身体/社会の断片化と想像力- Our Mutual Friend -
松 岡 光 治
English Synopsis産業革命後の新興階級が求めた社会的体面に応じて, 十九世紀になると Mr. Sowerberry (Oliver Twist, 1837-9) のようなプロの葬儀屋が登場し始めた。同時に, 人体に対する十八世紀以来の解剖学的・生理学的な関心が急激に高まり, 解剖用の死体(法的には絞首刑に処せられた殺人犯の死体)の不足と相俟って, 死体を商品化する風潮が生まれた。この風潮は, 夫の亡骸を義足と一緒に解剖医に売り飛ばしたという噂を持つ Mrs. Gamp (Martin Chuzzlewit, 1843-4) のような不心得者はさておき, Jerry Cruncher (A Tale of Two Cities, 1859) のような死体盗掘人 (body snatcher) を数多く暗躍させることになる。そうした中, エディンバラの解剖学者 Robert Knox に死体を売るため15人を殺害した Burke and Hare の猟奇事件 (1827-8) などを契機に, 1 イギリス国会は重要な「選挙法改正法」(Reform Act, 1832) の裏舞台で, 死体の売買を規定した「解剖法」(Anatomy Act) をあっさりと通過させてしまった。解剖法とは払底する解剖用の死体を調達するために, 今後は政府が救貧院などで死んだ埋葬費用のない貧民の死体を接収するという法律である。人体の解剖はヘンリ−八世の時代から殺人犯の死後の懲罰として恐れられていたが, 2 それが解剖法によって今度は新たに貧窮者に対する懲罰となったわけである。選挙法改正法と二年後の「新貧民法」(New Poor Law, 1834) に隠れて従来ほとんど言及されることがなかった解剖法に着目したのは Ruth Richardson である。この法律が古きよき時代の父親的温情主義 (paternalism) を解体させ, 貧民を階級として分類する新貧民法への政治的布石となっただけでなく, 選挙法改正法や新救貧法と共に社会を貧富という二つの国民に分断するくさびになったという彼女の指摘は, 3 完成したディケンズの最後の長編小説 Our Mutual Friend(1864-5) における身体/社会の断片化という問題に重要な示唆を与えてくれる。 『互いの友』に登場する Betty Higden は, 孤児となった曾孫の面倒をみながら小さな託児所を営む老婆である。貧窮した生活にもかかわらず自分の埋葬費用を服に縫い込んだ彼女に, ディケンズが最後まで "Kill me sooner than take me there." (199) と言い続けさせた背後には, 4 「救貧院の生活は農場や工場の雇用条件より魅力のないものでなければならない」という原則に立つ新貧民法のみならず, 5 死体の解剖という貧窮者に対する新しい懲罰を打ち出した解剖法に対する諷刺もまた込められていたに違いない。しかし, ヒグデン婆さんが既に死んでしまった家族を一人も救貧院へ行かせようとしなかった (203) 理由の方は, 貧弱な食物や下等な仕事といった物理的な悲惨さではなく, 苛酷な法律が強要する家族の絆の分断にあるように思えてならない。このような彼女の事例は, ディケンズが『互いの友』において死体の解剖/身体の断片化を人間関係, 家族, 社会, そして国民・国家 (body politic) の分断化のメタファーとして用いた可能性を検討するための糸口となるはずである。6 父娘がテムズ河にボートを浮かべて斬殺体を運ぶ冒頭から, 格闘する悪党ふたりが水門に落ちて溺死体となる終局まで, 『互いの友』はディケンズの作品中でも圧倒的に死体に関する描写が多い。彼の身体に対する関心の高さは,「義足の文学者」(49) の Silas Wegg, 「人骨組立師」"Articulator of human bones" (83) の Mr. Venus, 背中と足に障害を持つ人形衣装師の Jenny Wren といった人物造形に端的に現われている。こういった人物たちが身体のモチーフを通して作品の構図, すなわち分断された社会, 家族, 人間関係と, それをつなぎ合わせる技術や芸術の構図と連関している点は注目に値する。そうした身体と社会の隠喩的関係をディケンズが強く意識していたことは, 彼が何気なくウェッグの口を借りて, 人間の骨を組み立てるヴィーナスの仕事を "fit together on wires the whole framework of society" (478) と表現していることから瞭然として明らかだ。ウェッグとヴィーナスが同じ芸術家や職人として設定されたことには重大な意味がある。前者はその義足が示すように全体を断片化する/秩序と調和を破壊する偽の芸術家 (con-artist) であるのに対し, 後者はその職業が示すように断片を接合する/全体の統一を求める腕のいい職人 (artisan) である。このことはウェッグが雇主の Nicodemus Boffin を脅迫するために, 手に入れた遺言書を二つに "cut" して共同保管することを提案したのに対し, ヴィーナスが "mutilate" することに反対するエピソード (497) にいみじくも示されている。 ディケンズが描くヴィクトリア朝社会は, カーライルが "Chartism" (1839) の中で "cash nexus" と呼んだ, 人間関係の基礎としての「金銭的結びつき」が極端に非情化した取得的社会である。7 そこでは身体ですら取り引き可能な商品となる。例えば Frank Milvey 牧師の話によれば, 労働者の孤児を養子にしようとすると「物々交換のような取引」"a transaction in the way of barter" (105) になってしまう。ウェッグに話を戻すと, 屋台でバラッド集を売る「義足のイカサマ師」"ligneous sharper" (53) である彼は, タッグ・ラインの "I never bargain." (52, 82) でボフィンをだまし, 自分を義足の文学者として高値で売りつける。ボフィンに雇われて急に身分が上がったウェッグは, "I . . . should wish to collect myself like a genteel person." (82) と思い立ち, 「病院で切断」"Hospital amputation" (78) されてヴィーナスに捨て値で売られた自分の足を買い戻そうとするが, 8 これはもちろん新興階級で求められる見場がいい商品として, 自分の身体の交換価値を高めようとする野心の表われである。だが, 五体が満足に揃ったにせよ, 彼の身体はその虚偽性ゆえに社会的体面で断片の継ぎ目を隠そうとする, そういう新興階級の実体を逆照射せずにはおかない。 「断片化された身体の回収」に焦点を定めると, ウェッグには全く関係がないように思える下層階級の Mr. Dolls - 飲酒のせいで「全身の関節がはずれた」"disjointed from head to foot" (241) ジェニー・レンの父 - と同じレヴェルに引きずり下ろされる運命が待っていることが判然とする。 "Making a dignified attempt to gather himself together, but, as it were, dropping half a dozen pieces of himself while he tried in vain to pick up one. . . ." (539) という記述が示すように, 「品位」のために断片化した身体を集めようとするドールズの無駄な骨折りは, 「上品な人間」になろうとするウェッグの野心を期せずしてパロディー化してしまうのだ。そして, いくら服飾品を剥いでみても「本物の商品」(119) としての身体が現われない社交界の Lady Tippins とは違い, 化けの皮が一枚のウェッグは義足ならぬ馬脚を簡単に現わす。最後は商品にならない塵芥として "a scavenger's cart" (790) に投げ込まれるが, これは義足の場合と同様に彼の身体の無価値性を強調することになる。このエピソードで見逃せないのは, ディケンズが自我安定のために階級的な劣等感をウェッグに投影しているのではないかという点である。そのような読みは, ディケンズがヴィーナスの店にあるグロテスクな商品に魅惑されたような描写 (81) を行ないながらも, 同時に下層階級のグロテスクな身体性を蛇蝎のごとく嫌うという, 他の場合にも頻繁に見られる彼の視点に共存する両面価値によって裏づけることができるだろう。 一方, 「解剖学の成功品」"trophies of anatomy" (478) に囲まれて自分の仕事の「芸術性」 (84) に誇りを持つヴィーナスは, その仕事が原因で失恋した時にボフィンを脅迫する計画になびいてしまうが, 最後はウェッグとの腐れ縁を断ち切って, 身体を「組織化する」"articulate" (585) 仕事に専念することを決意する。ディケンズがウェッグには用いなかった「芸術家」(500, 781) という言葉をヴィーナスに使っているのは, "his skill in piecing little things together" (303) に内在する創作性に全体を調和・統一させる機能を与えるためである。9 しかし, 人間関係, 家族, 社会の分断化を阻止する真の芸術家や職人としてディケンズが造形した中で, ヴィーナス以上に重要な人物がいる。酔いどれの父ドールズに対して, "you'll shake to bits, and there'll be nobody to pick up the pieces!" (714) と脅しつつも, この身体が断片化する「年老いた放蕩息子」(242) を自由放任したりしないジェニー・レンである。この肢体の不自由な人形衣装師に関して見落としてならないのは, 彼女の芸術的創造力が特にディケンズ自身のそれと結びつくことで重要な役割を果たしていることである。ディケンズがジェニーの「金髪」"the bright long fair hair" (233) に対して名づけた「黄金庵」"golden bower" (439) には, 観察眼の鋭い職人の内に潜む様々な可能性に加え, 後期作品群に特有の象徴的意義が与えられているのである。 利潤の獲得と資本の蓄積とを自己目的とする禁欲的なプロテスタンティズムが支配的な1850, 60年代の社会において, 規格化/画一化の権力が人間を抑圧・管理することにディケンズは不安を感じていたに違いない。だからこそ, 十九世紀の経済学者 (political economists) に蔓延したエトスから見れば, 有害無益でしかない芸術的創作に必要な想像力の中に, ディケンズは人間ひいては社会を再生させる可能性を執拗に授けようとしたのである。10 想像力の自由な解放を阻止された者が避難できる手段の一つとして, The Old Curiosity Shop (1840-1) における溶鉱炉の番人のエピソード (330-3) 以来, 彼の作品では時どき火の凝視という静かな営みが見られる。ディケンズはロンドンの芸術家総合共済会におけるスピーチ (March 29, 1862) で, "The Artist . . . was compelled to strike out for himself every sparkle of fire which lighted, burned, and perhaps consumed him." と述べたが,11 『互いの友』でも芸術的な想像力と火を有機的に結びつけている。 12 テムズ河で溺死体をあさる Gaffer Hexam の娘 Lizzie は文字が読めないために, 本来であれば本を読んで刺激されるはずの想像力を解放すべく, その埋め合わせとして火の中に "fortune-telling pictures" (29) を読み込もうとする。 13 このリジーの火の凝視はジェニーの想像力に支えられて作品のテーマと深く関係するようになる。ディケンズは『ニ都物語』のヒロイン Lucie Manette の金髪を "the golden thread" (74, 200, 223) と表現し, フランス革命下の "the disjointed time" (265) に破壊された人間関係を彼女につなぎとめさせた。 同様に, 「関節のはずれた時代」の中でリジーもまた, "a family tie" (181) をはじめとする人間関係の分断・崩壊を阻止しようとする。その際に必要となるのがルーシーの「黄金の糸」に相当するジェニーの「黄金庵」という金髪と結びついた想像力である。 想像力には記憶を媒体として過去を現在そして未来と結びつける働きがある。出世のために過去と訣別しようとする弟 Charlie に対し, リジーが自分の育ったテムズ河/過去の記憶を大切にするのは, 彼女と父が「生活の糧」"meat and drink" (3) のために溺死体を食い物にしたことに対する "compensation - restitution" (227) のためである。しかし, 弟には「空想/気まぐれ」としか思えない奇形児との絆をリジーが断ち切ろうとしないのは, ジェニーの祖父がそうした土左衛門の一人であったという麗々しい理由からだけではない。この人形衣装師の中にリジーが求めてやまない「心の糧」として, 想像力の自由 な解放による創作性を感じ取ったという理由の方がむしろ重要なのだ。ディケンズはリジーの「償い」に社会全体を支配する取得的価値観が生み出す, そうした人間関係の(特に階級的な)分断・崩壊に対する修復という象徴的な意味まで含ませようとする。このような含意において, 彼女の償いの気持ちがジェニーとの交友関係を生み出すようにプロットが構成されたのは極めて適切である。なぜならば, 最終的に怠惰な弁護士 Eugene Wrayburn の精神的再生という作品のテーマを, 彼と階級の違うリジーとの結婚という別のプロットに収斂させるのは, 彼女が火を凝視しながら彼にふさわしいレディーとなった自分, つまり精神的に分断された身体としての分身を空想するのを助けてくれる (349) ジェニーの逞しい想像力だからである。 死体の骨から一つの人体を作るヴィーナスには, Mary W. Shelley の Frankenstein, or the Modern Prometheus (1818) の影響が見出せる。一方, プロメテウスの火のように衣装の創作で人形に "animation" (81) を与えるジェニーの創造力は, 死体に再び生命を蘇らせるフランケンシュタインの破壊的創造力とは違い, 人間と腐りかけた身体としての社会の再生を可能ならしめる生産的役割が与えられている。この無生物に生命を与える術がディケンズの得意とするイメージを利用した比喩的表現(特に擬人法)と軌を一にする点は留意すべきである。リジーはジェニーの空想について「失ったものの補償として」"in compensation for her losses" (239) 与えられたものかしらと考える。ジェニーの身体障害はバイロンの小児麻痺による足の不自由のように, アドラー的な「補償」として芸術的想像力を強化したと言えなくもないが, 彼女が失ったのは決して身体的なものだけではない。そもそも彼女は飲み助の父を抱える家庭の犠牲者である。しかし, ジェニーの想像力はそうした世俗的な煩雑を超越するだけでなく, その預言能力で自分のみならず周囲の者にも精神的な救いと再生をもたらす。 言い換えるならば、ジェニーの黄金庵はボフィン夫妻の "Boffin's Bower"(第一巻第五章のタイトル)とは異なり, 空想的な避難所を提供するというよりは, むしろ塵外に超然として永久不変なものを有限の人間精神の中に創作する点に最大の特長がある。高利貸し Fledgeby の Pubsey and Co. で働くユダヤ老人 Riah は屋上に小さな庭を作っていて, ジェニーとリジーはそこで空想の時間を楽しんでいる。この屋上の小空間は, The Waste Land (1922) において T. S. Eliot の感受性が捉えた「非現実の都市 (Unreal City)」, 現代社会の象徴としての不毛の「荒地」へとつながる "wilderness of dowager old chimneys" (279) に取り囲まれているにもかかわらず, 14 ジェニーの黄金庵によって時間と空間を超越した人生内奥の意義を悟らせる。例えば異教徒のライア老人は, 屋上に登れば「まるで死んだような気分になる」(281) というジェニーのキリスト教的な形而上のヴィジョンを理解することができる。では, そのヴィジョンの実体とは何か。それは "As he mounted, the call or song began to sound in his ears again, and, looking above, he saw the face of the little creature looking down out of a Glory of her long bright radiant hair, and musically repeating to him, like a vision: 'Come up and be dead! Come up and be dead!'" (282) という一節をどのように解釈するかにかかっている。 ジェニーから "Get down to life!" (281) と言われた守銭奴フレッジビーとは違い, ライア老人はジェニーの死のヴィジョンが日常生活における偽りの外観や不正の多い現実世界からの解放を与えるだけでなく, 別次元の現実世界を垣間見せてくれることを知っている。それはリジーが火の中に読み込んだと弟に対して言う「現実世界」(228) のように未来を志向したものだ。この意味でジェニーは引用文にあるような「予見的な幻」を体現していると言える。屋上に登るライア老人が "the leader in some pilgrimage of devotional ascent to a prophet's grave" (279) として描かれているように, この場合のジェニーの想像力とは「預言者」の能力の謂に他ならない。旧約の預言者たちは神と語るために好んで山に登り, その預言が新約では聖なる山の上でキリストによって成就された。この屋上のエピソードにおいてディケンズの念頭にキリストの山上における変容 (transfiguration, Matt. 17:1-13; Mark 9:2-139) があったことは間違いない。ジェニーの「光かがやく」金髪でできた黄金庵の "Glory" は, イエス像の背後にある「光輪」のイメージを喚起すると同時に, 死の苦しみを経て獲得される復活というイエスの「栄光」を暗示せずにはおかない。ライア老人とリジーを屋上へ導くジェニーは山上で変容した姿を弟子たちに見せるイエスのように光かがやいている。その輝きは臨死体験を通して獲得される精神的な再生にレイバーンをはじめ作中人物たちを導く光明となっている。この導きこそディケンズがジェニーの黄金庵に与えた象徴的意義に他ならない。 Q. D. Leavis はジェニーを「社会学的に見てのみリアリスティックな・・・奇形であるがゆえに心理的にも偏屈な」子供と見なしている。 15 そのように彼女のレーゾンデートルを否定すれば, リジーに邪恋を抱く Bradley Headstone の心のやましさを見透かし, 「言葉の組み立て」 "articulating his words" (343) を解体させる場面などに見られる, そうした彼女の眼識の確かさを単に無視するだけでは済まなくなる。レイバーンがヘッドストーンの残虐な攻撃を受けた時, ディケンズは彼の「不具にされた」"mutilated" (700, 813) 身体の回復が, 第三者による "Wife" (741) という言葉の解読に依存するようにプロットを仕組んでいる。"The Dolls' Dressmaker Discovers a Word" という第四巻第十章のタイトルから判断して, このことは「全身にエネルギー」(727) をみなぎらせたジェニーの「鋭い理解力」"perception" (739) を支える想像力にディケンズが付与した意味を仄めかしている。辞書の項目で "energy" (20) を何よりも忌避したレイバーンの場合, 硬化した一面的な意識的態度が怠惰で無目的な生活という精神的問題の解決を阻止していたと言える。生死の境をさまよう間に体験するエピファニ−的な真実把握が一つの解決を与えてくれたとするならば, 彼が捉えた真実とは自分の目に見えない神秘的な「エネルギー」が実は抑圧された創造活動の原理としての想像力であったのだ, ということをディケンズは言いたかったのではあるまいか。このようなレイバーンの再生のプロセスの解読をさせているのが, ジェニーに意識と無意識の世界の「通訳」"an interpreter between this sentient world and the insensible man" (739) になることを可能にさせる想像力である。その意味において, 想像力とは意識と無意識, 現実と夢, 生と死といった分断された対立項を内面において包摂するような, コールリッジ流に言えば, 深層で両者を融合・統一させて新しい世界を生み出す創造的な力ということになる。16 『互いの友』では断片化された取得的社会の抑圧と不正は消えることなく, むしろますます悪化している。それでもなお, 荒地と化した都市で生き抜くために苛酷な現実を変容させ, 精神的再生までも可能ならしめる想像力へのディケンズの信仰は少しも衰えていない。想像力と創作エネルギーを満々とたたえる源泉の表象であるジェニーの黄金庵は, 彼が人生を捧げた芸術の役割と可能性を読者に力強く訴えかけている。
視覚的恐怖を与えたメディアとしては, 動物虐待から殺人に至った Tom Nero が, 加虐的な医者たちに解剖される William Hogarth の版画, "The Reward of Cruelty" (1751) が有名。 Ruth Richardson, Death, Dissection and the Destitute (Harmondsworth: Penguin, 1988) 266-7. ディケンズの作品からの引用と言及はすべて The Oxford Illustrated Dickens 版に依拠し, 当該箇所にはページ数だけを括弧に入れて示す。 G. M. Trevelyan, English Social History (Harmondsworth: Penguin, 1982) 551. 『互いの友』の批評史の流れの一つが作品自体の断片化というモチーフを中心に展開しているのは興味深い。 K. J. Fielding は『互いの友』が "a loose collection of pieces" (Charles Dickens: A Critical Introduction [London: Longmans, Green, 1958] 185) でプロットの展開に首尾一貫性がないと批判し, J. Hillis Miller は "cubist collage" とも言える『互いの友』では "the juxtaposition of incompatible fragments in a pattern of disharmony or mutual contradiction" (Charles Dickens: The World of His Novels [Cambridge, Mass.: Harvard UP, 1958] 284) が作品構造となっていることを指摘した。更に, Juliet McMaster は Dickens the Designer (London: Macmillan, 1987) 193-221 で作品に見られる実に多くの "Broken Images" を分析したが, ここでは残念ながら想像力の問題, 作者の芸術観, 作品の主要なテーマとの有機的関係が論じられていない。 Thomas Carlyle, Critical and Miscellaneous Essays (New York: AMS, 1980) IV, 162. "A power of observation that gives distinct and individual attention to each part of a body, and watches it moving as something apart from the mass, is capable of creating a fresh imaginative vision because it contradicts the accepted view of what constitutes a unity." John Carey, The Violent Effigy: A Study of Dickens' Imagination (London: Faber and Faber, 1973) 96. 人体に全体的統一を読み取る伝統的観点を否認する点において, 例えば分断された足でウェッグ自身を表わす提喩法は, ディケンズの解剖学的関心と想像力から生まれたヴィジョンだと言える。 Albert D. Hutter は作品の主たるイメージとして "separation, dismemberment, alienation" ("Dismemberment and Articulation in Our Mutual Friend." Dickens Studies Annual [New York: AMS, 1983] XI, 158) を取り上げ, 失恋を両者の共通項として, 自ら分割した三つのアイデンティティを最終的に統合する主人公 John Harmon の喜劇版としてヴィーナスを捉えている。 Garrett Stewart は『互いの友』を "Dickens's finest study of imagination, its outlets and repressions" (Dickens and the Trials of Imagination [Cambridge, Mass.: Harvard UP, 1974] 201) として捉えたが, 「想像力の研究」については抑圧された生来の想像力の解放が主人公の改心を可能ならしめる A Christmas Carol (1843) を忘れてならない。詳しくは拙論「Scrooge の想像力について」『鹿児島大学英語英文学論集』XXI (1990) 77-110 を参照のこと。 R. H. Shepherd, ed. The Speeches of Charles Dickens (London: Michael Joseph, n.d.) 231. 火と想像力については Gaston Bachelard, "Fire and Reverie: The Empedocles Complex." Psychoanalysis of Fire, trans. Alan C. M. Ross (Boston: Beacon, 1968) 13-20 が示唆に富む。 Jane Eyre (1847) の13章では、ジェインが暖炉の残り火に読み込む絵が "the fiery mosaic I had been piecing together" と描写されており、それは想像力の主たる機能がヴィーナスの仕事を特徴づける「断片の接合」"articulating" (81) であることを示す傍証となる。 両作品の関係に着眼した最初の批評家は Edgar Johnson で、彼はロンドンを "a waste land of stony rubbish and broken images, of dead trees, dry rock, and dust" (Charles Dickens: His Tragedy and Triumph [London : Victor Gollancz, 1953] II, 1043) として捉えている。 F. R. and Q. D. Leavis, Dickens the Novelist (London: Chatto and Windus, 1970) 326. こうした見方は徹底的に二元論を退けて万物を成り立たせる一元的な究極原理である "philosophers' stone" を求めた錬金術の考えに通底する。実際, 想像力は知覚された諸々のイメージを「再創造のために溶解 (dissolve) する」(S. T. Coleridge, Biographia Literaria [London: Oxford UP, 1969] I, 202) というコールリッジの有名な定義は錬金術の影響を受けており, 彼にとって想像力は卑金属を溶解させ貴金属を創造する力があると考えられた「賢者の石」に呼応する。塵芥の山を黄金に変えた "The Golden Dustman" (134) のボフィンもまた錬金術師のイメージが重なるが, 注意すべき点は錬金術師が賢者の石による金属の再生に加え, 厳しい試練を通して人間の道徳的・精神的な再生を探究したことである。人間性の根本的変革を意味する「新生」(John 3: 1-21) をキリストに教えられた「ニコデモ」 (48) の名を持つボフィンは, 彼自身が文学世界の真摯な探究によって "a new life" (53) を求めただけでなく, 金銭欲で堕落した Bella Wilfer の心を「試練の溶鉱炉」"the furnace of proof" に入れ, それを「鉄屑」"dross" (461) から "the true golden gold" (772) に変成させているのは、その点で非常に意義深いものがある。
Synopsis
Imagination against Fragmentation of Human Bodies/Bodies Politic
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