upon the romantic side of familiar things." と述べた Bleak House (1852-53) の序文から判断するに、リアリズムに立脚して日常茶飯事や人生の醜悪野蛮な面を題材としながら、しばしば主観的解釈による空想的または超自然的な技法で、その題材に内在した不可思議な面を前景化するタイプの作家だと言えそうだ。『キャロル』でも、朝晩見慣れたドアのノッカーがクリスマス前夜に限って亡き共同経営者 Marley の顔に見えるという日常の非日常化現象をはじめ、改心なる現実の問題が "A Ghost Story of Christmas" という超現実的媒体を通して語られる。しかし、一見してファンタジーと思える創作形式は、直に自然に接してその現実を鋭く観察した結果として、独特な幻想的画風となった晩年のターナーのごとく、ディケンズがあまりにリアリストであったことから生じた産物なのである。その結果、『キャロル』では場面や人物が変幻極まりなく読者の眼前を通り過ぎて行くが、こういうジオラマ的またはカレイドスコープ的なファンタジーの導入によって、ディケンズは私達との物理的かつ心理的距離をなくし、時間と空間の不合理性を感じさせるどころか、むしろ劇さながらの臨場感と迫真性を醸し出している。そういったリアリズムとファンタジーの融合という観点から眺めると、マーレイの亡霊と三人の精霊は影と光それぞれのイメージを伴った二通りの見方が可能となる。最初に心理的リアリズムの点では、スクルージが当時の社会を生き抜くために意識下の闇に隠蔽してしまった生来的な善、換言すれば意識上の悪の行為に対する意識下の罪悪感もしくは良心が幻想の世界で可視的に外在化・形象化した分身として幽霊を位置づけることができる。適例として、顕在するマーレイの亡霊をスクルージが言葉のもじり (paronomasia) によって影として捉えるシーンがある。 'You're particular -- for a shade.' He was going to say 'to a shade,' but substituted this, as more appropriate.' (17-18)当時の作者が分身としての「影」の存在を強く意識していたことは、一緒になれない男女のために Barnaby Rudge (47-48) や Little Dorrit (285) が虚構の世界で創作した「影」の性質を想起すれば、論を俟つまでもない。要するにスクルージの場合、クリスマスに向けて意識的抑圧が強まるにつれ、彼の善の分身としての「影」の自律性は反動的に強まり、遂には自我の制御を突き破って人格を備えた幽霊として発現したと解することができよう。7 次にお伽噺的ファンタジーの枠組では、幽霊はさしづめスクルージを改心させるべく光のイメージを用いて創作された神の御使い、つまり "ministers" (20) や "messenger" (38) と言える。というのは他でもない、マーレイの亡霊がべツレヘムの星に言及した場面がその点を裏づけているからだ。 '. . . Why did l walk through crowds of fellow-beings with my eyes turned down, and never raise them to that blessed Star which led the Wise Men to a poor abode? Were there no poor homes to which its light would have conducted me!' (21)ここでマーレイとスクルージの相似性に着眼すれば、「星」の光に関するアンビギュイティが判明する。第一に、 "Scrooge, like many another Victorian anti-hero, is the Utilitarian Wise Man. . . ." という Barbara Hardy の見解のように、神の前で「目を伏せた」カインの末裔スクルージを異邦人とすれば、「聖なる星」はスクルージを雇人 Cratchit の「(物質的に)貧しい家」ヘ導く三人の精霊ということになる。8 一方、第二の解釈は「聖なる星」をマーレイの亡霊とするもので、旧約の預言者よろしく悔い改めを勧める彼の具体的役割は、流謫の試練を与える三人の精霊をスクルージの「(精神的に)貧しい家」へ導くことにある。いずれの解釈にせよ、「聖なる星」の光はスクルージに対する超自然的な幽霊の来訪が象徴する神の顕現という反理神論的な点で重要である。このように、幽霊の出現は常識的には単なる幻覚にすぎないが、スクルージにとっては啓示された実在に対する本源的な知覚であり、超現実的媒体によって伝達された神の啓示の本質的な意味をたった一晩の体験で知覚するという点において、『キャロル』はエピファ二一を描写した作品としても読めるだろう。 III紙面の関係で詳述できないが、スクルージを改心へ導くために過去と現在の精霊は、それぞれ記憶を照射する光と奇跡を惹起する光を備えている。最初に、過去の精霊のレーゾン・デートルは、スクルージに精神的外傷を負わせた過去の孤独や貧困についての記憶が抑圧されている意識下の闇の領域に、その頭頂から発する "a bright clear jet of light" (25) を照射することにある。その際、見逃せないのは精霊の光によって過去の情景が "shadows of the things that have been" (27) という形で映像化される、逆説的な現出法 (flashback) の使用である。次に、現在の精霊は手に持った "a glowing torch, in shape not unlike Plenty's horn" (39) の光を用いて、スクルージの暗い部屋を緑したたる明るい空間へ変容させる。こういったメタモルフォーゼは、建物の物理的外面と住人の心理的内面との類推というディケンズが常用するトポスを踏まえると、スクルージ自身の改悟による変容への重要な前提と伏線になっていることが判然とする。総じて弟子達を連れたキリストのごとく、精霊が旅の途上で "the bright sprinklings of the Spirit's torch" (49) によって陸続となす奇跡の背後には、"poor" = "merry" (15) の等式を笑殺するスクルージに対して、"Blessed are the poor in spirit. . . ." (Matt. 5: 3; Luke6: 20) という聖書的パラドックスを証明しようとする作者の並々ならぬ意欲が窺い知れて実に興味深い。 さて、Edgar Johnson の指摘を待つまでもなく、同時進行中の『マーティン・チャズルウィット』のライトモチーフである様々な形態の利己心が、『キャロル』ではスクルージの "the selfishness of financial gain" に収斂されている点は明白である。9 このようなスクルージの目には「金儲け」の情熱という "the shadow of the growing tree" (34) が射し込んでいる。だが彼の利己心は、撞着語法的に言えぱ非自愛的な利己心である。こうしたスクルージの自己愛の欠如は、明るい外界に住む人々の価値観が倒立して見えるカメラ・オプスクーラのごとき "a gloomy suite of rooms" (14) に住み、光熱費を節約して爪に火を点すような生活を営む所に端的に現われている。それはシニシズムまたはストイシズムに通底する極端な禁欲主義だ。もっとも、 "Darkness is cheap, and Scrooge like it." (16) という作者の興趣に富む表現には、"Bad men all hate the light and avoid it, for fear their practices should be shown up." (John 3: 20) という聖書のエコーが聞き取れる。つまり、「闇を好む」スクルージの禁欲主義は、自己の道徳上の罪に対する無意識的な行動化のように思われてならない。 スクルージの最大の道義的問題は、そうした禁欲主義を他者にも強要する所にある。ディケンズは『キャロル』執筆直前のl0月5日のマンチェスターにおけるスピーチで、健全な労使関係には "a mutual duty and responsibility" が伴うことを主張した。10 彼はそういう労使間題をスクルージとクラチットの主従関係の形で提起し、他人の窮状を対岸の火事として見過ごす雇主の「義務と責任」を暖炉の火のイメージだけで訴えている。開巻早々に提示された事務所のシーンにおける、スクルージの "a very small fire" (9) の節約や一つしかない "coal-box" の独占は、雇人に対する生殺与奪の権を如実に物語り、産業革命による都市労働者の激増に伴って雇人が失業の不安から忍従を強いられたことを仄めかしている。ゆえに、作者が労使問題の社会的側面を暖炉の火のみで活写した、この事務所は飢餓の40年代 (hungry forties) におけるヴィクトリア朝社会との有機的な照応関係を示唆したミクロコスモスであると言えるだろう。 『クリスマス・ブックス』に共通するモチーフとして、記億の他に家庭を忘れてはならない。クラチット家では明るい光を放って燃える暖炉の火が、太陽のような家父長を中心とする家族全体の調和を実感させ、文字通り "home's like Heaven!" (29) という直喩が成立する。従って、暖炉の火が窓に投射する黒いシルエットも "shadows on the window-blind of guests assembling" (49) のような楽しい肯定的な影となり、「闇の中を歩く」(John12: 35) スクルージに家庭の価値を悟らせる。ただし、hearth and home という「暖かい家庭の団欒」を還元的に表わすメトニミーとしての暖炉の火は、ディケンズの作品に頻出する伝統的イメージであり、マンネリズムの印象は拭い得ない。とはいえ、暖炉の火を中心とした家庭を主従関係ひいては社会構造の理想的形態として表現した所に、作者の創意工夫が見受けらる。こういう暖炉の火は Pickwick や Cheeryble 兄弟の流れを汲むパターナリズムにおける理想的家父長の在り方を示しており、「貧者の一灯」(Mark 12: 41-44) もどきのパーティーを催すスクルージの昔の雇主、Fezziwig の場合もまたそうした家父長と同断である。 しかし、窓から漏れる暖炉の光は、建設的な意味とは逆に破壊的な光にもなり得る。さながら「荒れ狂う海」に "a ray of brightness" (50) を投げかける「燈台」のように、中にいる労働者が楽しむ火の光は、家庭の慰安を象徴する「毛糸の襟巻 (comforter)」(67) を身に着けたクラチットとは反対に、他人をすべて "Job's comforter" (Job 16: l-5) のようなありがた迷惑とする、言わば形影相伴うスクルージの心の闇に対して、難破の危険を知らせる死の警告 (memento mori) の光だと言っても、あながち牽強付会とはなるまい。 そのような家庭の価値を学んで、「光の子として歩く」(Eph. 5: 8) 改俊後のスクルージがクラチットの陰になり日向になることは、キリストに委ねられた使命である「兄弟愛の実践」(1 John 2: 10) によって立証できる。なかんずく、"'Make up the fires, and buy another coal-scuttle . . . Bob Crachit!'" (76) というスクルージの言葉からは、「暖炉の火」の節約と「石炭入れ」の独占が象徴した活殺自在の権の解体と、父親的温情主義に基づく正常な主従関係の再構築という、ディケンズの伏在した作意が期せずして浮かび上がってくる。 IVさながら運命の三女神の一人 Atropos のように、スクルージの生命の糸を断ち切る全権を握った未来の精霊に関しては、彼を改心させる役割ゆえに神の摂理的懲罰と審判の象徴的表現としての死を暗示すべく、必然的に闇と陰影のイメージが使用される。そういった未来の精霊との旅は、スクルージが最終的に墓場へ導かれる点を考えると、danse macabre の寓意を含んでいると言えなくもない。それゆえ、死神のイメージを持つ精霊が着た "a deep black garment" (58) は、陰府の闇という色彩象徴を私達に想見させる。つまり、スクルージの未来は暗闇に支配された死者の国、即ち "a land of gathering shadows, of deepening darkness, lit by no ray of light, dark upon dark" (Job 10: 22) に他ならない。こういった状況での光は、周囲の不気味な闇を逆に際立たせて否定的な属性を帯びる。例えば、スクルージの所有物を照射する質屋の老人のランプの "scanty light" (64) や彼の死体を照らす戸外の "pale light" は、死んだマーレイの顔が "a dismal light about it, like a bad lobster in a dark cellar" (15) を発したように、燐光との連想によって闇の恐怖を掻き立てるだけである。ディケンズが未来の精霊を表面的には神の御使いというより死神として描写していることは確かである。その確証として、スクルージの死体を放置したベッドの場面を引いてみよう。 Oh cold, cold, rigid, dreadful Death, set up thine altar here, and dress it with such terrors as thou hast at thy command: for this is thy dominion! . . . Strike, Shadow, strike! And see his good deeds springing from the wound, to sow the world with life immortal!この場面を作者のスクルージへの死の警告とすれば、こうした文体の突然の高揚を伴ったインヴォケーションは、精霊を念頭に置いた「死の影」つまり「死神」を呼び出すための呪文だと言えるかも知れない。だが、その言葉がスクルージの耳だけに聞こえる点に着意すると、このインヴォケーションは良心を回復しつつある彼の内なる声、すなわち救いや保護を求める神への祈りのようにも思える。だとすれば、スクルージは現前する死体に古い自己を投影しながら「死の影」ヘの生贄として捧げることで、そして改悛後の「良い行ない」(Matt. 19: 16) ヘの決意によって、自己にも他者にも「永遠の生命」を心の中で願っていると解釈する必要がある。 未来の精霊は夜の暗闇に同化している不可視性と物言わぬ沈黙の言語に特異性があり、その点で過去と現在の精霊とは多少モードを異にする。この精霊が光の代わりに発する "gloom and mystery" (58) とは、修辞的に「神秘的な陰影」を意味する二詞一意(hendiadys) であり、「陰影」の特質として「神秘性」の匂いが漂っている。要するに、闇の中に現存する神が自分の姿を見せずに人間を眺めているように、未来の精霊にもまた神の御使いの側面があるように思える。従って、その「陰影」は光の欠如であると同時に、光なる神の現存を示す一種の不可視光線と見なせるのではないだろうか。結局、スクルージは自分の死を確信するまでに、8回もの死の暗示の影を見せられる。作品のクライマックスとなる教会墓地のシーンで、"'Are these the shadows of the things that Will be, or are they shadows of things that May be, only?'" (70) とスクルージが質問した際の精霊の沈黙の言語は、どちらになるかは彼の心の選択に任されていることを雄弁に物語っている。ところで、石部金吉のようなスクルージの洗礼名 Ebenezer は、ヘブライ語で stone of help を意味するが、クラチット家にまで "a dark shadow" (48) を投げかけた、その名前は冷たさを喚起する石のイメージを共通項として、Murdstone や Flintwinch や Headstone の場合と同列に扱える。しかし、スクルージが "the stone of the neglected grave" (70) の上に自分の名前を見た後、人生航路を変えることで死を暗示する影を払拭できた点を煎じ詰めると、この「墓石」は彼の洗礼名が意味するように文字どおり「助けの石」となる。そして "There Samuel took a stone and set it up as a monument between Mizpah and Jeshanah, naming it Eben-ezer, 'for to this point,' he said, 'the Lord has helped us.'" (1 Sam. 7: 12) という原拠に照らせば、この「墓石」は神の御使いとしての精霊がペリシテ人のごときスクルージの実利主義的な古い自己を打ち破って置いた、「記念の石」ということになるだろう。 スクルージに死を宣告すると共に再生へ導いた「墓石」の双価性は、「死の影」であると同時に、そのアンチテーゼとして「光なる神の御使い」であるという矛盾を止揚した、未来の精霊の逆説的存在を特徴づけている。実際、この神の御使いは、"the shadow of its dress" (59) でスクルージを包んだり、その黒衣を「翼のように (like a wing)」(65) 広げたりして彼を改心へ導いて行く。そういう「翼」のイメージは、スクルージが行なったような神の恵みに対する哀願や神の助けと救いを求める祈りなどを収録したPsalms に散見されるように、確実で安全な庇護を与える神の「翼の陰」という概念を想起させずにはおかない。このように、未来の精霊に関する闇や陰影のイメージはスクルージに恐怖を与える死の告知とは裏腹に、eternal death という霊魂の救いがない「永遠の死滅」から彼を助けてくれた神なる保護者の現存を暗示している。そうした闇や陰影に含まれる微妙な意味合いは、光なる神の不在と臨在、すなわち死と生という人間の二種類の体験を象徴的に表わすために、ディケンズが駆使した弁証法的な技巧なのである。ゆえに、スクルージが超自然的体験を通して現実世界では彼の才能や知識では測り知れない、つまり未来における現実の死といった隠された真理を開示されて改心へ導かれている以上、強いて読めば『キャロル』は一種の黙示文学と言えるかも知れない。 結 び『キャロル』は執筆の時期の点や幻想の世界での旅というピカレスク形式を採っている点で、前期作品群に属しているように思える。しかし、主人公の旅が現実の物理的移動ではなく、改心なる主題を中心とした心理的変遷である点、その主題を強調すべく過去から未来へ、および日暮れから夜明けへという時間的推移が強く意識されている点、更には Hard Times (1854) で本格化する労使間題という社会的テーマの芽が暖炉の火のイメージで窺える点、そして取り分け超自然的な幽霊が光と影の両面性を有する点や、闇と陰影の双価性が作品構造との有機的関係の下で活用された点などをかんがみるに、前期と中後期の作風上の転換点はまさに『キャロル』にあるといっても過言ではない。スクルージ自身もまた、その性格は過去の孤独や貧困による環境の犠牲者として、生来的な善を抑圧せざるを得なかった結果であり、安易に善悪の判断が下せない点で、中後期の Dombey や Gradgrind の系譜に連なる人物だと言えるのではないか。 『キャロル』はクリスマス前夜の幻想にスクルージを訪れたマーレイの亡霊が、未来の幸福のために悔い改めと徳行を説くという、いわゆるドリーム・アレゴリーの形で始まる。だが、このクリスマス物語はスクルージを悪玉の擬人化として一つの徳義を訴えるような道徳劇でもなければ、キリストの死と復活をスクルージの改心に当てはめた単なる奇跡劇でもない。超自然的現象を人格化することでお伽噺風の彩色が施された『キャロル』は、むしろそれ自体で間然する所がない一つの神話と化し、作者からの審美的距離を得て独り歩きしている感が強い。読者の思考や心理に潜む元型的象徴や集団的無意識に対する神秘的感応を惹き起こすために、スクルージを私達のコンプレックスを投影した類型的人物、つまり Everyman として提示し、私達が準拠すべき道徳的観念の一範型を打ち出した作品として、『キャロル』が今後も不滅の名を留めることは間違いあるまい。 注
Aspects of Light and Darkness in A Christmas Carol
Mitsuharu MatsuokaUniversal images of light and darkness, working upon the suggestive imagination, are common to Dickens's oeuvre as a whole. He paints, in chiaroscuro, the polarity of light and darkness -- a contrast which, significantly enough, is brought into ethical relief, reflecting his beliefs in the Bible. However, as Dickens's literary career proceeds, these traditional Christian images of light and darkness change into a paradoxical mixture. This change is an indication of the way in which he expresses the complicated society after the Industrial Revolution, a society he cannot explain in simple, dualistic terms of black or white. There is no distinct image of black and white in A Christmas Carol, a bridge between Dickens's earlier works and those which follow. But we can discern some incipient signs of that literary style of his later works characterized by a deepening of his social and psychological insights First, Dickens demonstrates a much deeper consciousness of time-transition in the structure of A Christmas Carol. There is a dual structure, based on the inner frame of Scrooge's delusionary travelling from past to future, and on the outer frame of external reality, where Christmas Eve becomes the next morning. This consciousness of time is further strengthened by two special motifs: "the night sea journey" concerning the myth of Helios, and Scrooge's journey with the Second Spirit through a series of dark places to his nephew's bright room. From these motifs, it seems safe to surmise that, connected with resurrection, the darkness of a symbolical death in the structure acquires an affirmative meaning. Second, a reading of the work as a fusion of realism and fantasy enables us to view the ghosts in the story from both angles of light and shadow. Scrooge regards Marley's Ghost as a "shade" by paronomasia; in psychological realism the ghosts are projections of his inner self, or visible externalisations of his innate goodness suppressed by consciousness. But, in fairy-tale fantasy, as suggested by the light of "that blessed Star" of Bethlehem, they are the "ministers" sent by God to bring about Scrooge's conversion. Thirdly, we can find through the hearth imagery a clear anticipation of the labour-and-capital problem in Hard Times; this social theme is handled in the relationship between Scrooge and Cratchit. The hearth, considered by metonymy as a happy home, hints at the employer's paternalistic duty to be a benevolent light like the sun. But, on the contrary, the hearth's light, coming through the window, appears to be a memento mori to Scrooge "who walks in darkness." Lastly, there is an ambivalence in the images of darkness and shadow consistently use about the Third Spirit, for the terrifying announcement of Scrooge's future death and for the suggestion of his protection against it. So important is this ambivalence for our understanding of the presence of God in the "gloom and mystery," who looks upon human beings without showing Himself to help them avoid eternal death. Such subtle meanings of darkness and shadow are products of the dialectic method Dickens has employed to represent the two basic human experiences: spiritual death and life, the absence and presence of God the Light. Judging from these four aspects mentioned above, it would be no exaggeration to say that A Christmas Carol marks a turning point in Dickens's literary style. Scrooge, whose character is corrupted by the suppression of his innate goodness as a result of circumstances like "solitude" and "poverty," may be considered in the same way as Dombey and Gradgrind. We cannot arrive at a hasty, black-or-white judgement about his behaviours. |