木 原 泰 紀Dickens の他の小説に比べて、David Copperfieldを「社会小説」として読むことは難しいかもしれない。この物語を David の家庭の崩壊に始まり、彼の理想的な家庭の構築に終わると読めば、 家庭小説の趣を感じざるをえない。 David が如何に主体性を確立していくかと読めば、教養小説ということになる。 しかし、それでもこの物語にも「社会」は存在する。2 それは、当時の社会風俗や慣習の様相を 認めることができるという意味ではなく、 David が失い、そして獲得した家庭の中 に、或いは彼の主体の中に「社会」は存在しているのである。直截に言えば、近代社 会独自の権力構造によって生み出された監獄的社会の構造が、 この物語を支配し ているということである。3 David は、子供時代を通じて絶えず監獄的な空間の中に存在している。まず、母 親の再婚を契機に、 David の家は Murdstone 姉弟によって完全に管理され、支配さ れる。彼らの最も顕著な役割は、 David と彼の母親に徹底的な厳しい躾、 訓育 ("discipline") を施すことである。 例えば、 Murdstone は次の様に述べている。 ". . . I had a satisfaction in the thought of marrying an inexperienced and artless person, and forming her character, and infusing into it some amount of that firmness and decision of which it stood in need."4この引用の中にもある "firmness" は、 Murdstone 姉弟が繰り返し何度も口にする言 葉であり、 この確固たる精神の必要を David と母親に執拗に強要する。 この様な 状況で、権力者への反抗は、当然重大な処罰を伴うことになる。苛酷な教育に耐え 忍んだ末、遂に David は爆発し、 Murdstone に抵抗し、怪我を負わせる。 この結果、こ の家は正しく監獄と化すことになる。 (David は自分の部屋に監禁され、本当の囚人 さながら、 時間の決められた庭の散歩が許されている。51) ここで留意すべきこ とは、"My stripes were sore and stiff, and made me cry afresh . . . but they were nothing to the guilt I felt." と述べている様に、 David は鞭で打たれた傷 より、むしろ罪悪感に苛まれているのである (50) 。この場面には、近代型の処罰方 法の効果を認めることができる。 前近代的な肉体への苛酷な刑罰ではなく、 密か に着実に精神に及ぼす処罰の型が示されている。 それは、犯罪者、或いは社会の中 で排除されうる者を抹殺するのではなく、 監禁し、監視し、徹底的に訓育すること によって危険な反乱分子を矯正し、「従順な身体」 ("docile bodies")に変えると いう方法である。5 Murdstone は、継父として David と最初に会った時、反抗的な態 度を読み取り、 "We shall soon improve our youthful humours." と述べている (40) 。 反抗的な継子を矯正するべく、 彼の訓育的権力 ("disciplinary power") の 行使は、このときすでに始まっているのである。 David の処罰は、上述の監禁で終わった訳ではない。彼は、更に新たな監獄的空間、 Salem Houseへ送り込まれる。 A short walk brought us . . . to Salem House, which was enclosed with a high brick wall, and looked very dull. Over a door in this wall was a board with SALEM HOUSE upon it; and through a grating in this door we were surveyed when we rang the bell by a surly face, which I found, on the door being opened, be longed to a stout man with a bull-neck, a wooden leg. . . . (66)陰鬱な佇まい、ぐるりと建物を取り巻く高い煉瓦の壁、格子の嵌め込まれた門の戸 口、看守を思わせる男等、 Salem House の外観は監獄そのものである。そして、非行 者 David は、"Take care of him. He bites." (67) と書かれたプラカードを背負わ される。この懲罰手段は、彼の精神に大きな打撃を与えると同時に、 効率的な監視 装置として機能していることがわかる。 David は次の様に述べている。 What I suffered from that placard, nobody can imagine. Whether it was possible for people to see me or not, I always fancied that somebody was reading it. It was no relief to turn round and find nobody; for wherever my back was, there I imagined somebody always to be. (67)この「常に誰かに監視されている」という意識は、 David の精神を擦り減らし、遂に "I . . . began to have a dread of myself, as a kind of wild boy who did bite." (74) と述べている。ここに極めて効率的な訓育的権力の行使、そしてそれを 支える効率的な監視装置の様態を認めることができる。この受刑者に気がつかれ ずに監視できるという機能は、Bentham が新しい監獄として考案した「一望監視施 設」 ("Panopticon") とほぼ同様の効果をあげている。パノプティコンとは、 中央の 塔と円環状の建物からなる監獄で、塔に配置された監視者、看守は、自分の姿は見 られることなく、円環状の建物に居る囚人を一望のもとに監視できるというもの である。 Foucault は、パノプティコンを近代の知と結び付いた権力構造の在り方 を最も良く象徴するものと見なしている。 前近代的社会においては、目に見える 超権力者 (国王の身体) が存在したが、 近代社会においては、超権力者の姿はなく、 権力は、目に見えないものとなる。しかし、決して権力が消失した訳ではなく、社 会に安定した秩序を与えるべく、 より効率的な不可視の権力が代替されたのであ る。それは、訓育的権力として、徹底的な監視機能を社会に中に浸透させ、一般大衆 を「従順な身体」へと馴らしていくというものである。この権力機構の象徴として パノプティコンという監視装置を見ることができるのである。6 そして、この "Panopticism"が最も適用され易い施設の一つが学校であり、 畢竟生徒は囚人と ほとんど同一視される。 David や Salem House の生徒達の状況は決して特異なもの ではないのである。7 困難な時期を経て、 David は叔母の Betsey の元に辿り着き、迎えられる。8 このこ とによって、彼は監獄的空間から逃れ得たかの様に見える。しかし、この Betsey の 家も少なからず監獄的空間を暗示する記号に満ちている。例えば、最初の夜、 Betsey は David を「囚人を扱うように」寝室に連れて行き、部屋に鍵を掛けている (170) 。そして、奇妙な同居人 Dick の空間は明らかに監獄的である。 David は彼につ いて次の様な観察を施している。 Mr. Dick . . . was grey-headed, and florid: I should have said all about him, in saying so, had not his head been curiously bowed―not by age; it reminded me of one of Mr. Creakle's boys' heads after a beating―and his grey eyes prominent and large, with a strange kind of watery brightness in them that made me, in combination with his vacant manner, his submission to my aunt, and his childish delight when she praised him, suspect him of being a little mad. . . ." (165)「彼の頭をうなだれている様子が罰でぶたれた後の Salem House の生徒達を思い起 こさせること」、「叔母に対する服従を示す態度」、「叔母に褒められた時に示す子 供っぽい喜び方」等の観察が示す様に、Dick は訓育的権力が最も集約される身体の 表象として見なすことができる。Dick が示す「服従することの喜び」は、訓育的権 力によって馴らされた「従順な身体」を最も良く表している。 そして、 Betsey と いう人物も、実は David の忌まわしき過去と結び付いている。 彼女は少なからず Miss Murdstone に似ている。 彼女達の類似性は、外見によって、寓意的に示されて いる言葉 "firmness" にある。Miss Murdstone は、"fetter"、"rivet" を装身具にする "metallic lady" と呼ばれ (41) 、 Betsey も "hard-featured lady" と形容され、 更に "There was an inflexibility in her face, in her voice, in her gait and carriage. . . ." (165) と説明されている。精神的な「堅さ」については、前述した様 に、Miss Murdstone の "firmness" は、 絶対的な信条であり、 Betsey も、 この "firmness" の必要を何度か David に説いている (234,303,425) 。9 結局、Miss Murdstone の苛酷な訓育は、 Betsey の穏やかな訓育によって引き継がれているので ある。 David は、Trotwood という新しい名前が付与された時、全く新しい生活が始 まること、忌まわしい過去を完全に払拭したことを宣言している (184) 。しかし、 実は彼の過去はこの新しい生活に密接に連関しているのであり、 Murdstone の撒い た種がこの新しい生活の中で Betsey によって、訓育的、監獄的社会そのものによっ て育まれて行くことになるのである。 かくして、新しい David の生活環境においても、決して監獄的空間が消失した訳 ではなく、社会全体が相互に監視し合う、より穏やかな監獄の様相を見ることが できる。その意味で、カンタベリーの Wickfield 家の外観は、社会に張り巡らされ た監視機能を象徴的に表している。 At length we stopped before a very old house bulging out over the road; a house with long low lattice-windows bulging out still farther, and beams with carved heads on the ends bulging out too, so that I fancied the whole house was leaning forward, trying to see who was passing on the narrow pavement below." (187)道路に向かって前に乗り出し、 どんな人が通っているか見きわめようとしている 家。正にこの家そのものが社会をくまなく監視する装置のようである。そしてこ の監視装置は、この家に住む Uriah Heep の目に直結しているのである。 (David は 後に上の引用にある梁に彫られた顔を Heep と同一視している。193)Heep という存 在は、明らかに強力な監視装置としての役割を担っている。Heep に関する描写 は、ほとんど彼の特異な目についての言及を伴っている。最初の出会いの場面で、 David は彼の目を、"[Heep] had hardly any eyebrows, and no eyelashes and eyes of a redbrown; so unsheltered and unshaded, that I remember wondering how he went to sleep." (187) と描写している。その他、"his sleepless eyes" (190) 、"his shadowless red eyes" (323) 等、Heep は決して眠らない不断の監視を常に行っているかの様である。事実、 David は絶えずHeepの監視の眼差しに晒されることになる。 Though his face was towards me, I thought, for some time, the writing being between us, that he could not see me; but . . . his sleepless eyes would come below the writing. . .and stealthily stare at me. . . . (189-90)この様に、監視者 (Heep) は、見られずして見ることによって、被監視者 ( David ) にい つ見られているか分からないというより大きな精神的打撃を与えることができる のである。 そして、その効果は次の描写の中に明らかである。 Leaning out of window, and seeing one of the faces on the beam-ends looking at me sideways, I fancied it was Uriah Heep got up there somehow, and shut him out in a hurry. (193)つまり、 監視者は不在の場においても被監視者を監視することができるのであ る。 David のこの強迫観念にも似た感覚は、 Salem House でプラカードの罰を受け た時の「常に監視されている」という意識と正に同じものである。しかしながら、 当初のHeepと David の監視者と被監視者という関係は、 David の成長と共に、徐々 に監視を巡る相互的なものに変容していく。 David と Heep は次第に確執を深めてい く一方で、 特に観る能力について彼らは奇妙な連帯感を抱いている様にもみえ る。彼らは敵対しながらも、お互いに相手の観ることの能力を前提にし、密かな視 線、眼差しの戦いを繰り広げている。 (1) "What do you mean?" said I.(1) は David が言わば眼差しの言葉の意味を尋ねている場面であり、 (2) では、平静 な顔の下に隠された意味を読み取るHeep、 そして読み取られたことを Heep の顔か ら読み取る David 、 という葛藤の様子を認めることができる。 (3) の場面では、 David は、 易々とHeepの顔を読み取り、Heepはより屈辱を与えるため、 David に顔 を読み取られることを前提にしていることがわかる。また、観察の仕方に関して彼 らには共通点がある。出会った頃、 David は Heep の特異な観察能力について、次の 様に記している。 . . . Uriah looked at me, and looked at Agnes, and looked at the dishes, and looked at the plates, and looked at every object in the room, I thought,―yet seemed to look at nothing. . . . (197)この「何も観ていないようにみえるが、その実、 全て観ている」という Heep の観察能力に呼応する様に、 David は自分の観察について次の様に述べている。 I looked at nothing, that I know of, but I saw everything, even to the prospect of a church upon his china inkstand, as I sat down -- and this, too, was a faculty confirmed in me in the old Micawber times. (344)この両者の観察能力の類似性は、 ある程度彼らの共通した経歴に由来するのかも しれない。 というのは、この引用の後半の部分「この能力は、Micawber と一緒に暮 らしていた時代に身に付けたものだった」という一節は、Heep の次の言葉と響き 合っている。". . . I've had eyes in my ed, a pretty long time back. We umble ones have got eyes, mostly speaking. . . ." (520) David もまた、彼の屈辱の時 代を通じて、 底辺から浮上していくための武器、「よく利く目」を身に付けたと言 えるのかもしれない。 David は、Heep だけでなく、Rosa Dartle、 Littimer といった「よく目の利く」人物 達との接触、或いは、 Betsey の訓育、Agnes の導きによって次第に精神的に成長して いく。ただし、ここでいう精神的成長とは、例の "firmness" を確立することである。 つまり、これらの人物達が織り成す監視的、監獄的社会に適合していくことが、 David に与えられた役割なのかもしれない。 Betsey の破産を契機に、彼は代訴人の 道を諦め、所謂 "self-made man" の生き方を自らに課す。 What I had to do, was, to turn the painful discipline of my younger days to account, by going to work with a resolute and steady heart. What I had to do, was, to take my woodman's axe in my hand, and clear my own way through the forest of difficulty, by cutting down the trees. . . . (444)「子供の頃の辛い訓育」、「断固たる強い心」、これらの言葉が示す様に、 Murdstone が強要し、 Betsey が望んだ "firmness" が David の中で実を結ぼうとしているのであ る。 この David の "firmness" は、Dora との関係の中でより顕在化されていく。 Dora は、 David の「死に物狂いの決意」 ("my desperate firmness", 458) を全く理解す ることができず、勿論 "firmness" の精神など少しも持ち合わせてはいない。ある意 味で、 David と Dora は、 Murdstone と David の母親の関係を反復しているのである。 David の母親が、 自らを "childish mother" (5) と呼んでいる様に、Doraも "Child-wife" と自称している (550) 。そして、前述した様に、 Murdstone が「未熟な 女に性格を形作ってやる」ことを宣言しているのと同様に (43) 、 David も Dora の訓 育を巡って試行錯誤を繰り返した末、「Dora の心を形作ってやることを決意して」 いる ("I resolved to form Dora's mind", 592) 。更に、 Dora も David の母親と同 様、死によって初めてこの穏やかな監獄的空間を逃れることができるのである。 この様に、 Dora との関係において、 David は明らかに訓育的権力の行使者としての 役割を担っているのである。 しかしながら、 David は、Agnes との関係においては一貫して訓育を行使される側 として存在している。 David に対するAgnesの影響は、 繰り返し彼女に付与されて いる「守護天使」("my guardian angel") という言葉に集約されていると言える。 42章の冒頭で、 David は、例の "firmness" の精神を発揮した、言わば刻苦勉励、精 励努力といった黄金律 ("my golden rules", 518) を開陳し、 そのすぐ後、Agnes の おかげでこの黄金律を実践できるようになったと述べている (518) 。 この訓育的 精神を教え導く Agnes の姿に、 David が彼女に付与するいくつかのイメージ、例え ば、守護天使、「わたしの天上に輝く星」 ("a star above me", 720) といった俯瞰性 を想起させる言葉を重ね合わせた時、 彼女の眼差しに監視の視線を認めることが できるのではないか。10 David は、明らかに Agnes に訓育され、監視されることを、 積極的に望んでいるのである。ところが、Agnes にとっては、このようなイメージ は、 一方的に押し付けられた不当なものであったのかもしれない。Agnesは、ヴィ クトリア朝の典型的な「家庭の天使」のイメージの鋳型に押し込まれることによっ て、閉塞的な、正に監獄的な空間の中に生きることを強いられていたのではない か。 事実、このイメージのために、 彼女は David への想いを諦め、 しかもそのイメ ージの中で平静を保っていかなければならなかったのである。その意味では、 David は Agnes に理想的な「家庭の天使」像を固着させることによって、無意識のう ちに逆に彼女を監視していたのではないか。 この物語の様々な登場人物達は、 多かれ少なかれ、 権力者と被権力者、 監視者 と被監視者といった主従的関係の中に位置付けられている。 例えば、 David の母親 や Dora の様な "firmness" を持ち得ない "weakness" を Betsey する人物達は、 常に監視 され、訓育的権力の対象として存在し、結局、 死以外にはこの監獄的空間から逃れ る術はないのである。 また別の意味で "weakness" を表す Dick の場合は、 Betsey と の関係の中で、服従することの喜びを示し、徹底的に「従順な身体」に馴化すること によって、 監獄的な空間を、 外からの危険を排除してくれる閉ざされた安寧の場 所に変えているのではないか。しかしながら、上述した様に、その他のほとんどの 中心人物達においては、権力を行使する側と行使される側、監視する側と監視さ れる側という関係は、決して固定されたものではなく、様々な視線、眼差しが交錯 し、相互に監視しあう状況を見ることができる。 "firmness" を体現する Betsey にし ても、若い頃夫の暴力の犠牲となり、離婚後もつきまとわれているという状況を 鑑みれば、彼女の被権力者、被監視者としての立場をも認めることができる。11 Micawber も "weakness" を体現する人物であるが、Heepの書記をしていた時期、つまりHeepの監獄的空間に捕らえられていた時、 精神を擦り減らし、Mrs Micawberによれば、まるで人格が変わってしまう。このことは、Micawber にある種の "firmness" を植え付けたのではないか。彼は、Heep の監視の中に捕らえられながら も、逆に密かに Heep を監視し、彼の悪事を暴く証拠を見つけだすのである。つまり、 Heep が Micawber によって暴かれるその経緯には、従来の監視者と被監視者の立場 が完全に逆転した状況が示されているのである。 しかしながら、 このような訓育的権力の行為者でもあり、被行為者でもある、とい う存在の二重性は、 David 自身によって、言わば自己完結的に表象されているので ある。この物語の後半、 David は、自分自身について「訓育されていない心」 ("undisciplined heart", 595, 658, 659, 他)という言葉を何度か言及してい る。12 この言葉は、明らかに自らを戒めるものであり、"self-discipline"(自らが 自らを訓育すること) に他ならない。 正に、訓育の精神が身体を従順なるものへ馴 らすのであり、 Foucault の言葉を借りるならば、 精神という監獄に身体が閉じ込 められるという訳である。13 そして、この自らが自らを訓育するということ、つま り、自己が権力者と被権力者、或いは、監視者と被監視者に引き裂かれているその 様相は、 この物語全体の枠組がまた明らかにしているのである。 この物語は、 語 り手 David が、かつての自分自身について語っているのであり、この物語を"my written memory" (589, 699) と呼んでいる。つまり、この物語に対峙し、かつての自分、主人公 David を監視し、訓育するという構図を認めることができる。その時、こ の監獄化された精神から紡ぎ出されたこの物語の全容も、 すなわち監獄そのもの なのである。
Abstract
Prison-like Spaces in David Copperfield
Yasuki KiharaLike other Dickens's novels, David Copperfield also has many prison-like spaces, including some scenes of actual imprisonment. Above all, throughout his childhood David is consistently kept under confinement and surveillance as punishment, a consequence of his actions and manners, which Murdstone and Creakle regard as delinquent. It is important to note, however, that the punishment inflicted on David is not indicative of pre-modern penal imprisonment which mainly aimed to torture the delinquent physically, but rather it takes the form of modern disciplinary punishment and causes him to feel mental pain. Such mental punishment is an effective measure devised by modern power and knowledge to discipline and correct offenders and finally to produce in societies what Michel Foucault calls "docile bodies". This method is not only applied to criminal offenders but to all members of modern society because it can function as a disciplinary power that stabilizes a society, creating great order. In the case of David Copperfield, it is clear that the characters of both Murdstone and Creakle intend to reform their charges by instilling docility into them and so securing their authority. Thus David 's house as it is controlled by Murdstone and Salem House, Creakle's school, assume many aspects of a correctional institution. After arriving at Dover and being taken charge of by his great-aunt Betsey , it seems that David has succeeded in escaping from the prison-like places of Murdstone 's or Creakle's devices. It is apparent that David has been released from the narrow confines of Murdstone 's and Creakle's creation, and the scenes of the novel gradually move to a much wider social backdrop. Yet despite this movement the society David inhabits is never a world of pastoral openness; rather, though seeming less restrained, it ,too, is characterized by prison-like space, a place is permeated throughout with disciplinary power and a network of surveillance. David remains under observation and control because of the machinations of Uriah Heep, Littimer, Rosa Dartle and others. But David comes to conform himself to his society's power, authority, and discipline by degrees, a process which is partly caused by his conflict with Uriah Heep. David is persecuted by Heep's "evil eye" that penetrates even David 's deepest secrets, while in turn David also observes Heep steadily and analyses his possible motives and purpose. David is no longer just a victim of this harsh society but gradually is drawn into it as an active member. This movement and its effect on David 's development is also made apparent in the relationships between David and his wives, Dora and Agnes, whereby also he ambiguously assumes an ambivalent attitude toward disciplinary power. As many critics point out, to some extent the relation between David and Dora is a recurrence of the one between Murdstone and David 's mother. David ends up exerting his disciplinary authority over Dora. After all, it is not until her death that Dora can be liberated from her prison-bound world like David 's mother. Nevertheless undoubtedly David hopes that he always will be disciplined and watched by Agnes, a role model for"the Angel on the hearth". But though David adores and even idolizes Agnes, he also imposes the image of "Angel on the hearth" on her. Therefore Agnes must play the role perfectly. In this sense it can be said that David continues to be watchful over Agnes. The structure of the whole narrative also implies that David can exercise his own authority and be simultaneously subjected to authority. In the form of autobiography a mature David narrates his story which he calls his "written memory". He retrospects his days and weaves his memory into the narrative. Thus his reproaching himself for his "undisciplined heart" means that his maturity watches and disciplines his immaturity. The entire narrative, then, imposes a structure of prison-like spaces. |