革命における愛憎の流動化-- A Tale of Two Cities --
松 岡 光 治学窓において迎えたフランス革命を祝福して「自由の木」を植えたにもかかわらず、原体験となったフランス革命にやがて批判的態度をとるようになるヘーゲルは、現実世界に対する見方と言える哲学を「逆様の世界 (die verkehrte Welt) 」という概念を通して捉えた。1 身をもってテロリズムを経験したフランス革命の現実に不安を感じて危機に目覚めたヘーゲル同様、飢餓の40年代を経て第一回万国博覧会以後の「ヴィクトリア朝大好況期」を迎えた1850年代のイギリス社会に生きるディケンズにとっても、新たな種類の貧困に苦しむ都市下層階級を抱えて第二のフランス革命勃発という累卵の危機に瀕した当時の社会の根源および原理が、既に逆様に見えていたことは想像にかたくない。その意味において、"It was the best of times, it was the worst of times. . . ." (1) という『二都物語』(1859) の冒頭を飾る逆説は、2 カーライルばりのヒロイズムに対する賛辞とアナーキーに対する恐怖というアンビヴァレンスを抱いた革命時のフランスのみならず、国家の繁栄と庶民の窮乏という矛盾を抱える当時のイギリスもまた、ディケンズの批判の射程内にあったことを雄弁に語っている。 『二都物語』の背景となったフランス革命は、政治闘争があからさまに階級闘争として展開された結果、万物が激動する変転極まりない時代を演出した。そうした歴史的コンテクストにおける群集の行動と、時代の潮流に飲み込まれた個人の心の動きとを効果的に描出すべく、この作品ではその源となるエネルギーが流体の中に働く圧力に変換されている。具体的には、群集の力学的エネルギーの感覚的形象化のために、無秩序および破壊的な力の象徴として、水をはじめ流動する様々な物体が隠喩的な指標記号として使用される。そして看過できないのは、これらの流体がすべてを取り込み死へと押し流す洪水と不可分に結びつく点である。ただし、その洪水は「上から降り注ぐのではなく下から湧き起こる」(259) というノアの洪水をパロディー化した流体であり、革命によって生成される逆様の世界を特徴としている。 革命の不可避性を暗示するために、「万物を破壊する時の流れ (tempus edax rerum) 」の不可逆性が作品では流体を用いて強調されるが、不可逆にして可逆的な両面性を持つ革命時の社会には共時的可逆性と言ったものが見出せる。例えば、共和国の敵としてフランス貴族の甥 Charles Darnay のギロチンを望む群集は、彼が義父 Manette の影響力で無罪放免されるや、「先ほどまで大量に流れていた血に代わって今度は涙を惜しげもなく流し・・・気まぐれさ (fickleness)」(271) を露呈する。涙が流れるか血が流れるか、それを決定するのは外的統制を受けて流動する群集の気まぐれな心である。「定めなき運命の車 (Fortune's fickle wheel)」 を想起させる群集の反転する心は、こうしたカーニヴァル的な革命に内在する転覆的性質の所産と言わねばならない。 作者が革命の本質と見なした逆様の世界を構築する典型として、社会現象としてのカルマニョール(歌/踊り/衣服)がある。「流行の革命歌」(264) に合わせて踊りながら凝集性を高めつつ流動して行くカルマニョールは、人々の無秩序の尺度としての意識のエントロピーが限界を越えて流出した結実であり、「元来よかったものがいかに歪められ倒錯して (warped and perverted) いるか」(265) を示す現象として提示される。カルマニョールの衣服については、「狂った海のように波打つ赤い帽子」(272) が着用者である群集をメトニミー風に表わしているが、その流動性は日常的な「農場用荷車 (tumbril)」を異化して、「死刑囚護送車」という非日常的な独自の意味へ転成させるほどの強力なエネルギーを有している。 我々に積極的に語りかける記号として、作者は衣服が「万物をしかるべき場所に保たせる符号としての守り札」であり、"Everybody was dressed for a Fancy Ball that was never to leave off." (101) と述べている。衣服が頂点に立つ人々によって定められた制服であるような権威的に構造化/秩序化された社会、即ち彼らを不動の中心点にすべてが同一の円環運動を繰り返すだけで「決してストップしない」仮装舞踏会であるような革命前の旧制度にあっては、一定した衣服の流行は中央集権を保証するのに役立つ。一方、革命と同時に広まったカルマニョールの衣服のような変化の現象としての流行は、本質的に社会変化のダイナミズムの証であり、価値の永続性が否定される「関節のはずれた時代 (the disjointed time)」(265) においては、それまで固定化していた社会を加速度的に流動化させてやまない。この流行現象 (craze) としてのカルマニョールは、その狂った動作的表出が傍観者をも巻き込んで波紋のように次々と広がって行く。群集が踊るカルマニョールには "waterspout" (272) の求心力を内蔵する水流のダイナミズムがあり、膨張しながら万物を取り込んで押し流す点で確かに洪水と一脈通じる所がある。このように洪水と結びつくのは、社会的大変動 (cataclysm) を引き起こす結果として、天地創造以前のカオスを連想させるからに他ならない。 作者はこのような革命時の群集の流動的な心に危険な要素を析出したからこそ、その心が視覚を通して受容されるように、規範を転倒するカーニヴァル的な逆様の世界というトポスに頼ったのだと考えられる。作者と同じ頭文字を持つチャールズ・ダーネイの視点を通した時、「物事の普通の秩序が逆になって極悪人が正直な人間を裁いている」(268) ように見える革命裁判所は、そうした空間的な図像性をグロテスクな形で示す革命時のフランスの戯画として、『二都物語』の中で最も異彩を放っている。 Geoffrey Thurley が革命の特質として「無情な歴史の進行が不可避的に個人を取り込む」点を挙げたように、3 マネットや Sydney Carton のようにフランス革命を対岸の火事として見る人間でさえ、情け容赦なく革命の渦に巻き込まれる。「当時の民衆の流れ (public current) 」(258) はあまりに強くて速すぎ、必死にダーネイを救出しようとするマネットでさえ太刀打ちできない。こうした走 流 性 (rheotaxis) を垣間見せるマネットが「強者」(258) に見えるのに対して、ダーネイは「弱者」としてしか映らない。それは彼が社会的特権の放棄という個人の問題に熱中するあまり義務を怠ったという不作為の罪が原因である。昔の召使 Gabelle からの助命の手紙でパリへと赴くのだが、彼はただ「浮流した (floated)」(233) だけである。"It is ill striving against the stream." という格言よろしく、彼は法曹界の「濁流 (turbid water) をかき分けて押し進む大きな汽船」(201) のような弁護士 Stryver(流れに抗する人)のたくましさに欠けるという印象を与える。そうした点にダーネイが主人公になれない所以の一端があるのではあるまいか。4 とはいえ、彼は「非常な忍耐とたゆまぬ努力」(123) で成功したセルフメイド・マンである。ゆえに、カートンの下働きに依存する Stryver(努力する人)の名前に痛烈な皮肉が込められていることは事実だ。ここに時事的な皮肉を見出すこともまた可能である。臆病な婦人の手を引き死の川 (Styx) のようなフリート街の「巨大な人の流れ」(147) を渡らせ小銭を稼ぐ一方、夜になれば死体盗掘に励む自称「正直な商人」(53) の Jerry Cruncher をストライヴァーに絡ませることで、奇しくも『二都物語』と同年に出版され爆発的なベストセラーとなった Samuel Smiles の Self-Help を支える「自助の精神」は差異化され、空洞化/形骸化に陥って行く危険にさらされる。 しばしば非難される作者の歴史認識の甘さもあってか、5 『二都物語』におけるフランス革命は、過去のことを水に流せない Madame Defarge の Evrémonde 一族に対する個人的憎しみの具現化のように思える。海のような破壊力を持って流動する群集の代喩的人物に見える彼女にとって、革命は復讐を遂げるための絶好の道具であり、それに沿って自然現象すら目的論的解釈を受ける。例えば、革命の機が熟すまで時間がかかるのに気弱になった夫に対し、彼女は革命の不可避性を地震にたとえて "although it is a long time on the road, it is on the road and coming. I tell thee it never retreats, and never stops." (171) と叫ぶ。Ruth Glancy はプロットにとっての「道」の重要性を指摘したが、6 ここでは「道」と関連の深い「決してストップしない」という表現に留意したい。この反復される言説は作者と読者の共有によって彼女の思考と行動を意味づける唯一のコードとして機能する。そこで、このコードを押さえ「当時の群集は何でもやりかねない (stopped at nothing) 恐るべき怪物だった」(149) という表現に立ち戻るならば、群集の代喩的人物として彼女に集団同一視をさせ、集団と個人の本質的な共犯関係を暗示するという作者の戦略が期せずして浮き彫りになる。 その意味で、ダーネイの妻 Lucie とその娘までも毒牙にかけようとした流動する憎しみの体現者ドファルジュ夫人をストップさせたのが、愛によって行動するルーシーの召使 Pross であったことはとても意味深い。この対決は「いつも憎しみより遥かに強い愛」(350) という作者のトポスゆえに、芝居がかった通俗性を感じさせ、ヘゲモニー争奪戦の様相を呈しかねない。自意識を絶対化するドファルジュ夫人のモティヴェーションは憎しみと復讐心以外の何物でもなく、Michael Slater の指摘したような「情緒的・心理的複雑性」 に欠ける点で、彼女がメロドラマ的人物であることは確かに否めないからだ。7 しかしながら、そうした類型に堕する危険性は、作者が巧みに駆使した流体を検討することで多分に薄まる。 この対決時 (348) にプロスは涙を洗い流すために持っていた洗面器を落として割ってしまう。そして水がドファルジュ夫人の足元へと流れる。ここで我々は、夫人が登場する前触れであるかのように、パリ南東の貧民地区 Saint Antoine の石畳に樽が落ちてワインが流れた場面 (27) を想起するはずだ。キリストの聖なる血という連想とは裏腹に、ワインはギロチンの犠牲者が流す血、即ち "the day's wine to the Guillotine" (353) という表現を待つまでもなく、最初から明らかに死の前兆として使用されている。なるほど、 W. H. Marshall が言うようにワインも血も伝統的に生を育み維持するものだが、8 この作品ではこぼれることで死の暗示に反転する点を見逃してはならない。作者は最高潮に達した革命を「凄まじい騒音の中での無言劇 (dumb-show)」(206) という逆説で捉えたが、激しい罵倒の中で相互の言語を全く理解できない二人の女の闘争には、同じような音の遮蔽 (auditory masking) の反復が見出せる。このように聴覚が無化された黙劇的空間は視覚的記号が特権化される場である。そうした場における視覚的象徴の意味を作者は緘黙して語っていない。血で汚れた道を歩いて決してストップしなかったドファルジュ夫人の足元に流れる水は何を意味するのか。水はなぜプロスではなく彼女の方に流れたのか。これは Lady Macbeth が繰り返す手洗いのように血の汚れを洗い流す浄化の水であろうか。いや、作品中の流体がおしなべて洪水を連想させることから考えて、むしろ彼女に死をもたらす破壊的洪水の意味の方が強い。あるいは彼女の隣人愛にもとる行為に対して神が定めた摂理的懲罰を指す象徴的記号としての「水」(Job 22: 11) と言ってもよい。 個人は群集の一員たることで新たな自由を獲得すると同時に強い囲い込みを受ける。従って、自縄自縛に陥るドファルジュ夫人の過剰な破壊的エネルギーは「決してストップしない」ため、自己に逆流して消費される以外に道がない。流体によって革命の不可避性を示した作者は、破壊力を増大させる革命に残酷性という悪を見出したがゆえに、カートンの声なき独白形式による最後の黙示録的/終末論的予言の中で「現代と前時代の悪がその罪を次第にあがなって消えて行くのが見える」(357) と語ったように、自己破壊もまた不可避だと考えたのである。9 こうした流動する悪のブーメラン作用による自滅については、完結した最後の作品である『互いの友』(Our Mutual Friend, 1864-65) で "Evil often stops short at itself and dies with the doer of it! but Good, never." (101) と確言されており、勧善懲悪に根差した作者の基本的姿勢は彼自身が死ぬまで決して揺らぐことはない。 作者の無意識が象徴的なイメージの中に意味を隠すとするならば、ドファルジュ夫人の場合と同様に主人公カートンに関してもまた、我々は自己破壊の傾向を読み取ることができる。例えば、酒場でダーネイと別れたあと、彼が壁にかかった姿見を眺めて、次のようにつぶやく場面がある。 'Do you particularly like the man?' he muttered, at his own image; 'why should you particularly like a man who resembles you? . . . Come on, and have it out in plain words! You hate the fellow.'カートンが姿見を眺める主体としての自分を鏡像からの視線によって相対化しているとするならば、彼の独語は読者を多義的解釈へ誘い込まずにはおかない。まず "In wine there is truth." という諺に従えば、泥酔したカートンはある意味で信頼できる語り手である。それゆえ、彼が自分と瓜二つでルーシーの愛情と同情を一身に買う「分身 (Double)」(78) のダーネイを意識下で憎んでいることは瞭然として明らかだ。では彼がダーネイを有罪の判決から救ってやったのはなぜか。普通に読めばカートンの親切な行為は愛するルーシーのためであるかのように思える。A. E. Dyson は彼が「本能からであるかのように」ダーネイを救ったと言うだけで、肝心の「本能」については説明を避けている。10 自分の分身を本能的に救うためという読み方も確かにできるが、深層的には分身に対する憎しみを無意識のままにしておくためのストラテジー、即ち一種の反動形成 (reaction formation) として読むこともまた可能である。 カートンは作者自身の分身的側面を多分に持っているが、作者の倫理体系に従えば悪は悪を生み憎しみは憎しみを生む。その意味で、ドファルジュ夫人の場合で明らかなように、憎しみは自己破壊的で自らの死を招く。カートンの上に滴り落ちる「蝋涙」は、その流れ落ちる方向に凶事が起きるという迷信を踏まえて作者が意図的に使用したもので、それは非業の死を遂げる『荒涼館』(Bleak House, 1852-53) の Nemo (136) や Krook (447) に用いられた死の暗示であった。確かにカートンの愛に満ちたキリスト教的自己犠牲による死は崇高なもので、読者は感涙を禁じ得ない。しかしながら、作者が意図しない無意識のレべルで捉えれば、彼の死は憎しみのエネルギーの逆流による自己破壊であったと読んだにせよ、あながち牽強付会とは言えまい。 とはいえ、カートンのヤヌス的な双面を同時に写し出す合わせ鏡のような姿見の枠に収まった分身は、さながら「ルビンの杯と横顔」のような反転図形として逆の解釈を可能ならしめる。11 実際、彼の憎しみはドファルジュ夫人の場合と符節を合わせるわけでなく、分身を通して自分が憎しみの対象に反転する点に特徴がある。それゆえ、「この世で自分を憎む者」(John 12: 25) としてのカートンの行為は、ルーシーへの愛によって再びキリストを信じるようになる彼にとって、むしろ自分の内部にある悪のすべてを除去して「永遠の生命」に至るための通過儀礼のように思える。このような読みは愛と憎しみに見られるような二元論的な抽象的思弁による硬直化を防ぎ、二項対立に基づく作者の倫理体系を流動化させずにはおかない。 そこで、そうした読みの傍証を固めるために、カートンのセーヌ川への自己投影の場面に着眼し、流動する生の側面を前景化してみよう。 The strong tide, so swift, so deep, and certain, was like a congenial friend, in the morning stillness. He walked by the stream, far from the houses, and in the light and warmth of the sun fell asleep on the bank. When he awoke and was afoot again, he lingered there yet a little longer, watching an eddy that turned and turned purposeless, until the stream absorbed it, and carried it on to the sea. -- 'Like me!' (299)これは主体性のない「渦」に過去・現在の自分を投影した、カートンの意識による死の「海」への志向性を読者に伝える麗々しい心象風景であるが、断じて彼の自己破壊的な死の本能の顕在化などとして等閑に付してはならない。これはむしろ真の存在を構成する決定的選択としての死の願望であり、現にある自己を否定して自己を未来に投げかける人間の脱自的可能性に対してサルトルが名づけた投企 (projet) に近い。 カートンはダーネイの身代わりになる重大な決心をした時、ギロチン台での血を表わすワインではなく、わざわざ「グラス一杯の強いブランデー」(290) を炉床に一滴ずつこぼしている。彼は「それと縁を切った人間のように」(321) こぼしたと作者があとで語っているように、これは過去・現在と訣別する悔い改めの決定的瞬間なのだ。ゆえに、「我は復活なり生命なり」という言葉が波状的に脳裏に去来する状態で、彼がセーヌ川へ赴いたことには重大な意味が隠されている。キリストが約束した神に対する人間の魂の渇きをいやす「生命の水」(John 4: 10) を求めて赴いた、という解釈がここで成り立つのではなかろうか。要するにセーヌ川は、再びキリストを信じるようになった彼の心の奥底から流れ出る「生ける水の川 (rivers of living water)」(John 7: 38) である。 セーヌ川の水は悔い改めによってキリストによる罪の赦しを得て新しく生まれ変わるためのバプテスマの水であり、それに運ばれてカートンが到達する「海」は、革命時の群集を連想させる無秩序な悪の力を象徴する「荒れ狂う海」(206) ではなく、水と聖霊によって彼が入ることになる「神の国」(John 3: 5)、あるいは新しい世界の光に満ちた「水晶の海」(Rev. 4: 6) と読み換えてもよい。12 さて、カートンの蝋涙からプロスが流した本物の涙に話を再び戻そう。夫の気質を "the milk of human kindness" (Macbeth 1. 5. 17) と嘆いたマクベス夫人が色濃く投影されたドファルジュ夫人は、プロスの涙を誤解して「気の弱さ」(350) と見なす。弱さを表わす「女の涙」(Troilus and Cressida 1. 1. 9) という父権制的解釈に対し、作者は涙を「勇気」(349) の外在化としている。ここで、Jarvis Lorry --「私は感情のない全くの機械です」(21) と明言する割には想像力によってルーシーの心を理解できる銀行家 -- の「頬にキラリと光るビジネスのためとは思えない湿り気 (moisture)」(36) が、愛情と共感を育み現実に対してバランスのとれた対処をさせるために体の中を流れているという、いわゆる中世医学の体液 (humour) の証だと想定してみよう。すると、同じように想像力がないことを断言する (90) プロスの涙もまた、「勇気」という概念を包摂する愛が可視的に流露したものとなり、作品のライトモチーフに契合して矛盾しないことが判明する。 流動する愛の体現者に関しては、プロスの他に彼女の主人ルーシーを忘れてはならない。それは彼女の属性である光の流動性に現われている。『二都物語』の第2巻の題は「黄金の糸」であるが、ルーシーの "flowing golden hair" (23) が18年間バスチーユ監獄という闇の世界にいた父を発狂から救い、心の脱獄をさせてくれた道具となった (43) 点で、「アリアドネの糸」と即座に結びつくことは言を俟たない。13 加えて、「金髪」が太陽光線を表わして太陽の象徴すべてを持つ点で、14 またルーシーが語源的にラテン語の「光 (lux)」から派生した名前である点で、彼女の「流れるような金髪」の中に光の流動性を鮮明に読み取ることができる。この金髪は同時に、作者が "the light of Freedom" (44) になぞらえたように、「世の光」としての救世主キリストの属性を彼女に帯びさせることになる。事実、釈放後も広場恐怖症 (agoraphobia) ゆえに迷宮のような屋根裏部屋に監禁された父を救うべく彼女が現われた時、"A broad ray of light fell into the garret." (39) という象徴的記述が見出せる。"falling" と "flowing" は流動性を共通項とする互換性のある語であり、太陽の光とルーシーの金髪との有機的結合を通して、我々はそこに流動する愛を実感せずにはおれない。 開巻早々、語り手に最も近いロリー氏の視点を通して、革命前のフランスを遠くのぞむドーヴァーの白堊の断崖において、打ち寄せる海が次のように描かれている。 The beach was a desert of heaps of sea and stones tumbling wildly about, and the sea did what it liked, and what it liked was destruction. It thundered at the town, and thundered at the cliffs, and brought the coast down, madly. (17)心理学において群集は海の波と同様その流動性ゆえに無意識を表わす。本質的に両者とも転覆的性質を抱え込んでいるからである。ここで流動する海を無意識、静止した陸を意識と仮定するならば、その接点にあたる断崖を海が「破壊」しようとする境界侵犯は、いわば無意識の意識に対する反乱として読み解くことができる。それは万代不易の秩序づけられた貴族社会への組織的侵犯のために群集が流動化する革命のメタファーと言える。フロイトは群集行動やその特殊な心理的影響について初めて系統的考察を行なった Gustave Le Bon の『集団心理学』(Psychologie des foules, 1895) を要約して、「集団の中に個人が寄り集まると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいた残酷で血なまぐさい破壊的な本能がすべて目ざまされて、自由な衝動の満足に駆り立てる」と述べた。15 要するにフロイトにとって、その知的・道徳的劣等性を強調したル・ボンのように、群集とは獣的・犯罪的欲望を満たすための機会を与えるものに他ならない。ディケンズにとって革命が演出する逆様の世界とは、こういった抑圧された破壊的な本能の意識化によって作られる強力かつ不安定な磁場だったのではあるまいか。 既存の社会秩序や道徳を脅かすような破壊性を帯びて次から次へと押し寄せる群集は、ディケンズには流動する憎しみの具象化であった。それは神の命令に耳を傾けることで「正義が海の波のように」(Isaiah 48: 18) 押し寄せるイスラエルの民とは両極をなすものである。しかし、『二都物語』におけるフランス革命は彼にとって背景を提供する社会的事件にすぎず、テーマはあくまで主人公カートンのキリスト教的自己犠牲という個人的な愛である。16 G. B. Hornback の逆説的表現を借りれば、愛こそが「世界を変えるのに革命以上に急進的なよい手段」となる。17 総じて社会的問題の解決を個人的問題に還元して考えるディケンズにとっては、エヴレモンド侯爵に代表される旧制度だけでなく、ドファルジュ夫人に象徴される新秩序もまた、キリストの教えに背くものに思えたはずである。兄弟を愛することは神自身を愛することだが、神を愛することをやめたという意味で、兄弟愛に欠ける貴族/支配階級は、中世の神に代わって理性をかかげることで既存の権力・伝統を批判しつつ、非キリスト教化に沿って旧制度を打破しようとした啓蒙思想の担い手たち、即ち市民/被支配階級の場合と同断なのである。 革命が激化の一途をたどるにつれ、ディケンズの批判の矛先の向きが貴族から革命分子の方に移っている点は、La Force に監禁され亡霊と化した貴族たち、そして「自由、平等、博愛、しからずんば死」(234) を連呼する武装愛国者たちを活写した第3巻の冒頭部によって実証できる。それゆえ、ディケンズは革命を「希望・正義・平和・万人の幸福への唯一の道」と見なしているとする T. A. Jackson のマルクス主義的見解は、脈所を押さえているとは言いがたい。18 革命に対するディケンズの姿勢は、革命勃発後の興奮の最中、1789年11月4日に祖国愛を訴える有名な演説を行なったユニテリアン派の牧師 Richard Price に対して憤激し、『フランス革命の省察』(Reflections on the Revolution in France, 1790) を著した Edmund Burke の観念形態と軌を一にする。19 バークと同様、フランス革命に対するディケンズの最終的態度は、革命の破壊的エネルギーがもたらす残酷性に対する憎悪であった。それは革命の余波が自国に及ぶことへの恐怖、つまり特権が貴族的というよりはブルジョワ的であった、そして無血革命に代表されるように穏便な改革に慣れていたイギリス国内の恐怖であった。その意味において、ドーヴァーの断崖に立ち海の属性として「破壊」を感じ取ったロリー氏に焦点化された語りの主体は、作品に介在するディケンズ自身であったことが判然とする。20
SYNOPSIS"It was the best of times, it was the worst of times", the opening words of A Tale of Two Cities, illustrate the principle of reversibility that operated in the French Revolution. Dickens describes group behaviour and human psychology in the Revolution with many kinds of fluids, which converge into the flood that carries all away to death. The world turned upside down provides a rich and variegated theme that seems to parody Noah's flood, "the deluge rising from below", and the "fickleness" of the crowd in ways that Dickens used strategically to develop his theme. Dickens's insufficient recognition of the French Revolution seems to present it as a social version of Madame Defarge's intense personal hatred of the Evr士onde family. He intends, however, to suggest a complicity between Madame Defarge who "never stops" and "a crowd in those times [that] stopped at nothing". The very unstoppable force turns her intense destructive energy back upon herself, because her membership within the crowd at once gives her new freedom and forces her into an enclosure from which she cannot escape. It would seem that Sydney Carton's death, like Madame Defarge's, is a kind of self-destruction driven by the reflux of hate's energy. In his case, however, it is a hatred deflected from his "double", Charles Darnay, to himself. Carton is initiated by such self-hate into eternal life when he crosses flowing waters like Julius Caesar or Saint Christopher. An aspect of flowing life can be foregrounded at the scene of his self-projection on the Seine. Lucie Manette, who has revived life and love in Carton, is an embodiment of flowing love. Such love is revealed by, for example, her "flowing golden hair" described equally with the fluidity of sunlight. Significantly her name derives from the Latin word lux which means light. She represents "the light of Freedom" that is connected with the love of Christ for which Carton yearns. The psychology of the crowd finds its metaphor in the fluidity of the sea. Representing the unconscious, both have their own built-in energy of subversion. Dickens's view of the French Revolution is suggested when Mr. Lorry sees "destruction" in the sea thundering at the cliffs of Dover Beach -- illustrative of the revolt of the unconscious against the conscious or of the upsurging, flowing crowd against the staid and placid aristocracy. Ultimately, Dickens, like Edmund Burke before him, felt disgust at the cruel destructiveness of the Revolution. A sense of impending crisis shaped his perception of the physical phenomena and human behaviour that accompanied it. Perhaps it is significant that Hegel, after experiencing the Revolution himself, formulated the theme of the world turned upside down in his philosophy. |