Little Dorritにおける経済構造とその働き
小 野 章フーコーは、ベンサム考案のパノプティコン(一望監視施設)を使って、近代社会における権力構造を解き明かした。パノプティコンにおいて、「権力の効果と強制力は…権力の適用面の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者(つまり被拘留者)は、みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる。しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的関係を自分に組込んで、自分がみずからの服従強制の本源になる。」1 パノプティコンをモデルとする近代的な権力構造の中で「主体」は、監視者と被監視者の二役を一人で演じているのである。 この近代的な「主体」をLittle Dorritに登場する人物の多くに認め得ることは言うまでもない。執事頭に見られていることを意識しているマードル氏、罪意識にさいなまれているアーサー・クレナム、一人よがりな信仰にとらわれているクレナム夫人、債務者監獄を出た後もその影につきまとわれるウィリアム・ドリット氏、自虐的な生き方に翻弄されているウェイド嬢、等々。しかし、本稿では、近代的な権力構造における彼(女)らの生き方について詳述することは避ける。パノプティコンを近代の権力構造ではなく近代の経済構造のモデルとして見なすことによって、今までにないLittle Dorritの読みを展開することを主たるねらいとするからである。 前近代的な経済活動と近代的なそれを対比させて、浅田彰氏は次のように述べる。前近代において、「人々は金を壷に入れて棚の上に退蔵するかと思えば祝祭の場で惜し気もなくバラまいてみせたのである。ところが、近代資本制の貨幣は超越的な位置に休らうことを知らない。静止した退蔵貨幣は資本としては死んでいるのであり、それが生命をもつためには、絶えず再投下され、価値増殖の運動を続けねばならないのである。」2 つまり、近代的な経済構造においては、周期的な祝祭が日常的な投機(投資)に取って代わられるようになる。 上で述べたことを浅田氏は、フーコーの理論と重ね合わせて、次のように論じる。前近代において、絶対的媒介は「システム全体の存在を保障する絶対的な債権者として立ち現われ、それに対する埋めようのない無限の負債がシステムを金縛りにして吊り支えていた。ところが、近代においては債権者が「主体」そのものの中に組み込まれてしまっており、「主体」は自分自身に対して負った負債を埋めようとしてむなしく走り続けることになるのだ。」3 近代社会において経済構造と権力構造が呼応していることが、これで明らかになったと思う。つまり、近代的な経済構造の中で、我々は、自らに負った負債を埋めるべく自らに監視されながら投機(投資)をやり続けなければいけないのである。監視者と被監視者、債権者と負債者、これらを同時に我が身に組み込んでいるのが近代における「主体」である。 Little Dorritには様々な父が登場するが、ここでは三人の父、つまり、ウィリアム・ドリット氏、キャズビー老人、そしてマードル氏に着目してみたい。彼らはそれぞれ別の世界に属しているものの、彼らには共通して言えることが一つある。つまり、彼らは経済活動の場で中心的役割を果たしていると思われる。彼らと彼らを取り巻く世界を精査することによって、この小説において経済構造がどのように描かれているかが浮き彫りにされよう。 まずはじめに、ウィリアム・ドリット氏とマーシャルシー監獄に焦点を当てたい。彼は、三人の子供の父であるだけでなく、マーシャルシー監獄の父でもある。 "The Father of the Marshalsea" と題された小説第一部、第六章では、彼が監獄内で父として君臨するようになった経緯が説明されている。それによると、彼は、入獄後間もなく、監獄を安息の場として見なすようになる。 "Crushed at first by his imprisonment, he had soon found a duLI relief in it. He was under lock and key; but the lock and key that kept him in, kept numbers of his troubles out"(63).4 外の世界の面倒を締め出してくれる監獄は、世間から孤立したひとつの閉じられた空間を形成していると言えよう。その空間の中でドリット氏は、 "tributes, from admirers, to a public character"(65) と称して、他の囚人から金を受け取るようになる。監獄内の世界を前近代的社会空間、そしてドリット氏を前近代的な王と見なし得るかもしれない。新入りの囚人がめそめそするのを見て不快感を示す彼には、全体の調和を吊り支える王の心理が見て取れる。 "He was inclined to remonstrate, and to express his opinion that people who couldn't get on without crying, had no business there. In manner, if not in words, he always testified his displeasure at these interruptions of the general harmony..."(223). しかし、マーシャルシー監獄における前近代的社会空間が、あくまでも、虚偽の上に成り立っていることを、我々は忘れてはならない。語り手は、ドリット氏に関し、次のように指摘する。 "Only the wisdom that holds the clue to aLI hearts and aLI mysteries, can surely know to what extent a man, especiaLIy a man brought down as this man had been, can impose upon himself"(230-31). ドリット氏は自らを欺きながら前近代的な王の立場を維持しているのである。結局のところ、彼にとってマーシャルシー監獄は "the living grave" (231)に過ぎない。その中で彼は、王であるどころか、自分の家族に対してさえ父の役割を果すことが出来ずにいる。 "...a man so broken as to be the Father of the Marshalsea, could be no father to his own children"(72). マーシャルシー監獄においてドリット氏を中心に維持されているかに思える前近代的な経済構造は、実のところ、見せかけに過ぎないのである。
Little Dorritには、前近代的な経済構造を残していると思われる場所がもう一つ存在する。それはブリーディング・ハート・ヤード(以下、ヤード)であるが、ヤードは、マーシャルシー監獄と同様、イギリス社会からは孤立した空間として描かれている。
As if the aspiring city had become puffed up in the very ground on which it stood, the ground had so risen about Bleeding Heart Yard that you got into it down a flight of steps which formed no part of the original approach, and got out of it by a low gateway into a maze of shabby streets, which went about and about, tortuously ascending to the level again.(135) この引用中の "aspiring" という表現は経済的な意味合いを持つように思われる。なぜなら、次に見るように、ヤードの住人はイギリス経済に組していないからである。 "From time to time there were public complaints, patheticaLIy going about, of labour being scarce...but Bleeding Heart Yard, though as wiLIing a Yard as any in Britain, was never the better for the demand"(138). ヤードにおける経済構造は前近代的なそれであると思われる。その経済構造の中で王として君臨しているのは、ヤードの地主、キャズビー老人である。ヤードの住人は、彼に家賃を払う一方で、彼を尊敬のまなざしで見ている。それは、彼が "The Last of the Patriarchs"(146)と呼ばれている事実に反映されている通りである。 前近代社会における王は両義的な存在と言える。なぜなら、浅田氏も指摘するように、「王への崇拝は、潜在的なルサンチマン、永遠の債務者におとしめられたものたちの怨恨と、表裏一体」だからである。5 Little Dorritにおいて、キャズビー老人の代わりに人々から怨みを買っているのは、集金係として彼に雇われているパンクスである。つまり、前近代における王の役割が、ヤードでは、二人の人物に割り振らているのである。次の引用はこのことを示唆している。 "Mr. Pancks had taken aLI the drudgery and aLI the dirt of the business as his share; Mr. Casby had taken aLI the profits, aLI the ethereal vapour, and aLI the moonshine, as his share..."(796).
怨まれる対象であるパンクスは、実のところ、前近代的な経済構造に安穏とするような人物ではない。「大切なのは良い投資とすばやい利益回収である」(
" 'What
you want is a good investment and a quick return'
"(157))ことを公言してはばからない彼は、6
集金によって貯めた財を(つまり、祝祭の日における臣民からの貢ぎ物を)運用するのに抜け目が無い。まず、彼は集金で貯めた金をドリット氏にまつわる遺産相続の謎の解明にあてる。それによって得た1000ポンドを今度は投機につぎ込む。ヤードに君臨する王は近代的経済構造に対する関心を内に秘めていたのである。次の引用では、家父長の象徴とも言えるキャズビー老人の白髪をパンクスが切りおとした直後の様子が描かれている。
Before the frightful results of this desperate action, Mr. Pancks himself recoiled in consternation. A bare-poLIed, goggle-eyed, big-headed lumbering personage stood staring at him, not in the least impressive, not in the least venerable.... Mr. Pancks deemed it prudent to use aLI possible dispatch in making off, though he was pursued by nothing but the sound of laughter in Bleeding Heart Yard....(803) ヤードにおいて君臨していた王は仮面をかぶっていたのである。その仮面をはいだのは他ならぬ王自身であり、仮面の下に隠れていたものは近代的な経済構造に荷担する「主体」である。7 それにしても、ヤードの住人がキャズビー老人の正体を見て無邪気に笑っている様は皮肉である。なぜなら、ヤードにおいて吊り支えられていると思われていた安定が見せ掛けのものであったことが、この瞬間に露呈したからである。また、この引用の中で、キャズビー老人の正体が醜いものに描かれていることは興味深い。というのも、それは近代的経済構造に対するディケンズの評価を表していると思われるからである。 "the greatest that had appeared"(571) として人々に崇め奉られているマードル氏は、一見したところ、前近代における絶対君主である。しかし、実際は違う。前述の通り、前近代の臣民は周期的に行われる祝祭を通して絶対君主に貢ぎ物をする。これに対し、マードル氏を信奉している人々は、彼に貢ごうとは考えておらず、彼を利用して一儲けしようと企んでいるわけである。彼(女)らが崇拝しているのは、マードル氏個人ではなく、近代的な経済構造そのものである。マードル氏の仕事は "causing the British name to be more and more respected in aLI parts of the civilised globe, capable of the appreciation of world-wide commercial enterprise and gigantic combinations of skiLI and capital"(394) であり、彼はまさに近代的な経済構造を代表する人物と見なし得よう。 小説の最後になってマードル氏が、経済界の巨頭ではなく、 "the greatest Forger and the greatest Thief that ever cheated the gaLIows"(710) であったことが判明する。しかし、だからといって、彼が経済活動とは一切関わりのない人間であったということにはならない。むしろ、詐欺的行為に走らざるを得なかった彼こそ、近代的経済構造における犠牲者なのである。彼の詐欺的行為と死によってディケンズが示したかったものは、近代的経済構造そのものの限界であろう。 "the body of a heavily-made man, with an obtuse head, and coarse, mean, common features"(705)とは、マードル氏の死体を描写したものであるが、この醜い姿は先に触れたキャズビー老人の姿を彷彿とさせる。近代的経済構造に荷担し、その犠牲となって死んでいく人間を醜く描くことで、ディケンズは我々に警鐘を鳴らしているのである。ディケンズが近代的経済構造に対して否定的な意見を持っていたことは、投機熱の広がっていく様が疫病の流行に喩えられていることからも明らかである。8 投機熱は、イギリス社会を根本的に変えてしまったことが、次の引用から窺い知れる。 "...the changes of the fevered world are rapid and irrevocable"(804). その社会がマードル氏の死後も投機熱に再び襲われるであろうことをディケンズは、ファーディナンド・バーナクル青年を通じて、こう予言している。 ' "The next man who has as large a capacity and as genuine a taste for swindling, wiLI succeed as weLI" '(738). 近代的経済構造に対し警鐘を鳴らす一方でディケンズは、それが抗し難い魅力を備えたものであることをも見抜いているのである。Little Dorritでは、近代的な経済構造がまさに圧倒的な力を持ってイギリス社会を覆い尽くす様が描かれていると言えよう。 近代的な経済構造の中でそれに対抗せんとする向きがないでもない。Little Dorrit中、近代的な意味での「主体」と最も無縁の存在はもちろんエイミーである。 彼女の人間離れした善良さがそうさせていると思われる。彼女の善良さに関しては、ヒリス・ミラーも次のように表現している。 "Indeed, she is reaLIy a human incarnation of divine goodness."9 実にたくさんの登場人物がエイミーと関わっている。しかし、彼女の善良さが彼(女)らに影響を与えることはほとんどない。彼女の姉弟であるファニーとティップがその良い例である。二人とも、エイミーの善良さは認めるものの、それによって感化され自らが変わることはない。そんな中で、アーサー・クレナムだけは、はっきりとした形で彼女に影響を受ける。上でも触れた通り、アーサーは近代的な意味で心の監獄に囚われていた。その監獄から彼を救い出すのは他ならぬエイミーである。ミラーも次のように断言している。 "It is only through Little Dorrit that Clennam can escape from the spiritual (and literal) imprisonment and deathlike stagnation to which his life finaLIy comes."10 アーサーもこのことを自覚している。最終的に彼は彼女を "a woman whose true hand would raise me high above myself, and make me a far happier and better man"(760)と見なすようになるのである。 しかし、エイミーによって心の監獄から救われるのはアーサーだけである。小説最後の場面を引用しよう。 "They went quietly down into the roaring streets, inseparable and blessed; and as they passed along in sunshine and shade, the noisy and the eager, and the arrogant and the froward and the vain, fretted, and chafed, and made their usual uproar"(826). 今や伴侶となって歩いていくアーサーとエイミーのまわりにあるものは、以前と変わらない街の雑踏である。その雑踏の中で人々は、相も変わらず、自分自身に対する負債を埋めるべく走り続けているのである。エイミーはアーサーを救うことに成功したけれども、彼女ひとりの力でイギリス社会全体を近代的経済構造から救い出すことはとうてい不可能である。 浅田氏は次のように述べている。近代においては、「秩序/混沌、内/外、上/下、表層/深層、日常/非日常といった対立そのものが…なしくずしにされているのである。」11 近代的な経済構造を持つLittle Dorritの世界においても、あらゆる対立がなしくずしにされている。 まず、周期的な祝祭に代わって投機(投資)が日常的に行われているという点で、日常と非日常の対立はもはや見られない。
また、近代的な経済構造に支えられ発展を続けるイギリスでは、都市と田園の対立も消滅している。確かに、ミーグルズ氏が別荘を構えているトゥイクナムは田園的である。しかし、この田園はあまりにも現実離れした印象を我々に与えずにはいられない。ミーグルズ氏の別荘から見える川とそれに浮かぶ舟がそのことを裏書きしている。
Within view was the peaceful river and the ferry-boat, to moralise to aLI the inmates, saying: Young or old, passionate or tranquil, chafing or content, you, thus runs the current always. ... Year after year so much aLIowance for the drifting of the boat, so many miles an hour the flowing of the stream, here the rushes, there the lilies, nothing uncertain or unquiet, upon this road that steadily runs away; while you, upon your flowing road of time, are so capricious and distracted.(191) トゥイクナムは人間社会からかけ離れている。人間が棲息し得る田園は、Little Dorritに描かれているイギリスでは存在しない。換言すれば、人間が生活している場はすべて都会的な空間にならざるを得ないのである。首都であるロンドンにも田園的空間と思しきものは存在する。しかし、それはジョン・チヴァリー青年が閉じこもる "groves"(257) や、プローニッシュ夫人が創造した "counterfeit cottage"(574) でしかない。これら田園的空間は、それらを取り囲む都会的空間の中にあって、あまりにも矮小である。次の描写がロンドンにおける状況を最も上手く言い当てている。 "Nothing to see but streets, streets, streets. Nothing to breathe but streets, streets, streets"(28). 人間関係においても対立はなしくずしにされている。例えば、マードル氏と彼に雇われている執事頭は、どちらが主でどちらが奴なのか区別がつかない。 "At dinner, [Mr. Merdle] was envied and flattered as a being of might...; and an hour after midnight came home alone, and being instantly put out again in his own haLI, like a rushlight, by the chief butler, went sighing to bed"(399). 近代における権力構造と経済構造の関連については前述の通りである。近代的経済構造を代表しているマードル氏が、自分自身を拘束するような癖を持っているのは、いわば必然とも考えられる。 "...he took himself into custody by the wrists, and backed himself among the ottomans and chairs and tables as if he were his own Police officer, saying to himself, 'Now, none of that! Come! I've got you, you know, and you go quietly along with me!' "(613). 自らの中に監視者と被監視者を併せ持つマードル氏は、更に、債権者と負債者をも自らの中に組み込んでしまっている。 "So modest was Mr. Merdle withal, in the midst of these splendid achievements, that he looked far more like a man in possession of his house under a distraint, than a commercial Colossus..."(558-59). 債権者であるはずの彼が自らの内に負債者的な要素を併せ持つことを、この引用は象徴的に示している。そして、彼が債権者たり得ていたのは詐欺的行為を通してであったわけだから、事実、彼は負債者的な立場にいたわけである。Little Dorritでは、債権者と負債者の対立もなしくずしにされているのである。
ヴィクトリア朝の小説にとって作品内の有機的統一の保持が非常に重要であったことは、ミラーの次の言葉からも窺い知れる。
A Victorian novel is, finaLIy, a structure in which the elements (characters, scenes, images) are not detachable pieces, each with a given nature and meaning, each adding its part to the meaning of the whole. Every element draws its meaning from the others, so that the novel must be described as a self-generating and self-sustaining system....12 構成要素の全てが有機的に関係し合って築くひとつの世界。その世界とは相容れない要素は排除される。これが有機的統一を保持している作品のことを指すのであれば、それは閉じられた空間を形成していると言ってよいだろう。 Little Dorritに遍在する近代的経済構造は、小説中のあらゆる要素となんらかのつながりを持っている。まるで、この小説は、近代的経済構造を中心に有機的に結びついているかのように思える。しかし、忘れていけないのは、前述の通り、近代社会では対立そのものがなしくずしにされるということである。対立は境界を伴う。そして、閉じられた空間は、当然、境界を設けることによってのみ確保される。ということは、対立をなしくずしにし、境界を曖昧にさせてしまう近代的経済構造は、閉じられた空間とは根本的に性質を異にするのである。 以上のことを監獄をメタファーに使って説明してもよい。Little Dorritは全編を近代的経済構造に覆い尽くされている。作品自体が近代的経済構造という監獄に閉じ込められているかのようである。しかし、小説Little Dorritが閉じ込められている監獄は、あくまでも、パノプティコン的なものなのである。パノプティコンには壁が不要である。なぜなら、それに閉じこめられた人間はやがて自分で自分を監視するようになるからだ。換言すれば、パノプティコンは閉じられた空間にとどまるのではなく、外に向かって広がっていく性質をそれ自体が持っている。そして、パノプティコンをモデルとする近代的経済構造も同様である。投機熱が疫病の如く無限に広がっていくものであることは、小説中にも触れられている通りである。
近代的経済構造が人に及ぼす影響に対しディケンズが否定的であることは上で見た。また、我々がその構造から逃れられないことをも作家は見抜いており、それはLittle
Dorritに登場するほとんどの人物がそれに荷担しているという事実に何よりもはっきりと示されている。彼(女)らは、自らを監視しながら自らに負った負債を埋めるべく走り続けているのである。監獄的空間に登場人物を束縛している近代的経済構造は、しかしながら、小説そのものをヴィクトリア朝の文学規範から解放していると言えよう。なぜなら、上で見た通り、近代的経済構造は閉じられた空間、さらにはその空間でのみ保持されうる小説の有機的統一とは根本的に性質を異にするからである。Little
Dorritを覆い尽くしている近代的経済構造は、作品の有機的統一をなしくずしにすることこそあれ、それを保持することはない。
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