ディケンズ・フェロウシップ日本支部

電子アーカイヴ



ディケンズの沈黙の戦略

-- 『二都物語』 --

松 岡 光 治


ディケンズは増殖する文体を特徴とする饒舌の作家である。少なくとも一般にはそう思われている。ある時は日常茶飯事をあるがままの姿で克明に活写し、ある時は「ありふれたことのロマンティックな側面」を詳しく書き、 1 ある時は社会や人間のグロテスクな裏面を執拗なほど諷刺的に描き出す。いずれにせよ、ディケンズは特定の部分をつぶさに観察して描きながら、提喩的に全体を喚起する型のリアリズム作家であり、必然的結果として彼が創作する統一体としてのテクストは膨張したものとなる。更に、登場人物の性格づけは、独特な個人言語 (idiolects) や標語 (tag lines) を多用したダイアローグを通して行なわれる傾向がある。それゆえ、ディケンズが1859年に創刊した週間雑誌『春夏秋冬』(All the Year Round) に、自ら『二都物語』(A Tale of Two Cities) を連載しなければならなくなった時、5年前の『ハード・タイムズ』(Hard Times) 執筆時と同じように、作品の凝縮に伴う窮屈さに悩まされたのは当然のことであった。しかし、今回はこの問題に対処すべく、彼は親友フォースター (John Forster) への手紙に書いているように、ダイアローグではなくストーリーによる登場人物の性格づけを試みた。 2 その結果、『二都物語』は前作『リトル・ドリット』(Little Dorrit, 1855-7) に比べると、各章の平均的な分量が約20%ほど少なくなった。そのためか、地の文は言うまでもなく登場人物のダイアローグの部分においても、弛緩した部分だけでなく重要な部分もまた削除されたような印象を強く受ける。ここで仮説として提言したいのは、この削除された重要な部分を補完するために、ディケンズは読者に対する説得的コミュニケーションの戦略的な言語行為として、沈黙を利用したのではないかということである。沈黙を念頭において読めば判然とすることだが、『二都物語』は彼の他の作品と比べても沈黙の場面が非常に多く、沈黙に関する語の使用頻度も極めて高い。 3

このようなディケンズの沈黙への意識の高まりには少なくとも二つの原因が考えられる。一つは、後期作品群の主要人物たちの多くに見られることだが、若い頃のトラウマから生じた愛すること/愛されることに関するコンプレックスと、そうした無意識的な恐怖の結果として形成される内向的な性格である。この性格は『リトル・ドリット』において継母からカルヴィニズムの厳格な教育を受けたクレナム (Arthur Clennam) と、後で詳述する『二都物語』のカートン (Sydney Carton) に最も端的に現われている。もう一つの原因としては、作者自身の外向的な活動に関することだが、沈黙の意味と効果が最も鮮明化するジャンルとしての演劇と朗読への傾倒が挙げられる。ディケンズが1853年から始めた公開朗読は、沈黙が聴衆に及ぼす情緒的影響を彼に実感させたはずだし、彼が『二都物語』と寡黙な主人公カートンの性格づけの着想を得たのは、1857年にコリンズ (Wilkie Collins) 作『凍った海』(The Frozen Deep) の素人演劇に出ていた時であった。これらの活動から判断するに、当時のディケンズは沈黙が単なる言葉の不在でも停止でもなく、「言説を下から支え、言説を貫通している戦略の必要不可欠の部分」であることを経験して知っていたはずである。 4 

E・ジョンソンはダイアローグに頼らない性格づけでは登場人物の意識を探求できず、結果として「ある程度の心理的浅薄さ」を招いてしまうと言い、 5 フォースターはこれが「完全に成功した実験」であるとは言えないと断じている。 6 しかし、これら伝記作家たちの見解はディケンズが着目したと思われる沈黙の修辞的効果を無視した点で、いささか独断に過ぎる感がある。事実、沈黙は単に登場人物の言葉の効果を高めるだけでなく、A・ジャワースキが主張するように、「言葉の限界を越えて言語に絶する極端な心理状態を伝えるという利点を持つ高度に象徴的な体系」となり得るのである。7 精神分析者にとって沈黙は無意識なるものの外在化でしかない。言葉は意味を表わすものではなく、むしろ隠すものであり、意味は隠すことによって現われる。無意識は海のように巨大で、深く、計り知れない。従って、沈黙は意味が欠けた真空ではなく、むしろ意味が充満した状態だと言ってよい。このような登場人物の沈黙に加え、作者が作品の構造内に戦略的に配備した沈黙、つまり空白 (blank) がある。我々がテクストと読者の力学的な相互関係に立脚し、言葉のみならず沈黙を読むことによって、自らテクストのためのテクストを創作できるのは、そうした沈黙がもたらす作品構造上の決定不能性のためである。以下、『二都物語』に焦点を定め、ディケンズの沈黙の戦略がいかなる効果を狙っているかを考察してみたい。


目と手のパラ言語

ディケンズの場合、目と手のモチーフを中心としたパラ言語による非言語的コミュニケーションが、単に言説内容の伝達を容易にするだけでなく、ダイアローグにおける対人関係そのものがどんな関係であるかを伝達する、いわばメタ・コミュニケーションの機能を果たす場面が頻繁に見られる。例えば、互いのことを何も知らないカートンと針子が、ギロチンに運ばれる荷馬車の上で手を握りあった視線の交錯 (eye contact) の場面 (356) は、このようなコンテクストにおける言葉のはかなさに加え、普通の経験の範囲を越えた感情を共有する二人の関係を雄弁に語ってやまない。パラ言語としての目や手のイメジャリーは、ディケンズに限らず他の作家たちの常套手段であるが、彼の特徴はそこに "as if" や "like" といった直喩を介在させることで、沈黙する人物の心理をより鮮明に読み取らせてくれる点にある。ここで注意を要するのは、彼の直喩の多くは事実に反することの単なる仮定的表現ではなく、むしろ事実そのものをストレートに伝える表現として使われることである。

ディケンズの作品で視覚記号に翻訳された身振り言語 (kinesics) が、いかに筆舌に尽くしがたい感情を読者に訴えかけるかは、二人のヒロインの例で十分に理解できるだろう。

[Florence Dombey's] eyes, more earnest and pathetic in their voiceless speech than all the orators of all the world, and impeaching [her father] more nearly in their mute address, met his [. . .]. (DS, 503)

[Little Dorrit] besought [Arthur Clennam], more pathetically and earnestly, with her little supplicatory hand, than she could have done in any words. (LD, 760)

父ドンビーの冷酷さにもかかわらず、彼を慕い続けるフローレンスの目、そして自分の金でクレナムを監獄から釈放させたいと願うリトル・ドリットの手については、はからずも共通項となった「痛ましいほどの真剣さ」を通して代弁される彼女たちの沈黙の愛を察するに余りある。ディケンズの作品ではトーンが暗くなる中期から後期になると沈黙やポーズの使用が多くなり、それに従って空白を埋める目と手のモチーフの扱いが作意的になる。その証拠に、『大いなる遺産』(Great Expectations, 1860-1) の作品構造は様々な手のイメ−ジを基盤としており、8 未完小説『エドウィン・ドルードの謎』(The Mystery of Edwin Drood, 1870) は主人公ジャスパー (John Jasper) を中心とした目のイメージが作品全体に浸透している。9 

ディケンズの性格造型に関しては、N・ページがオースティンの小説の文体について「悪徳は饒舌と、美徳は寡黙と結びつく」と言ったことが、10 大体そのまま『二都物語』の場合にも当てはまる。例えば、改心したにもかかわらず饒舌なクランチャー (Jerry Cruncher) に対し、銀行家ロリー氏 (Jarvis Lorry) が "Say no more. It may be that I shall yet stand your friend, if you deserve it, and repent in action -- not in words. I want no more words." (293) と苦言を呈するように、感情表現において饒舌な人間に対して道徳的・人格的不信を感じるのは、言葉に内在する虚構性のために他ならない。寡黙なヒロインであるはずのルーシー (Lucie Manette) ですら、18年ぶりに父と会った時に "weep for me, weep for me" (44) という懇願を5回も繰り返し、子としての愛を語りすぎるあまり崇高な場面をメロドラマ化してしまう。シェイクスピアがバルコニーの場でロミオへの愛を雄弁に語らせたジュリエットの饒舌は、なるほど彼女の清純な美しさと新鮮な生気のために感銘を与える。しかし、"Love, and be silent." (King Lear, 1.1.61) という傍白を発したコーデリアが認識しているように、言葉は愛のような本質的なものを語るには無力なのだ。オースティンが数々の誤謬を重ねたエマ (Emma Woodhouse) に、最後はナイトリー (George Knightley) に向かって "If I loved you less, I might be able to talk about it more." と告げさせたように、11 言葉が語ることを望んでいる愛は、語ることの次元に属していないのである。ゆえに、我々は『二都物語』でダーネイ (Charles Darnay) がルーシーへの愛を彼女自身にではなく彼女の父に告白する際の饒舌について、何か釈然としないものを感じる。特に、この直後にディケンズは、「絶え間なく話し続ける男」"a glib man" (80) のストライヴァー (Stryver) が、ルーシーへの愛をカートンに告白する場面をパロディーとして設定しているため、その後のダーネイの言葉に関して不信感を抱かずにおれない。告白を終える前にダーネイはルーシーの父に対し、"I hope you may be able to think so well of me, as to urge no influence against me. I say nothing more of my stake in this; this is what I ask." (128) という願いを申し出る。この沈黙の約束は修辞学でいう逆言法 (paraleipsis) であり、ダーネイが既に自分の思いを十分に語っていることを知っている読者は、言説の重要内容を省略するように装う彼の打算的性格を疑いたくなるのである。

その点において、カートンは饒舌を武器とする弁護士であるために、我々は彼の沈黙に引きつけられてしまう。中央刑事裁判所 (Old Bailey) でのダーネイの裁判では、「手をポケットに入れ、目を天井に向けた」(57, 71, 80) カートンの沈黙が彼の無関心(apathy) を浮き彫りにする。しかし、彼の沈黙は無関心に支配された彼の精神的堕落へ読者の注意をそらすために、ディケンズが戦略的に仕掛けた燻製ニシン (red herring) である。つまり、カートンの持続的な沈黙は周囲の状況に対する警戒 (vigilance)、特に証人として同じ法廷にいるルーシーに対する関心を隠すための装いなのだ。その証拠に、ダーネイが自分と瓜二つである点に気づいて彼を無罪にしてやったのも、ルーシーが失神した時それを最初に見つけた (71) のもカートンに他ならない。

逆に、革命の指導者ドファルジュ (Defarge) 夫人の沈黙は、憎しみを隠すための偽装である。キリスト教では聖書の教説を縦糸、その注釈を横糸と考えるように、伝統的に縫う (knitting) 行為と織る (weaving) 行為は、物語を書く (writing) 行為と結びついている。J・ヒリス・ミラーは糸のイメージを用いてテクストの意味の決定不能性を論じ、 "No one thread (character, realism, interpersonal relation, or whatever) can be followed to a central point where it provides a means of overseeing, controlling, and understanding the whole." と言う。12 しかし、自分の解釈に基づいてコードを作成し、憎しみの対象を記号表現に見立て、それに対する記号内容を符号化し、編物に縫い込むドファルジュ夫人の物語行為は、自分以外の読み手を想定していないので、意味の曖昧性を生み出すことはない。絶えず編物をする彼女の手は、沈黙の中で相手を監視する「何も見ていないようで実は何ひとつ見逃さない目」(31) と相俟って、彼女が握る生殺与奪の権を実感させる。特に、反復使用されることで彼女の存在をメトニミー風に暗示する編物は、憎しみを記憶に留めようとする手の行為であり、憎しみの記憶を隠蔽するためにマネットが沈黙の中で従事する靴作りと絶妙なコントラストをなしている。13 

このようなドファルジュ夫人の憎悪と復讐心を効果的に伝達するために、ディケンズは頓絶法 (aposiopesis) という沈黙のレトリックを幾度か使用している。例えば、無関係なルーシーの生命を思いのままにできることについて、彼女が指一本で演ずる無言劇がある。

'[. . .] Let me but lift my finger----!' She seemed to raise it (the listener's eyes were always on his paper), and to let it fall with a rattle on the ledge before her, as if the axe had dropped. (323)

ダーネイに先立って死刑執行の判決を受けた囚人が指を一本あげて示した監獄内での死の記号、"the customary prison sign of Death -- a raised finger" (271) をここで想起できる読者ならば、たとえ "as if" 以下の直喩がなくても、頓絶するドファルジュ夫人の指がギロチンの「斧」を意味することを直ちに理解できるだろう。しかし、ディケンズは普通の読者に対しても、目を新聞に向けたまま耳を傾けるカートンに視点を合わせることで、その指の意味を理解できるように直喩を介在させている。いずれにせよ、沈黙する人物の心理状態や抑圧された感情をストレートに読者に伝えるために、手/目のイメージと共に使用される直喩は、ディケンズの独創的な想像力が最も効果的に発揮される沈黙のレトリックだと言ってよい。


沈黙の強制

従来ディケンズは社会の個人に対する抑圧を暗示するために様々なモチーフを駆使してきた。『二都物語』では個人の存在を無に帰してしまう群集の集合的な音声がライトモチーフになっている。ルイ16世が断頭台から群集に呼びかけようとした時、革命党員が「哀れな声をかき消す」 "drown a wretched voice" (177) ために軍隊に打ち鳴らさせた太鼓の音は、群集が革命によって支配者に沈黙を強制した怒号のメタファーと見なすことができる。この音声のモチーフは作品のプロットと密接に関係している。例えば、カートンが暴徒と化した革命時の群集の中へ入って行き、その存在がどうなるかについては、群集の "footsteps" を表象する豪雨の "rain-drops" が、彼の声をかき消してしまうという音の遮蔽 (auditory masking) を通して仄めかされる。

 'And I hear them!' he added again, after a peal of thunder. 'Here they come, fast, fierce, and furious!'
 It was the rash and roar of rain that he typified, and it stopped him, for no voice could be heard in it. (97)

ディケンズは複数代名詞の指示対象を意図的に曖昧化することで「雨滴」と「足音」を結びつけ、激流を想起させる頭韻の効果的使用で、群集による沈黙の強制が差し迫っていることを匂わせている。しかし、革命で群集が起こす「荒れ狂う嵐」"the raging storm, nothing audible in it" (206) が沈黙の世界を作り出し、群集の存在を示す集合的な大音響自体が、最高潮に達した場合に "astonishing noise, yet furious dumb-show" という黙劇的空間を作り出すのは、革命の空虚さに対する皮肉な暗示だと言わねばならない。

同じような現象は群集としての傍聴人たちの騒音が被告人を沈黙させる法廷 (269) の場でも見られる。傍聴人にベルを鳴らして裁判長が沈黙を強要する法廷は外部社会のミクロコスモスである。その傍証として、外部社会を支配する貴族階級の代表者サン・テヴレモンド (St. Evremonde) 侯爵の馬車が、パリで最も貧しい地区サン・タントアーヌ (Saint Antoine) の子供をひき殺した場面がある。

The people closed round, and looked at Monsieur the Marquis. There was nothing revealed by the many eyes that looked at him but watchfulness and eagerness; there was no visible menacing or anger [; they were too well-subdued to show that]. Neither did the people say anything; after the first cry, they had been silent, and they remained so. (104)

ドファルジュ夫人以外の群集は沈黙するだけでなく、侯爵を正視することさえできない。これはバスティーユ監獄に象徴される特権化された階級の管理のまなざしによる沈黙の強制の結果である。「抑圧だけが万代不易の哲学だ」(116) と言ってはばからない侯爵にとって、群集の沈黙は権力に対する従順さを意味するが、彼が群集を "You dogs!" (105) と罵倒する時、読者はその場面に "Beware of a silent dog." という諺の持つ劇的アイロニーを感じずにはおれない。実際に原稿の段階では、この罵倒の最後に"Beware, you dogs, all of you!" という文章が続いていたのだが、14 ディケンズはそれを削除してしまった。ディケンズは自分で認めているように「暗示を隠すことに骨身を削る」(OMF, 821) 作家なのである。

このように、原稿の段階では存在したものが、最終的に削除されてテクスト化されない場合がある。上の引用文の括弧内の部分は作者が原稿から削除したものだが、ここでの削除はある効果を狙って戦略的に仕組まれたテクストの空白を生み出している。この部分が存在すると、平民に対して活殺自在の件を握る貴族の「抑圧」の強さを力説することになるが、平民に潜在する貴族への「威嚇や怒り」の存在を同時に否定してしまうことになる。従って、形容語句の "no visible" に内包された意味、つまり表面には現われないが胸の中でくすぶり続けているという意味を強めるために、ディケンズは括弧内の部分を削除したのだと考えられる。換言すれば、ディケンズは "no visible" という控え目な言い方をして、かえって裏の強い意味を表わす効果を狙ったのであり、当該箇所を削除することで沈黙する平民の内面に伏在する激怒の持つ効果を、すなわち彼が頻繁に使うダモクレスの剣や死の警告 (memento mori) としての効果を、ここで高めたかったのではないだろうか。

ヘゲモニーを握る支配階級の言葉のメタファーとしての法律は、ローマの雄弁家キケロが言ったように、「武器の中にあっては沈黙する (silent leges inter arma)」。ゆえに、平民は腹が減ったら草を食えと言った財務長官フロン (Foulon) が、武装した愛国者たちによって「口に一杯草を詰められて」(214) 処刑され、死の沈黙に帰せられる事件は、単なる旧約聖書的な同害報復を語っているだけでなく、沈黙を強要できる立場の逆転のアレゴリーとして読むことができる。その意味において、「雄弁家を沈黙させ、権力者を打ちのめす」(260) ギロチンは、ディケンズが「聾唖時 代」"dumb age" (103) と称した旧制度 (ancien régime) では、沈黙の強制によって表面化することのなかった被支配者の憎しみの具現物だと言えるだろう。

沈黙の強制がもたらす心理的障害を描くのにディケンズが採った戦略はやはり沈黙である。姉の夫に犯されたギリシャ神話のピロメーラーは舌を切られ、ナイチンゲールとなって悲運を嘆き続けたが、同じように監獄の鳥となってサン・テヴレモンド一族を呪い続け、18年後に救出されたマネットは、あらゆる質問に答える前に必ず「長い沈黙」(38) を置き、何か言っても即座に "vacancy" に陥ってしまう。18年間サン・テヴレモンド兄弟に沈黙を強制されたマネットは、自ら沈黙することを願う最後の法廷の場では、皮肉なことに自分が書いた手記を通して話すことを強要される。この場合、マネットがなぜ監禁されたのかという謎は、その解明が作者の沈黙の戦略によって先へ先へと延ばされ、最終的に手記の公開朗読で埋められる空白となっている。それはテクスト内部に象嵌の形で構造化された空白であり、プロットに沿って読書行為を先導する役割を果たしている。

沈黙の強制について考える時、ユーモアに欠ける『二都物語』にあって喜劇的息抜きを提供するだけの人物として等閑視されているクランチャーは、脇役ながら重要な役割を持つことが分かる。「亭主を敬って黙って従う」(155) ことが "a good wife" の義務と考えるクランチャーの価値体系には、「言葉は男、沈黙は女」という性的役割分担がなされた家父長制社会のロゴス中心主義的パラダイムがはっきり感じ取れるが、それは同時に寡黙より饒舌を重視するアングロ・サクソン社会の価値観に対する痛烈なアイロニーとなっている。15 一方、彼が "flopping" (52) という性的引喩を用いたクランチャー夫人の祈りは、神と人間との沈黙のダイアローグである。それは夫のような罪深い民に不安を与えるために神がもはや語ることのない怒りの沈黙 (Ezek. 3:26)、そして神と人間がもはや語り合うことのない陰府の沈黙 (Psalms 94:17, 115:17) を恐れての祈りであり、夫に対する彼女の愛を雄弁に語る能動的な行ないとしての沈黙だと言えるのではなかろうか。

クランチャー夫人の沈黙に対して、ドファルジュ夫人のそれは歴史を通して女性が経験してきた抑圧の結果としての沈黙 -- 例えばレイプされた彼女の姉に見られる受動的な沈黙 -- ではなく、憎しみを隠蔽しつつ復讐という目的達成のために偽装された沈黙である。それはダーネイのみならず妻ルーシーの首まで狙い、彼女が最後に本音を吐いて "I cannot speak of one without the other; and I must not be silent [. . .] ." (342) と言う点から瞭然として明らかだ。ディケンズはマクベス夫人を意識してドファルジュ夫人を描いているが、敵を観察/監視するために沈黙する点では、むしろイアーゴーの女性版と言った方がよい。シェイクスピア劇において、男性の沈黙は「目的達成の手段」として使われ、女性の沈黙は「献身、許し、共感、貞節」といった美徳を表わすとH・ローヴィンは述べている。16 ドファルジュ夫人は商売と家事の両方において夫には全く口出しさせない (170)、いわゆる男に沈黙を強制する女である。同時に、彼女の沈黙は目的を達成すべく自分自身に課した沈黙であり、L・トーカーが『荒涼館』論の中で「行動や情報の遅延は、個人あるいは制度の残虐性のモチーフと不可避的に結びつく」と言ったことが、そのまま当てはまる。17 つまり、マネットの手記の暴露を意図的に遅延させ、そこに記された自分の過去の情報を棚上げするドファルジュ夫人の沈黙には、憎しみと共存する加虐性愛を認めずにはおれないのである。18

男女の力関係の逆転はディケンズの作品で頻繁に描かれるが、気の強いプロス (Miss Pross) がロリー氏に沈黙を強いる場面 (88) のように、大抵の場合それは喜劇的効果のための逆転である。しかし、悲劇的な予感を漂わせるドファルジュ夫妻の力関係の逆転は、ディケンズの革命観と呼応していることを見落してならない。ディケンズの革命観はカルマニョール・ダンスの中に彼が感じ取った、カーニヴァル的な逆様の世界 (268) というトポスによって規定することができる。実際、ディケンズは革命について「血に飢えた怒りに燃える男たちは恐ろしかったが、女たちの光景はいかに豪胆な男をもぞっとさせた」(212) と言っており、女が男に沈黙を強要して残虐な人間性を見せる逆様の世界を不自然視している。このように、クランチャー夫妻を用いて家父長制社会の女性に対する沈黙の強制の理不尽さを暗示しながら、同時にそうした社会の枠組からはみ出せず、革命ではなく愛に社会問題の解決を求めるのは、確かに安易な考えだと言えなくもない。しかし、ディケンズの教育制度批判に関するG・オーウェルの言葉を借用するならば、そうした安易に思える点にこそ「現存するものの道徳版」を求めてやまない彼の穏健な革新主義が見出せるのではあるまいか。19


秘密と神秘

「人間は歴史の喧騒の背後で作用している個人の声なき苦悩といった沈黙の歴史を無視してきた」と言ったのは、『沈黙の世界』の著者 M・ピカートである。20 フランス革命に対するディケンズの歴史認識の甘さがしばしば指摘される『二都物語』もまた、18年に及ぶ沈黙の強制を受けたマネットの声なき苦悩、そして歴史の片隅で人知れず英雄的行為をなすカートンの声なき苦悩、そういう通常の感性的/理性的経験では知り得ないような、人間の心の奥底にある秘密と神秘を描いた作品として評価できるのではないか。

第1巻第3章の書き出しで、ディケンズは "A wonderful fact to reflect upon, that every human creature is constituted to be that profound secret and mystery to every other." (10) と述べているが、そのためにマネットやカートンの「秘密と神秘」に対する読者のアプローチは阻止されてしまう。マネットに関しては、いかなる人知も「彼の心の神秘」(46) を読み取ることができない、とディケンズは言う。マネットに観察できる沈黙やポーズは、阻止現象 (blockage) と呼ばれる本人の気づかない心理的要因による発話行為の停止であるが、実際には筋の展開に沿ってマネットの手記が最後の法廷で公開朗読されるまで、彼の胸底深く秘められた思いを理解することはできない。一方、"the inscrutability of Carton, who was a mystery to wiser and honester men" (287) を強調するかのように、ディケンズは一貫してカートンを沈黙の人として描いている。痛ましくも孤立した彼の沈黙は、何かを抑圧した無意識の世界からの身体的衝動を表現しているように思える。ディケンズがカートンの心の秘密を語らないのは、ストーリーによる性格づけという方針の結果と見なすこともできるが、実際にはカートンの性格を形成している心の秘密を窺い知ることができるのはストーリーからではない。皮肉なことに、それはカートンが沈黙を破って瞬間的に雄弁を -- 読者の理解を容易に受けつけない雄弁 -- をふるうルーシーとのダイアローグの場面からである。

カートンはルーシーに "Since I knew you, I have . . . heard whispers from old voices impelling me upward, that I thought were silent for ever. . . ." (144) と告白している。R・グランシーはカートンが若い時に両親を失ったことに着眼し、この「昔の声」を「彼の子供時代を導く両親の影響力」として捉えている。21 グランシーの解釈に付け加えて言うならば、この声は両親の死に伴ってカートンには聞こえなくなった愛の声なのである。そして愛を失った少年が成長した時、愛に関して経験するのは失望以外の何物でもない。カートンが恋敵ダーネイに "I am a disappointed drudge, sir. I care for no man on earth, and no man on earth cares for me." (79) と語っている点をかんがみるに、彼の沈黙の原因が愛すること/愛されることに関する失望から生じたコンプレックスである可能性は極めて高い。更に、ルーシーとの結婚を諦めたストライヴァーがカートンに、 "[. . .] you must not expect to do it, or you will always be disappointed." (140) と戒める場面に着目するならば、これをカートンの沈黙の原因についての作者の暗示として捉えることができるはずだ。この訓戒で想起されるポープの箴言、"Blessed is the man who expects nothing, for he shall never be disappointed." は、22 失望の経験によって愛を放棄してしまったカートンの無関心 -- 前作『リトル・ドリット』で子供時代のトラウマに苦しむクレナムの愛情問題における消極性の延長線上にあるアパシー -- を言い得て妙である。いずれにせよ、カートンが失望によって無意識の世界に沈黙させてしまった愛の声を再び聞こえるようにさせたのが、ルーシーのキリスト教的な愛であることは間違いない。事実、"In silence they go walking up and down together [. . .] till her love and company have brought him to himself." (92) と作者が記しているように、ルーシーの沈黙の愛は父をトラウマによる精神的な死から再生させるほどの力を持っている。カートンが彼女の家庭に足繁く通った (142) 理由は、そうした沈黙の言葉で語られる愛を学ぶためであったのだ。彼は彼女を通して沈黙の愛の意義を認識したがゆえに、自己犠牲というキリスト教的な愛の行為によって自分のレーゾン・デートルを見出そうとしたのである。

『二都物語』のタイトルを決める際にディケンズは "Memory Carton" を候補として考えた。これはカートンがダーネイに代筆させてルーシーに宛てた手紙に特別な意味を与える。手紙に差出人の署名もなく、文章が頓絶しているにせよ、ルーシーは黙約を結んだカートンと二人だけで共有するコードによって、手紙の内容を完全に理解できるはずである。従って、カートンの時間と空間を超越した形而上学的沈黙は、ルーシーと共有することがない未来において、彼女の「記憶」の中で永遠に意味を持ち続けることになる。ディケンズが師と仰ぐカーライルは "Speech is of Time, Silence is of Eternity." と言った。23 そうした宗教的ヴィジョンを伝えるディケンズの意図は、カートンの言葉によって具現化されるのではなく、彼の沈黙と沈黙の行為によって明らかにされている。G・スタイナーは『言語と沈黙』の中で「人間の言葉の彼方にあるものは雄弁に神の存在を示す」と述べているが、24 愛する人のために死の沈黙へと赴くカートンの崇高な行為は、それだけで十字架を通して伝えられる神の愛の意義を雄弁に語っている。それほど、『二都物語』におけるディケンズの沈黙への関心は、個人の沈黙を通して永遠なるもの、つまり言語を超越した神秘的領域を表わす試みまで高まっているのである。25 


* 本稿は平成6年5月22日に熊本大学で開催された第66回日本英文学会で発表した原稿に修正・加筆したものである。

  1. Charles Dickens, Bleak House. The Oxford Illustrated Dickens (London: Oxford UP) xiv. 以下、ディケンズの作品からの引用と言及はこの版に依拠し、当該箇所にはページ数を(『二都物語』以外は作品の略語を含めて)括弧に入れて 示す。
  2. John Forster, The Life of Charles Dickens (1872-4; London: Dent, 1966) II, 281.
  3. 電子テクストで作成した KWIC コンコーダンスによれば、ディケンズが「沈黙」関連の単語 (silence, silent, silently) を何ページごとに使っているかは次のとおり(オックスフォード版)。『ハード・タイムズ』(8.79p.)、『リトル・ドリット』(8.02p.)、『二都物語』(5.42p.)、『大いなる遺産』(9.58p.)、『互いの友』(7.68p.)。
  4. Michel Foucault, The History of Sexuality, trans. Robert Hurley (New York: Vintage, 1980) I, 27.
  5. Edgar Johnson, Charles Dickens: His Tragedy and Triumph (London: Victor Gollancz, 1953) I, 980.
  6. Forster, II, 282.
  7. Adam Jaworski, The Power of Silence (Newbury Park: Sage, 1993) 8.
  8. 松岡光治Great Expectations における作品構成と「手」のイメージ」 Phoenix 25: 107-38.
  9. 作者同様に催眠術 (mesmerism) に精通したジャスパーの武器は目である。目が沈黙に言葉では持ち得ない力を与えることは、彼の倒錯した愛の対象となるローザ (Rosa Bud) の言葉で裏づけることができる。'He has made a slave of me with his looks. He has forced me to understand him, without his saying a word; and he has forced me to keep silence, without his uttering a threat.' (MED, 68)
  10. Norman Page, The Language of Jane Austen (Oxford: Basil Blackwell, 1972) 38.
  11. Jane Austen, Emma (Harmondsworth: Penguin, 1978) 417.
  12. J. Hillis Miller, Ariadne's Thread (New Haven: Yale UP, 1992) 20.
  13. ディケンズはマネットと同じ手のイメージを使って、平民の女たちの編物を "a mechanical substitute for eating and drinking" (177) と表現している。しかし、マネットの靴作りは彼女たちのように欲求の充足が阻止された時に他の目標によって充足させようとする代償行為 (substitution behaviour) とは言えず、むしろ独房監禁に関するトラウマの意識化がもたらす理性の喪失に対する防衛的な生の本能に近い。最初のアメリカ訪問時 (1842) に Cherry Hill Penitentiary を視察し、当時のイギリスの沈黙方式 (silent system) とは違う独房方式 (separate system) にショックを受けたディケン ズは、隔離による沈黙の強制がいかに精神錯乱という「病的状態」(American Notes, 109) を惹き起こすかを誰よりも知っていたに違いない。
  14. Andrew Sanders, The Companion to A Tale of Two Cities (London: Unwin Hyman, 1988) 89.
  15. このようにアングロ・サクソン社会の価値体系を脱中心化させるポストモダニズムの一典型として、色と形を最小限まで切り詰めたジャッド (Donald Judd, 1928-94) のミニマルアートや、ピアニストに「4分33秒」もの沈黙を演奏させるケージ (John Cage, 1912-92) のミニマリズム音楽などがある。
  16. Harvey Rovine, Silence in Shakespeare (Ann Arbor: UMI Research, 1987) 69.
  17. Leona Toker, Eloquent Reticence (Lexington: Kentucky UP, 1993) 78.
  18. 作者が沈黙によって情報を棚上げにする懸延法 (suspension) は推理小説特有の創作技巧であり、連載小説のカット技法と密接な関係を持つ。『春夏秋冬』創刊時のディケンズが、営利上の成功のために読者の期待や不安に対して特に意識的だったことは想像にかたくない。例えば、ロリー氏の銀行への返事 ("Recalled to life") を聞いた死体盗掘者 (resurrectionist) クランチャーの、"You'd be in a Blazing bad way, if recalling to life was to come into fashion, Jerry!" (9) という独語で終わる第1巻第2章、そしてダーネイを告発したドファルジュ夫妻ともう一人の名前を\マネットが尋ね、サン・タントアーヌの男が "you will be answered to-morrow. Now, I am dumb." (278) と答えて終わる劇的アイロニーに満ちた第3巻第7章を参照。
  19. George Orwell, The Collected Essays, Journalism and Letters of George Orwell, ed. Sonia Orwell and Ian Angus (Harmondsworth: Penguin, 1993) I, 467.
  20. Max Picard, The World of Silence, trans. Stanley Godman (London: Harville, 1948) 83-4.
  21. "Ruth Glancy, A Tale of Two Cities: Dickens's Revolutionary Novel (Boston: Twayne, 1991) 84.
  22. George Sherburn, The Correspondence of Alexander Pope (Oxford: Clarendon, 1956) II, 323.
  23. Thomas Carlyle, Sartor Resartus. The Works of Thomas Carlyle (New York: AMS, 1980) I, 174.
  24. George Steiner, Language and Silence (Harmondsworth: Penguin, 1969) 60.
  25. 処刑台に立つカートンの胸中を読者に語ることなく作品を終えることができなかったディケンズは、沈黙するカートンの心 に読者がアプローチできるように、仮定法を使った声なき独白という戦略を採っている。カートンが自分の声で語ることによるクライマックスの格調低下 (bathos) を避けるために、ディケンズは "If he had given an utterance to his [thoughts], and they were prophetic, they would have been these [. . .]". (357) という仮定法を使い、神から受けた啓示を伝えることで未来をさとす「預言者」にカートンを見立てながら、彼の心中の思いを伝えている。このような特殊なモノローグもまたダイアローグによらない性格造型を試みるためにディケンズが採った沈黙の戦略の一つだと言える。カートンの独白と仮定法の関係については、Carol Hanbery MacKay, "The Rhetoric of Soliloquy in The French Revolution and A Tale of Two Cities." Dickens Studies Annual 12 (1983): 197-207 に詳しい。



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