ディケンズ・フェロウシップ日 本支部

電子アーカイヴ



スクルージの想像力について

松 岡 光 治

The Imagination is one of the highest prerogatives
of man. By this faculty he unites former images and ideas,
independently of the will, and thus creates brilliant and
novel results. (Charles Darwin, The Descent of Man, I, iii.)

序 論

『クリスマス・キャロル』(A Christmas Carol, 1843) の主人公スクルージ (Ebenezer Scrooge) に関して最初に断っておきたいのは、彼の思考と言語には素質的かつ経験的に、すなわち先天的かつ後天的に付与された想像力が見出せることである。この点については全く疑う余地がない。ところが、困ったことに作者ディケンズは、"Scrooge had as little of what is called fancy about him as any man in the city of London. . . ." (I, 14) と確言してはばからない。無論、ここでディケンズがコールリッジのように、空想 (fancy) と想像力 (imagination) を芸術的見地から峻別して使い分けているなどと言うつもりは毛頭ない。1 少なくともこの作品では、両者はディケンズにとって相即不離の関係にあるからである。

さて、空想という言葉が出た所で話を最初に戻そう。血も涙もない冷酷な悪徳商人のスクルージに想像力がある点については断じて疑うべきではない。この点を作品からはっきり読み取り実証できなければ、作品のテーマである邪悪な心の持ち主スクルージの "a change of life" (IV, 61) による改心は、即座に説得性と信憑性を失ってしまい、作品自体が単なる幼年向きの現実離れをしたお伽噺 (fairy tale) に堕してしまう恐れがある。今は詳述すべき時ではないので、スクルージの想像力が彼の悔い改めを可能ならしめるのに絶対不可欠な条件になっている、という点だけをここでは指摘するに留めたい。そのような訳で、「スクルージはいわゆる空想なるものを殆ど持たない」という作者の断言を、例えば舌のすべり (lapsus linguae) などと簡単に片づけることには抵抗感がある。それでは、この麗々しい断言はディケンズにとっていかなる意味を持っているのか。常に理性を認識の根拠に据えるスクルージにとって、自宅の "the knocker on the door" (I, 14) が "Marley's face" (I, 15) に見えたことの不思議さを強調する他に、ここにはディケンズが意図したもっと重要な戦略が隠されているように思える。単純化を恐れずに言えば、これは読者の注意を他へそらすために、つまりスクルージが空想や想像力のような人間の精神的資質とは縁遠い存在であり、その名が示すように「狡辛い爺さん」"a wicked old screw" (IV, 62) で、利己主義に則した老檜極まる守銭奴であるという事実へ向けるために、ディケンズが計画的に設置した、いわば燻製ニシン (red herring) だと考えた方がより適切であろう。それゆえ、こうした作者の仕掛けた戦略的な陥穿に落ちないように、読者はトリックを見破りながら細心の注意を払って読みを展開する必要がある。

『クリスマス・キャロル』は人口に膾炙している割には、単独で批評されることが少ない作品である。その主な理由の一つは、道徳的寓意性の高い空想的作品 (fantasy) として評価が定着しており、その方向に今日の批評の趨勢も傾いていることにある。欲深な老人スクルージの改心というテーマについても、このファンタジーの観点からのアプローチが主流であり、リアリズムについてはまだ批評的関心が薄いようである。本稿では、お伽噺的ファンタジーと作者の想像力を考察したあと、本題としてスクルージの想像力の意義を解明しながら、彼の改心のテーマを心理的リアリズムの立場から捉え直してみたい。


I ファンタジーとリアリズムの融合

『クリスマス・ブックス』(Christmas Books, 1843-48) から『人生の戦い』(The Battle of Life, 1846) を除いた四つの物語における作品構成上の共通点として、ハリー・ストーンが指摘したような「お伽噺的方法 (fairy-tale machinery)」がある。2 この点に関しては衆評の一致する所である。ディケンズの親友かつ伝記作家であるフォースター (John Forster) が『クリスマス・ブックス』の精神について、「ディケンズほど古い童話 (old nursery tales) に強い愛着を抱いていた人はなく、彼はクリスマス物の中で一段と高い形態 (a higher form) を童話に与えているにすぎないと感じ、密かな喜びを覚えていた」と述べた言葉をたとえ信用せずとも、その点は一目瞭然である。3 このようなお伽噺的要素は、『クリスマス・キャロル』において特に背景・プロット・構造・テーマ・文体などに、作者がファンタジーを想定して意図的に利用したものである。例えば作品の基本構造を見ると、作者は "A Ghost Story of Christmas" を副題とし、各章には "Ghost" や "Spirits" なる語を用い、また主人公の超自然的体験やハッピー・エンディングを描くことで、明らかにお伽噺的ファンタジーの枠組をこしらえていることが判然とする。

しかしながら、ファンタジーはある点で夢や幻想を見る人の心、あるいは潜在意識を描写する芸術上のコンヴェンションだと言える。そうした心理的な面に焦点を移せば、ファンタジーに新たな構造が見えてくる。ディケンズの場合その新たな構造とは、他の殆どの小説の基本となっているリアリズムである。リアリズムは個体を捉える性格描写において類型/共通性ではなく典型/個性を描く時、心理的になる傾向がある。実際、クリスマスの朝に改心したスクルージが窓辺に走り寄る際の心象風景 (V, 72) のように、時折ディケンズは彼の内面を触知可能なものとして顕在化して見せたり、彼の微妙で複雑な心の動きを忠実に描出している。このような作者の性格描写に注意を払い、スクルージの視点に立って眺めるならば、"shadows"(II, 27)や "visions"(lV, 69)として表現される幻影がたとえ彼の夢だとしても、私たちは本来の意味とは少し違った心理的リアリズムを強く印象づけられるはずである。4 例えば、ディケンズがファンタジーとして設定したスクルージの幻想的な夢は、古代人が考えたように人間が超現実的な世界との交わりに入って神の啓示を受ける手段となり得るが、リアリズムの立場から見ると、現代の心理学者が見なしているように、人間の意識に対応する深層の無意識が表現した映像ということになる。

補説するならば、幻想的な夢に登場するマーレイ (Jacob Marley) の亡霊および過去・現在・未来のクリスマスの精霊たちは、ファンタジーの観点では、作者がスクルージの改心のために創作した超自然的なもの -- 寓意的な解釈例を挙げれば、スクルージに「教訓」"lessons" (IV, 70) を伝達して改心させるために神によって派遣された「おつかい」"ministers" (I, 20) -- と言える。一方、リアリズムの視点では、利己主義的生活のために意識の世界で生きられず、無慈悲な男スクルージが認容し難いと思って無意識の世界に抑圧してきた生来的な善の分身、換言すれば意識上の悪の行為に対する意識下の罪悪感もしくは良心の可視的な外在化という解釈が成り立つだろう。それは肉体を備えた現実の分身ではなく、自我から分離・独立してスクルージの非人情な罪の痕跡を暴き続ける影としての分身である。ここで見逃してならない点は、スクルージが精霊たちを(故人の魂が元の人間の姿をして回帰したマーレイの亡霊に対して最初は不審の念を抱いたけれど)次第に実在する物として完全に信じるようになるという事実だ。この顕然たる事実は、精霊たちの存在が幻影であることの虚構性を潜めながら、その印象と衝撃の強さゆえに、目覚めている日常生活の経験以上の現実性、すなわち "a reality which transcends the everyday" を与えたことを立証している。6 このように眺めてくると、ディケンズがお伽噺に付与したとフォースターが伝える「一段と高い形態」とは、後述するようなスクルージの想像力と密接に関連した心理的リアリズムだと考えても、あながち的外れだとは言えまい。それゆえ、作品の総合的な芸術的価値は、ストーンが示したお伽噺的ファンタジーだけでなく、この心理的リアズムの形態を加えた、いわばファンタジーとリアリズムの全一な融合に嘱する所が大きいと考えてよい。ただ、双方が補い合って芸術的効果を高めているとはいえ、どちらの傾向がより強いと見るかによって、読者の目に映ずる作品の様態が大きく異なってくることは言うまでもない。


II お伽噺的ファンタジーと作者の想像力

お伽噺的ファンタジーの雰囲気がディケンズの意図に従って作品全体に浸透した結果、無生物や自然現象に生きた魂を認めるアニミズムの例が、『クリスマス・キャロル』には他の作品以上に数多く見出せる。それでは次に、闇のイメージを喚起しながら作品冒頭部の状況を支配する濃霧について、アニミズムの典型例を二つ挙げ、それらの意義を作者の想像力と関連させて検討してみよう。

(A)The fog came pouring in at every chink and keyhole, and was so dense without, that although the court was of the narrowest, the houses opposite were mere phantoms. To see the dingy cloud come drooping down, obscuring everything, one might have thought that Nature lived hard by, and was brewing on a large scale.(I, 9)

(B)The fog and frost so hung about the black old gateway of the house, that it seemed as if the Genius of the Weather sat in mournful meditation on the threshold.(I, 14)

(A)と(B)の場面における「濃霧」は、作者のアニミズムによるメタモルフォーゼの作用によって、「自然の女神」と「天気の守り神」とに変容し、まるでスクルージの身に付きまとう守護霊のように、それぞれ彼の昼間の事務所と夜間の自宅に取り憑いている。「無生物を人格化(anthropomorphising)するディケンズの才能」は、彼のあふれんばかりの想像力の源泉から横溢した一つの才能にすぎない。7 通例ディケンズの想像力が最も威力を発揮するのは仮定的表現や比喩的表現である。8 そうした想像力が伸びやかに飛翔する表現とアニミズムとの合体によって人格化された「濃霧」の場面は、読者の想像力と視覚を強く刺激することで、マーレイの亡霊や三人の精霊たちの出現を事前に察知させるための伏線(foreshadowing)または予期的暗示(anticipation)となっている。

このようなアニミズムの光で照射すると、超自然的な精霊たちは薄情冷淡なスクルージの肉体を離れて不滅に存在し、彼を道徳的堕落という死の闇から救い出す善神のように思えてくる。この種の見方は、スクルージに教訓を与えるために超現実的なものが擬人化され、一つの人格を備えた登場人物になっている点で寓意的だと言える。実際ディケンズのアニミズムは、特に彼がある主題を述べようとする時、アレゴリーの形態をとる傾向が強くなる。アレゴリーの場面が多い中で一際異彩を放つ例として、今は亡き共同経営者マーレイから利己主義なる衣鉢を継いで、そのままスクルージが住み着いている部屋の描写を引いてみよう。

They were a gloomy suite of rooms, in a lowering pile of building up a yard, where it had so little business to be, that one could scarcely help fancying it must have run there when it was a young house, playing at hide-and-seek with other houses, and forgotten the way out again.(I, 14)
建物の物理的外面と住人の心理的内面との類似性はディケンズが常用するトポスである。その点において、スクルージが住む「一続きの陰気な部屋」と光熱費の節約のために光を避けて闇を好む彼の性格とは、表裏一体の関係を成して呼応しており、支配的な闇のイメージを一層強めることになる。更に作者は、この部屋を内包する「大きな建物」に「顔をしかめている」という形容詞を冠することで、一つの人格を与えている。そのような形容は単なる感傷的虚偽 (pathetic fallacy) として等閑に付すべきものではなく、この一節が擬人化によってアレゴリーへと昇華する可能性を読者に感知させるための技巧なのである。そしてこの形容詞を一種の転移修飾語と見なせば、「大きな建物」の中で「塩っぱい顔をした」住人スクルージの人間嫌いの性格が図らずも浮き彫りになるだろう。この一節はまだプロットの進展もなくコンテクストも明確でない箇所なので、作者が単にスクルージの住居をユーモラスに擬人化したものとして閑却視されるかも知れない。しかし、作品を精読したあと -- 過去のクリスマスの精霊によってスクルージの過去を知らされた時点で -- 再度この場面に帰ってくるならば、私たちはある象徴的な意味を読み取ることができるはずである。要するに、「若い頃の」スクルージがある理由で人生の道を踏み外し、やがて利己主義という悪逆無道なる脇道にそれた結果、精神的な牢獄に迷い込んで現在「その出口を忘れている」という主題がここには見出せるのだ。その主題を諷刺的に暗示するために、作者は建物と住人とのアナロジーに着意して、この場面をアニミズムに富む活写によって一つのアレゴリーとして呈示したと解することができるだろう。

最初に挙げた「自然の女神」や「天気の守り神」といったアニミズムの典型例、そしてスクルージと彼の家との類似性によるアレゴリーの例に共通する点として、ここで注意を促しておきたいのは、いずれの場面でも作者が仮定法や直楡や隠楡といった想像力による想念の比喩的な表現形式を用いて、私たちの視覚的イメージに訴えると同時に、私たちつまり読者にも想像力によって「空想すること (fancying)」を期待している点である。アニミズムもアレゴリーも象徴作用によってファンタジーと密接に結びついており、いわば比喩を介して読者の想像力を刺激しながら作者の意図を伝達する媒体であることにおいて、両者は等価的に論じることができる。その点からも推察できるように、この作品に浸透したお伽噺的ファンタジーは、作者の想像力と読者の想像力との融合を暗黙の前提としているのである。


III 作者の想像力によるアイロニー

作者が読者との想像力の統合を計った場面では、笑いを提供するアイロニーがしばしば私たちの目を引く。こうしたアイロニーの観点から、業突張りの老人であるスクルージの強欲非道ぶりを比較考量すると、多くの示唆が得られるように思える。そのような場面では、読者は作者の案内で想像力の翼によって高く飛翔し、天上の高みから鳥瞰的にスクルージの所業を見下ろすことが可能となる。適例として、スクルージが未来のクリスマスの精霊と一緒にジョー (old Joe) の質屋における盗品売買を見る場面を挙げ、その言葉と状況のアイロニーを検証してみよう。次の引用文は、残虐極まりないスクルージに虐待されていた「日雇い雑役婦」"charwoman" (IV, 61) が、死人の身体からシャツを奪い取った自分の行為を洗濯屋の女や葬儀屋の使用人と一緒に、盗品故買人に対して正当化するシーンである。

 '. . . It's the best he had, and a fine one too. They'd have wasted it, if it hadn't been for me.'
 'What do you call wasting of it?' asked old Joe.
 'Putting it on him to be buried in, to be sure,' replied the woman with a laugh. 'Somebody was fool enough to do it, but I took it off again. If calico an't good enough for such a purpose, it isn't good enough for anything. It's quite as becoming to the body. He can't look uglier than he did in that one.'
 Scrooge listened to this dialogue in horror. As they sat grouped about their spoil, in the scanty light afforded by the old man's lamp, he viewed them with a detestation and disgust, which could hardly have been greater, though they demons, marketing the corpse itself. (IV, 63-64)
死体からシャツを剥ぎ取った浅ましい行為は、日雇い雑役婦が "Every person has a right to take care of themselves. He always did." (IV, 62) と弁解したように、スクルージが生前やっていた情け容赦ない阿漕な真似に対する諷刺的アイロニーとなっている。また、その行為の正当化のために彼女が「もし私がいなかったらシャツは無駄になるところだったよ」と言う時に使う仮定法は、人間の精神的情感より物質的利益を重視したスクルージに対する風諭として、私たちの記憶と連想を発動させて彼の打算的な価値観を想起させる。このようにアイロニーの担い手として重要な役を果たす彼女の、言い換えれば作者の諧謔を弄した仮定的表現は、読者に想像を巡らさせて笑いを誘うはずである。だが、その笑いは彼女が発する悪魔的な「笑い声」のごとく恐ろしいグロテスクなもので、「老人のランプから射す薄暗い光」-- 悪事を隠蔽している質屋の闇を照らすどころか、むしろ強調する光 -- の不気味さと見事に調和している。結局の所、W・カイザーがいみじくも言ったように、「諷刺的視点がしばしば痛烈になるあまり、読者は深淵の局面まで突き進み、こうしてグロテスクなものへと直接近づくことができるのである。」9

引用文後半における盗品売買に対するスクルージの「憎悪や嫌悪の念」に関しては、作者の想像力豊かな仮定法によって、その大きさが作者の側から説明されている。私たちがその仮定法に倣って、質屋にいる人間たちについて「死体そのものを売買する忌まわしい悪魔」を想像した時、そこには複雑な言葉のアイロニーが生じてくる。この種のアイロニーを看取するにはスクルージの死に着眼せねばならない。スクルージの死に関しては、彼の仕事仲間の一人が「ついに悪魔が(スクルージに)仕返しをしましたねえ」"Old Scratch has got his own [back on Scrooge] at last, hey?" (IV, 60) と何気なく言ったように、「悪魔の復讐」という解釈が成立する。悪魔学者たち (demonologists) が主張するように、キリスト教の七つの大罪 (seven deadly sins) に対応する七人の「悪魔」がいるとするならば、非常に算盤高いスクルージが「富の追求」"the pursuit of wealth" (II, 34) のために魂を売る契約を結んだ「悪魔」は、物欲の擬人的偶像である「富の邪神 (Mammon)」(Matt. 6:24; Luke 16:9-13) 以外の何物でもない。10 従って、最後まで突き詰めると、「悪魔」という言葉のアイロニーは次の二点に要約できる。第一に、盗品売買をして「おぞましい悪魔」にたとえられた人間たちにとっては、彼らを生前虐待していたスクルージこそが、クラチット (Cratchit) 家にとって彼が「人喰い鬼」"the Ogre of the family" (III, 48) であったように、「悪魔」のような "a malignantly wicked or cruel man" (OED, Devil 4. a.) なのである。第二に、彼らがスクルージの死体を襲撃して盗品を売却している行為は、生前彼らにとって「借金の取り立てにとても手厳しい人」"so merciless a creditor" (IV, 66) であったスクルージなる「悪魔」に対して、旧約聖書的な同害報復法 (lex talionis) に従った「悪魔の復讐」を文字通り意味している。その意味で、「悪魔」なる言葉は実際の事柄の反対を述べる仮定法を介して、二重のアイロニーを私たちに呈示する媒体であったことが分かる。

盗品売買の場面を含め、未来の精霊が一種のフラッシュフォアードまたは予期的表示 (prolepsis) によって、さながらパントマイムにおける早変わりの場面のように見せる幻影はすべて、スクルージの死に直結するイメージを喚起してやまない「暗示の影」"shadows" (IV, 58) として展開していく。その暗示に読者はすぐに気づくが、スクルージは8回目の幻影で墓石の上に自分の名前を見るまで (IV, 70) 確信しないようにプロットが仕組まれている。スクルージが「天罰」"a judgement on him" (IV, 62) としての自分の死に対する暗示を把捉できない未来の場面においては特に顕著であるが、マーレイの亡霊や過去と現在の精霊たちの場合においても、不合理な時間と空間に置かれた自己の状況が他者によって操作され、それを阻止できないことに彼は皮肉にも気づいていない。このような状況のアイロニーは諷刺的陰影に富む作品の至る所に点在しているので、作者が想像力を駆使したアイロニーの場面に対する曲解や素通りを避けるために、常に読者は自分の想像力の刃を研ぎ澄ましておく必要がある。


IV スクルージの逆説的想像力

この章と次章とでは、作者と読者の想像力の統合の問題から離れて、スクルージの想像力に関する諸問題を分析して行くことにする。この章ではまず最初に、スクルージの想像力を考えるに際して、想像力のような人間の基本的な精神機能を意識的に排除しようとするあまり、自分の想像力を無意識的に活用してしまうというパラドックスの成立を仮説として前もって設けておきたい。そのパラドックス成立の心理的過程を検証するために、クリスマスの精神に対するスクルージの見解について簡単に触れてみよう。欲得ずくの富者を代表するスクルージは、クリスマスの時期に一年中で最も "dismal", "morose", "cross" (I, 9) な精神状態になる。それはクリスマスが、彼の言葉によれば、"a time for paying bills without money; a time for finding yourself a year older, but not an hour richer" (I, 10) という四季支払い勘定日 (quarter days) の一つにすぎないからである。こうしたスクルージの言葉は、社会の苛酷な現実をあるがままにリアリズムの眼で認識できる洞察力、そして時代精神や人間性を見透す観察眼の鋭敏さを裏づけていると言えなくもない。だが、もちろん作者の主眼点は、キリストの降誕を記念する祝祭というクリスマスの精神的側面が軽視され、その物質的側面のみが重視されるスクルージの非情な思考体系を槍玉に挙げることにある。ゆえに、クリスマスの挨拶に来た甥のフレッド (Fred) が説く、次のようなクリスマスの定義は、当然スクルージの意識が容認できない "Humbug" (I, 9) として嘲笑に付されることになる。11

But I am sure I have always thought of Christmas time, when it has come round -- apart from the veneration due to its sacred name and origin, if anything belonging to it can be apart from that -- as a good time; a kind, forgiving, charitable, pleasant time: the only time I know of, in the long calendar of the year, when men and women seem by one consent to open their shut-up hearts freely, and to think of people below them as if they really were fellow-passengers to the grave, and not another race of creatures bound on other journeys. (I, 10)
フレッドが使った仮定法の "as if" 節によって、私たちは「自分より身分の低い人々」、別言すれば "the Poor and destitute, who suffer greatly at the present time" (I, 11) に対する同情には、彼らを一蓮托生の身、つまり「墓場まで一緒に行く旅の道づれ」と仮定するために、想像力が必要条件であることを理解させられる。この点において、フレッドは私たちのあらまほしき姿の体現者であり、クリスマスの精神が収斂された彼の言葉は、それ自体で我利我利亡者スクルージの改心による人間性の回復という、作品のテーマを支える基盤であるといっても過言ではない。甥の挨拶をはじめクリスマスの精神に関係したすべての人間的感情、別けても "human sympathy" (I, 8) を唾棄するために、スクルージが使う "Humbug" という一語で多義にわたる含みのある言葉は、想像力による仮定によって他人の事に干渉するという、(突き詰めれば自分に物質的損害を与えかねない)余計な行為への嫌忌の念の表徴に他ならない。

しかし、過去のクリスマスの精霊が見せるスクルージと婚約者ベラ (Belle) の別離のシーンで、私たちは "There is nothing on which it [the world] is so hard as poverty. . . ." (I, 34) という彼の弁明を聞くことになる。つまり、この弁解によって、世間の心ない仕打ちを恨むスクルージが貧困から逃れるべく「富の追求」に専念し、彼女の代替物として "the master-passion, Gain" (I, 34) なる偶像を物欲の悪魔マモン (Mammon) のごとく崇拝するようになった、その心理的な経緯を私たちは納得させられる。このように偶像崇拝の色づけがなされた胴欲なスクルージの汲々たる「金儲け」主義は、過去の貧困という精神的外傷から生じた憤怒または怨恨に基づいているのだ。だが、そのように作者がスクルージに関して第一印象とは違った環境の犠牲者としての側面を仄めかしたことにより、彼を最終的に改心に導いていく内的必然性がある程度生まれてくる。この一節には、野放図な父親の無軌道な生活が原因で幼少時から貧乏の苦悩を味わった、ディケンズの体験に裏打ちされた現実味が感じられる。従って、改心前の食欲なスクルージと作者の間には表面的に甚しい懸隔が存するが、根深い所では互いに金銭観という一脈通ずるものがあるように思われる。その結果として、世智辛くなったスクルージは新興ブルジョア階級のイデオロギーである自由放任主義 (laissez faire) に立脚して、"flat heresy" (III, 46) にふさわしい利己主義の生活を営んでいる訳である。事実、クリスマスを "a time, of all others, when Want is keenly felt, and Abundance rejoices" (I, 12) と唱導して救恤金を集めにきた二人の紳士たちに対して、他人の事には風馬牛のスクルージは "It's enough for a man to understand his own business, and not to interfere with other people's." というレッセ・フェールの立場を標傍している。自分の偏見に頑迷に固執して他人の意見を噴飯ものとして受け付けないスクルージの行為は、常軌を逸した事を平気でする偏執狂を想像させずにはおかない。しかし、金に執着するがめついスクルージにとって、想像力によって過去の貧困状態を再体験することは、精神的外傷を逆撫でする点だけでなく物質的損害をもたらす点からも、彼の意識が絶対許容できぬ、いわば犯すべからざるタブーなのである。

それにもかかわらず、当初の仮説に立ち返れば、皮肉なことにスクルージは想像力によって他人の気持ちを推し量って同情するというクリスマスの精神を排撃する時、知らぬ間に自分のずば抜けた想像力を読者に発揮して見せる。

'. . . If I could work my will,' said Scrooge indignantly, 'every idiot who goes about with "Merry Christmas" on his lips, should be boiled with his own pudding, and buried with a stake of holly through his heart. He should! . . .' (I, 10)
現実に反することの仮定的表現は、話者の意識下に抑圧されていることが心の中で想定されたものとして意識上に浮上する時がある点で、人問の営みに内在するパラドックスの集約的表現であると言える。この一節から確認し得ることは、クリスマスの精神を無視している依佑地なスクルージが、「柊」の小枝を刺した「プディング」といった楽しいクリスマスを連想させるものを完全には忘却の川に流し去っていない点である。

このような想像力を遺憾なく駆使した仮定法は、クリスマスの精神に対する悪意から発生した気味の悪い冗談 (gallows humour) と解することができよう。「心臓に柊の杭を打ち込んで(十字路に)埋める」という、自殺者に対する蛮風(1823年廃止)を想像した因業おやじスクルージの気味の悪い冗談は、M・スレイターの指摘を待つまでもなく、『骨董屋』(The Old Curiosity Shop, 1840-41) に登場する無気味で醜悪な怪物クウィルプ (Daniel Quilp) の悪意に満ちた冗談を思い出させる。12 彼らの冗談はグロテスクな恐怖によって読者に一種の滑稽さをもたらす。グロテスクなものは見る者に恐怖と当惑と笑いをかき立てるが、笑いが恐怖と当惑を緩和して優位を占めるのが通例である。明らかにディケンズはグロテスクな要素を喜劇的かつ諷刺的な目的で使っており、その目的に沿ってスクルージの冷やかな悪意は滑稽に歪曲され、空想的に誇張された形象を呈しながら、冗談として言語化されている訳である。13 ここで同時に留意すべきは、このグロテスクな滑稽さがスクルージのつれない言葉だけでなく、外面や行動様式にも見出せることである。その滑稽さとは、「彼の心の中の冷たさ」"cold within him" (I, 8) が表面化した容姿のみならず・柔軟性が欠落した偏執狂的なぎこちない行為が生むグロテスクなおかしさである。グロテスクが滑稽な笑いを生み出す主因は、現実に対する歪曲 (distortion) と誇張 (exaggeration) だと一般的に考えられている。14 人間を動物や無生物との類似性においてデフォルメすることもまた、グロテスクな滑稽さを醸し出す一つの条件だと言える。実際、身体の割には頭が馬鹿でかい小人のクウィルプが "a panting dog" (III) にたとえられたように、スクルージは "Yes and No" (III, 55) のゲームにおいて「狂暴性 (violence)」ゆえに「聖書では非常に危険な動物」となっている"a bear" のような人面獣心の男と見なされ、フレッドを "a fresh roar of laughter" に陥らせている。15 この場合、私たちの念頭から常に離れないのは、現実の歪曲と誇張といった形態の意図的な変形の点で、グロテスクがリアリズムから遊離するのではないかという疑問である。しかし、ディケンズの場合は逆説的な言い方になるが、グロテスクなものが普通の意味でのリアリズムからいかに掛け離れようと、彼が考えるリアリズムの域を脱することはない。ディケンズのリアリズムは、グロテスクによって外見の背後に隠された実体を視覚的に描出しようとした、諷刺的な風俗画家ホガース (Wil1iam Hogarth, 1697-1764) の流れを汲む、いわゆるグロテスク・リアリズムである。更にまた、A・ウィルソンが説示したように、ディケンズにとってのリアリティは "a greater intermixture of the wondrous and the grotesque than most men's" から成り立っている。16 極端に言えば、第一章の最後に述べたファンタジーの「驚異的な要素」とリアリズムの「グロテスクな要素」の融合こそが、ディケンズに現実性を感受させていることになるのだ。17 だが、読者にとってはグロテスクなものがリアリズムから遊離すれば、それだけ一層強く想像力に働きかけて滑稽な笑いを引き出すことになるはずである。

スクルージの言語に関して、(A)E・ジョンソンと(B)P・ホッブスバウムは次のように指摘している。18

(A)Scrooge's own language has a jocose hyperbole, even when he is supposed to be most ferocious or most terrified, that makes his very utterance seem half a masquerade.

(B)His utterance is not just harsh: he is a greatly superior Ralph Nickleby, with a sour humour of his own.

勘定高いスクルージは守銭奴の高利貸しラルフのごとく「残酷な」言葉を使うけれど、ラルフには見出せない「独特な意地の悪いユーモア」を備えているというホッブスバウムの見解は正に適評と言うべきだ。甥や募金集めの紳士たちを退散させるべく、スクルージが意識的に狂暴な恐ろしい言葉を誇張して使っているとのジョンソンの評もまた確かに当たっている。だが、双方の意見を勘案した上で見逃せないのは、スクルージ自身その言葉の「お道化た誇張」が生むグロァスクな滑稽さ、つまり自分の想像力が作る「独特なユーモア」に気づいていないだけでなく、その言葉を冗談であるとすら思っていない点である。結果的に見れば、想像力に対する忌避がスクルージの想像力を躍動させるというパブドックスは、不人情な性格ゆえに彼が自分の想像力から生まれるユーモアに気づかないという滑稽さを私たちに感じさせたことになる。しかし、スクルージの子供時代を瞥見すれば明らかなように、作者の信念の根底には主人公に対する基本的な弁護の姿勢が厳存している。この場合もまた、スクルージの想像力の逆説性や無知の滑稽さなどを人間共通の弱点として寛大な態度で眺め楽しむという、いわばユーモアを解する心を作者は読者に期待しているのではなかろうか。とどのつまり、そうしたユーモアを生む想像力をスクルージの言葉に見出すことができるがゆえに、ジョンソンが暗に匂わせているように、私たちは彼の言葉を無害な冗談と見なし、彼の獰猛で野獣のような仮面の下に隠れた真の自己をいつか見ることができるのではないか、という期待に駆り立てられるのである。

V スクルージの想像力における先天性と後天性

ここで一つの疑問を投げかけねばならない。スクルージに確かに内在しているが自分で気づいていない想像力は、先天的な側面と後天的な側面とでは、一体どちらの比重が大きいのであろうか。三人の精霊たちが時を定めて訪問することをマーレイの亡霊から予告され、スクルージが "Couldn't I take 'em all at once, and have it over, Jacob?" (I, 21) と提案する場面、過去の精霊の訪問目的が彼の幸福のためだと聞いて、その目的のためならば "a night of unbroken rest" (II, 25) の方が有難いと考える場面、そして現在の精霊の兄弟が1800人以上もいると知って、"A tremendous family to provide for!" (III, 40) と思わず呟く場面などでは、スクルージの持って生まれたユーモラスな想像力が、彼の心に勃然と湧いているという印象を与えるのに十分である。しかし、実際問題として、スクルージの想像力は次に述べる孤独、恐怖、そして利己主義的生活といった様々な現実に対処すべく必然的に身に付いた能力として、その経験的な比重の方が大であるように思われる。とはいえ、後天的な想像力は決して無から生まれたものではない。常に私たちはすべからく、その源泉をスクルージの意識下に抑圧されている天賦の才能としての想像力に読み取るべきではないだろうか。

それでは、スクルージの心理状態に重点を置きながら、彼の後天的な想像力に三つの角度からアプローチしてみよう。まず第一に、想像力を育んだ孤独の問題がある。過去のクリスマスの精霊がフラッシュバックによって見せる学校時代のスクルージの姿、すなわち "his poor forgotten self as he used to be" (II, 27) を通して、薄幸の少年スクルージがクリスマス休暇にも実家に帰れず、"A solitary child, neglected by his friends" として学校に一人ぽつねんと残っていることが判明する。19 その孤独を癒さんがために The Arabian Nights' Entertainments -- 新約聖書とシェイクスピアに次いでディケンズの引用・言及が多い、文字通りお伽噺の起源の一つ -- の読書に耽った過去の自分の心情を察して、現在のスクルージは帰属意識によって想像を逞しくする。

 The Spirit touched him on the arm, and pointed to his younger self, intent upon his reading. Suddenly a man, in foreign garments: wonderfully real and distinct to look at: stood outside the window, with an axe stuck in his belt, and leading by the bridle an ass laden with wood.
 'Why, it's Ali Baba.' Scrooge exclaimed in ecstasy. 'It's dear old honest Ali Baba. Yes, yes, I know. One Christmas time, when yonder solitary child was left here all alone, he did come, for the first time, just like that. Poor boy. . . . ' (II, 28)
孤独な少年のスクルージと幻想体験をしている大人のスクルージにとって、アリ・ババが「驚くほどリアルにはっきり見える」のは、彼らが現実から遊離して空想による虚構の世界に完全に没入しているからに相違ない。既述したように、幻想を体験している本人にとって、幻想は日常の経験以上に現実性を有しているのである。この心理的リアリズムにおける現実性は、過去の記憶を呼び起こされた現在のスクルージが、アリ・ババの実在を確信して真顔で「彼は本当に来たんだ」と叫んでいることから判読できる。そうした空想の場面の特色として看過できない点は、スクルージの内実に変化の兆しが現われていることである。スクルージは無人島で孤独に耐えた "Poor Robin Crusoe" (II, 28) のような子供時代の自分の気持ちを想像力によって忖度したあと、昨晩事務所の扉の所でクリスマス・キャロルを歌った少年を追い払ったこと (I, 13) を後悔する。意識下に既に抑圧されていた少年期の孤独という精神的外傷が、視覚的な記憶を媒体として現在のうちに再現された結果、ここでは過去の自己に対する同情が孤独な少年という類似性を通して第三者に置き換えられている。つまり、精神的エネルギーの対象領域が過去の自己から無意識的に現在の他者へと移行する、いわゆる感情の転移 (transference) が見出せる以上、この段階で既に情け知らずの人非人であるスクルージは、想像力による同情という人間の心理的機能をある程度回復していると言える。その意味において、この箇所は彼の最終的な改心の萌芽として含蓄する所が大である。20

第二として、恐怖の現実から逃避するために、スクルージの並外れた想像力が咄嗟に作用する時がある。例えば、自宅のドアを閉めた時の反響音で、スクルージは "a locomotive hearse going on before him in the gloom" (I, 15-16) を見たような気になる。このような聴覚と視覚との共感覚 (synesthesia) は、反響音への恐怖が部屋を支配する「薄暗がり」への恐怖と相俟って彼の想像力を高ぶらせた結果として生じた、いわばパラノイア的疑心暗鬼だと推断できる。もう一つ好例を挙げると、マーレイの亡霊の出現に際して、スクルージが恐怖への反作用として相手に冗談を飛ばすシーンがある。

 'You don't believe in me,' observed the Ghost.
 'I don't,' said Scrooge.
 'What evidence would you have of my reality beyond that of your senses?'
 'I don't know,' said Scrooge.
 'Why do you doubt your senses?'
 'Because,' said Scrooge, 'a little thing affects them. A slight disorder of the stomach makes them cheats. You may be an undigested bit of beef, a blot of mustard, a crumb of cheese, a fragment of an underdone potato. There's more of gravy than of grave about you, whatever you are!'
 Scrooge was not much in the habit of cracking jokes, nor did he feel, in his heart, by any means waggish then. The truth is, that he tried to be smart, as a means of distracting his own attention, and keeping down his terror; for the spectre's voice disturbed the very marrow in his bones.
何でも算盤ずくでするスクルージには、"one guiding principle" (I, 35) として自分の感覚や理性を重んじて合理性を貫きたい気持ちがある。従って、亡霊の存在を認めざるを得ない状況に陥っても、彼は自分の感覚の異常を食事に仮託して、その実在を老いの一徹であえて認めようとしない。事実、スクルージは亡霊に対する「恐怖」を鎮めんがために「当意即妙な」ことを瞬時に発しようとしただけであり、意識して「冗談」を飛ばしたり「滑稽な」気分になっていないことは、彼の真剣な態度から推察できる。その反面、読者にとってはスクルージが真剣であるがゆえに、彼の無意識的な「冗談」は「滑稽な」度合いを急激に高めるのである。21 甥のフレッドはスクルージについて、"He's a comical old fellow . . . and not so pleasant as he might be." (III, 52) と評している。だが、他人には「風変わりな老人」に見える伯父が、実は "plenty of merriment" (III, 55) を与えてくれる「滑稽な老人」であることを血縁の具眼者フレッドはちゃんと看破しているのだ。その意味で、"Scrooge is never funny, but he has a pungent and biting wit and is an excellent conversationalist." というJ・ヒリス・ミラーの見解は、確かにスクルージに「辛辣で鋭いウィット」がある点では正鵠を射ている。22 しかし、機知に富んだ「冗談」を操るスクルージが私たちにとって「決して滑稽でない」という断定的憶説は、スクルージ自身が自分の「冗談」の「滑稽な」面に気づいていないという皮肉な状況が作り出す劇的アイロニーを見落とした点で、少し早計に失すると言わねばなるまい。

同じ着眼点から捉えるならば、「恐怖」を紛らわすために無意識的にスクルージの口から飛び出た「墓」と「肉汁」との語呂合わせ (pun) は、作中では他を凌駕する彼の言語遊戯における豊富な想像力の傍証となるだろう。つまり、彼の想像力の豊かさは、もじりや地口や同音異義語を活用した言葉遊びなど、笑いを呼ぶ言語的意匠が多いという単純な数字によって証明できるのだ。なかんずくこの「肉汁」なる言葉は、マーレイの亡霊を非現実的な存在として、言葉を換えれば「自分勝手に創作した大勢の悪鬼とも」"a legion of goblins, all of my own creation" (I. 19) の同類として、その実在性を否定せんがためにスクルージが瞬間的に思いついた「牛肉」、「からし」、「チーズ」、「馬鈴薯」といった言葉によって助長されたものである。その点で、これら一連の食物に関する言葉は、彼の美食に対する禁忌の反動として培われたエピキュリアン的な想像力の豊富さを裏打ちしている。

第三として、利己主義の生活に対処するのに必然的に増強された想像力がある。利己主義によって「厭世的な氷」"misanthropic ice" (I, 13) のように冷淡な人間嫌いになったスクルージは、7年前にマーレイが死んだあとは、余儀ない事として文字通り「一本の蝋燭」(I, 37) だけを相手に「天涯孤独」"Quite alone in the world" の生活を送ってきた。金持ちなのにけち臭いスクルージの利己主義は、光熱費の節約や "innocent enjoyment" (III, 43) の忌避が端的に示すように、いわば自己愛の欠除した利己主義である。スクルージのような "an odious, stingy, hard, unfeeling man" (III, 48) の禁欲主義的生活は、D・ウォルダーが言うように、23 クリスマスの祝祭や「人間性に内在する慈善的な衝動を共謀して消滅させようとした(1843年当時の時代風潮である)功利主義、(敬愛の実践による禁欲的かつ清潔な生活を唱える点で、ヴィクトリア朝の資本主義精神に多大の影響を及ぼしたカルヴィニズムを含めた)ピューリタニズム、そして拝金主義」の極端な実践である。24 だが、別の視点から眺めると、そのような暖衣飽食を避けた禁欲生活は、スクルージが卓抜した想像力に恵まれているがゆえに可能なのだと言えるだろう。こうした視点は、質素倹約を旨とするスクルージと慎ましい生活ながら楽しい家庭を持つ彼の事務員クラチットとが事務所で使う煖炉の火によって、開巻早々に示唆される。

Scrooge had a very small fire, but the clerk's fire was so very much smaller that it looked like one coal. But he couldn't replenish it, for Scrooge kept the coal-box in his own room; and so surely as the clerk came in with the shovel, the master predicted that it would be necessary for them to part. Wherefore the clerk put on his white comforter, and tried to warm himself at the candle; in which effort, not being a man of a strong imagination, he failed. (I, 9)
クラチットには耐えられない寒さをスクルージが我慢できるのは、単なる禁欲主義的な忍耐強さとは別に、この事務員の想像を絶するような「逞しい想像力」を彼が備えているからに違いない。「蝋燭」で暖を取るのは無理だという発想は、作者や読者の一般的な視点に基づいている。みみっちいまでに極端に生活を切り詰めた吝嗇家スクルージの特殊な視点を考慮すれば、彼の比倫を絶する想像力が「実に細々した暖炉の火」から十分な暖を引き出すことができるとしても、あまり驚くには当たるまい。ここで私たちは、空想の世界の側に立つと思われるクラチットに「逞しい想像力」が欠落し、功利主義の時代において合理主義の世界を代表し、人間的感情をすべて無視するがちがちのスクルージが、「想像力の豊かな男」として描かれているという興味深い事実に直面する。しかし、合理性と空想性という一見矛盾するような特徴を兼備していることがスクルージの性格の面白さを際立たせているのであり、ここにこそディケンズの性格描写が真に独創的たり得る所以がある。

さて、このような想像力の逆転現象には、スクルージとクラチットに代表されるような労使関係に対するディケンズの一つの見方が含意されており、これを私たちは社会批判という一段と大きな主題の指針とすることができる。具体的に言えば、暖炉の燃料補給を禁じられ「蝋燭」で暖を取ろうと努力して失敗したクラチットの想像力の欠如は、(実際には家庭に戻れば彼の空想と想像力はたちまち回復するのだが)雇主の労働者に対する弾圧、彼の場合には暖炉の燃料とのアナロジーによって推測できる "fifteen shillings a week" (I, 11) という賃金面での抑圧を暗示している。そのような労使問題は、11年後に執筆された『ハード・タイムズ』(Hard Times, 1854) において、コークタウン (Coketown) の工場主バウンダビー (Josiah Bounderby) と彼の労働者ブラックプール (Stephen Blackpool) との間で、本格的に取り組まれることになる。その意味においても、『ハード・タイムズ』での労使問題の禍根は、『クリスマス・キャロル』の中で既に胚胎していたと言える。従って、こうした逆の視座から捉えれば、『ハード・タイムズ』での労使や貧富の問題を考察することは、スクルージとクラチットにおいて見られる労使間の想像力の象徴的逆転における心理的要因を解く一つの鍵を発見する上で、意義のある作業となるはずである。


VI 労使問題における想像力の意義

前章では三つの角度、つまり孤独・恐怖・利己主義的生活という見地に立って、処世の要諦として経験的に増強されたスクルージの想像力に関する諸問題を分析してきたが、その増強の前提として素質的な想像力があったことについては論を俟たない。このようなスクルージの先天的かつ後天的な想像力が最終的な改心を可能にしている、その心理的過程をリアリズムの立場からより一層深く掘り下げるためには、『ハード・タイムズ』の例を援用することが有意義だと思われる。なぜならば、先程述べた想像力の象徴的逆転力が、この作品にも多少念入りに読めば見えてくるからである。

引退した工場主グラッドグラインド (Thomas Gradgrind) は功利主義と事実至上主義に固執し、子供の教育にも空想や想像力を誤謬の源泉として禁止している。しかし、彼の硬直した世界と対蹠的に設定されたスリアリー (Sleary) のサーカス団は空想の世界を代表しながら、実際に恵まれた天成の想像力を発揮するのは道化の娘シシー (Sissy Jupe) のみで、他の団員は空想によって楽しい雰囲気を醸し出すどころか、むしろ苦悶に満ちた生活を読者に垣間見せるだけである。労働者ブラックプールに至っては、ヤスパース (Karl Jaspers) の用語を使うならば、窮乏のどん底にあって不可避な死を除いて何も期待できないという出口なしの「限界状況 (Grenzsituation)」にいるだけで、空想や想像力の片鱗さえ見出せない。一方、彼ら労働者たちとは逆に、溝の中から工場主兼銀行家にまで成り上がり、その独立独行を自画自賛するバウンダビーは、スクルージのごとく衆に抜きん出た想像力による実に措辞巧みな対話の中で、その押し売り的な言葉を繰り返している。次の引用文は、バウンダビーが自立独歩ぶりを粉飾するために、彼の家政婦で零落した貴族階級のスパージット (Sparsit) 夫人と自分とのコントラストを述べた誇大妄想的な言葉である。

'. . . At the time when, to have been a tumbler in the mud of the streets, would have been a godsend to me, a prize in the lottery to me, you were at the Italian Opera. You were coming out of the Italian Opera, ma'am, in white satin and jewels, a blaze of splendour, when I hadn't a penny to buy a link to light you. . . . A hard bed the pavement of its Arcade used to make, I assure you. People like you, ma'am, accustomed from infancy to lie on Down feathers, have no idea how hard a paving-stone is, without trying it.' (I, vii)
バウンダビーの生彩あるユーモラスな言葉は、実は彼が優しい母親の支援を受けていたという過去の事実が最後に発覚するや、想像力による現実の歪曲と誇張が生んだ滑稽な笑いを急激に失ってしまう。それは彼に対する軽蔑が強まり、私たちが彼を反感的人物として完全に突き放すからである。従って、過去の事実の隠蔽と現在の尾ひれを付けた見せ掛けのために養われたバウンダビーの想像力は、作者が彼の母親ペグラー (Pegler) 夫人の言葉を借りて暗示したように "wicked imaginations" (III, v) である。そのような「邪悪な想像力」は苛酷な現実から逃避せんがためのスクルージの想像力とは異質であり、その自己欺瞞の有無の点で両者の性格の間には埋め難い径庭があると言わねばならない。25 このような資本家に対して、社会の底辺に位する労働者の側に空想や想像力が欠落してしまった主たる原因を推測するならば、後期作品群における現実認識の深化に従って、ディケンズが空想といった安易な手段ではもはや緩和し得ない労働者の非人道的な状況を、社会問題として提起するようになったことが挙げられる。この推論の根拠として、内面的な実状が表面とは異なるという物事の本質に対する深い洞察に根差して、ディケンズはスリアリーのサーカス団なる空想の世界の外側を幻想的な魅力あるものとしながら、同時に内側の悲惨な現実をあるがままの姿で鮮烈に描破している。

功利主義の批判および事実に対する空想の擁護は、『ハード・タイムズ』において双壁を成す主要なテーマである。この作品では、功利主義はまず教育の場に現われ、空想に対する事実の重視は子供たちから真の意味での子供時代を喪失させ、彼らの想像力を制圧することが力説される。功利主義教育は自己の利害 (number one) と利己主義 (egoism) を育成かつ促進させる。ゆえに、この教育体制における優等生ビッツァー (Bitzer) が将来バウンダビーのような、いわゆる自分の腕一本で叩き上げた男 (sel-made man) になることは、当然の帰結として十分に予測し得る。次に功利主義が労使関係の場に侵入すると、その社会的弊害は更に悲惨を極めることになる。産業革命によって工場労働者 (proletariat) が集中したコークタウンのような都市には、農村のような田園的・牧歌的な慰安もなく、従来の生産様式である家内工業に見られたような雇主との家庭的・温情的な雰囲気がなくなったことを、この作品でディケンズは労使関係を通して私たちに伝達している。工場経営者として大きな実力を持って社会に台頭するようになった産業資本家 (bourgeoisie) のバウンダビーは、同じ新興ブルジョア階級のスクルージのごとく自由放任主義を悪用し、労働者の苛酷な現実と惨状を直視することなく、むしろ冷然と眺めながら正当化しようとする。労働者が生き地獄のような現実から逃れるべく失意の慰めとして依存する空想や想像力は、バウンダビーにとって自分の自由活動に干渉されるだけでなく、ブラックプールの離婚のような労働者の個人的問題にまで自分が介入しなければならなくなる邪魔な代物なのである。要するに、『ハード・タイムズ』で労使関係を扱った文章の行間を丹念に読み進めば、疲弊した労働者の心中を空想や想像力によって忖度するまで、資本家が愛情や同情を示すことは不可能だという作者の真意が直ちに明らかになるのである。

そのような労使間題におけるディケンズの真意を悟るのに剴切な例が『ハード・タイムズ』に一つある。それは現在のクリスマスの精霊がスクルージとの別れ際に見せた、"Ignorance" と "Want" (III, 57) という二人の子供の場面の同一延長線上にある死の警告 (memento mori) の一節だ。労働者ブラックプールが貧困ゆえに酒好きな妻との離婚や誠実な女性レイチェル (Rachael) との結婚を願ってもできないという極限状況下で、物語の外側に立つべき語り手のディケンズは感情移入 (empathy) の高揚によって突如として物語内に侵入し、 "Utilitarian economists" や "Commissioners of Facts" に対して次のような焦眉の急を告げる。

Cultivate in them, while there is yet time, the utmost graces of the fancies and affections, to adorn their lives so much in need of ornament; or, in the day of your triumph, when romance is utterly driven out of their souls, and they and a bare existence stand face to face, Reality will take a wolfish turn, and make an end of you. (II, vi)
死の警告の対象は「功利主義の学者」や「事実至上主義の委員」といった富者の代表者である。スリアリーのサーカス団のごとく「空想的雰囲気」が完全に消滅するほど、貧者が「露命をつなぐだけの生活」に陥れば、悪魔のスクルージに対する三人の債務者たちの復讐のように、苛酷な「現実」にあえぐ貧者は、その「現実」を正当化して彼らの窮状を見過こそうとする富者に、Luddite Movement (1811-12) や Peterloo Massacre (1819) といった単なる暴動では済まない、第二のフランス革命という形で仕返しをするかも知れないのである。そのような抜き差しならぬ事態を回避するために、ここでは想像力や同情と軌を一にする「空想や愛情」という最高の恵みの必要性、ベンサム (Jeremy Bentham) の功利主義思想の限界と欠陥を鋭く指摘したミル (J. S. Mill) の言葉によれば、ベンサムの合理主義の対極となるコールリッジのロマン主義の必要性が、プロレタリアートのブルジョアジーに対する革命勃発の警告を通して、切実な問題として説かれている。26 そして、こうしたロマン主義的な空想や想像力の羽翼を伸ばして飛翔し、相手の立場に降下して同情や愛情を示すという心理的機能こそ、危殆に瀕した功利主義社会の様々な問題に対して、ディケンズが思いついた主たる矯正策なのである。

結局、ブラックプールが孤立無援の状態に陥って象徴的に廃坑の底で非業の死を遂げても、あるいは自分の嘘が露顕しても、バウンダビーが改心することはない。それは『ハード・タイムズ』での深刻な労使間題に対するディケンズの認識の在り方を最も端的な形で表わした結末であると言える。だが、グラッドグラインドの方は、"his pride of his heart and the triumph of his system" (II, xii) であった娘のルイザ (Louisa) によって、空想や想像力より事実や数字を優先させる教育方針が彼女の無惨な結婚による不幸を招く原因になったと非難され、教育法の過ちに気づいて悔い改めるようになる。また、息子のトム (Tom) の銀行泥棒に衝撃を受け、グラッドグラインドは因果応報への責任感から、事実や数字を "Faith, Hope, and Charity" (III, ix) というキリスト教の三大徳に役立てるべく、空想や想像力の意義を認めるようになる。

以上, 『ハード・タイムズ』の例を長々と援用したのは、スクルージのような「19世紀のビジネスマンの実利的な態度のみならず、それを支える教条的な功利主義理論に対する攻撃」という、当時の腐敗した社会のエトスを諷刺する時事的な側面を持つ『クリスマス・キャロル』においても、ディケンズが空想や想像力によって愛情や同情を示すという心理的機能の回復を、スクルージの改心と密接に結びつけているからに他ならない。27 改悛後、昔の主人 "Fezziwig alive again" (III, 30) のように変容したスクルージは、雇人クラチットのために「善き雇主」"as good a master . . . as the good old city knew" (V, 76) となるだけでなく、足の悪い息子ティム (Tiny Tim) にとっても「もう一人の父親」"a second father" となる。"I'll raise your salary, and endeavour to assist your struggling family, and we will discuss your affairs this very afternoon." というクラチットに対する言葉は、スクルージが自分を救ってくれた "Jacob Marley's intervention" (III, 38) に倣って、レッセ・フェールの立場を捨てて空想的な想像力によってクラチットの家庭に介入し、銭金ずくではない父性愛的な同情を示したことを如実に物語っている。結局の所、闇の子としてマモンなる偶像を崇拝してきたスクルージはクリスマス・イヴに象徴的な死を経験し、悔い改めの内的行為によって翌朝「真の光の子」として再生した結果、その外的行為に相応しい兄弟愛の実践 (1 John 2:10) によってキリストから委ねられた使命に応えているのでる。従って、人生の何たるかを感得して光の中にいるスクルージが蹟くことはもはやあるまい。

クリスマスの朝、スクルージは幻想的な夢の世界から覚醒したあと、悔い改めの内的行為として "I am as merry as a schoolboy." (V, 71)、あるいは "I'm quite a baby. Never mind. I don't care. I'd rather be a baby." (V, 72) と叫んで無邪気な幼心を見せる。つまり、スクルージの改心による再生を象徴するのに、作品の最後では世俗に染まらない無心な子供のイメージが強調される。悔い改めの内面行為で肝要なことは、「キリストが幼子を呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせて」"he took a child, and set him in the midst of them" (IV, 66)、"Except ye be converted, and become as little children, ye shall not enter into the kingdom of heaven." (Matt. 18:3) と言ったように、心を入れ替えて幼子のようになることである。A・ウィルソンはディケンズの幼年時代のクリスマスに関連して、「親たちの中にある子供の心 (the child in the parents)」を目覚ませて蘇らせることの重要性を説き、彼のモラルについて次のように述べている。

. . . he was always a moralist, and never more so than at Christmas. His favourite moral was that in an increasingly utilitarian, industrial world we needed to cultivate the imagination, the fancy of childhood; this was a great part of his interpretation of 'Except ye . . . become as little children', a text like all Christ's words of great importance to him. 28
「親たちに内在する子供の心」の大切さについては、大人が童心に帰って子供の遊びやゲームに興じるフレッドのクリスマス・パーティーで、ディケンズ自身 "it is good to be children sometimes, and never better than at Christmas, when its mighty Founder was a child himself." (III, 53) と言っている。残念ながら、ウィルソンはディケンズが重大視した「子供時代の想像力や空想」の具体的役割を敷衍していない。しかし「想像力や空想」の役割が、前述したように愛情や同情を産出することにあるのは明白である。こうした心理的機能は、功利主義やピューリタニズムの倫理観に支えられたヴィクトリア朝社会にあって常に福音思想を信奉したディケンズにとって、たとえ『ハード・タイムズ』のような社会的問題のレベルでは無理でも、スクルージのような個人的レベルの問題に対する解決策であったのである。つまり、スクルージの改心は単なる一個人の問題に留まらず、"a plea for society itself to undergo a change of heart" としての意味を荷なっているのである。29 その意味で、ディケンズはスクルージを当時の社会における民衆の心性の体現者として性格描写したのだと言えるのではあるまいか。ゆえに、私たちはスクルージに対して蛇蝎のごとく「嫌悪や憎悪の念」などを抱く場合、彼が私たちのコンプレックスを投影したもの、または人格化したものではないかと謙虚に考えてみる必要がある。要するに、スクルージの再生を扱つた『クリスマス・キャロル』という物語を通して、ディケンズは社会的身分には義務が伴うという中世的原理やキリスト教精神を一般読者の心に復活させようとしたのであり、彼は飽くまで社会問題を解決する基本として、空想的な想像力による同胞愛という慈恵的手段に依存していたように思えてならない。

結 論

改めて記すまでもなく、スクルージが空想や想像力を具備していたことは瞭然として明らかである。スクルージの先天的な想像力は決して失われた子供時代と一緒に消滅していた訳ではなく、意識下に抑圧されながらも、後天的な想像力との相乗作用で隠然たる勢力を反動的に増していたのである。その事実は、スクルージの無意識の世界が投影された過去の精霊との幻想体験における初期段階で、彼がクリスマス・キャロルを歌った少年に同情を示すことができた一例によって容易に証明できるだろう。このようなスクルージの素質的な想像力に加えて、詳細に分析した経験的な想像力をかんがみるに、「スクルージの改心があまりに唐突かつ急激すぎて心理的な説得性に欠けると不服を唱える読者たち」には、一言異論を挾まねばならない。30 ハッピー・エンディングに違和感を抱く彼らは、作品の主調を奏でるファンタジーの側面だけを見ようとするあまり、最終的な悔い改めを心理的に可能ならしめたスクルージの死線をさまよう苦しみや死地から脱するための想像力に関して、リアリズムの側面からの読みを怠ったと言わざるを得ない。換言すれば、スクルージの改心の心理的説得性は、作者が彼を想像力とは無縁の男のように提示しながら、同時に作品全体を通して有機的に連関させ統一させた、そうした彼の想像力についての様々な場面に対する読者の注意にかかっているのだ。想像力から同へというディケンズの心理的な図式に従えば、スクルージに付与された想像力は最終的に彼を善心に立ち返らせ、死に損ないの老ぼれから情け深い剽軽な好々爺に変身させるための十分条件であったはずである。それゆえ、スクルージの悔い改めは、作品冒頭で彼が読者に想像力を見せた段階で、既に予定されていたことになりはしないだろうか。

本稿の最初で述べたように、マーレイの亡霊と三人の精霊たちは、お伽噺的ファンタジーの点では、作者がスクルージに教訓を与えるべく寓意的に創作した超現実的なものとなる。その点で読者はスクルージが受動的に幻想を見せられているという印象を受けるかも知れない。こうした作品構造は必然的にスクルージの改心を天啓が下ったような一種の "miracle" (IV, 66) として提示せざるを得ない。31 一方、心理的リアリズムの点から超自然的現象を解明すると、意識下に抑圧された善の機能がクリスマスという外的刺激を受けた結果、スクルージが自分の想像力によって無意識の世界から呼び起こした善の分身ということになる。そのような解釈はスクルージが独り歩きして能動的に幻影を見ているという印象を強く私たちに与えずにはおかない。卓越した人間の進化論 The Descent of Man (1871) の著者で、ディケンズと同時代人の博物学者ダーウィン (Charles Darwin) が道破したように、「想像力は人間の最高の特権の一つであり、この能力によって人間は意志から独立して従来のイメージやアイデアを結合させ、その成果として新しく素晴らしいものを創造できる」のである。32 スクルージの想像力もまた、単に記憶の再現や連想の働きだけでなく、自己を改心させるために積極的に独自の世界を構築している生産的・創造的な点にこその最大の意義があるのだと言える。朝晩見慣れていたドアのノッカーがリスマス・イヴに限ってマーレイの顔に見えたという日常の非日常化現象をはじめ、このような分身体験はすべて、スクルージ自身に具備された想像力の賜物/産物だったのである。それゆえ、スクルージが自分の想像力で創作した分身によって "the alteration in him" (V, 76) を惹起され、その結末として道徳的な死から再生したことを煎じ詰めていくならば、私たちは彼が想像力を媒体として自分で自分を改心させたという確然たる結論に帰着せざるを得ない。


使用したテクストは The Oxford Illustrated Dickens 版の Charles Dickens, Christmas Books (London: Oxford University Press, 1974)。A Christmas Carol に関する引用と言及は同版に依拠し、当該箇所は括弧に入れて章と頁数を示す。

  1. 空想と想像力は、コールジッジやワーズワースといったロマン派の詩人たちが区別するまで、多少の例外を除き、概して同意語と考えられていた。コールジッジにとって空想は "a mode of Memory emancipated from the order of time and space" 以外の何物でもなく、個々の記憶の再現的結合または分離の能力、もしくは観念連合の法則によって諸々のイメージを相関させる能力を意味する。一方、想像に対してコールジッジは次のような定義を下している。"It [Imagination] dissolves, diffuses, dissipates, in order to recreate; or where this process is rendered impossible, yet still at all events it struggles to idealize and to unify. It is essentially, vital, even as all objects (as objects) are essentially fixed and dead." 詰まる所、想像力はある対象に内在する無数の分裂や矛盾を止揚し、それを調和的総合体として認識し、全体として統一された理想的世界を創造する能力を意味する。そしてまた、空想が物事の表面的な類似性を感受するのに対し、想像力は表面下の深層にある、例えば美は真や善と対立しながら同時に両者を内面において包摂するといった内的関係を読み取るような、いわば芸術的創造に対する特殊能力の根幹であり、空想より優れた能力とされる。S. T. Coleridge, Biographia Literaria (London: Oxford University Press, 1969) I, 202.
  2. Harry Stone, Dickens and the Invisible World (London: Macmillan, 1980) 119.
  3. John Forster, The Life of Charles Dickens (London: J. M. Dent &Sons, 1966) I, 301.
  4. 心理的リアリズムは、通念として心の内的な活動・思考や感情・個性や性格など、人間の心理を客観的な誠実さで描写することを意味する。こうした心理的リアリズムの延長線上にあるのが、心理活動そのものを内面に直結して描く、いわゆる在意識 (subconscious) や意識の流れ (stream of consciousness) の描写である。ディケンズの場合、多くは心理の平面描写の域に留まっているが、スクルージの幻想的な夢の体験、すなわち「目に見えない霊界の体験」"glimpse of the Invisible World (I, 22) は、彼の想像力の心理的意義に着目することで、リアリズムからの解釈が可能となるだろう。
  5. スクルージはマーレイの亡霊との体験を "it was all a dream. . . ." (II, 23) と断じて合理化しようとするが、"Was it a dream or not?" (II, 24) という疑問が絶えず彼の脳中に去来する。そうした夢と現実との相克に身を挺して闘った結果、彼は最後に "It's all right, it's all true, it all happened." (V, 71) と叫んで、精霊たちの現実性を信じて疑わなくなる。
  6. Denis Walder, Dickens and Religion (London: George Allen & Unwin, 1981) 123.
  7. Philip Hobsbaum, A Reader's Guide to Charles Dickens (New York: Farrar, Straus and Giroux, 1973) 90.
  8. この点を裏づけると思われる一節は、ディケンズがマーレイの死を強調した作品の冒頭に見られる。ディケンズは死に直結するイメージとして、"as dead as a door-nail" (I, 7) という先祖伝来の直喩より、"a coffin-nail as the deadest piece of ironmongery in the trade" の方を好んでいる。このように伝統的な頭韻を無視した「棺桶の釘」との観念連合によって、"dead" を「死んだ」と「売れない」の両義を持つ語として把捉した所に、ディケンズの想像力の創造的価値の所在が明示されている。
  9. Wolfgang Kayser, The Grotesque in Art and Literature trans. Ulrich Weinsstein (New York: Columbia University Press, 1981) 127-28.
  10. R. H. Robbins, Encyclopedia of Witchcraft and Demonology (New York: Crown Publishers, 1959) 127. 七人の悪魔とは、Lucifer (pride), Mammon (covetousness), Asmodeus (lust), Satan (anger), Beelzebub (gluttony), Leviathan (envy), Belphegor (sloth) である。ディケンズは七つの大罪の異形として現在のクリスマスの精霊に "passion, pride, ill-will, hatred, envy, bigotry, and selfishness" (III, 43) を挙げさせている。その順列から判断して、作品のライトモチーフである「利己主義」がここで一番強調されていることは想像に難くない。
  11. クリスマスの精神を説くフレッドは、"You're quite a powerful speaker, sir. . . . 'I wonder you don't go into Parliament." (I, 10) というエスプリの効いたスクルージの皮肉から分かるように、ある意味では実に弁舌さわやかである。そうしたフレッドの口才に対して、作者はスクルージを "secret, and self-contained, and solitary as an oyster" (I, 8) という寡言の人として読者に紹介し、甥と伯父の間に饒舌と沈黙のコントラストを設けているように思える。だが、その実、スクルージの寡黙は金にならない無駄な労力を省いた所産であり、甥や募金集めの紳士たちを説伏させる際の想像を巡らせた彼の弁才ぶりは、甥にはない才気煥発や機知縦横を実感させずにはおかない。
  12. Michael Slater, The Christmas Books (Harmondsworth: Penguin Books, 1979) I, xii.
  13. G・K・チェスタトンは幸福の文学的表現という一考を要する問題において、幸福な喜びの一つの要素としてグロテスクを挙げ、持ち前の警抜な着想と逆説的な手法で次のような所見を述べている。"When real human beings have real delights they tend to express them entirely in grotesques -- I might almost say entirely in goblins. . . . Dickens understood that happiness is best expressed by ugly figures. In beauty, perhaps, there is something allied to sadness; certainly there is something akin to joy in the grotesque, nay, in the uncouth." チェスタトンの指摘どおり、確かに The Pickwick Papers (1836-37) に登場するウェラー (Tony Weller) の肥満やスティキンズ (Stiggins) 氏の赤鼻は不思議にも幸福を私たちに感じさせる。スクルージもまた酷薄な性格だった最初より、改心して幸福を喜ぶ最後の方が醜悪な顔になっている。こうした不思議な印象は、たぶん作者がグロテスクなものに微妙に配合した喜劇性や諷刺が生む滑稽な笑いによると考えられる。G. K. Chesterton, Appreciations and Criticisms (NewYork: Haskell House, 1970) 110-11.
  14. ディケンズとグロテスクの問題は、Mark Spilka, Dickens and Kafka (Gloucester: Peter Smith, 1969) の第二部 "The Technique of the Grotesque" に詳しい。
  15. Ad de Vries, Dictionary of Symbols and Imagery (Amsterdam: North-Holland, 1974) 38.
  16. Angus Wilson, The World of Charles Dickens (Harmondsworth: Penguin Books, 1972) 27.
  17. カザミアンはディケンズのリアリズムを俎上に載せ、その定義として、想像力と感受性によって日常の現実を感情的なイメージで把握しつつ、様々なイメージを連結することで現実を再構築する創作態度を挙げている。その特質として「客観性とロマン主義との奇妙な混合」"extraordinary amalgam of objectivity and romanticism" を指摘したカザミアンの説は興味深い達見であり、A・ウィルソンの創意に富む説と相互に内的な関係を持つと見ても差し支えあるまい。Louis Cazamian, The Social Novel in England 1830-1850 trans. Martin Fido (London: Routledge & Kekan Paul, 1973) 123.
  18. Edgar Johnson, Charles Dickens: His Tragedy and Triumph (London: Victror Gllancz, 1953) I, 488; Hobsbaum, 89.
  19. 作者の伝記的事実と関連づけると、スクルージの学校のオリジナルは、ディケンズがチャタム (Chatham) の幸福な少年時代に通ったバプティスト派のジャイルズ (William Giles) 牧師の息子による学校ではなく、靴墨工場の体験後に通ったWellington House Academy とした方が、私たちが今問題にしている想像力の点では、より生産的な見方となる。というのも、A・ウィルソンが述べたように、後者の学校時代は "a typical early Victorian schoolboy's happy time, with an addition of imaginative games that one would expect from a future novelist" として、将来の小説家に相応しい想像力を育成したからである。Wilson, 62.
  20. ウォルダーの他、多くの批評家が言及したように、スクルージの自己憐憫の回復、すなわち "pity for his former self" (II, 28) は、現在において他者への同情、取り分け "sympathy with all poor men" (III, 43) を可能にする重要な体験と位置づけることができる。Walder, 123.
  21. スクルージの無意識的な「冗談」は改悛後に意識的なものに変容する。例証を示して説明するならば、クラチットの家にクリスマス・プレゼントとして "the prize Turky" (V, 72) を匿名で送るという悪戯がある。読者にはともかく、少なくともスクルージの頭の中では、"such a joke as sending it to Bob's will be" (V, 73) は、Drury Lane 座の道化 Joe Miller のジョーク [John Motley, Joe Miller's Jestbook (1739)] が色褪せるほど滑稽に思えるのである。その滑稽さはボブが「七面鳥」を受け取った時の当惑ぶり、そしてあとで送り主の名前を知った時の驚嘆ぶりを、スクルージが視覚的イメージによって意識的に想像できるようになったという事実を裏書きしている。その時彼が読者に見せる笑いは、滑稽な「冗談」を創作する自分の想像力の存在と価値に、改心して初めて気づいたことの証左となっている。
  22. J. H. McNulty, "A Double Centenary." The Dickensian XXXIX (1942) 163.
  23. Walder, 120.
  24. 功利主義の創始者ベンサムの人間観である快楽主義 (hedonism) は利己主義と同一視してはならない。彼が列挙した色々な快楽の中には、スクルージのように他人の苦痛を見て感じる毀傷の喜び (Schadenfreude)、すなわち「いわゆる学者先生たちの言う快楽」"What the knowing ones call 'nuts'" (I, 8) も、他人の幸福を見て感じる慈愛の快楽も含まれる。従って、ベンサムの功利主義の理論的課題は、個人の快楽の追求と社会全体の幸福の増進、すなわち最大多数の最大幸福 (the greatest happiness of the greatest number) とをいかに調和させるかにある。ディケンズの功利主義に対する理解度は不十分であったが、彼は功利主義自体を批判するのではなく、その抽象的な思想の倫理的欠陥 -- 複雑な人間性や良心や自尊心などの意義に対する軽視 -- を非難しているのである。その点でディケンズの功利主義批判は、ベンサムの人間観と道徳論に強い不満を示して功利主義思想の修正および発展に努めた、ミルの考え方とほぼ同列に扱えるように思われる。注 26 を参照。
  25. スパージット夫人の想像力もまた、笑いと同時に反感を惹き起こすような、そういうバウンダビーの場合に通底した要素が見られる。
    Now, Mrs. Sparsit was not a poetical woman; but she took an idea in the nature of an allegorical fancy, into her head. . . . She erected in her mind a mighty Staircase, with a dark pit of shame and ruin at the bottom; and down those stairs, from day to day and hour to hour, she saw Louisa coming. (II, x)
    スパージット夫人には斜陽階級としての呪わしい運命に対する恨みがある。従って、彼女自身とバウンダビーとの結婚の計画を画餅に帰させたルイザに対する復讐願望が、彼女に「巨大な階段」を想像させることになるのだが、そこに彼女の「寓意的な空想」が強く作用していることは言を俟たない。しかし、おかしさを提供する彼女の想像力は、恨みやスパイ行為のために却って読者の反感を招き、バウンダビーの想像力ほどには生彩もなく、陰湿な雰囲気を感じさせずにはおかない。
  26. ミルの『自叙伝』(Autobiography, 1873) を読めば、彼が幼少時から父の英才教育によってベンサムの思想を植えつけられた結果、二十歳の秋に精神の危機に陥ったこと、そしてその原因は自分に対して豊かな人間愛と利他心の不足を発見し、感情の欠如を認識したことにあることが理解できる。彼は精神の危機以来、快楽と苦痛に支配される単純な人間観を清算して個性を多面的に発展させることの意義を自覚し、多彩な異質思想 -- 詩人コールリッジのロマン主義、社会思想家サン-シモン (Saint-Simon) 派の空想的社会主義、歴史家トックヴィル(Alexis de Tocqueville) の民主主義論、哲学者コント (Auguste Comte) の実証哲学など -- の吸収によって、ベンサムの功利主義の修正に努力した。その諸思想の中で甚大な影響を及したのがコールリッジのロマン主義的保守主義である。彼は続いて1840年に当時の英国人の精神状態について、 ". . . every Englishman of the present day is by implication either a Benthamite or a Coleridgian; holds views of human affairs which can only be proved true on the principles either of Bentham or of Coleridge." と述べている。この陳述は功利主義者と詩人、つまり合理主義とロマン主義の対峙を意味する。ロマン主義者が想像力によって時空を超越して現実から飛翔する以上、ディケンズがロマン主義思想を功利主義批判の拠り所としたことは十分に首肯できるであろう。J. S. Mill, Dissertations and Discussions (London: Longman, n. d.) I, 397.
  27. Edgar Johnson, "The Christmas Carol and the Economic Man" (1952). The Dickens Critics ed. G. H. Ford and Lauriat Lane, Jr. (New York: Cornell University Press, 1966) 271.
  28. Wilson, 14.
  29. Johnson, Charles Dickens, I, 487.
  30. Ibid., 488.
  31. 「奇跡」はファンタジーの枠組を構成する重要なキーワードである。例えば、スクルージを同伴した現在のクリスマスの精霊による旅は、"The Spirit stood beside sick beds, and they were cheerful; . . . by poverty, and it was rich." (III, 55-56) とあるように、「奇跡」を通して必ず "happy end" に帰着し、そこからスクルージは「教訓」"precepts" を学んでいる。そうした旅は、キリストが超現実的な聖なる力の具体的表現として「奇跡」を行ない、その象徴的行為の中に隠されている神の啓示を弟子たちに知覚させたことを想起させずにはおかない。この場面は要するに、超自然的現象からなる空想的世界を扱ったファンタジーの意匠に、作者が精霊=キリストという聖書的寓意を縫い込んだ可能性を示唆する傍証となっている。
  32. Charles Darwin, The Descent of Man and Selection in Relation to Sex (London: John Murray, 1909) 113.

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